ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

ローズンゲン(合言葉)より

2014-02-09 13:44:12 | その他
昨日、東京には20年ぶりの記録という大雪が降りました。
今日は家の前の雪掻きのため礼拝に行けませんでした。

「あなたもお読みでしたか・・・・Ⅰ : 日々の聖句 : (ローズンゲン)による366日の聖務日課」を開いて
今日の聖句を読み、祈り、讃美歌を歌ってミニ礼拝をいたしました。 感謝。


■今日をひらく聖書の言葉■

主は言われた。「あなたの願いゆえに、私は赦そう」 民数記14章20節

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 
 ヨハネによる福音書14章13節


■黙想■
祈りには二つある。 一つは「請求書的祈り」であり、もう一つは「領収書的祈り」である、と言ったひとがいる。
まさにわれわれの祈りもこの二つのいずれかに分けられる。
そしてわれわれが「祈り」と呼んでいるものは何と身勝手で厚かましい「請求書的祈り」に偏っていることか。
「何でもかなえてあげよう」という主の約束に甘えるのが信仰であるかのように錯覚し、神は何でも聞き入れて
叶えてくださる都合のよい存在であるかのように想像している。
主は「ゲツセマネ」で祈られたとき、「み心ならばこの杯を取り去ってくださるように」と祈られたことをわれわれは
知っているし、そう祈ることは許されている。
しかし、主が最後に「御心が行われるように」と祈られた時に、祈りは「領収書的祈り」となったのではないか。

神の御心こそが成就する。
それが祈りの究極であり、祈りはわれわれの願いよりも御心への服従、神のご意志の「領収」のことであろう。
「血の汗を流して」とはそのような苦闘のことか。 
「何でもかなえてくださる」ことを信じる者は「御心」をこそ求める者となる。
その時、作家、太宰治の『人間失格』の一節「神さまが自分のようなものの祈りでも聞いて下さるのなら、
生涯に一度だけ祈る」と書いた彼の心情にも共鳴する。

■祈り■
さあ、神に感謝をささげ、神をほめたたえよう。 いただいた恵みのすべてに対して。
あの方により罪は赦され生命をいただいたのだ。
われわれは天にいかに素晴らしい宝を持っていることか。 
       ルートヴィッヒ・ヘルムボルト(1532-1598) ドイツの哲学者・牧師・詩人

■讃美歌■
讃美歌271番 「いさおなき我を 血をもて贖い・・・」



<ふくらスズメ> 手乗りになるほど近くに来て、カメラ目線でした。 (^-^)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
私も含めて年配者の多い美竹の教会員、今日はどれくらいの方が礼拝に出られたでしょうか。
覚えて、お祈りさせていただきます。
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