もう27年前であるが晴天で無風の1984(昭和59)年11月1日は、青東駅伝で地元岩沼を走りました。名取市のサッポロビールから槻木駅前までの15Km。
ウォーミングアップの際には岩沼の元市長、故)渡邊健一郎氏が激励に来てくれました。両手をしっかりと握りしめ「頑張って下さい」と、大変有り難かったのですが、この日ばかりは素っ気なかったことを今でも反省しています。
先のブログにも書きましたが、7日間の駅伝は3回まで走ることが可能です。1回目の走り(2日目)は岩手県で区間順位が7位?とまずまずの成績でしたが、走り終えた後の処置が悪く強度の筋肉痛になった。
岩沼(5日目)を走る朝まで筋肉痛は癒えず、階段は手摺りにすがらないとまともに下りることが出来ませんでした。(今まで経験したことのない痛みでした)
事前に監督へ申し出て区間の変更をして貰おうと考えたのですが、、、言えなかった。親戚や友人・知人のみならず母校の岩沼中学校までもが応援態勢です。
朝4時に目覚ましをかけ、真っ暗ないつものジョギングコースをゆっくりと走っているときは不安だらけ。「ブレーキしたら、どうしよう」頭の中はこれで一杯一杯。
中継順位は7~8番目の上位でタスキを受けたが、ズルズルと後退し足があがらない。最初の1キロで汗をびっしりと掻く、心の中で「ヤバイ」。
3キロ付近で親戚が、そして6キロ付近では友人が応援してくれる。そして後ろの監督車から檄が飛ぶ「もうすぐ踏みきりだ、電車が来るぞ」長岡を過ぎて栄町の踏切までギアが切り替わった。当時は踏切の遮断中も計測されているからです。
岩沼駅前を通過し親が、高校の後輩が、そして岩沼中学校付近は大勢の岩中生から応援して頂いた。有り難かった。感謝、感謝、感激です。
このコースは上り下りが滑らかにある知られざる難所、コースを知り尽くしている利点もありなんとか区間14位?(それなりのブレーキ)で終えることが出来ました。
この年は総合順位で一桁順位(9位)を群馬県と競り合いしており、「群馬に負けるな」がチームの合い言葉でした。走り終えた後、群馬の選手から「後ろから見てたがフォームがバラバラでも中々抜けなかった」とお互いが健闘をたたえ合いました。
最後の最後に抜かれたのだが、応援のお陰でした。