私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

ふるさと故事巡礼 第7回 琴陵中学校校区

2023-04-17 14:40:46 | 歴史探索

 4月17日(月)    天気:晴れ   室温:20.5℃

 きょうは、先日入手した FMゲンキのフリーマガジン 春号の ”気まぐれ途中下車 地域

再発見 『ふるさと故事巡礼』 ー第7回ー 琴陵中学校区 ” を 簡単に 紹介します。 名古山

の南の車崎から 船場川の備前門辺りまでで、おおむね 西国街道周辺です。

 この地域は、以前 歩いたことがあるので、2015.9.4 姫路の旧街道を歩く 西国

街道1”  を 参考にしてください。 ただし、14、15は、室街道(室津道)になります。

  

1.車崎 :「姫路市町名字考」には 花山法皇の書写山御幸に由来する説が示されている

      そうですが、世間によくある ”貴人伝説” と 両断されている。

 

2.薬師山 :「播磨国風土記」 に登場する十四丘の「琴丘」に比定されています。 

3.飾磨県庁跡(姫路赤十字病院跡):廃藩置県により 明治4年に 姫路藩が廃止され

        姫路県が 置かれますが、姫路県は一週間で 飾磨県に改称されます。 

4.景福寺山 :「播磨国風土記」 十四丘の「船丘」に比定。 山の下に 酒井家の菩提寺の

        景福寺ができてからは 景福寺山と 呼ばれるようになりました。

5.岩端 :「景福寺山の北側部分が 岩肌を露出していたから 岩端(鼻)と説のほか、

           「伊和里の端にあたるので岩(伊和)端」 説があるようです。

6.農人町(のこぎり横丁):町名の由来は 慶長年間に 町屋敷となったが、百姓が

      多かったことtによる。 通称「のこぎり横丁」のジグザグの町並みは・・

7.龍野町 :「播磨の街道」によると、龍野へ通じる街道への入り口だったのと、

           龍野辺りからの移住者が 多かったことが 町名の由来とのこと。

8.船つなぎ岩 :元は 船場川岸にあり、高瀬舟を繋いだといわれる巨石。

           今は、大商家の跡地にある住宅で 庭石として残されています。

 

9.舟入川(船場川):池田光政のあと 姫路に入封した本多忠政は 市川から 分流する船場川の

       整備を行い、市川から 船場川を経て 城下、さらに 飾磨津に通ずる舟運を開きました。

10.車門跡 :船場川沿いに設けられた城門。 二重桝形で その前に 橋が架けられ

        船場川に通ずる水門、車道門が 備えられていたので この名前になりました。 

11.白鷺橋 :大正初期から 少しずつ埋め立てられた中堀。 昭和8年 船場川にかかる

       この橋の竣工を待って 国道2号線が 開通。 昭和20年 空襲で 周辺は 焦土と化します。  

12.船場のビル群 :西国街道を跨ぐように建てられた船場東ビル。 そこから2号線沿いに

       西へと 似たビル群が並んでいます。 これらは 2号線の拡幅の際に 市街地改造事業で。

13.船場本徳寺 :本多忠政は 東本願寺と 昵懇であったため 播磨に東派を再興すべく 池田家の

             菩提所・国清寺の本堂 その建物を を寄進、元和4年 船場本徳寺を完成させました。

14.千代田町の常夜灯 :慶応4年 室津道の出入り口に建立された常夜灯。

         「あぼし むろつみち」とあります。 元は 公園の北の水路のそばにあった。

15.道標:網干・室津へ通ずる道にある道標、「あぼ志美ち」とあります。  

16.耕地整理記念碑 :博労町や船場本徳寺の西は ずっと 田畑でした。 大正11年 耕地整理

       計画が立てられ、大正15年に 竣工。 この年に 船場・東雲・神田などの町が 成立。

。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史教室3月 「近世播磨の教育」

2023-03-21 13:55:26 | 歴史探索

 3月21日(火)春分の日   天気:曇りのち雨   室温:18.2℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 主席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川秀昭氏の

「近世播磨の教育」 です。 今回も 出席者が 多かったようです。 行くときは 降っていま

せんでしたが、帰るときには 降ってきて 濡れました。 春雨じゃ・・

   。。。。。。「近世播磨の教育」。。。。。。。

Ⅰ 日本遺産「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼ー」 (平成27年指定)

 ・わが国では 近代教育制度の導入前から、支配者層である 武士のみならず、多くの庶民も読み

  書き・算術ができ、礼儀正しさを 身に付けるなど 高い教育水準を示した。

   これは、藩校や 郷学、私塾など 様々な階層を対象とした学校の普及による影響が 大きく、

  明治維新以降の一足早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に 力を入れ、

  礼節を重んじる日本人の国民性として 受け継がれている。

 ・近世の日本人が 高い教養を身に付ける上で 大きく貢献したのが、全国各地に 建てられた学校

  である。 中でも 旧公道館(水戸市)、足利学校跡(足利市)、旧閑谷学校(備前市)、咸宜

  園(かんぎえん)跡(日田市)を 代表的な構成文化財とする

  「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源ー」 が 平成27年に 日本遺産に指定された。

 1.ストーリーの構成文化財

  ・茨木県水戸市 旧公道館(特別史跡)・常磐公園(偕楽園)・日新塾跡(市史跡)、大日本史

  ・栃木県足利市 足利学校跡(国史跡)・国宝漢籍「礼記正義」「尚書正義」「文選」『周易注琉』

  ・岡山県備前市 旧閑谷学校(国特別史跡)・釈菜(せきさい)・熊沢蕃山宅跡(市史跡)・井田跡

  ・大分県日田市 咸宜園跡(国史跡) ・日田市豆田町重要伝統建造物群保存地区(国重伝建)

 2.代表的な構成文化財

 (1)日本最大規模の藩校(旧公道館(国特別史跡・茨木県水戸市))

  ・水戸藩主 徳川斉昭が 設立した藩校。 歴史だけでなく 医学、兵学、武芸など実用的な科目も備えた

    

 (2)現存する日本最古の学校(足利学校跡(国指定史跡・栃木県足利市))

  ・室町時代に 上杉憲実が 書籍(国宝)を寄進。 庠主制度を設けるなど( 自学自習の精神)

    

 (3)世界最古の庶民のための公立学校(旧閑谷学校(特別史跡・岡山県備前市))

  ・岡山藩主 池田光政が 熊沢蕃山から 学んだ 儒教思想に則り、重臣津田永忠に命じ、庶民のため

   の学校、地方のリーダーを育てるための学校として、寛文10年に 開校。 その後 拡張整備。

   

 (4)近世日本最大規模の私塾(咸宜園跡(国史跡・大分県日田市))

  ・豊後日田では 町人を中心とした自由な風土が生まれ、廣瀬淡窓が 咸宜園(かんぎえん)という

   私塾を創設。 特色ある教育が 全国的に評判となり、全国から門下生を集め、日本最大規模の私塾。

Ⅱ 江戸時代の教育制度

 1.特に 武士の子弟を対象

  <昌平坂学問所>

  ・寛政2年 神田湯島に 設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設、当初は 幕府直参の子弟が 対象

  <藩 校>

  ・諸藩が 藩士の子弟を教育するために 設置した学校。 藩学ともいう。 「文武兼備」を、掲げ、

   「四書五経」の素読・会読・講義と 習字・習礼を中心に 武芸として 剣術・柔術・馬術などの教育が

   主な藩校は、日新館(会津若松藩)、公道館(水戸藩)、明倫堂(尾張藩)、明倫館(萩藩・長州藩)等

 2.主に庶民を対象

  <郷学(郷校)>・・・半官半民で 設立された庶民のための学校。一部 武士の子弟も受け入れ

  <寺子屋>・・・読書・習字・算術などを教える農民・町民などの庶民のための学校

 3.私塾

  ・個人の有識者が 居宅などを利用して 学問・技芸を教える。 松下村塾(吉田松陰)、適塾(緒方洪庵)、

   鳴滝塾(シーボルト)、慶應義塾(福沢諭吉)、鈴屋(本居宣長)など

ⅲ 近世播磨の教育

 1.藩校

  ・姫路藩・好古堂、学問所(江戸上屋敷)

   ・元禄5年 酒井忠拳が 前橋藩 藩校として設立。 「好古堂」扁額は 林大学頭信篤書。 寛延2年

    酒井家の姫路転封に伴い、藩校 好古堂を 城下の総社門内に置いた。

  ・林田藩・敬業館

   寛政6年 林田藩7代藩主 建部政賢が 林田藩藩校として 設立。


 2.仁寿山校

   ・文政5年 河合道臣は 城主から賜った山荘の地に、私学校の仁寿山校を 開校。 天保13年 医学寮を

   残し 廃校となるまでに、幾多の有為な人材を世に輩出

     

 3.郷学(郷校)

  ①申義堂(高砂 北新町)・設立は 文化年間、河合道臣が 文化9年に 高砂を見分し、姫路六人衆の

   一人 岸本吉兵衛に 町民の子弟の教育を担う申義堂の創立を命じたといわれる。屋根の飾り瓦は 一見の価値あり。

  ②熊川舎(姫路・元塩町)・設立は 申義堂と ほぼ同じといわれる。 柳田国男の父・松岡賢次も教鞭を

   とった。 寺子屋とは異なり、上層町民の子弟の教導を 目的とした郷学であった。

  ③国包郷校(印南郡国包村・元加古川市)・天保4年 以前に三谷伊左衛門が 中心となり設けられた郷校

 4.寺子屋

  ・従来(中世末頃まで)は、僧侶・神官が 地域の基礎教育の中心を担っていた。 「日本教育史資料」

   によると、姫路藩内で 文禄2年~明治初年の間に、148カ所の寺子屋の開設を見たとある。

 ◇好古堂と仁寿山校               ・・・・・     ※四書:大学、中庸、論語、孟子    五経:易経、詩経、書経、礼記、春秋 

◇林田藩・藩校:敬業館

  ※「敬業」は  『礼記』の「敬業楽群」(学業を 敬重し 学友との交わりを楽しむ)から

   

 ◇郷校・申義堂

   

  ※美濃部秀芳は、天皇機関説の美濃部達吉の父、元東京都知事・美濃部亮吉の祖父

 ◇稲香村塾(市指定文化財)

  ・慶応4年 河野東馬が 開設。 明治22年 私塾名を 「誠塾」とし、多くの人材を輩出した。

  

 ◆丸亀藩飛地・網干

  ・明治3年 作成の「陣屋外郭屋敷割図」 に 「明輪館(ママ)」の記述。 網干陣屋に藩校が設けられた?

 <現況写真> ・ ・ ・ ・ ・ ・                             飾瓦六角露盤

 。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史教室2月 「飾磨津の歴史と姫路藩御船手組」

2023-02-21 14:53:21 | 歴史探索

 2月21日(火)   天気:晴れ   室温:15.3℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長・中川秀昭さん

の 「飾磨津の歴史と姫路藩御船手組」 です。 1月は 休講でした。  きょうは、なぜか

出席者が多く ほぼ満席になりました。

 公民館だより2月号には、歴史教室への誘いとして 、関ケ原の戦いの後、姫路に入封視し、

入江に向島を建設し、船役所・船置場を 整備するとともに、「姫路藩御船手組」という水軍を

新たに設けました。 総勢約200人は 士分で 「城付き」といわれ、姫路藩主が 国替えにな

っても、そのまま新藩主に仕える特例が 認められ、海防や 海事に従事しました。 そこで、

飾磨津発展の歴史をたどるとともに、ここを本拠に 活躍した 「姫路藩御船手組」 の概要を 紹介します。

 。。。。。。。 飾磨津の歴史と姫路藩御船手組 。。。。。。。

1 飾磨津の歴史

 1.古代・中世

  ・姫路は、古来より 人々の行き交う交差路

   ・大和と大宰府を結ぶ、古代大路

   ・播磨灘を 船で行き交う人々にとって、「播磨国風土記」にある 「餝磨の郡」の海辺は、いくつ

    もの風待ちの入江を用意していた。 福泊(韓泊)、餝磨津、細江などに 船をつなぎ 上陸する

    異郷の人々も多かった。

 ◇万葉集に 「飾磨津」 が詠まれる

   思賀麻江(飾磨江)は こきすき(漕ぎ過ぎ)ぬらし 天伝う 日笠の浦に 波立つ見ゆ  <万葉集 巻七>

   (註)飾磨江は もう通り過ぎたらしい 向うの高砂の曽根にある日笠の浦に 波が立っている

  ※風待ちの入江として、飾磨津は 古くから 瀬戸内海を往来する船で にぎわっていた。

  ※山部赤人 「細江」を詠む:風吹けば なみかたたむと さもらひに 都多の細江に 浦かくりをり

  ※「摂播五泊」:僧・行基が 開いたとされる播磨・摂津の現 兵庫県内の5カ所の港

          河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊(福泊?)、檉生(むろお)泊

    

  ※「播磨国風土記」:「餝磨の郡」 

    「餝磨郡」とは:狩りにやってきた大三間津彦命が 屋形を作って住んでいると、ある日、

    鹿の声が聞こえたので 「おお鹿も鳴くことよ」と感激して 思わず声を発した。 そこで、

    「鹿も」から 「餝磨」の郡と呼ぶことになったという。

  ※古は、平野、白国、市ノ郷から 三宅 その他広く 「餝磨」といった。 この「餝磨」の海岸で

   船が着き、客や荷物を渡したので、「餝磨津」に・・「餝磨津」「鹿間津」「飾万津」など

  ※「鹿間津」:沖に 男鹿島、北に 妻鹿郷あり、その間にあたることから 「鹿間津」という

 ◇花山法皇、二度 書写山円教寺 御幸

  ・寛和2年(986)長保2年(1000)の二度。 二度とも 飾磨津湊に上陸したといわれる

  <伝承>書写山御幸の際、家毎に 絹布を張り巡らせたのを 目にし、「万を餝る津と書くべし」

      と言われたので、「鹿万津」を 「飾磨津」に改めたという

 ◇歴史上の人物たちが 飾磨津へ

  ・仁和2年(886)菅原道真、讃岐の守として 赴任の途、飾磨江に 船泊す

  ※菅原道真は、思案橋で ここから 海路で行くか 陸路で行くか 思案したと言われています。

   思案橋のたもとに 石碑(歌碑)と 道真の座像があります。

 ※飾磨には 菅原道真ゆかりの天満宮が 三つあります。 浜の宮天満宮、恵比寿天満宮、 中島天満宮。

  ・承安4年(1174)、後白河法皇、飾磨に上陸し 書写山円教寺御幸(飾磨に 御幸町)

  ・承元2年(1208)、法然上人 土佐へ流される際に、飾磨に船泊す(出展:「飾磨町誌」)

  ◆「御幸町」 「御幸橋」 は、花山法皇、後白河法皇が書写山に 御幸の際に、通ったことによる。

 ◇羽柴秀吉の英賀城攻め(天正8年(1580).4)

  この時、英賀城主 三木通秋が 守る英賀城は あえなく落城。 その際に 英賀の人々が 飾磨津に

  多く移り住んだ。(上英加町、下英加町)

 2.近世

  ◇池田輝政による向井島の造成(飾磨津の大軍港基地化):関ケ原の戦いの後、池田輝政が

   姫路に入封すると、飾磨川が注ぎ込む地に 向井島を造成し、東部海岸も加え 船の係留岸壁を

   櫛の歯状に設置した水軍基地とし、ここに 「姫路藩御船手組」 を置いた。(御船役所も) 

  ◇飾磨津、町場の発展

   ・また、飾磨津は、池田輝政が 新しく造成した姫路城下町の外港として、重要な位置を占め、

    近世になると 町場が著しく発展した。

   ・江戸時代、飾磨津といったのは、須加町、細江町、上町、大町、宮町、御幸町、東堀町、田町、

    上英加町、下英加町、都倉町の11カ町を指す。 うち6カ町を 浦手、5カ町を 岡手と呼んだ。

   ・現在の町名では、上英加町は 清水、下英加町は 栄町、大町は 大浜、田町は 玉地に改められた。   

 ◆飾磨湛保

  ・飾磨津は、古来より海上交通の要衝として 発展してきたが、水深浅く 大船の停泊に適して

   いなかった。 飾磨津・大町で 肥料問屋を営んでいた藤田祐右衛門維昌は、これを憂い 有志

   とともに 時の姫路藩主酒井忠宝に 築港を 願い出た。 忠宝は 家臣二人を 丸亀港に派遣。

   この港を参考に 藤田維昌に 築港を許し、維昌は 弘化3年(1846).4  工を起こし、築港工事

   には、人夫6000人、費用600貫を費やし、わずか半年で 完成させた。 完成後は、堤の高さ

   2丈(6.6m)、港の東西66間(120m)、南北83間(151m)、水深 満潮時12尺(3.6m)、

   干潮時6尺余(1.8m)となり、世に 「飾磨湛保」と称した。 この湛保の完成により、大船も

    碇泊が 自由にできるようになり,古湛保や 東堀海岸に接岸していた船も、ほとんど この港に

   着き、飾磨湛保は 大いに繁盛した。

 ◆飾磨津浦手番所(飾磨区須加に石碑)

  ・姫路藩が設けた4カ所の浦手番所(高砂、飾磨津、家島、室津)の一つ。 川口御番所とも

   いわれ、燈篭堂の管理、出入船舶の検問・取締、海難救助、公儀船寄港上陸の情報収集など

 

 ◆飾磨砲台(飾磨区須加に石碑)

  ・文久3年(1863)姫路藩は 海洋防備のため 室津、福泊、飾磨に 砲台を築造、湛保の南側に

   半円形に海岸を1mほど高くして、大砲4門を配備した。 なお 家島天神鼻に 家島砲台を設置。

 3.近代以降ー飾磨津その後ー

  ・明治9年(1876):銀の馬車道開通と飾磨津物揚場 完成。 ・明治22年:飾磨町発足・

   港名を 「飾磨港」に改める。 ・明治28年 飾磨港線開通。 ・昭和15年 飾磨市 発足。

2 姫路藩御船手組

 1.姫路藩御船手組の創設

 ◇姫路藩 初代藩主 池田輝政が 水軍創設:関ケ原の戦いの後、西国押さえの地・姫路を重視した

   家康は、女婿・池田輝政を 配し、東は 大坂城の豊臣家及び 西は 豊臣恩顧の外様大名に備えた。

 ◇御船手組の基地 「向島」ー御船役所:御船手組の基地として、向島に 姫路藩御船役所が置かれ

 ◇「城付き」の特例:慶長18年(1613)池田輝政が 病没し、領国は 嫡男・利隆、次男・忠継、

   三男・忠雄に分かれ、池田時代の船手組及び 軍船も3分割された。 その後、播磨に入った

   本多忠政は 領地高15万石に減少。 御船手は、領主が国替えになっても 従わず、新藩主に仕える。

 ◇姫路藩主 本多忠政の水軍再強化:忠政は、池田時代から 引き継いだ軍船9艘に加え、新たに 63艘

   の軍船を建造し、72艘の陣容に。また、船手を 新規200名採用、定員を約235名とした。

 2.「御船手組」の陣容と業務(姫路藩の船奉行管理下)

  ・階級:大船頭、小船頭、小頭、矢倉、使役、御水主(かこ)、抱御水玉

  ・定員:船手:200名、抱御水玉:37名 (保有兵船60隻に見合う要員で)

  ・昇格等:船手は 世襲制で、長男は 必ず継ぐものとされた。 後継者がいない場合は 養子。

  ・俸禄:大船頭11石3人扶持、小船頭:8石2人扶持、矢倉:6石5斗2人扶持、

 ◇御船手組の業務:水軍として 戦時に出動

  ・大坂の陣 慶長19~20年(1614~15):藩主池田利隆とともに 従軍。 兵員、兵糧等輸送

  ・広島城の受取 福島正則の改易 元和5年(1619):藩主本田忠政とともに 従軍、兵員・兵站の輸送

  ・島原の乱 寛永14年(1637):藩主 本多忠朝の代、戦陣に赴く公儀役人の乗船用兵船 派遣

  ・黒船来航による江戸湾警護 嘉永7年(1854):姫路藩も 約一千名の軍勢参陣。 船手組から 35名

  ・京都警備 文久2年(1862):藩主酒井忠績の京都所司代就任により、幕末の京都警護を 担当

  ・将軍徳川家茂 上洛中 文久3年(1863):不測の事態に備え、船手組主力艦・長慶丸・常安丸・音善丸 動員

  ・明治新政府からの要請 明治3年(1870):明治新政府より 姫路藩に大坂天保山御台場警備を命じられ 出勤

 <平時の業務> ◆船手組の公儀御用

  ・御用銀の湯槽警備(毎年、年1回):石見国大森銀山で 生産された御用銀の輸送業務は 藩主池田利隆の

   時代に始まる。 御用銀は、銀山代官役人の宰領の下、大森銀山より 陸路 備後国尾道に送られ、尾道から

   海路 大坂へ送られたが、池田時代には 尾道から 室津までの海上輸送は 広島藩が担当し、室津から大坂・・

  ・朝鮮通信使の警護・御馳走 :姫路藩重臣が 乗船、室津で 通信使一行の出迎え、水船100余りを動員、水確保

  ・公儀役人の警護・御馳走:幕府上使、公儀役人の領内通行、寄港に際しての警護・御馳走(世話・接待)

  ・通行大名の御馳走役:参勤交代で、姫路藩領を通行する西国大名の往来は多く、儀礼内のサービスが慣例

      河川における御馳走役 <事例>加古川が 川幅140間、市川が 273間、船手組は 川の渡船を担った。

  ◆その他の海事業務:

  ・海事警察業務:密貿易・切支丹・船荷窃盗取締、海難船救助・難破船処理・水死人検死等、漁場保護

  ・浦役管理:領内浦方25ヵ浦の人別帳(15歳~50歳)を 船主・役人から 提出させ、これを 公儀に報告

  ・海難事件処理:

  ◇その他の職種

   ・音頭組:音頭指南以下、20名程度で編成。城主が 御召御座船に乗船した場合は、白鉢巻、白襷掛けの

       「姫路藩御船手御歌本全」などに 歌詞80余収録

   ・棟梁・船大工:御大工は、10数名置かれ、御船作業所に詰め 棟梁の指揮監督の下で 船の修繕に勤めた

  ◇室津・家島駐在:藩領飛地の室津は、小船頭以下10数名が 鮒手御番所、家島は 矢倉以下2名が 浦手番所詰

 。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路城 菱の門・2階櫓部 特別公開

2023-02-14 15:17:35 | 歴史探索

 2月14日(火)バレンタインデー   天気:曇り・晴れ  室温:15.7℃

 きょうは、11日から 特別公開されている 姫路城の菱の門・2階櫓部を 見に行きまし

た。 姫路市観光課発行のチラシには、菱の門は 入城口から 直ぐの位置にあり、黒漆と飾

金具の格子窓に飾られた勇壮な姿が 入城者に鮮烈な印象を与えます。 国指定の重要文化

財であり、姫路城内に現存する城門のうち 最大です。 今回は この菱の門内部にある2階

櫓を初公開します。 黒漆、飾金具付きの格子窓と 火打窓など、桃山時代の優美で 豪華な

雰囲気を醸し出しています。 平蒔絵の葵紋が描かれた 黒漆塗長持と、酒井家家老・河合寸

愛用の硯と 黒漆塗の硯箱も 展示されています。

 

 「菱の門」の名称は、鏡柱上部の冠木に 木製の「花菱」が 飾られていることに 由来します。

「花菱」は 菱紋の一種で、まさしく花です。 しかしながら 「花菱」は 菱形の文様を四分

て、それを 四弁の花に見立てたものであって、必ずしも ヒシの花というわけではありません。

 係員に なぜ 菱の門、菱紋なのですかと 尋ねると、むかし 三国堀の辺りに ヒシが 多く生えて

いた。 ヒシの実は 固く堅牢なので、菱の門も 守りが固いという意味で 名付けられたのでしょうと・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふるさと故事巡礼 第6回 増位中学校区

2023-01-10 11:38:38 | 歴史探索

 1月10日(火)   天気:晴れ   室温:19.9℃

 きょうは、先日入手した FMゲンキのフリーマガジンの ”冬号(1~3)の ”気まぐれ

途中下車 地域再発見  ふるさと故事巡礼 第6回 増位中学校区” を 簡単に紹介します。

 増位中学は 姫路市街の北東部にあり、市川の西、山陽自動車道の南に位置します。

姫路と 但馬を結ぶ 昔の生野道(播但道)が 南北に 走っています。

     

1.生野道(丹波道):姫路と但馬を結ぶ道。 「播磨国風土記」 の中に、応神天皇が 但馬から

  播磨に巡行したことや 蔭山里で 市川沿いに 道をつくったという記述がみられる。


2.巡礼道(その一):西国三十三所を巡礼する人々が 通った路で、白国のこの道は 書写山

  円教寺と 法華山一乗寺とを 結んだ道です。 三叉路の角には 道標(しょしゃ ほつけ山」と。

3.最明寺:法道仙人の開基伝承をもつ。 鎌倉幕府執権 北条時頼が 再建したといい、寺名は 時頼

  出家後の号「最明寺入道覚了房道崇」 にちなむという。

4.日吉神社:承和元年(834)、随願寺の鎮守として 比叡山の山王神社から 勧請され、山王

  権現と称しましたが、明治元年に 日吉神社と改称しました。 最澄が 延暦寺寺を創建したとき、

  中国の天台本山に倣い、日吉の神を 御法神として 祀ったことで 神仏習合の山王権現が 誕生しました。

5.明珍火箸本舗:甲冑師明珍家は 酒井家入封とともに、前橋より移りました。 明治に至り、香箸や

  火箸の製作、戦後は 火箸 風鈴や 花器の製作、さらに チタン素材への取り組み等にも 技を継承しています。

6.白国神社:「播磨国風土記」 の牧野の里の条に、「新羅訓村は 昔、新羅の国の人が来た時に

  この村に宿泊した。 これにより 新羅訓(しらくに)と呼ばれるようになった」 とあります。

    
7:西中島の道標:魔除け薬師として尊崇されてきた 西中島薬師さんのお堂の北側にある。

  お地蔵さん彫られた道標。 正面には 左ほっけ、右面に 弘化四年未年とあり、巡礼道に面して設置。

8:大歳神社:文化11年(1814)、種子島・屋久島・九州北部などの測量調査を行った 伊能忠敬は、

  江戸への帰路 姫路で年を越し、1月4日 城下福中町を出立。 但州出石街道の測量を開始しました。

9:大樋(飾磨樋門):池田輝政が 姫路城築城の際に、市川の城下町への氾濫を防ぐための流路固定

  工事(堤防)を行いました。 その後 城主となった本田忠政は 樋門(取水口)と船場川の整備を行う。

10.馬車道修築碑:飾磨津と生野銀山を結んだ日本初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」 の完成を

   記念して 生野橋のたもとに建てられた記念碑。 馬車道は 距離49km、幅員6m。

11.採石場跡:増位山東麓や北麓は 姫路城石垣の採石地で、採石場で加工して 生野道で 城下まで運搬。

12:権現山古墳:7世紀中頃の方墳と推定されています。 羨道は 10m、玄室は 4mで 市内最長の

   横穴式石室です。 (文化財見学シリーズ「水上・砥堀地区をたずねて」)

13:巡礼道(その二):姫路市立そうめん滝キャンプ場へ至る道は増位山にも 通じており、そこから

   広峰山、さらには 書写山へも通じています。 西国三十三所・巡礼道の裏道として利用されていた。

14:増位山随願寺:「播州増井山随願寺集記」 には、インドのアショーカ王が 撒布した仏舎利の一つが

   当寺に 埋められていること、聖徳太子の命で 高麗の僧 慧便が創建し 薬師如来を安置したこと、

   のちに 行基が 金堂を建設したことなどが 記されているそうです。

 
15.新・旧生野道:生野道は 砥堀北交差点付近から 山裾を離れ、市川の方へ近づいていきます。

   この辺りは 地面を掘ると 川砂利が出てくるそうで、かっては 山裾近くまで 河原であったと。

16.姫路聖マリア病院:現在、姫路聖マリア病院や 教会のある場所は、昭和30年代まで 大和工業

   の工場で 鋳鋼品や 軌道の付属品がつくられていましたが、その前は、須鎗航空兵器という会社が

17.和辻哲郎生家:和辻哲郎は 村医者の次男として生まれ、当時の仁豊野村に 門のある家は 和辻家の

   ほかには もう一軒あった医者の家とお寺だけだったそうです。

18.村の興亡:江戸時代の初め頃までは 市川の流路が 一定せず、元禄の頃に 至るまでの間に 集落の

   興亡が起こりました。 慶長国絵図では 仁豊野村は 存在せず、市川右岸には 橋爪村・西村・奇末村

19.泡子八幡神社:仁豊野の鎮守。 境内の石燈籠には 「右 たじま 北条」 「左 ひめじ ひろみね」とあります。

20.渡し:元禄国絵図(1697頃)でも 天保国絵図(1835頃)でも 歩渡と表示されています。

   仁豊野出身の和辻哲郎は、自著 「自叙伝の試み」 の中で、「船場川舟運の舟付場を利用して 渡し場

21.生野道神西ルート:元禄国絵図、天保国絵図のいずれも 上仁豊野村から 渡しで 市川左岸に 渡り

   神東郡を北上するルートを 太い朱線で表示し、市川を渡らずに 市川右岸を北上するルートを表示し

 。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。   。。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする