「ヒメヒオウギズイセン」の花言葉は…
仕事をサボって(仕事から逃げて)、日々配信されているドラマを延々と見続けていたら、『既視感』を感じるようになってきた…「人生にはそれぞれのドラマがある。」などと言ってみても、視聴者も納得できるような『落とし所(結末)』に仕上げないと、逆に『違和感』につながってしまうのかも知れない。『幸せな結末』『信賞必罰』etc.…世の中、思い通りに行かないことの方が多いはずなのに、それが『別れ』であってもお互いの『幸せ』が前提であり、『悪』が栄えてはいけない手筈になっている^^;
ならば現実はどうなのだろう?『イジメによる自殺』『芸能人の自殺』etc.…これもまた繰り返される『既視感』…『イジメ』や『晒されて』、『逃げ場所』を失ったなどと結論づけられてしまうのだけれど、そうでもしないと『生き続けている』側の人間には理解できない『行動』なのかも知れない。
『おやじぃ』自身もメンタル不調を訴える(または様子の)同僚に、「逃げて良いよ。」と相談して来た経験もあるけれど、果たして具体的な『逃げ場所』を的確に声掛け出来たかはどうかは疑問である。『クリニック』、『心の相談室』も『逃げ場所』のひとつかも知れないけれど、不調の『原因』を取り除いてあげなければ、不調の心理状態からは解放されないと思うのでありますよ…。
『晩酌会』…これまた『既視感』?
さて、動物に自殺という『行動』はあるのか?確かに「喜怒哀楽」という感情は推し量られるけれど、『自らを省みて、意図的に生存という命題を断つ意思決定はできない。』という考え方が支配的なようである。ミツバチの『防衛行動』も主人や配偶者の死に対して餌を食べなくなる行動も、自殺ではなく『自滅行動』と理解しないと、『人間の崇高な意思決定過程』は守られないという思い込みも働いているようである。
はてさて、「完膚無きまで」という言葉がある。どうやら中国唐代に、クーデターの仲間に加わらない同僚に対して、お灸で全身にヤケドを負わせたという故事が由来となっているらしいのだけれど…。どうも思い込みの『正義感』というやつで、『完膚無きまで叩き伏せて』おいて、『自殺』という行為に対して口をつぐんでしまう。『おやじぃ』とは面識もなく、関係のない人なのにねぇ…『逃げ場所』がないと「心の視野狭さく」に陥っている貴方に伝えたい。『逃げ場所』がないと思っていても、貴方にとっての『居場所』が必ずあると…その『居場所』は決して、「死の先」にある場所ではないと『おやじぃ』は確信しているのだけれど…。「ヒメヒオウギズイセン」に「良い便り」という花言葉がある。貴方に「良い便り」を届けてくれる人が必ずいるはずだから…。
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