「大阪維新の会」の大阪市会議員団が、表記の条例案を提出する動きを伝えた新聞報道を目にした。
私が見たのは毎日新聞5月2日付けで記事は「虐待防止が狙い」という、極く短いものだ。
他紙も、ほぼ似たような報道をしているようだ。
自由法曹団が提供している「条例案」なるものの全文を読んでみた。
「とんでもない」とネット上で批判の声があがっているのは当然だと思った。
全体を通じて、「ひきこもり、不登校、虐待、非行」そして「発達障害」も、全て「親の学び・育ちが足りない」という考え方に貫かれている。
特に、トンデモナイ2つの条文を以下に引用しておく。(できれば、全文を読んでください。)
(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
第2条(基本理念)には「発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し・・・」という文言もあるが、15条、18条の「発達障害」についての「知見」は科学的でもなんでもない。
昨年の6月議会で「子どもの虐待防止」の問題を取り上げた。
そのときにも痛感したが、今、この国でおこっている子どもの虐待は、親の貧困と深く関わっていると思う。(もちろん、それだけではないが。)
それは「親の心がけ」・・・条例でいう「親の学び・育ち」を強調するだけでは解決しない。
それらの問題と、いわゆる「発達障害」は要因も背景も全く性質が違う。
親に時間的経済的に子どもと関わるゆとりがないことが、障害の発見や対応を遅らせたり、2次的な被害を生んでいる場合もあるだろう。
そうだとしても、親にだけ、その責任を求めることは的外れだ。
そして、どんなに心を砕いて愛情を注いでも、発達の遅れや障害を背負って生きていく子どもはいる。
2次的な障害を予防し、そして、どんな障害があっても、その子にふさわしい教育の機会を保障するのが行政の役割だ。
「虐待」も「発達障害」も同列において、「親の学び」が足りない、愛情が足りないと言い、「親の責任」を説くのが「家庭支援」言えるのか?!
条例案の「前文」書き出しに「かつて子育ての文化は・・・」とある。
「かつて」というのが「いつの時代」を指しているのか定かではない。
そのあとに「しかし、戦後の・・・」と続くことからすれば「かつて」とは、「戦前の日本」を指しているのだろうか?
憲法、そして「児童は人として尊ばれる。」と謳った「児童憲章」のもとで、「すべての子どもたちのしあわせ」をめざして創り上げてきたものの数々。
母子保健事業が府の保健所の縮小で市に移管され、困難な体制のなかでも、乳児検診の100%受診をめざして努力されてきた。
障害の早期発見と療育の保障に、まだまだ課題は多いとは言え、「全ての子どもたちにの発達を保障する保育・教育」の必要性を否定する者はいない。
これまでに、どれほどの人たち、親や教師たち、研究者などの努力があったことか。
それさえも否定して「家庭支援」に名を借りて「かつて」の時代に逆戻りさせようというのだろうか。
これを「虐待防止」などと報道する新聞記事を改めて読むと、「本当に条例の文案を読んだのだろうか」と疑問に思う。
これは「素案」らしい。
「素案」のうちに葬らなければならないと思う。
私が見たのは毎日新聞5月2日付けで記事は「虐待防止が狙い」という、極く短いものだ。
他紙も、ほぼ似たような報道をしているようだ。
自由法曹団が提供している「条例案」なるものの全文を読んでみた。
「とんでもない」とネット上で批判の声があがっているのは当然だと思った。
全体を通じて、「ひきこもり、不登校、虐待、非行」そして「発達障害」も、全て「親の学び・育ちが足りない」という考え方に貫かれている。
特に、トンデモナイ2つの条文を以下に引用しておく。(できれば、全文を読んでください。)
(発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる
(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
第2条(基本理念)には「発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し・・・」という文言もあるが、15条、18条の「発達障害」についての「知見」は科学的でもなんでもない。
昨年の6月議会で「子どもの虐待防止」の問題を取り上げた。
そのときにも痛感したが、今、この国でおこっている子どもの虐待は、親の貧困と深く関わっていると思う。(もちろん、それだけではないが。)
それは「親の心がけ」・・・条例でいう「親の学び・育ち」を強調するだけでは解決しない。
それらの問題と、いわゆる「発達障害」は要因も背景も全く性質が違う。
親に時間的経済的に子どもと関わるゆとりがないことが、障害の発見や対応を遅らせたり、2次的な被害を生んでいる場合もあるだろう。
そうだとしても、親にだけ、その責任を求めることは的外れだ。
そして、どんなに心を砕いて愛情を注いでも、発達の遅れや障害を背負って生きていく子どもはいる。
2次的な障害を予防し、そして、どんな障害があっても、その子にふさわしい教育の機会を保障するのが行政の役割だ。
「虐待」も「発達障害」も同列において、「親の学び」が足りない、愛情が足りないと言い、「親の責任」を説くのが「家庭支援」言えるのか?!
条例案の「前文」書き出しに「かつて子育ての文化は・・・」とある。
「かつて」というのが「いつの時代」を指しているのか定かではない。
そのあとに「しかし、戦後の・・・」と続くことからすれば「かつて」とは、「戦前の日本」を指しているのだろうか?
憲法、そして「児童は人として尊ばれる。」と謳った「児童憲章」のもとで、「すべての子どもたちのしあわせ」をめざして創り上げてきたものの数々。
母子保健事業が府の保健所の縮小で市に移管され、困難な体制のなかでも、乳児検診の100%受診をめざして努力されてきた。
障害の早期発見と療育の保障に、まだまだ課題は多いとは言え、「全ての子どもたちにの発達を保障する保育・教育」の必要性を否定する者はいない。
これまでに、どれほどの人たち、親や教師たち、研究者などの努力があったことか。
それさえも否定して「家庭支援」に名を借りて「かつて」の時代に逆戻りさせようというのだろうか。
これを「虐待防止」などと報道する新聞記事を改めて読むと、「本当に条例の文案を読んだのだろうか」と疑問に思う。
これは「素案」らしい。
「素案」のうちに葬らなければならないと思う。
19日の学習会に参加したいと思っています。
ホントにひどいです。
「選挙で勝ったからと言って、政治家が教育の内容に口出しをしてはいけない。とんでもないことになる」ということを、事実で示しているとも言えますね。これは。