12月29日(火) 天気:晴れ 室温:15.2℃
きょうは いい天気だったので 飾磨を歩いてきました。 22日に 飾磨津を歩きましたが 南の
飾磨港周辺でした。 今回は 少し北の山電飾磨駅の南を中心に 歩きました。
車で行って リバーシティに停めて 歩こうかとも思いましたが 天気が良く 風も穏やかそうだった
ので 自転車で行きました。 狭い道を 行ったり 来たりしたので 自転車で行ったのは 正解でした。
が 帰りは 強い向かい風に 難儀しました。 きょうは 飾磨三天神と言われる? 津田神社、
恵美酒神社、中島天満宮などを めぐりました。 三天神には 諸説あるそうで 浜の宮神社も入る?
下の地図には 津田神社は 入っていません。 地図の左に 一部が見える船場川のさらに 西です。
9:45 出発。 県道を東へ走り 京見橋を渡り 南へ折れます。
西風で 追い風だったのか ここまでは 順調でした。 英賀神社が見えたので 神社の前を 通った
ため この後 細い路地道を走ることになり 道が 分からなくなってしまいました。 津田天満神社
へ行くのに 苦労しました。
10:30 遠回りして なんとか 神社へ着きました。 津田天満神社は 延喜元年(901) 大宰権師
に 左遷された 菅原道真が 「津田の細江」 で 船のとも綱を 敷物の代わりとして 休息したことから
後に、氏宮に 菅公を 主神として祀ったという。 綱敷天神ともいう。
境内には 享和2年(1802) の狛犬、文政10年(1827) の石燈籠、文政13年(1830)
の手洗い石がある。 神社には なぜか分かりませんが 頌徳碑が いくつかありました。
天満宮を後にして 国道250号線に出て 船場川を越え リバーシティの手前で 北へ入ります。
船場川に架かる橋は 思案橋? 私も 直進しようか 左へ曲がろうか 思案しましたが・・・・。
後で 分かったのですが 北へ行くと 飾磨支所があります。 支所を 一回りして 西へ回ると 小
さい公園があり その角に ”初代飾磨市長の銅像” があります。 岡上彦三は 明治13年 大浜
に 誕生。 大庄屋として 明治45年の飾磨郡会議員を 振り出しに 飾磨町会議員、 昭和6年~
15年 飾磨町長を務めた。 昭和15年 飾磨市として 市制施行後は 初代市長を 務めた。
持っていた古い地図では リバーシティの東に 飾磨市所と 保健センターがありますが・・・。
地図の一番北にある薬師寺へ向かいます。 ここからの道にも苦労しました。 飾磨駅の西の道
は 飾磨街道・銀の馬車道ですが 昔の街道の雰囲気が全くありません。 今は すっかり町です。
薬師寺へは 山陽電車の踏切を越え 飾磨街道を北へ行きます。 薬師寺の草創年代は 不詳です
が 飾磨薬師寺と呼ばれ 七堂伽藍も完備していたころもあった。 後に 赤松氏より 寺領200石な
どが 寄進された。 秀吉の信仰も厚く 守護寺となった。 正徳3年に 恵賢が 中興し 東光院と改め
た。 戦災で 焼失後 昭和28年 再建。
飾磨駅の南へ戻ります。 実は 飾磨を散策しようと思ったのは 机の周りの書類整理をしてい
ると 自治ひめじ 第101号(10月1日) が出てきて その切り抜きに ”ぶらり探訪 飾磨橋東 ぶら
り” という記事があったからです。 その中に 飾磨の名の由来は 餝万津(しかまつ)の 「餝万」
で 古くから 野田川河口に開け 瀬戸内海の往来船や 遣唐使船の碇泊などで 賑わっていました
とあり ・・・ それでは 歴史漂う我が街を 北から散策しましょう。 ・・・・
また 明治の詩人・有本芳水の生誕地ですが 今は 石碑のみが・・・という くだりがあるので 探
さなくては・・。 有本碑は 分かり難いところにあります。 野田川の西の路地、民家の前に ひっ
そりと・・。 碑には ”飾磨の海近く 有本芳水 ここに生る” とあるだけです。
自治ひめじには 野田川沿いの玉地には 池田輝政が 三左衛門堀を 掘った土で築いた向島があり
藩の御船役所が 置かれましたが 今は 跡形もなく 向島一ツ橋北詰に 石碑が ひっそりと 建っていま
す とあるので これも見なくては・・。 これを捜すのにも 苦労しました。 橋が どこにあるのか 分から
ないので 野田川沿いを 南へ北へ 行ったり 来たり・・。 思ったより 南にありました。
知宝寺、恵美酒天満神社に 先に行きましたが 都合上 有本芳水詩碑を 先にします。 恵美酒天満
神社の南に 詩碑がありました。 予想外・・。 有本芳水は 飾磨出身の詩人で 灯台を型どった詩碑
には ”播磨は われの父の国 播磨は われの母の国 飾磨の海にともる灯のその色見れば 泪なかる
る” とあります。 浜の宮天満神社の境内にあったのも これと同じような 詩碑でしたが・・。
ここは ミニ公園風で 宮堀川が流れ 太鼓橋が架かり 古民家が並ぶ 不思議な雰囲気でした。
宮堀川の下流50mほどのところ、 国道250号線の手前に 御幸橋がありますが 後ほど・・・。
恵美酒天満神社の手前に 知宝寺があります。 知宝寺は もとは 光明寺と称し 天台宗の寺で
した。 寛和元年(985) 花山法皇が 書写山行幸の際に 立ち寄ったので 当時は 御幸堂とも言っ
た。 この辺りの地名・御幸(ごこう) も これから 名付けられました。
建永2年(1207) 法然上人が 土佐へ流される途中に 立ち寄ったのを きっかけに 浄土宗になった。
法然は 浄土宗の開祖ですが 土佐へ流されるとき 室津から 四国へ渡ったと思いましたが・・・。
やっと 恵美酒神社へ たどり着きました。 この前 浜の宮天満神社へ行って 恵美酒天満神社
も あると知って いつか と思っていました。
恵美酒宮天満神社は もと 「戎の神」(漁業の神) を 祭ったので 恵美酒と呼ばれ この辺りの
町名の起源となった。 後に 天満神(菅原道真) を 勧請して 合祀して この名称になる。
江戸時代には 神社の南は 船だまりになっていました。
境内には 狛犬、燈籠、力石など 江戸期の石造品がある。 京都の吉文字屋孫作に寄進による
社前の石燈籠は 元禄11年のもの。 狛犬は 尾道の石工・嶋屋勘十郎の製作で 天保15年の
もの。 菅原道真公の石碑もあります。自治ひめじには 姫路藩御用船 「神護丸」 の絵馬が 飾ら
れているそうですが・・・。
南にある御幸橋を見に行きました。 国道の傍にあります。 朱の欄干の御幸橋は 橋西地区との
分岐になっているそうです。 橋の南の歩道に 標識がありました。 史蹟・姫路藩御蔵址と 飾磨市
役所跡の碑が 並んでいます。
この近くに 飾磨街道の碑があるらしいので 探しますが 見当たりません。 東の飾磨大橋
まで 行ってみましたが・・・。 諦めて 北の蓮浄寺へ行きます。 また 飾磨街道を 北へ。
小学校の近くで 教会風の建物が見えたので 寄り道すると フタバ幼稚園でした。 小学校
の西に 協会があるそうなので また 後戻りして・・・。 和光協会でした。 こういう建築を見るの
も 楽しい。 飾磨駅の南を東へ走り 野田川を越え 難しい道を行くと お寺がありました。
蓮浄寺?と思いきや 日蓮宗の妙諦寺でした。 向こうにも お寺がありますよ。 少し東にありま
した。 なぜ パンフに 蓮浄寺が 載っているのか 分かりませんが わざわざ ここへ来る値打ちは・・・。
臨潮山・蓮浄寺は 「飾磨郡誌」 によると 浄土真宗 本願寺派。 永正14年(1517) 開基。
寺号を付したのは 慶長2年(1597) とある。 江戸時代に 二度 火災にあっている。
中島天満宮へ行きましょう。 少し東へ行き 南へ下り 国道に出て 国道沿いに 東へ行くと
天満宮があります。 ここは 通称 中島天満宮といいます。 恵美酒天満神社より 分霊を勧請
したといい 旧村社でした。 祭神は 菅原道真。 創建時代は 不詳。 蓮浄寺の門前にあった
が 元禄7年(1694) 再建を機に 高浜の松原と言われた 現在地に移る。
「播州名所巡覧絵図」 に 濱の天神という 楼門・大鳥居がありと あるが 現在 楼門はない。
境内には 弘化3年(1846) の水盤、当村の弥左衛門が 文久2年(1862) に 持ち上げた
という 力石、 文久3年の石燈籠などが 残る。
天満宮の前を 西へ戻ると 森の中に 大森源三紀功碑があります。 大森源三は 文化8年(1811)
三木勘兵衛(勘兵衛新田の干拓者) の二男として 生まれ 大森家の養子に。 天保10年(1839)
より 24年かけて 大森新田(約40町歩) を 開拓。 没後 村民一同により 紀功碑が 建てられた。
自治ひめじには 南東部の中島には 江戸時代に 次々 新田が 開発され 末期開拓の大森新田農
地も 現在は 住宅地や 鉄鋼工場群へと 変貌を遂げています とあります。
飾磨大橋を渡り 国道を西へ下ると 姫路藩御茶屋之址碑があります。 これを見て 飾磨街道へ戻ります。
国道から 南へ入ると 突き当たりが 浅田化学工業。 ここが 飾磨街道・銀の馬車道の終点で
馬車道の説明板があります。 大きな水路があり 水門の先は 野田川です。 右には レンガ造り
の倉庫があります。 むかし この辺りは 飾磨津(港)で 野田川の河口に 船着き場があり
倉庫、荷積み場があったと思われます。 ここが 私の 飾磨津散策 の終着点です。
飾磨街道の碑を 見られなかったのは 残念ですが 後は 強い向かい風の中 網干へ戻るだけ・・。
どの道を通ったかは 定かではありませんが 太陽が南西方向なので それと直角の方向目指して
一心不乱に ペタルを踏みました。 気が付いたら 英賀保駅前。 ここにある道標を採って 県道を
西へ西へと・・・・。 帽子は飛ばされるし 鼻水は流れるし・・・・。
必死で 漕いだおかげで 無事 3時過ぎに 帰ることができました。 膝が 笑っています。
今年は もう何もできません。
≪ 1月7日 追記 ≫
飾磨街道の道標が見られなかったので 1月7日 姫路へ行った際 観光案内所で 確認し 姫路駅
の西、新幹線の高架下にある道標を 採ってきました、 飾磨にある道標は 国道250号線ではなく
飾磨駅より 北にあるそうです。 亀山本徳寺へ行く機会があれば 探して見たいと思います。
このページの一番北の薬師寺から北の ”飾磨街道(飾磨門~本徳寺)” は 2019.12.23 のページを
見てください。 このぺーじは 2つのページになっていて 本徳寺から南は <こちら> を。
。。。。。。 。。 。。 。。 。。。。。。 。。 。。 。。 。。。。。。。。。。。
きょうは いい天気だったので 飾磨を歩いてきました。 22日に 飾磨津を歩きましたが 南の
飾磨港周辺でした。 今回は 少し北の山電飾磨駅の南を中心に 歩きました。
車で行って リバーシティに停めて 歩こうかとも思いましたが 天気が良く 風も穏やかそうだった
ので 自転車で行きました。 狭い道を 行ったり 来たりしたので 自転車で行ったのは 正解でした。
が 帰りは 強い向かい風に 難儀しました。 きょうは 飾磨三天神と言われる? 津田神社、
恵美酒神社、中島天満宮などを めぐりました。 三天神には 諸説あるそうで 浜の宮神社も入る?
下の地図には 津田神社は 入っていません。 地図の左に 一部が見える船場川のさらに 西です。
9:45 出発。 県道を東へ走り 京見橋を渡り 南へ折れます。
西風で 追い風だったのか ここまでは 順調でした。 英賀神社が見えたので 神社の前を 通った
ため この後 細い路地道を走ることになり 道が 分からなくなってしまいました。 津田天満神社
へ行くのに 苦労しました。
10:30 遠回りして なんとか 神社へ着きました。 津田天満神社は 延喜元年(901) 大宰権師
に 左遷された 菅原道真が 「津田の細江」 で 船のとも綱を 敷物の代わりとして 休息したことから
後に、氏宮に 菅公を 主神として祀ったという。 綱敷天神ともいう。
境内には 享和2年(1802) の狛犬、文政10年(1827) の石燈籠、文政13年(1830)
の手洗い石がある。 神社には なぜか分かりませんが 頌徳碑が いくつかありました。
天満宮を後にして 国道250号線に出て 船場川を越え リバーシティの手前で 北へ入ります。
船場川に架かる橋は 思案橋? 私も 直進しようか 左へ曲がろうか 思案しましたが・・・・。
後で 分かったのですが 北へ行くと 飾磨支所があります。 支所を 一回りして 西へ回ると 小
さい公園があり その角に ”初代飾磨市長の銅像” があります。 岡上彦三は 明治13年 大浜
に 誕生。 大庄屋として 明治45年の飾磨郡会議員を 振り出しに 飾磨町会議員、 昭和6年~
15年 飾磨町長を務めた。 昭和15年 飾磨市として 市制施行後は 初代市長を 務めた。
持っていた古い地図では リバーシティの東に 飾磨市所と 保健センターがありますが・・・。
地図の一番北にある薬師寺へ向かいます。 ここからの道にも苦労しました。 飾磨駅の西の道
は 飾磨街道・銀の馬車道ですが 昔の街道の雰囲気が全くありません。 今は すっかり町です。
薬師寺へは 山陽電車の踏切を越え 飾磨街道を北へ行きます。 薬師寺の草創年代は 不詳です
が 飾磨薬師寺と呼ばれ 七堂伽藍も完備していたころもあった。 後に 赤松氏より 寺領200石な
どが 寄進された。 秀吉の信仰も厚く 守護寺となった。 正徳3年に 恵賢が 中興し 東光院と改め
た。 戦災で 焼失後 昭和28年 再建。
飾磨駅の南へ戻ります。 実は 飾磨を散策しようと思ったのは 机の周りの書類整理をしてい
ると 自治ひめじ 第101号(10月1日) が出てきて その切り抜きに ”ぶらり探訪 飾磨橋東 ぶら
り” という記事があったからです。 その中に 飾磨の名の由来は 餝万津(しかまつ)の 「餝万」
で 古くから 野田川河口に開け 瀬戸内海の往来船や 遣唐使船の碇泊などで 賑わっていました
とあり ・・・ それでは 歴史漂う我が街を 北から散策しましょう。 ・・・・
また 明治の詩人・有本芳水の生誕地ですが 今は 石碑のみが・・・という くだりがあるので 探
さなくては・・。 有本碑は 分かり難いところにあります。 野田川の西の路地、民家の前に ひっ
そりと・・。 碑には ”飾磨の海近く 有本芳水 ここに生る” とあるだけです。
自治ひめじには 野田川沿いの玉地には 池田輝政が 三左衛門堀を 掘った土で築いた向島があり
藩の御船役所が 置かれましたが 今は 跡形もなく 向島一ツ橋北詰に 石碑が ひっそりと 建っていま
す とあるので これも見なくては・・。 これを捜すのにも 苦労しました。 橋が どこにあるのか 分から
ないので 野田川沿いを 南へ北へ 行ったり 来たり・・。 思ったより 南にありました。
知宝寺、恵美酒天満神社に 先に行きましたが 都合上 有本芳水詩碑を 先にします。 恵美酒天満
神社の南に 詩碑がありました。 予想外・・。 有本芳水は 飾磨出身の詩人で 灯台を型どった詩碑
には ”播磨は われの父の国 播磨は われの母の国 飾磨の海にともる灯のその色見れば 泪なかる
る” とあります。 浜の宮天満神社の境内にあったのも これと同じような 詩碑でしたが・・。
ここは ミニ公園風で 宮堀川が流れ 太鼓橋が架かり 古民家が並ぶ 不思議な雰囲気でした。
宮堀川の下流50mほどのところ、 国道250号線の手前に 御幸橋がありますが 後ほど・・・。
恵美酒天満神社の手前に 知宝寺があります。 知宝寺は もとは 光明寺と称し 天台宗の寺で
した。 寛和元年(985) 花山法皇が 書写山行幸の際に 立ち寄ったので 当時は 御幸堂とも言っ
た。 この辺りの地名・御幸(ごこう) も これから 名付けられました。
建永2年(1207) 法然上人が 土佐へ流される途中に 立ち寄ったのを きっかけに 浄土宗になった。
法然は 浄土宗の開祖ですが 土佐へ流されるとき 室津から 四国へ渡ったと思いましたが・・・。
やっと 恵美酒神社へ たどり着きました。 この前 浜の宮天満神社へ行って 恵美酒天満神社
も あると知って いつか と思っていました。
恵美酒宮天満神社は もと 「戎の神」(漁業の神) を 祭ったので 恵美酒と呼ばれ この辺りの
町名の起源となった。 後に 天満神(菅原道真) を 勧請して 合祀して この名称になる。
江戸時代には 神社の南は 船だまりになっていました。
境内には 狛犬、燈籠、力石など 江戸期の石造品がある。 京都の吉文字屋孫作に寄進による
社前の石燈籠は 元禄11年のもの。 狛犬は 尾道の石工・嶋屋勘十郎の製作で 天保15年の
もの。 菅原道真公の石碑もあります。自治ひめじには 姫路藩御用船 「神護丸」 の絵馬が 飾ら
れているそうですが・・・。
南にある御幸橋を見に行きました。 国道の傍にあります。 朱の欄干の御幸橋は 橋西地区との
分岐になっているそうです。 橋の南の歩道に 標識がありました。 史蹟・姫路藩御蔵址と 飾磨市
役所跡の碑が 並んでいます。
この近くに 飾磨街道の碑があるらしいので 探しますが 見当たりません。 東の飾磨大橋
まで 行ってみましたが・・・。 諦めて 北の蓮浄寺へ行きます。 また 飾磨街道を 北へ。
小学校の近くで 教会風の建物が見えたので 寄り道すると フタバ幼稚園でした。 小学校
の西に 協会があるそうなので また 後戻りして・・・。 和光協会でした。 こういう建築を見るの
も 楽しい。 飾磨駅の南を東へ走り 野田川を越え 難しい道を行くと お寺がありました。
蓮浄寺?と思いきや 日蓮宗の妙諦寺でした。 向こうにも お寺がありますよ。 少し東にありま
した。 なぜ パンフに 蓮浄寺が 載っているのか 分かりませんが わざわざ ここへ来る値打ちは・・・。
臨潮山・蓮浄寺は 「飾磨郡誌」 によると 浄土真宗 本願寺派。 永正14年(1517) 開基。
寺号を付したのは 慶長2年(1597) とある。 江戸時代に 二度 火災にあっている。
中島天満宮へ行きましょう。 少し東へ行き 南へ下り 国道に出て 国道沿いに 東へ行くと
天満宮があります。 ここは 通称 中島天満宮といいます。 恵美酒天満神社より 分霊を勧請
したといい 旧村社でした。 祭神は 菅原道真。 創建時代は 不詳。 蓮浄寺の門前にあった
が 元禄7年(1694) 再建を機に 高浜の松原と言われた 現在地に移る。
「播州名所巡覧絵図」 に 濱の天神という 楼門・大鳥居がありと あるが 現在 楼門はない。
境内には 弘化3年(1846) の水盤、当村の弥左衛門が 文久2年(1862) に 持ち上げた
という 力石、 文久3年の石燈籠などが 残る。
天満宮の前を 西へ戻ると 森の中に 大森源三紀功碑があります。 大森源三は 文化8年(1811)
三木勘兵衛(勘兵衛新田の干拓者) の二男として 生まれ 大森家の養子に。 天保10年(1839)
より 24年かけて 大森新田(約40町歩) を 開拓。 没後 村民一同により 紀功碑が 建てられた。
自治ひめじには 南東部の中島には 江戸時代に 次々 新田が 開発され 末期開拓の大森新田農
地も 現在は 住宅地や 鉄鋼工場群へと 変貌を遂げています とあります。
飾磨大橋を渡り 国道を西へ下ると 姫路藩御茶屋之址碑があります。 これを見て 飾磨街道へ戻ります。
国道から 南へ入ると 突き当たりが 浅田化学工業。 ここが 飾磨街道・銀の馬車道の終点で
馬車道の説明板があります。 大きな水路があり 水門の先は 野田川です。 右には レンガ造り
の倉庫があります。 むかし この辺りは 飾磨津(港)で 野田川の河口に 船着き場があり
倉庫、荷積み場があったと思われます。 ここが 私の 飾磨津散策 の終着点です。
飾磨街道の碑を 見られなかったのは 残念ですが 後は 強い向かい風の中 網干へ戻るだけ・・。
どの道を通ったかは 定かではありませんが 太陽が南西方向なので それと直角の方向目指して
一心不乱に ペタルを踏みました。 気が付いたら 英賀保駅前。 ここにある道標を採って 県道を
西へ西へと・・・・。 帽子は飛ばされるし 鼻水は流れるし・・・・。
必死で 漕いだおかげで 無事 3時過ぎに 帰ることができました。 膝が 笑っています。
今年は もう何もできません。
≪ 1月7日 追記 ≫
飾磨街道の道標が見られなかったので 1月7日 姫路へ行った際 観光案内所で 確認し 姫路駅
の西、新幹線の高架下にある道標を 採ってきました、 飾磨にある道標は 国道250号線ではなく
飾磨駅より 北にあるそうです。 亀山本徳寺へ行く機会があれば 探して見たいと思います。
このページの一番北の薬師寺から北の ”飾磨街道(飾磨門~本徳寺)” は 2019.12.23 のページを
見てください。 このぺーじは 2つのページになっていて 本徳寺から南は <こちら> を。
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