ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「イエスこそはメシア(救い主)」

2012-08-13 10:11:41 | 説教
昨日は日曜礼拝に出席できました。

上田先生によるお説教のテキストは、旧約聖書イザヤ書35章5節~6節と
新約聖書マタイによる福音書11章2節~6節でした。

ヘロデ王に囚われ牢につながれているヨハネは人を頼んで、イエスが来たるべき方、
つまりメシアであるのかどうかをイエスに確認しました。
イエスはイザヤ書に書かれていることを丁寧になぞり「目の見えない人は見え、
足の不自由な人は歩き・・・・・貧しい人は福音を告げ知らされている」つまり私こそメシアだ、
と言われた後、「私につまずかない人は幸いである」と付け加えられました。

ヨハネは(当時の人は)メシアとはヘロデ王のような悪い支配者をやっつけ強い軍隊を持って
ローマ帝国にも刃向かうと思っていましたので、十字架の死に向かうイエスの進む道が
メシアの道とは思えなかったのです。

聖書(旧約)に予言された道、十字架に続く道を歩んでいられたイエスは、ヨハネに(当時の人々に)
十字架につまずかない人は幸いだ、と言われました。
(この言葉はすべての人に救われる可能性があるという福音を述べています。)

ヨハネの問い、十字架のつまずきは今の私たちのものでもあります。
古来多くのクリスチャンは主の十字架につまずいてきました。

私たちは自分の求めに合う救いを求めがちで、その時十字架のイエスは最大のつまずきとなります。
自分の宗教的欲望に固執すると主の十字架につまずきます。

信仰とは私たちの願いが実現することではなく、神の御心が私たちを通して実現される事を願うこと。
神の必要を自分の信仰として願うこと、神の計画が私たちの最大の祈りとなるために、私たちは
教会に連なり、教会を守らなくてはなりません。

というようなお話だったと思います。
メモを取っているのにイマイチ自信なし、です。 
特に下線の部分が分からなくなりました。 (^^;) 

今週も教会に連なり幼子のように主を信じ、徒に思い煩うことなく過ごしたいと思います。



<コノシメトンボ>


昨日の礼拝に、初めて美竹教会にいらした方が4名いました。
残念ながら(!)他の教会の会員さんでした。
残念と言うのは、未信者や求道中の方だったら美竹教会にまたいらして、いつの日か神様の救いに与り、
美竹教会の会員になって下さるのでは?という私の勝手な期待(思い)からです。(笑)
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