今、新約聖書は「マルコによる福音書」を読んでいます。
今日の聖句は2章13節~17節 “レビを弟子にする” です。
02:13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、
イエスは教えられた。02:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に
座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。 02:15イエスがレビの家で食事の席に着いて
おられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。
実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 02:16ファリサイ派の律法学者は、
イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は
徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 02:17イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
わたしは勿論のこと、クリスチャンは自分が罪人であること、自分は医者を必要とする
病人であると皆、自覚していると思いますと書の師匠にお話したところ、親鸞聖人の
大ファンだという師匠は“善人名をもて往生すいわんや悪人をや”という言葉を
教えてくださいました。う~ん、なんかその言葉、聞いたことがあります。
その意味は? とネットで調べると何件か説明がありました。
浄土真宗入門サイトに「あさだよしあき」氏は書いています。 ↓
「悪人でさえ浄土へ往けるのだから、善人なら、なおさらだ」と言うのならナットク、
という人は多いでしょうが、親鸞聖人はここで、「悪人こそが助かるのだ」と全く
逆のことを教えられています。なぜでしょうか。
それについて解説する前に、まず「善人」「悪人」について考えます。
「善人」や「悪人」と聞くと私たちは、常識や法律、倫理・道徳を基準にして判断します。
しかし、親鸞聖人が『歎異抄』で「悪人」と仰るのは、そんな法律、倫理・道徳上の「悪人」や、
社会的に虐げられている人だけのことではありません。「すべての人間」のことです。
つまり親鸞聖人の言われる「悪人」とは、人間の代名詞なのです。
なぜ親鸞聖人はすべての人間を悪人と仰ったのか。それはどんな人間も苦しんでいるからです。
貧富の差や能力、財産、名誉、地位の有無などと関係なく、人は皆、苦しみの中で生きています。
人生の本質は苦しみなのですが、今は、さほど深刻に苦しんでいない人もありましょう。
そんな人は、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀仏に生死の一大事を打ちまかせる心がないのです。
親鸞聖人が冒頭のお言葉で「善人」と言われているのは、そんな人のことです。
しかしそういう人も、仏教を聞いて自己が知らされれば、“自分こそ苦悩の人、悪人であった”
と気づくことでしょう。
真宗大谷派「銀杏通信」に本多恵という方は↓のように書いています。
仏教を聞くとは人間の真実の相を聞くこと
「すべての人が悪人」とは、仏さまの眼に映る人間の真実の相を教えられたものです。
仏教を聞く、とはその人間の真実の相を聞くことであり、「苦悩に沈むすべての人を、必ず浄土に
生まれる身(絶対の幸福)に救う」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞く、ということです。
それが本当の幸福になる道であると教えられています。
医師はすべての人を診療されますが、医師を真に必要とし医師にすがる人は、病人であり病気に
悩める人です。健康であると自負している人には医師の救いを必要としないのと同じように、
みずからを善人と自負する人には弥陀の本願は感得されないのであります。
救いの見込みがなく、自我のはからいに破れ、自力無効を信知した悪人こそが弥陀の本願の
正客(しょうきゃく)なのであり、自分を頼む思いから解放されて、真実救済の感動を得ることが
できるのであります。
う~、分かるところもあるし分からないところもある。
イエス様の言われる丈夫な人と病人、正しい人と罪人とはどんな人を指すのでしょう?
私は自分は罪人で病人だ、といとも簡単に納得してしまい、それで済んだ気にしてしまいますが、
心の奥底は本心は、自分をそのように見ることはできず、傲慢なくせに生ぬるいクリスチャンだと
反省します。
いかにも正直者のように、反省反省と手軽に口にする、そのずる賢い自分に呆れ、怒ってもいます。
今日も夕方から脚が猛烈に痛みます。
杖を使わずに歩けていたのに、昨日からまた少し後戻り、ジグザグジグザグ行ったり来たりで
リニアに回復しないことに苛立ってしまいます。今は完全に病人です。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターも御覧ください。
元気になって脚をしっかり踏みしめて<コスモス畑>に行たいです。(T_T)
今日の聖句は2章13節~17節 “レビを弟子にする” です。
02:13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、
イエスは教えられた。02:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に
座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。 02:15イエスがレビの家で食事の席に着いて
おられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。
実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 02:16ファリサイ派の律法学者は、
イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は
徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 02:17イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
わたしは勿論のこと、クリスチャンは自分が罪人であること、自分は医者を必要とする
病人であると皆、自覚していると思いますと書の師匠にお話したところ、親鸞聖人の
大ファンだという師匠は“善人名をもて往生すいわんや悪人をや”という言葉を
教えてくださいました。う~ん、なんかその言葉、聞いたことがあります。
その意味は? とネットで調べると何件か説明がありました。
浄土真宗入門サイトに「あさだよしあき」氏は書いています。 ↓
「悪人でさえ浄土へ往けるのだから、善人なら、なおさらだ」と言うのならナットク、
という人は多いでしょうが、親鸞聖人はここで、「悪人こそが助かるのだ」と全く
逆のことを教えられています。なぜでしょうか。
それについて解説する前に、まず「善人」「悪人」について考えます。
「善人」や「悪人」と聞くと私たちは、常識や法律、倫理・道徳を基準にして判断します。
しかし、親鸞聖人が『歎異抄』で「悪人」と仰るのは、そんな法律、倫理・道徳上の「悪人」や、
社会的に虐げられている人だけのことではありません。「すべての人間」のことです。
つまり親鸞聖人の言われる「悪人」とは、人間の代名詞なのです。
なぜ親鸞聖人はすべての人間を悪人と仰ったのか。それはどんな人間も苦しんでいるからです。
貧富の差や能力、財産、名誉、地位の有無などと関係なく、人は皆、苦しみの中で生きています。
人生の本質は苦しみなのですが、今は、さほど深刻に苦しんでいない人もありましょう。
そんな人は、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀仏に生死の一大事を打ちまかせる心がないのです。
親鸞聖人が冒頭のお言葉で「善人」と言われているのは、そんな人のことです。
しかしそういう人も、仏教を聞いて自己が知らされれば、“自分こそ苦悩の人、悪人であった”
と気づくことでしょう。
真宗大谷派「銀杏通信」に本多恵という方は↓のように書いています。
仏教を聞くとは人間の真実の相を聞くこと
「すべての人が悪人」とは、仏さまの眼に映る人間の真実の相を教えられたものです。
仏教を聞く、とはその人間の真実の相を聞くことであり、「苦悩に沈むすべての人を、必ず浄土に
生まれる身(絶対の幸福)に救う」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞く、ということです。
それが本当の幸福になる道であると教えられています。
医師はすべての人を診療されますが、医師を真に必要とし医師にすがる人は、病人であり病気に
悩める人です。健康であると自負している人には医師の救いを必要としないのと同じように、
みずからを善人と自負する人には弥陀の本願は感得されないのであります。
救いの見込みがなく、自我のはからいに破れ、自力無効を信知した悪人こそが弥陀の本願の
正客(しょうきゃく)なのであり、自分を頼む思いから解放されて、真実救済の感動を得ることが
できるのであります。
う~、分かるところもあるし分からないところもある。
イエス様の言われる丈夫な人と病人、正しい人と罪人とはどんな人を指すのでしょう?
私は自分は罪人で病人だ、といとも簡単に納得してしまい、それで済んだ気にしてしまいますが、
心の奥底は本心は、自分をそのように見ることはできず、傲慢なくせに生ぬるいクリスチャンだと
反省します。
いかにも正直者のように、反省反省と手軽に口にする、そのずる賢い自分に呆れ、怒ってもいます。
今日も夕方から脚が猛烈に痛みます。
杖を使わずに歩けていたのに、昨日からまた少し後戻り、ジグザグジグザグ行ったり来たりで
リニアに回復しないことに苛立ってしまいます。今は完全に病人です。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
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元気になって脚をしっかり踏みしめて<コスモス畑>に行たいです。(T_T)