この頃、いつだったのかボクの記憶は定かでないのです。五十嵐氏と初めて電話で話をして、市職員の音楽愛好者らによる石蔵事件、NPO発足、芸術公園都市構想公表、旧浄水場アトリエ事件など、呆(ほう)けてきて時系列が定かではないのです。
時系列が定かでないなか、議会のこの件での対応は市議会で反五十嵐網が形成されていたことを物語ります。ボクは50年近く前からこのマチの公園造成に携(たずさ)わっていましたが、設置される施設について、質問などされた記憶がほとんどありません。とんでもなく無駄なように感じた施設に対しても、です。
今でいう、同調圧力のせいだと思われますが、同調圧力って昔からあったんです。ヒトがこれだけ繁栄してるのは同調圧力のおかげ、なんて説も聞きますが、とりわけ日本人にその傾向が強い、とも言われています。
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ボクが50年近く前にこの地に就職して来て、一番奇異に感じたのは、市役所中ナカジマ系が幅を利かせていたことです。このマチには経済界がナカジマ系とイノマタ系の2派に分かれ、峻烈な政争がくり広げられていました。
当時は吉岡という名の市長でした。晩年に百年記念塔とか廃棄されるボロ飛行機を展示させる施設を新設するなど、常軌を逸していました。ボクが就職した当時、吉岡市長は常軌を逸するほどのこともなく、仕事をこなしていましたが、反イノマタ親ナカジマをあからさまに表していました。
そんな市長の言動を見てのことでしょうが、職員間にも反イノマタ親ナカジマが浸透してたのです。職員間では反イノマタ親ナカジマが既定の事実でした。そのことは滝川市民と意識の乖離を感じました。市民の間ではイノマタとナカジマは拮抗した支持の割合だったのです。
市職員と市民との意志の違いは、市政をイビツなものにし兼ねません。実際イビツな市政だったと当時ボクは思っていました。反イノマタ反ナカジマ反ナカヤマを実践していたボクは常にそんな目で見ていたもんです。市内では大きな企業なのに、みんな談合に明け暮れ、社員や下請業者への待遇も良いものではなかったんです。
そんな現状がありながら、市職員の多くが反イノマタ親ナカジマであることが異様でした。その方が出世が早い!って現実的な思いを抱いている輩もいたでしょうが。
でもこのような市職員間に漂う反イノマタ親ナカジマ感情は、今でいう同調圧力がなせる業だったんでしょうね。
こんな反イノマタ親ナカジマ感情は長く続いていました。ボクがNPO設立の際に会員募集と寄付のお願いにあがった時の当時の総務部長(後の副市長)の対応は先に記しましたが、少なくともこの時点まで続いていたのです。
滝川市の悪態、まだまだ続きます。