8月27日の主日礼拝は「夏の伝道礼拝」ということで、説教は名古屋北教会の山田麻衣子牧師がなさいました。
麻衣子先生は教会学校時代から神学校、大学院ご卒業まで美竹教会で過ごされました。
神学校の前に音楽大学を卒業なさったヴァイオリニストでもあります。
説教のテキストは「使徒言行録」3章1節~10節
タイトルは「立ち上がり、歩きなさい」でした。
******************************
自分のことにしか目が向かず周囲が見えず、自分の心を見つめるだけの私たちの日々、喜びが隣にある時、
私たちの苦しみは増します。
今日のテキストに描かれているのは闇から抜け出すことを諦めた男の姿です。
日常を維持することのみ考え、期待は小さく、望むことなどはできないと思っていた、神の恵みとは無関係と
思っていた、闇の中で自分の本当の望みが何であるか見失っていた男の話です。
礼拝に集う私たちも、礼拝でほんの少しばかり日常を忘れ、ほんの少しばかり信仰を強められ、ほんの少しばかり
平安が与えられる、ほんの少しばかり体調がよくなることを望みます。
一見奥ゆかしい姿勢ですが、完全に癒されることを求めていない、私たちもまた神に期待することを諦めています。
私たちの日常は厳しいが、自分はその中で上手に生きていると思っています。
苦しみを取り繕っています。 そっとしておいてほしい、どうせ変わらないのだからと、自分の闇を深いところに
隠し持つようになっています。
そんな私たちを“じっと見る”ひとがいる・・・“あなたは今、何を求めているのか、私はあなたを知りたい、
出会いたいと思っている。あなたが本当に求めているものは何なのか”・・・・
私たちは自分はこの足の萎えた男ほどひどくはないと思っていますが、事実は私たちも根源を苦しめている痛みを
解決できていません。この男との比較ではないのです。
命の破れから解き放たれることを願っているが、目先のものではない根本的解決は得られていません。
6節の聖句は私たちにもむけて告げられているのです。
「キリストの名によって立ち上がりなさい」
キリストの名とはどれほどのものなのでしょう。キリストの名によって与えられる恵みに私たちは無頓着すぎます。
「あなたは生きなさい」という神からの愛のメッセージ。
私たちの心の破れに痛みに十字架が打ち立てられた
「あなたは立って生きなさい」神が立ち向かって働いてくださる。
十字架によって人間の悲惨さに対抗されたが、私たちには本当にそうだろうか、と疑う気持ちがあります。
回復の難しい状態にある私の母や先日亡くなった美竹教会の長老の方を考えるとき、人間の無力さを痛感します。
しかし、その時こそ「キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」という神の意志を聞くことが許されているのです。
キリストの名によってという神の声を聞くことができる、命の終わりのその先にキリストの名による「命」がある、
この「命」という言葉は「復活」と同じ言葉が使われていますが、希望が見えなくなった時、復活の朝のように
私たちは立ち上がることが許されているのです。
信じて立ち上がった男が癒されたのは足だけではなく、奪われることのない命へと繋がれました。
悲しみが増えるその中での神の救いは完全です。
この男の話は私たち一人ひとり、すべてのものの話でもあるのです。
今日は説教のプリントはなかったので、久しぶりにメモをとりましたが、散漫なまとめになりました。 <(_ _)>
(文責はゆうゆうにあります。)
******************************
苦しみから悩みからの解放、解決を神様に願う時、私は「御心ならば」とつけて祈ってしまうが、よいのだろうか?
心底「御心ならば」と思っているのか、神様の御心は測りがたく人間の思いをはるか高く超えているので、
考えるのを諦めて、放棄して神様に委ねるなどと言っているのではないか?
完全に癒されることを願って神により頼めば「悲しみの中にあっても神の救いは完全」なのだと信じたい、
いや、私は信じている、はず。
=麻衣子先生の子ども説教の要約=
私たちの名前のすぐ隣にイエス・キリストの名が刻まれている
私たちの名とともにイエス様はいつもいてくださる
苦しい時、悲しい時、虚しい時、そのことを思い出すように
どんなに大変な時も、主が傍にいてくださることに励まされ生きてゆくように
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
フェイスブックやツィッターもご覧ください。
今年も公園でオオタカが雛を孵したようです。
水場で水浴びをする<オオタカの幼鳥>です。
麻衣子先生は教会学校時代から神学校、大学院ご卒業まで美竹教会で過ごされました。
神学校の前に音楽大学を卒業なさったヴァイオリニストでもあります。
説教のテキストは「使徒言行録」3章1節~10節
タイトルは「立ち上がり、歩きなさい」でした。
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自分のことにしか目が向かず周囲が見えず、自分の心を見つめるだけの私たちの日々、喜びが隣にある時、
私たちの苦しみは増します。
今日のテキストに描かれているのは闇から抜け出すことを諦めた男の姿です。
日常を維持することのみ考え、期待は小さく、望むことなどはできないと思っていた、神の恵みとは無関係と
思っていた、闇の中で自分の本当の望みが何であるか見失っていた男の話です。
礼拝に集う私たちも、礼拝でほんの少しばかり日常を忘れ、ほんの少しばかり信仰を強められ、ほんの少しばかり
平安が与えられる、ほんの少しばかり体調がよくなることを望みます。
一見奥ゆかしい姿勢ですが、完全に癒されることを求めていない、私たちもまた神に期待することを諦めています。
私たちの日常は厳しいが、自分はその中で上手に生きていると思っています。
苦しみを取り繕っています。 そっとしておいてほしい、どうせ変わらないのだからと、自分の闇を深いところに
隠し持つようになっています。
そんな私たちを“じっと見る”ひとがいる・・・“あなたは今、何を求めているのか、私はあなたを知りたい、
出会いたいと思っている。あなたが本当に求めているものは何なのか”・・・・
私たちは自分はこの足の萎えた男ほどひどくはないと思っていますが、事実は私たちも根源を苦しめている痛みを
解決できていません。この男との比較ではないのです。
命の破れから解き放たれることを願っているが、目先のものではない根本的解決は得られていません。
6節の聖句は私たちにもむけて告げられているのです。
「キリストの名によって立ち上がりなさい」
キリストの名とはどれほどのものなのでしょう。キリストの名によって与えられる恵みに私たちは無頓着すぎます。
「あなたは生きなさい」という神からの愛のメッセージ。
私たちの心の破れに痛みに十字架が打ち立てられた
「あなたは立って生きなさい」神が立ち向かって働いてくださる。
十字架によって人間の悲惨さに対抗されたが、私たちには本当にそうだろうか、と疑う気持ちがあります。
回復の難しい状態にある私の母や先日亡くなった美竹教会の長老の方を考えるとき、人間の無力さを痛感します。
しかし、その時こそ「キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」という神の意志を聞くことが許されているのです。
キリストの名によってという神の声を聞くことができる、命の終わりのその先にキリストの名による「命」がある、
この「命」という言葉は「復活」と同じ言葉が使われていますが、希望が見えなくなった時、復活の朝のように
私たちは立ち上がることが許されているのです。
信じて立ち上がった男が癒されたのは足だけではなく、奪われることのない命へと繋がれました。
悲しみが増えるその中での神の救いは完全です。
この男の話は私たち一人ひとり、すべてのものの話でもあるのです。
今日は説教のプリントはなかったので、久しぶりにメモをとりましたが、散漫なまとめになりました。 <(_ _)>
(文責はゆうゆうにあります。)
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苦しみから悩みからの解放、解決を神様に願う時、私は「御心ならば」とつけて祈ってしまうが、よいのだろうか?
心底「御心ならば」と思っているのか、神様の御心は測りがたく人間の思いをはるか高く超えているので、
考えるのを諦めて、放棄して神様に委ねるなどと言っているのではないか?
完全に癒されることを願って神により頼めば「悲しみの中にあっても神の救いは完全」なのだと信じたい、
いや、私は信じている、はず。
=麻衣子先生の子ども説教の要約=
私たちの名前のすぐ隣にイエス・キリストの名が刻まれている
私たちの名とともにイエス様はいつもいてくださる
苦しい時、悲しい時、虚しい時、そのことを思い出すように
どんなに大変な時も、主が傍にいてくださることに励まされ生きてゆくように
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今年も公園でオオタカが雛を孵したようです。
水場で水浴びをする<オオタカの幼鳥>です。
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