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吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

FC2BBSから移動しようと目論んでいます。
http://reyline.web.fc2.com/index.htm

呉氏骨=おしほねの行方 No436

2016-05-20 23:05:00 | 神霊界考察
香春岳と英彦山との関係については
過去特別に言及していなかったように思うので
少しだけ繋がりについて述べたい。

『香春神社の相克 No416』で書いているが
筆者が呉氏骨と漢字変換されて驚いた忍骨命は
英彦山の山頂に降臨したという伝承がある。
地図で見ると香春岳と英彦山は田川郡という
古い時代から同じ行政区のようだ。


現在の英彦山神社の主祭神は
正哉吾勝勝速日天忍穂耳命になっているが
香春二ノ岳に祀られる忍骨命は天忍穂耳命と
同体とされる説もある。

この英彦山であるが『彦山流記』に
甲寅歳 震旦国 天台山 王子晋之旧跡東漸とある。
※八幡宮寺成立史の研究 P123

また熊野縁起最古の『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」にも
熊野権現の垂迹来歴について
甲寅の年、唐の天台山の王子信=王子晋(中国の天台山の地主神)が、
英彦山に天降った。
その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。
そのような記載がある。
※八角形の水晶は実際に存在しグラウンディングと呼ばれ
大地に足を着けるという意味を持つ。

ここに出てくる王子晋は、中国古代の周の霊王の太子であり太子晋とも言われている。
姓は姫、名は晋、字は子喬とされていて
中国では地主山王元弼真君=桐柏真人王君と呼ばれている。
特筆すべきは姫姓王氏の祖とされていることだ。

  

呉音霊の主体とされる姫氏の呉太伯が江南から日本に来たという話と
天台山の地主神である姫姓王氏の王子晋が日本に降臨したという話は完全にかぶっている。
時代は姫氏の呉太伯は紀元前12世紀・紀元前11世紀頃となる。
王子晋は周の霊王の第一子であり紀元前565-549となる。

熊野権現の垂迹が中国の天台山の地主神の王子晋という話は初めて知ったのだが
これがどこから出てきた話なのかが重要だ。

まず天台山といえば最澄の興した天台宗と大きな繋がりがあり
入唐八家と呼ばれるのは最澄、空海、常暁、円行、円仁、円珍、宗叡であるが
その中では最澄、円珍が天台山に赴いているし
他にも円載、成尋、栄西、道元などが天台山で学んでいる。
この中で善慧大師成尋は熙寧5年(1072)に入宋しており
天台山に参詣した時の見聞として以下のように記している。
国清寺には地主山王元弼真君なる祠があり礼拝した。
真君は周の霊王(前571~前545)の子で、王子晋といい、
寺は王子の邸宅であった。
王子晋は仙人となり数百年の時を経て
智者大師に謁見して受戒して地に付属した。
あたかも日本天台の山王のようである。

※ここでいう日本天台の山王とは
最澄が比叡山延暦寺の地主神として祀った山王権現のことだが
日枝神=ひえの神=日吉神が実際どういう御神霊なのかについては
一般には大山咋神とされる。
でも山王とは最澄が作った言葉ではなく
本来は地主山王元弼真君のことである。
最澄の祭祀した神霊の中に山王眷属という表現があるが
裏において王子晋が祀られている可能性は十分にある。

比叡山には山王院堂が存在している。
実際に天台山で修行した円珍の住房という事になっている。
円珍は山王三聖を形成したという。
大比叡神・小比叡神・比叡山王で三聖である。

さて熊野権現垂迹縁起の王子晋縁起説であるが
この比叡山から派生したとするならば
もう少しはっきりとした形で
山王神=太子晋=地主山王元弼真君の祭祀が残っていても
いいように思える。

では他の姫姓王氏の伝承の候補としては
都怒我阿羅斯等と姫氏呉太伯の伝承を上書きした
天日槍の伝承等が考えられる。

現在のところはっきりとは論証出来ないが
熊野権現には姫氏が関与していると感じている。













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214 コメント

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千手観音の足跡 (すずたま)
2016-05-17 08:17:22
菊池氏の氏神は熊野十二所大権現。本地仏は千手観音。
菊池氏と熊野の強いつながり。嫡流は小さな千手観音をいだき、常陸に逃れてゆくが…

菊池氏のホームページより、熊野十二所大権現(十二所神社)の祭神
上四社
第一殿(西御前):熊野牟須美大神・事解之男神(千手観音)
第二殿(中御前):速玉之男神(薬師如来)
第三殿(證証殿):家都美御子大神(阿弥陀如来)
第四殿(若宮):天照大神(十一面観音)
中四社
第五殿(禅児宮):忍穂耳命(地蔵菩薩)
第六殿(聖宮):瓊々杵尊(龍樹菩薩)
第七殿(児宮):彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿(子守宮):鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
第九殿(一万十万):軻遇突智命(文殊菩薩・普賢菩薩)
第十殿(米持金剛):埴山姫命(毘沙門天)
第十一殿(飛行夜叉):弥都波能売命(不動明王)
第十二殿(勧請十五所):稚産霊命(釈迦如来)

熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹した、とあります。

熊野牟須美大神の御正体についてはいろいろ言われていますが、イザナミという説もあります。

イザナミはイザナギとともにカグツチにいたるまでの万物万神を生んだ母神。最後に三貴神を生む。

パミール高原やチベット高原を取り囲む白い山々から流れ出す河に依る民から見て、白い山々(白山)は豊穣をもたらす水の源であり、鉱物資源をももたらす。

熊野牟須美大神≒千手観音≒イザナミだとすると、第四殿(若宮)の天照大神(十一面観音)の母神という位置づけもできそうな?

西原の白山姫神社HPには白山姫は「いのちの親神様」と表現されています。
白山姫をそのように呼ぶ人々はパミールの白き山々を仰いでいた民ではないでしょうか?

千手観音を本尊とする西大寺観音院の川を挟んだ真向かいにある白山系神社は豊原角(すみ)神社といいます。(私の生まれたのは豊村)。祭神は白山比め大神・大己貴命・少彦名命。
角神社と、観音院にある犀の角。犀の角は薬効があり珍重されたという。スクナヒコナを思い出す。
観音院と牛窓に飛んだというナニカの玉。

常陸国にまたも地震、震度5弱。神奈川は3。
8042
返信する
吉田一氣 (すずたまさまへの返信)
2016-05-17 08:37:42
申し訳ありませんが
コメントの添付位置を変更させていただきました。
比叡山の山王院堂にも千手観音を祀っており
「千手堂」「千手院」とも呼ばれているようです。
ところでこのコメントの投稿時間は
2016-05-17 00:46:25となっていますが
その時点で『仮 呉氏骨=おしほねの行方』は
読まれていましたか?
中国天台山も江南文化の範囲に入り
姫姓の王子晋も呉音霊の影響下にあったように
思うのですが
時代が大幅に違うのです。
大分国東半島の姫古曽神社創建がその時代なら
英彦山、石槌山、熊野という流れに
組み込まれるものと思います。

返信する
良い流れですね。 (りひと)
2016-05-17 09:28:31
若宮の後ろに母姫というイメージは、どうやら私の周りではお薬師さまの近くにいる千手観音のようなイメージになってきました。

またまた昨日頂いていたコメントを発見したので調べてみたらメンフィス3神というのもありそうです。セクメト情報ありがとうございました。母が疱瘡神っぽくもありかなり気になります。クナト三神?

色々他方面からも繋がりそうに思います。下野の地震も奈良の三大重要なお寺の下野薬師。そしてそこに道鏡。

父菊池、母小美玉、息子下野の要素は強そうですが、皆それぞれの場所で眠っているとも思います。3426

全国全て危険です、人間に何も出来ないでしょうけど出来る事を命がある以上やりたいと思います。
返信する
事解之男=ヤマーンタカ=大威徳明王 (すずたま)
2016-05-18 00:09:00
吉田様、この新しい記事には今朝気付きましたので、ゆうべ投稿したときは読んでいませんでした。

第一殿の熊野牟須美大神・事解之男神・千手観音
この事解之男(ことさかのお)がわからず、気になっていたのですが、調べたら「ヤマーンタカ」に繋がりました。

恐ろしげな姿は、阿弥陀如来・文殊菩薩が人々を教え導くために敢えてその姿をとったものであり、日本では「大威徳明王」になった。
大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現される。

大威徳明王画像で検索するとなるほど手足が6本。
ヤマーンタカ画像で検索すると、手がもっといっぱいあって、千手観音に近いです。

禮月様はヤマーンタカはヤマトタケ、ツヌガアラシト、および呉音霊の御神体の姿に繋がるのではないかといっておられるのですね。

手がいっぱいある姿は、りひとさまのジャーニイのスカラベのコメントを思い出します。(一番上の手で太陽をかかげ、他の手は羽になる)
5665
返信する
吉田一氣 (すずたま様への返信)
2016-05-18 01:04:39
そうですか。
私のブログを読む前の記事でしたか。
熊野十二所大権現と本地仏の千手観音について
お互い導かれるものがあったということですね。
大威徳明王については20年前より気にはなっていたのですが
全然真実が見えてきていません。

事解之男=大威徳明王と繋がると思われたのは
どこででしたか?

あと禮月様はヤマーンタカはツヌガアラシト、
および呉音霊の御神体の姿に繋がるのではないか
といっておられましたか?

話が元に戻りますが
私が過去から気にしている原点は
新宮の阿須賀神社=飛鳥?=蘇我?のことです。
ここには徐福伝承が強く残っています。
そして阿須賀神社には大威徳明王を
本地仏として祀ってきた歴史があったからです。
蘇我氏の歴史を探っているときにこの神社に巡り合い
徐福伝承を探っていて再びこの神社に巡り合い
二上山の「深蛇大王」と同じく蛇を従えている。
解けそうで解けない秘密にもどかしさを感じる神社です。

返信する
鵜殿村の貴袮谷社 (すずたま)
2016-05-18 06:27:49
再度のコメントの移動ありがとうございました。
「阿須賀神社(み熊野ネット)」に事解男之命の本地仏は大威徳明王との記述があったので、事解之男≒大威徳明王≒ヤマーンタカと繋がりました。
http://www.mikumano.net/meguri/asuka.html

上記サイトより
阿須賀神社の祭神は事解男之命(ことさかのおのみこと)と家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神の熊野三所大神。
主祭神は事解男之命で、その本地(仏としての本体)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)とされます。
大威徳明王は水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿をしています。世にまん延する一切の悪を降伏する仏であり、平安末期ころからは戦勝祈願の本尊とされた仏です。

以下もそのサイトよりコピー
・・・阿須賀神社はじつは熊野発祥の地であるといわれています。古伝によると、
熊野大神は初め神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴袮谷に遷ったが、結速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座した。
とされ、阿須賀神社が本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつことを主張しています。
実際、そうであったのかもしれませんが、熊野信仰の大きなうねりに巻き込まれて、阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社という立場に落ち着いたのでしょう。
長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載され、最古の熊野縁起譚だと考えられている『熊野権現垂迹縁起』にも阿須賀神社の名が登場しますが、先に述べた古伝とは少々違っています。
「昔、唐の天台山の王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶となって、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵(やぶち)の谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現であると伝えられる。」
この話では熊野大神は阿須賀の森には鎮座せず、阿須賀神社の北、熊野川の対岸の三重県南牟婁郡鵜殿村矢渕の谷(貴袮谷社(きねがたにしゃ))に鎮座したことになっています・・・

別に熟読したわけでもないのに最後のところの「鵜殿村」に目がとまったため、長い引用となりました。
以前から「宇土」に反応する私ですので、「宇土の村」と読め、熊本の宇土半島を出発したあるグループが、熊野(球磨野)信仰をもって紀伊半島に来てここに最初に落ち着いた、とぱっと想像してしまったのです。無茶苦茶な飛躍です。
貴袮谷社、林の中のかわいい神社です。
上記の引用からは、貴袮谷社と阿須賀神社とは、成立においてちょっとルーツが違うように読めないでもありません。
(全く勝手な想像の中の話ですが、熊野本宮大斎原(おおゆのはら)で「先祖がここに来た」と感じたのは、「私の中の蘇我」と「私の中の菊池」では、後者の方であることになります。菊池氏が先祖であるらしいわけでもないのにかかわらず。しかし蘇我と菊池はどこかでクロスしている?と一応仮定しておきます)

阿須賀神社と大威徳明王の謎には関係ない文となりました。考えることがたくさん増えています。

八角の水晶って結晶のしかたとしてほんとにあるのですね。光の当て方でクロス(十字架)があらわれます。

禮月様のヤマーンタカに関するご意見は熊本霊ラインと熊本大災害 問題提議篇の2016-05-13 20:37:39「ヤマ天、ユミル、少彦名は起源が同じ)」
にあります。
9996
返信する
ククリ (すずたま)
2016-05-18 09:31:03
9の数字にククリのメッセージをなんとなく感じ、またまたぼんやり浮かぶ考えというより思いを書かせていただきますと、ククリとはメビウスの輪(8の字を横にしたもの、永遠の意味もある)を括る場所、8の字が交わる中心、左回りが右回りに替わる場所、つまり表と裏が反転する場所であり、言い換えればイザナギ(男性原理)とイザナミ(女性原理)が交代する場所でもあります。ククリ姫も事解之男もイザナミとイザナギとの相克を収めた(とりあえず別離させて「事」を「解」決した?)神のようですから、それがヤマーンタカのような恐ろしい姿や大威徳明王のような厳しく怖い神威を持つ姿をもとるということは、反転する場所というのは大変な天変地異とか大人災とか起きる怖い時間帯だから。それは慈愛の千手観音のもう一つの貌。
今回の入れ替わりは二つの原理が統合するのかもしれず?
すべてを、いのちの御祖(みおや)たる白山姫(大自然の根源神)は見守っている・・・?
九州(ククノチ)はククリの始まる地?
1929 5954
返信する
山王権現、大津皇子~中将姫、二上山 (すずたま)
2016-05-19 09:51:05
>比叡山の山王院堂にも千手観音を祀っており「千手堂」「千手院」とも呼ばれている

最澄~天台宗~比叡山~山王~千手観音の関係は全く知りませんでした。
だいたい山王とか山王神社,日枝神社に関心を持ったことがなく無知であり(最澄には関心がありましたが)、とりあえず山王とか山王権現って何なの?と調べ始め、それを把握できないうちに、何故かいきなり天台宗の古刹、水戸の「長福寺」に意識がアクセス。中将姫ゆかりの寺、とあったからです。
中将姫を題材とした小説に,折口信夫(釈超空)「死者の書」(中央文庫)があり、それをアニメ映画化したのが、私が見た悲運の大津皇子とその死を悼んで曼荼羅を織り上げた中将姫の物語、アニメ版「死者の書」です。
(その大津皇子らしき?人がたわいない夢に出てきたことは先日お話しましたが、アニメの美貌ぶりの面影が少しある、それよりずっと人間くさいリアルな貌をはっきり見ました。)
時間がないのではしょりますが、大津皇子は、日本に侵入した武則天勢力に殺されたと思います。
呉系の殲滅であり、オウミ王朝は呉系と考えられます。
(大津皇子は大角皇子かも?)
(西大寺観音院の寺宝「犀の角」も、呉系のあかし?あるいはサイの神とは関係ない?)

いろいろつながってきそうな予感がありますが、数日忙しくしますので、また書きます。
返信する
山王様、事解男、牛神? (禮月)
2016-05-19 14:35:02
山王様が事解男や牛と関係ある可能性があるとは・・・驚きでした。山王日枝神社と神縁を結んだ私にとっては特にです。

事解男の「解」という漢字は確かに角と牛があるので牛に関係した神様かもしれませんが、刀も含まれるので、牛を征した者という意味にも取れます。チベットのヤマーンタカの由来も、ヤマ天(ユミル)を征した者から来ているので。
乳牛(アーリア人)を倒した水牛(チベット人)の意味?
3620
返信する
吉田さまへ (りひと)
2016-05-19 14:42:58
今ヤフーニュースで見ましたが、当初考えられていた横ズレだけでなく俵山での縦ズレも重なったようです。日本ではなかったのでは?と。ヒントになれば。
9378
返信する
牛王符は呉王符 (禮月)
2016-05-20 09:10:45
熊野神社に伝わる牛王符ですが、牛の文字を見ても解る様に、都怒我現人(周系呉人姫氏) にまつわる由来がありますね。
牛王符は呉王符でもあり、都怒我現人(伯母曰く八幡神かつヤマトタケでもある)が首長(祭・政のトップ)たる大日霊女から、自らの民を護る為に武力を使う旨の許可を貰う為のものではなかったか?と推測しています。

熊野信仰が仏教と強く結び付くのは、北燕の亡命王族で高句麗とも姻族関係か同族関係だったと思われる馮公一族が出雲から熊野に入植した辺りと考えます。高句麗や北燕を築いた民族は、黄河文明の影響下にあったチベット高原に移り住んだ東魚是人を祖とする集団で、都怒我現人とヤマーンタカの信仰を結び付けたと考えます。

紀元前から列島に移り住んだ春秋戦国時代の呉人の信仰が下地にあり、その上に魏晋南北朝時代の初期チベット仏教化した東魚是人の信仰が被さったものだと思います。馮公一族が継体天皇となって橿原入りした時に奈良盆地一体がヤマーンタカの都・大和と呼ばれる様になったと勝手に考えています。

それにしても、山岳信仰と結び付いた権現信仰には、何故か暗い怨念を感じるのです。
3990
返信する
蘇我氏は安閑天皇か宣化天皇の子孫? (禮月)
2016-05-20 09:41:06
安須賀神社と蘇我氏の出自は、恐らく父方か母方のうち片方が北燕馮公と高句麗の亡命王族で、安閑か宣化の子孫に繋がる血筋かな?と考えています。蘇我馬子・善徳共に大王(天王)としてヤマーンタカ(大和)王朝の主権者だったに違いありません。蘇我善徳か入鹿の息子が大海皇子と中野大兄皇子兄弟で、後に列島に進行した武則天勢力と戦うのでしょう。

記載途中
9346
返信する
禮月さまへ (りひと)
2016-05-20 10:16:08
地震が少し落ち着いてきたので情報送ります。
高倉福信さんがヒントになるかもしれません。調べてみてくださいね、その人ごとにピンとくる内容が違うと思いますので。武蔵とも関連ありますし、また高麗というお名前を本人が返した?との表現がウィキにはあるようです。もしかしたら、奈良と武蔵そして継体さんを繋ぐかもしれません。

そうだ昨日穴太と似ている地を福岡で穴生で見つけました。石つみの方々。因みに滋賀県の大津は穴太、福岡は穴生でして大津という熊本の地名もあります。

また生でオと読むのか?これ柿生もどうですし、仙台には桃生という地名もありますよ。生きるを使った民族が福岡、武蔵、仙台にいた可能性もあります。全て金属に縁があります。福岡は八幡、武蔵は鉄(くろがねと読みます)や鉄神社、仙台は黄金山の対岸だったように思います。橿原にもあるのか?少し気になる地はありますし、金屑は古墳から出てきてそうにも。

吉田様へ
地震の地、美里町に神社が何件かあり火事で歴史は分からないようですが長野のつく祭神さんがいるようです。熊本と信州の関係気になります。
宇土半島は境界?宇土と宇城。熊本城に移築したお城もあったとか?石垣の観音さまが隠れていた訳はも気になります。
5846。今度は違う記事の逆の数字で8と4が内側で5と6が外で囲む。

男っぽい縦の糸5と6と女っぽい横の糸8と4、そのクロスなのか協力なのか?それが熊本にはあるように思います。私の中では足と手です。どちらもないといけない難しい地だと思います。
身体を第一に、熊本をどうぞ宜しくお願いします。
返信する
元は同じ魚是人で繋がっている忍骨と馮公 (禮月)
2016-05-20 14:20:04
忍骨命と馮公は生きていた時代に千年もの時差があるけれど、両者の片方のルーツを辿れば同じ魚是人に辿り着くと考えています。やはりこの両者が信奉していたのは、理性的でありながら無慈悲な水牛の破壊神だったのでは?

継体天皇を排出した馮公の子孫である蘇我氏は当初大和に都を置いていたもの、大王・大海皇子の時代には唐の武則天勢力に追われて大津に遷都したのだと思いました。息子の大津皇子は元来大角皇子だったと思います。
後に天武天皇を名乗る唐王朝の李一族の誰かと、その妻の鵜野讃良姫(すずたま様のお嬢様曰く、色々なものが被さっていて気持ち悪い存在)

未だ未だ続きます。
4721
3762
返信する
続きです。 (禮月)
2016-05-20 21:03:14
馮公の子孫である継体は、忍骨の末裔にして都怒我現人の化身である事も名乗ったのかもしれません。

ここから先は、天武・持統両天皇の正体に関する、全くの個人的な推論です。妄想に近いものなので読み飛ばして頂いて結構です。

天武天皇の正体ですが、その人物こそ高宗ではないでしょうか?理由は、天皇という称号を初めて使ったのが彼だからです。半島全土の呉人・チベット系魚是人の王朝を滅ぼした後で偽周を名乗り、今度は列島の呉人・魚是人国家を滅ぼしにかかります。その時のヤマトの天王が蘇我蝦夷だったと推測します。天武も日本史上初めて天皇という称号を用いたので、もしかしたら列島は、唐に占領されたのではないか?と考えています。

鵜野讃良姫も武則天その人でしょう。
彼女は百済の再興を願う鎌足に取り込み、高宗の皇女の一人と結婚させて、唐の外戚にして百済の再興を援助してやるとでも言ったのでしょう。それからの鎌足は唐王朝の言いなりになり、その嫡男不比等は唐の外戚として武則天の言いなりになったのでしょう。もしくは武則天の後ろ楯を良いことに、好き放題列島内を引っ掻き回したのでしょう。

すずたま様のお嬢様は持統天皇の事を「男の天皇」と仰っていましたが、持統天皇こそ藤原不比等だったりして・・・

まあ、これらは個人の勝手な妄想です。
話は変わりますが、雄略天皇と武烈天皇も大陸的な残虐性と苛烈性を感じさせます。
雄略天皇の実績は、ほぼそのまま古事記と日本初記の神功皇后の実績に当てはまります。雄略・武烈両大王も「北魏」を建国した拓抜氏の息が掛かった人間だったかもしれません。
そもそも崇神朝と半島の高句麗と昔氏新羅は同族です。同盟関係にこそあれ、敵対する理由は乏しいのです。

りひと様の為にも少しフォローを。
不比等は内心、武則天の言いなりになる事をよしとしていなかったかもしれません。けれどもその妻も、例えば唐の皇帝・皇后一族だった場合は唐に飲み込まれて行くしかなかったのでしょう。
7085
1232
返信する
弘法大師の縁日なので (りひと)
2016-05-21 00:46:49
今日の朝7時ごろに和歌山県で地震がありました。【和歌山県】紀美野町。
どんなところかと思って出てきたのは、十三神社。十三です。
で少しだけ覗いてみたら十二神にプラスして十三番目の神大山つみさんが。
そして由来をみたら伊予の河野氏が関わります。この5/15に鶯谷の元三島神社のお祭りで寄らせて頂いたこちらと同じ河野氏です。こちらの由緒の足の付く方がまた興味深いこと。姫二人が雷神と龍神。
和歌山の方は河野さんは霊鳥を大山つみさんの使いだと判断しての行動のようです。

またこの神社の境内社がなかなか良くて。丹生さんもいましたが、もちろん高野山とも関係ありますし凄い所です。

また生が付く地名シリーズまた発見しましたが、水銀の地がありましたね。丹生です。
同じ金属に関わる一族の関係する地が生なのでしょうか?

熊本には、天皇陛下と美智子様が土地の神はほっとしたはずです。

東京は本当お恥ずかしい事態です。ただここも問題は彼一人の知識ではないはずです。取り巻きも含めてみていかないと!また古代からの繰り返しになりそうで危機意識を持って、視野を広く見たようが良いと思いますね。マスコミも立ち位置が国民寄りになりしがらみからの情報を制御せずにオープンになってきています。

ルールを作らないで済むのは、立場と責任と品格と自己の正義感信念があれば故。ただ日本にもルールなくてスムーズにいっていた時代に戻るには教育が必要。教育が出来なくて、ルールがなく野放しには本当情けなくなりますね。外国人さんはどう思うのか?改善策を質問した外国人記者さんがいましたが、答えてもくれない。そのまま放置というのは日本でもいかに危ないのか?何か手をうたないと。タイムイズマネー!お金なら戻してもらえばいいけど、時間こそ一番のダメージです。都合で続投、法さばけないからって、日本で常識ならばそれも疑問です、外国人からしたらあり得るのかなあ?熊本をはじめ全国の方に申し訳ない、辛いです。4855!5491

不比等は相当オロオロして神社周りしていますよね。不比等は好きではないですが、彼の動きがヒントになりますのでよくみてあげようか?迷う所ですよね。味方になるかならないかでしょうね、疑ってかかります。琵琶湖の東は不比等さん出没ポイントです。5491
返信する
菊池氏の「日足紋」がチベット・ラサにあった (すずたま)
2016-05-21 11:04:25
菊池氏の元々の紋である「日足紋」が気になっていました。(その後阿蘇氏との関わりから「丸に違い鷹羽紋」に替わる。)
どこかで見たと思ったら、チベット・ラサの仏教寺院の屋根にあるシンボルで、その中央部がこの太陽から八光が放射される形でした。さらのその真ん中の太陽部分は二つ巴(≒鯰)となっています。
このシンボルは、鯰系(農耕漁労系)と鹿系(遊牧系)の連合部族のしるし、と榎本・近江共著の本「古代は生きている」では考察されていることは、以前「鯰」関係の考察でコメントしました。
画像はこちらで見れます。
中国 青海・チベット・雲南省 6000キロの旅~チベット自治区 聖地ラサ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tanzawa/rasa/seitirasa1.html

菊池氏のルーツがチベット高原にあることの証になり、「青蔵~青海 → オウミ王朝」に一歩近づけたかな?と思っています。
このオウミは菊地では「生味」であり、りひとさまの云われる「生」にも通じ、産鉄・産銅部族である「青の一族」(谷川健一氏)に通じ、古代オウ(多)氏にも通じるかと思っています。
多氏は高句麗から来たという説もありますが、正確にはチベット高原ルーツかも。

菊池氏HPには菊池氏嫡流に伝わる物品のひとつとして「三足鳥」が彫られたものもあり、中国の青蔵~青海地域が高句麗とも繋がっていることを思わせます。

HPでは、狗奴国とは九州の熊野(球磨)地域であり、狗奴国の大王「日見弓子(卑弥弓呼)」や狗奴国の官「鞠智日子(狗古知卑呼狗)」を菊池氏の先祖ではないかと考察されています。
鞠智城からは千手観音が発掘されているそうです。
卑弥弓呼の弓の字に、太陽を射る神事を行う巫覡王を感じています(中国に射日神話がある)。これは高句麗建国の朱蒙もそうだったようです。
熊野信仰は、狗奴国の東遷により紀伊の熊野に伝わったとHPでは考察されています。

ところで禮月様の天武朝の大胆な考察は、もしも本当だとしたらすっきり流れが理解ができますね。
今後とも叔母様とのコンビで真実の古代史を明かされていかれますように。
新来のハチ族が具体的に誰なのかについて、想像はしますが私にはつかめきれていません。

日本を潰したい勢力は古代から続き、大津皇子を刑死させた(自害を強要した?)のは仏魔の形で侵入した武則天勢力だったが、時を経て大戦前には共産勢力として、大戦後は社会党左派の「極左」勢力として、オルグを国鉄や報道機関に配置し、「」団体を教育の場に潜り込ませるなどして日本のアイデンティティを破壊する=古いアイデンティテイから「解放」してあげる策に出て、功を奏した。
ゆうべ変な単語が夢うつつに・・・「和同開珎」何のこっちゃ??最古の古銭と学校で習ったあの「わどうかいほう」、かいちんとも読む。和銅が秩父で採れ、朝廷に献上されたので和銅の年号が創始されたという。
ときの天皇は元明天王。藤原氏が力をふるっていた。和銅年間に注目せよのメッセージかな?あるいは和銅そのものに?ムカデが祀られる秩父の神社。
わどうかいほうで和同解放と変換された。・開放だ(笑))
9440 7561
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兵庫県相生市 (禮月)
2016-05-21 13:18:46
兵庫県相生市も「生」が付きます。
相生の相は藍染の藍ではなかったのかな?と思いました。藍色も青に色が似ています。青蔵高原の澄んだ鮮やかな快晴の空を連想させるかもしれません。

相生市には、蔵王権現こと安閑天皇の遺児が秦河勝であり、彼に纏わるエピソードもあります。河勝という名前が何となく河童や盤古を連想させます。伯母曰く、秦という漢字の意味は「渡来人の総称」との事なので、河童に起源を持つ渡来人という意味かもしれません。事実河勝は、聖徳太子(蘇我善徳で真の推古天皇)の元で活躍しています。

青の一族とは、チベット高原に移り住んだ魚是人をルーツに持つ、原始チベット仏教を進行する「伯母が言う所の意味での秦人」の集団で、高句麗、北燕、継体朝の天王達、蘇我氏の事を示しているのでしょう。

また、百済の七枝刀に刻まれている「ワカタケル」は雄略ではない、別の大王だという説もあります。雄略の没年と倭人武の没年が合わないのだとか。
9667
6761
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伯母が教えてくれた「百舌鳥井」という言葉 (禮月)
2016-05-21 15:35:33
昨晩の夢で伯母が私に「百舌鳥井」と書かれた紙を渡してくれました。そして目覚める直前の夢うつつの間で見えたのが、過去の夢に出てきた小亀の下半身が宙に浮いている場面だったのです。

百舌鳥井の読みはもずいでしょうか?
その様な地名はありますか?
3163
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生? (りひと)
2016-05-22 03:01:17
いったい何なのでしょうね、生とは?相生で藍生で藍が生きてる地ってなんか素敵ですね。奈良関連で調べているとどうしても兵庫に行ってしまう今日この頃、約束の地も多分、ここだと思います。

ということでこの地も両方いるので注意が必要です。生田って地名もありますから生ってもある意味の安全確認になるかもしれませんね。

そうそう秦さんですが私はあまりなのです。今自分のルーツ探しで探している卑弥呼さんは3世紀には亡くなっている。
秦さんは6世紀(早くても5かとも)。
祖母がお蚕さんとも縁があり布という視点からももっと早い時期に布との縁が日本にないのか?と。織姫さんは水神でもありもっと古い時代を探っています。
秦さんも布をうず高くとかで太秦でしたっけ?そうそう、蜂岡寺と河勝さん。ということで私の中では元蜂さんでなく逆では?と考えています。
そもそも伏見にいる田中の神をゴールに考えているので伏見の立役者の河勝さんも少し違和感感じています。

それから蜂岡寺もそもそもあそこに移動してきたみたいだから元にはその土地の歴史がすでにあったはず。弥勒ってのも苦手で薬師ならいいですが。

また蜂岡の関連だったかで面白い方発見しました。行基のお母さんの実家が蜂が付きそうでお父さんと言われている方が高志とか?高志は出雲風土記でも出てくる金属を扱っていたかもしれない当時の最先端地域です。現在もですね。父方はいいとして母方のお父さんの一族がとても気になってきました。まだまだ無名でも凄い方がいっぱいいるようですよ。自分のワークなのでゆっくり進めます。

叔母さまの言葉ですが、大仙古墳の辺りの地名ですよね?井というのもとても意味があるのでしょうけどまず三文字であそこだなあと。

今日奈良の勉強で島の山古墳について講義を受けていたのでその中で数カ所の古墳群をどの勢力とかエリアとかで丸をして見ていた所だったので。

私も以前からここはたぬきときつねと共存している地だと思っていましたのでここで蜂が2種共存しているんだと思います。私の解釈ですので表面的にかするぐらいにしてくださいね。私はたぬきがなつく蜂を見つけよう思います。

そうだ、あと弓の件ですが鳥とも縁がありますね。厳島神社も使いは鳥ですから。^_^先程大田原をアド街でやっていましたね。田原って私の中では好きな蜂だと妄想しています。那須与一その筋かと。ふげきですよね。
今日のお話の島の山古墳も田原本町の割と近くです。また、島とか嶋とか付くのも同じイメージがありまして。今日行くまで島じゃなく鳥の山だと思っていまして、また島じゃんと。おまけにTVでは女芸人の大島さんの故郷が大田原!鮎がいっぱい冷凍庫にとも。鮎とも共存田原と島って何か引き寄せられるのか?って思っています。人間ウォッチにすぎないですが。

で本題ですが、熊本の俵山もふげきに因む地ではないかと考えています。縦ズレが起きて横ズレを止めてくれたのかも?と。実際は神がどうだとかではなく地質や地形の自然の現象でしょうけど古代の方は神と思っているはずですし。
田原も俵も字ではなく音が大事。たばるかもしれませんね、南九州では。藤太は、繋がりでムカデや将門倒しちゃうんです。その筋の方しか出来ない事です。ミナカタさんもこの先祖では?と考えています。 東国原さんも東京と関わってもらいたいくらい。島と原は今私のお気に入りの名前です。島原も火山もあり大事な地でしょうね。島の根っこで島根。

高麗のふくしんさんとの関係者にも島足さんがいて、さらに田村麻呂さんとも接点があるようです。奈良と青森と東北と武蔵も接点はありそうですね。3309

熊本も東北福島も被害者です、日本全国のひずみがたまたま出てしまった。各地にそのヒントが日々起こっているのを捕まえていこうと思います。裏のある人間よりも理解しやすいとも思います。ヒントになる部分のみ利用して頂けたら幸いです。5838
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呉氏骨様は (禮月)
2016-05-22 18:01:10
私が一昨日ネットで見た古代東北アジア史を、後漢書東夷伝や隋書倭国伝、晋書等比較的中立的な視点で書かれている史料を元に考察されているサイトに「昔氏新羅は502年に高句麗に吸収されて、一旦新羅は滅びた。503年からは南方にあった狗加耶韓が北上して鶏林国を建国して、鶏林新羅と名称を変えて668年まで存続した。」とありました。更に高句麗と合併した昔氏は馮公とも合流して列島に永住したとあったので、その時に呉氏骨も北燕・高句麗仏教化して蔵王信仰や御嶽山信仰になって行ったと考えます。
役小角にも引き継がれていそうな気がします。
長野・岐阜県境の御嶽山、山形県の蔵王山そして西東京と埼玉県の御岳山等に呉骨の信仰が隠されて残っているかもしれません。
京都の八坂神社・祇園信仰にも呉骨の信仰は吸収されたのでしょうか?

502年といえば倭王武が没した年という記録が大陸側に残っている時です。倭王武の正体は昔氏の大王で、呉人の国の王だったかもしれません。雄略天皇とする説が定説ですが、仁徳天皇も二人いたとする説も割りと前からありますし、伯母も「応神天皇の孫の仁徳と、雄略の叔父の仁徳は別人」と言っていたので、いつか定説がひっくり返る日も来るかもしれませんね。
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蘇我氏について伯母から報告がありました。 (禮月)
2016-05-22 19:22:29
タイトルの通りです。
伯母から蘇我氏と日本の天皇の皇統に関する衝撃的な報告がありました。

伯母曰く、蘇我連子(伝・611~伝・664)が本当の中野大兄皇子で天智天皇、連子の弟・蘇我安麿呂(伝・623~伝・671)が大海皇子で皇統上天武天皇とされている「總持天皇」この總持天皇は皇統から外されています。そして連子の嫡男の蘇我果安(伝・648~伝・672)が大友皇子で明治時代に入り、明治天皇より「弘文天皇」を追尊されています。總持天皇の孫の大津皇子(683~686)が則天武后に処刑された事により、継体天皇に始まった「大和・大津朝」は終焉したと言っていました。

伯母は便宜上、継体・蘇我王朝を大和・大津朝朝と呼ぶと言っています。

これは伯母が言っていた事ではないのですが、継体天皇ことオオド皇子も自らを「牛の子と名乗っていた」との説を最近知ったので、伯母の話を加味すれば継体天皇は自らを呉人である崇神朝の後継者を名乗っていた事になります。
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追記です。 (禮月)
2016-05-22 21:11:47
伯母は、蘇我安麿呂とは蘇我赤兄の事だと言っていました。赤兄とは、皇位継承順を示す肩書きだとの事ですが、高句麗も確かに似た様な肩書きがあった筈です。

中野大兄皇子の大兄と蘇我赤兄の赤兄は、高句麗(チベット系魚是人)の皇子達に与えられる称号と同じ様です。

則天武后の名前を見て思い出したのですが、この名前には「天武」の文字が入っています。
藤原不比等は、則天武后からその名前を与えられれて、天武天皇として唐の一領土となってしまった倭国を支配して行った・・・
等という妄想が出来てしまいました。
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蘇我王朝は継体王朝の一環 (禮月)
2016-05-22 23:33:00
連続投稿をごめんなさい。
日々の責務があり、投稿も途切れ途切れにしか出来ない状況なのです。

蘇我氏一族について伯母は随分多くの事を語ってくれました。

蘇我氏は、れっきとした継体王朝の天王達であり、欽明天皇とは蘇我高麗の事。敏達天皇が蘇我稲目で崇俊~推古朝が蘇我馬子と蘇我善徳2年目の治世迄。無論蘇我善徳は聖徳太子の事。舒明元年から皇極三年(西暦645)迄が蘇我善徳の治世。善徳の子・入鹿が考徳・皇極天皇で654年~661年、入鹿の子の連子が斉明・天智天皇で661年~664迄。天智天皇は白村江の戦いでの負傷が元で亡くなったとの事でした。

豊障は中臣鎌足の事で、唐の高宗の捕虜になった後釈放されて再び列島の地を踏んだと言っていました。

この所、伯母が色んな事を語ってくれるので、余り寝た気がしないのです。勤務先が遠いという事めあり、普段の睡眠時間も3時間半位しか無いので寝不足です。(苦笑)
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これが事実 (すずたま)
2016-05-22 23:36:49
兄:天智天王=中大兄皇子=蘇我連子 → 子:弘文天王=大友皇子=蘇我果安
弟:總持天皇=大海人皇子=蘇我安麿呂=蘇我赤兄 →→ 孫:大津皇子

大友皇子も天武~武則天勢力に追い詰められ、滋賀の山中でひっそりと自害しています。これも強要されて首を吊ったという説を読んだことがあります。
武則天勢力は歴史書を編纂し大海人皇子=天武にしてしまって「日本解体」に邁進。

衝撃的ではあるが、これこそが隠された歴史の核心部分なのでしょう。
整理し実証していくことが必要ですが、これはもうすでに我々を状況証拠に近い場所にいざなってくれています。
禮月様の叔母様、ありがとうございます。

何のこと?の和同開珎ですが、元明天王の世に秩父の和銅(純度が高く精錬を必要としない自然銅)の献上によって和銅改元がなされ(701年)、和同開珎が発行されます。
これは621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じらしい。時代は武則天の日本進出の頃ですから、全国に通じる貨幣の使用は列島制覇の手段のひとつでもあったかも?
天武の遺志を継いで持統により確立したとされる大宝律令も、701年(和銅元年)に発布されています。
あるサイトから
・・・大宝律令の官制は中国にならったと言いながらも、その採用方法は、完全なる世襲制で、100%コネの世界であった。中国には科挙(かきょ)と呼ばれる超難度高い試験があって、その成績によって官人への採用や登用が決められていたが、これまで、中国にならっての中央集権をめざして来た朝廷として、大宝律令はそれに逆行するものであった。ひょっとして、逆に、勝者の歴史によって消されてしまった668年の天智天皇の近江令には、この科挙のような試験採用制度のような物が含まれていた可能性はないか?・・・(引用以上)
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聖徳太子=蘇我善徳で、その子が入鹿・・・ (すずたま)
2016-05-23 00:05:11
自分の投稿と前後してあらたな叔母様情報が。
そしてその入鹿=孝徳・皇極天皇・・・
ひっくり返るような話ばかりで頭の整理が必要です。
しかし夢の中の話をよくここまで・・・驚異的な記憶力ですね。
私も人手不足の中、連日の加重勤務で寝不足です。頑張りましょう・・・
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本当はもっと色んな事が (禮月)
2016-05-23 01:34:56
蘇我氏と継体朝の天皇の対比ですが、伯母が夢の中で紙に書いて見せてくれたものだったんです。

本当はもっと色んな事が書いてあったんですが、そちらは失念してしました。(確か陵墓の場所と誰の子孫が今どうしているかとかだったと思うんですが、覚えていません。)

この事をとにかく伝えて欲しいと伯母は言っていました。

武則天は度量衡すら列島に強要したみたいですしね。

りひと様へ
群馬県にも相生という地名があったと思います。

百舌鳥の付く地名は確かに大山古墳(昔は仁徳天皇陵)と言われていた古墳ですが、伯母の話では仁徳天皇は二人いたとの事ですから、どっちの仁徳天皇の陵墓なのかな?と疑ってしまいます。

最初に出てくる仁徳天皇は、民の暮らし向きが良くなるまでは自らも極めて質素な生活をしたとの事ですから、あんなに大きな陵墓を建てる事をよしとしなかったんじゃないかな?と思います。
伯母が言う所の二人目の仁徳(雄略の叔父)の陵墓ではないか?と思います。雄略の叔父は一人目の仁徳(応神の孫で仲哀の嫡男)を殺害して自らが仁徳天皇を名乗ったとの事ですから。
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訂正ありです。 (禮月)
2016-05-23 01:53:08
ごめんなさい。
蘇我氏の系図に訂正があります。
電車の中や歩きながら書いていたので…

誤)入鹿の子連子
正)入鹿の弟連子

入鹿も連子も共に善徳(聖徳太子の子)だと言っていました。この二人はとても年齢が近かったのだとか。
そして二人の異母弟に蘇我赤兄(伯母曰く安磨呂で大海皇子)がいたとの事です。

すずたま様
昼夜の温度差も大きいのでどうかご自愛下さい。

吉田様
熊本は夏日と聞いております。ご体調を崩されぬ様にご自愛下さい。吉田様は列島の祭司に必要不可欠なお方です。
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柄杓 (りひと)
2016-05-23 12:32:49
ちょいお邪魔がきてるよう消えちゃいました。そこで忘れない為、少しだけ。
産山に柄杓に関連する阿蘇神社があります。ここが気になります。柄杓奉納額ってのが兵庫の相生の金峯神社にありそうです。相生の松が由来の群馬の相生には愛宕さん(柄杓とは関連なさそうですが)。相生の松に関連する地は兵庫と祖母のふるさと群馬と妹背の松としては父のふるさと山形も関連あるのか?

柄杓といえば北斗七星、水と関連、全国の神社仏閣の必ず関わるキーワード、祓いの意味もありそうです。以前聖徳太子の笏にこだわりましたが柄杓とはどうなのか?そこだけ書いておきます。
阿蘇の母は、兵庫に行っていそうには思います。

禮月さまへ
ありがとうございます。群馬桐生は嬉しいです。やば、桐生も桐が生まれる地で生付きますね。
井にこだわって水神探ろうと産山調べました。産山ですから出産に関わる水で産湯で柄杓が出てきましたが、仁徳って?
私イメージでは仁徳さんは自分の周りの状況をある程度把握していていたたまれず辛い迷いのある人生だったのではないか?思っていました。なので該当する方が二人というのは超納得しちゃいます。おまけに古墳は大仙古墳と。自分が学んだ時とは違うように今では教科書に。そしてまた戻すというしがらみもあるようですね。
どっちでも良いのですが、私は行きたくないかと。大物主命がいたらその対角の立場で悩んだし執着はなかったのでは?と。仲哀さんにイメージは近いです。
今考古学にかなりはまりつつありで、大昔、マヤやインカやアステカに行きたいと思っていたのを思い出しました。
物的証拠は、考古学しかないようで。
禮月さまは、やはり本当の巫女さんですね。どんなびっくりな事も全て受け入れます。鎌足さんの事も捕虜から戻ってきて千葉なのかもしれませんね。フツさんを救い出したいと思っていたのと少しかぶるかなあ?個人の思惑は排除して全て目の前にあることと本物の巫女さんのメッセージに従います。7709、6733
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伯母曰く曖昧な部分もあるとか・・・ (禮月)
2016-05-23 12:43:59
すずたま様
先日投稿した蘇我王朝の系図ですが、伯母曰く「ラジオから流れてきた内容を書き取ったから、曖昧な所もあるわ」との事です。(何故ラジオが?)

「大津皇子は赤兄・總持天皇の嫡男だったかもしれないわ。ラジオの雑音で聞こえなかったの。」との事です。

更に伯母は、百済王孫の藤原不比等の子と高宗と則天武后の娘(公主)との間に生まれた息子が文武天皇、文武天皇の即位には未だ存命していた則天武后のゴリ押しが強かったとの事です。藤原不比等の事はハッキリと百済王孫と言っていました。

(そうなると文武の母、元明天皇は高宗と則天武后の娘って事になってしまうんですが・・・)

列島は唐の外戚扱いで、事実上唐の衛星国になってしまったとの事でした。

仮にこれが事実だったとしても、宮○庁は絶対に認めないでしょう。だから古墳の発掘調査をあそこまで頑なに禁止しているのかもしれませんね。

けれども伯母は「大和・大津朝の生き残りは男系・女系共に続いている。ちかいうち蘇我王朝の存在を認めないと、列島の祭祀は大変な事になるでしょうね。」と彼女は言っていました。
3644
2214
呉音神も喜んでいる?
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本物の巫女は伯母です。 (禮月)
2016-05-23 15:17:17
りひと様
本物の巫女は伯母です。
私はただ伯母の言っている事を、覚えている範囲内で書いている迄です。
何だかこの関係は、卑弥呼と弟の関係にも似ているな、なんて思ってしまいます。(笑)

群馬県の方は桐生でしたね。間違えました。スミマセン。
相生という地名は、岐阜県や愛知県、あと四国と北海道にもありました。
蘇我氏の一族は、マイナー説で四国にも逃げ延びたらしいですから、四国にもひっそりと末裔の方がいらしたりして。千葉県には藤原不比等に追われた蘇我氏の伝承がありますね。事実に千葉県には蘇我という地名がありますし、曽我部さんや蘇我部さんという方が多いですから。

柄杓と北斗七星!
蘇我氏と結びつける様で申し訳無いのですが、四国を支配していた長宗我部家の家紋も7枚の花弁のカタバミだったはず。
長宗我部家は、大和・大津朝(あくまで伯母の話では)の末裔を名乗って四国入りしたのかもしれません。
相模国も平安時代には「宗我部国」と表記されていたから、大和市の起源も蘇我氏から来ているだろうていう説を唱えていらっしゃる方もいました。(何故か行政側がこの説を必死で否定しています。)川崎市には柿生と麻生があります。

すずたま様
やっぱり女帝とされている持統天皇の和名の「鵜野讃良皇女」ですが、他の天智天皇の皇女達の名前から見ても浮いています。複数の人物の共同名義みたいな感じで、実体が感じられないんですよ。でも実績だけはしっかり残っている。白村江の戦いでの敗戦で荒廃しきっていた筈の倭国を復興させる所か、天皇の後継者争いに勢を出す始末ですから。だから私には鵜野讃良皇女を唐の高宗と武則天、そしてその皇女達の共同ネームとして解釈しています。つまり鵜野讃良皇女は唐皇帝一族の進駐軍みたいなものを表す名前なんだろうな、と。
仮に鵜野讃良皇女を高宗と武則天の娘としても、ギリギリ年齢は合います。(武則天は最後の娘の太平公主を43歳という、当時としてはとんでもない超高齢出産でもうけています。太平公主に年子の同母姉がいたとしても不自然ではありません。事実日本国内では、太平公主以外の皇女の生年や嫁先は未詳ですから。)
「鵜野讃良皇女」を強引に天智天皇(蘇我連子)の皇女として家系図を書き換えたのでしょう。大海皇子こと蘇我赤兄の即位名である總持天皇を皇統上から削除。そして藤原不比等を大海皇子の場所に持って来て天武天皇としたのかもしれません。

大体大きな戦争があった後で、男子の皇族がいなくなるという事は、王朝が途絶える事になります。一人でも多くの男性皇族を生存させないといけない筈なのに、自分の異母兄弟達はおろか、自分の生んだ皇子以外の王朝の達を謀殺するなんて、自分で自分の首を締める行為に他なりません。愚の骨頂です。暗君の極みですよ。
これじゃ、どさくさに紛れて唐に列島を割譲します!と言っている様なものですから。
8755
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弘文天皇の血筋は十分です。 (禮月)
2016-05-23 18:25:13
弘文天皇が天武天皇に討伐された理由に、母方の後ろ楯の弱さを上げていますが、これも不自然な所だらけだと思います。
弘文天皇の生母は早世したとは言え、天智天皇の第一皇女の太田皇女です。伯母は太田皇女の事を連子(天皇智天皇)の同母兄である入鹿(考徳天皇)の皇女だと書いていました。(太田皇女ではなくて生田皇女や青田皇女が正しい表記だったり)先帝の皇女という、文句の無い身分です。

日本書記の系図では、太田皇女と鵜野讃良皇女は同母姉妹ですから、母方の身分からすれば鵜野讃良の息子の草壁皇子と太田皇女の息子の弘文天皇は、全く同じ筈なのです。

まずここが不自然です。

もう一つ、弘文天皇の同母姉が伊勢神宮の齋宮だったからとされていますが、弘文天皇生存中は「伊勢神宮」という神社は存在していません。奈良時代まで伊勢には簡素な磐座があっただけで、神社の形を取るのは平安時代以降です。この部分は明らかに平安時代以降の加筆でしょう。宇佐神宮なら有り得ます。宇佐神宮は、明治時代前までは、伊勢神宮よりも皇族の崇敬が篤かったのです。皇族の方々が伊勢神宮を参拝するのは、明治時代以降の事なんですよ。

姉が宇佐神宮の女神官長で弟が王なら、正に理想的な祭祀と政治の組合わせです。巫女の姉妹が王の兄弟を霊的に守る、大物主の祭司も古くはそうだった可能性がありますしね。大日霊女と都怒我現人の関係もその様な関係だったかもしれません。

太田皇女と弘文天皇のエピソードは、倭姫と日本武尊のエピソードと酷似しており、どちらも共に平安時代以降に書き足されたと推測しています。

蘇我善徳(聖徳太子・推古かつ舒明天皇)、蘇我入鹿(皇極・考徳天皇)、蘇我連子(本物の中野大兄皇子・天智天皇)、蘇我赤兄(本物の大海皇子・總持天皇)、蘇我果安(本物の大友皇子・弘文天皇)そして大津皇子は、列島を唐に渡すまいと必死に護ってくれた方々です。この方々の祭司に力を入れる事はとても大切な事だと思います。

何故か伯母は蘇我果安の事を、とても気にしていました。
5848
2148
共に48が続いていますね。
呉音神も賛成してくれているのでしょう。
返信する
ああ、またしても (禮月)
2016-05-23 20:50:45
やってしまいました。
私も伯母がくれた情報に消化不良状態なんですよ。

大友皇子と大津皇子がごっちゃになります。
お二人とも似た様な非業の死を遂げられていますから。蘇我果安が気になると言う伯母の言葉も頭に残ってしまって・・・
伯母情報ではありませんが、蘇我氏の家系図も後世にかなり変えられているとの事なので、彼女も混乱したのかな?なんて思います。
9143
返信する
吉田一氣 (りひと様への返信)
2016-05-24 08:16:30
相生が相生の松に繋がるのかは
良く分かりませんが
阿蘇神社の相生の松については
『謡曲 「高砂」の意味するところ No032』
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/bd5da513498c0e267ad119585ed95b90
というブログを記載しています。

参考までに
返信する
吉田一氣 (禮月さまへの返信)
2016-05-24 08:27:50
蘇我果安ですか。
果安については大倭忌寸果安 他に
出雲果安や大野 果安などが
この時代にいるのですが
蘇我果安ってとても気になりますね。
返信する
禮月様へ (すずたま)
2016-05-24 08:31:24
「ラジオ」とは、真実を記録するソースのある場所に叔母様は周波数を合わせる(チャンネルを合わせる)ことが出来て、そこから聞き取っている、ということなのでしょうね。
叔母様が示して下さった粗筋とか外枠みたいなものを、どう咀嚼し、周辺事情や周辺人物との相関を把握し、系図などを含めて公に示せるような説得力あるかたちにできるかは、相当大変な作業になり、力量を要しますね。
ただ、継体朝の成立については、わずかながらいくつかのヒントがすでにあります。
そこに高句麗の興亡と、北燕は、たぶん絡むのでしょう。
叔母様が蘇我果安(=大友皇子・弘文天皇)を重要視されていることも気になります。
大友皇子に弘文天皇の名を与えられたのは明治天皇なのも、意味深そう。

今朝ふとなぜ「弘文なのだろう、と思いました。
連想が過ぎるかもしれませんが・・・継体朝の成立には北燕の馮弘(馮公ではないです、馮氏の弘です)が深く関わるはずと思いますが、「弘」の字が気になっていたのです。
志賀海神社のある志賀島に、「弘」という地名があり、古代の港があったようです。地名としてはあまりないので、何となく気になっていました。(私はいつもなんで気になるの?というところからはじまっています)馮弘はここにも来たのではないか?と。馮弘はキラキラ系のペルシャ系、かつ赤と金を重用する仏教を日本に伝えますが、その形跡は藤の木古墳に残っています(りひと様のお父様がキライな赤と金です)。青蔵高原系にペルシャ系が合流したのでしょうか?また書きます。
返信する
果安という名前 (禮月)
2016-05-24 14:43:21
壬申の乱の時に大友皇子の側の将で「大野果安」という人物がいました。日本書記上は大海皇子と大友皇子が対立していて、大友皇子の側に蘇我果安がいた。蘇我果安は大友皇子を裏切ったが戦に勝った大海皇子に賜死された。とあります。

一方の大野果安の方は、大友皇子の側で蘇我果安と共に戦っていたが、大海皇子の将大伴氏を討ち取るも討ち取るも、京に入る前に引き返してしまいます。壬申の乱後は天武天皇となった大海皇子に重用されて、その子は多賀城建設をして蝦夷平定をして行きます。

蘇我果安は大友皇子を裏切ったが、天武天皇からも戦犯として処刑された。

一方の大野果安は大友皇子を裏切って天武天皇の側に味方して、天武政権で重用された。

同じ果安なのにこの違いは一体何故?

伯母曰く「蘇我果安イコール大友皇子で弘文天皇」との事ですから、蘇我果安という人物は蘇我王朝を悪の存在にせんが為に、真の裏切り者(あくまで弘文天皇の側から見て)の大野果安の所業を弘文天皇に被せた。仮面の様な存在ではないか?と思いました。

何故か、この大野果安と蘇我果安の「壬申の乱で対照的な末路をたどった二人の果安」について考察している人がいらっしゃらないのです。

そう言えば「おおとも」も天武天皇側の将で大伴氏がいます。二人の「おおとも」と「果安」。壬申の乱に関する日本書記の記述にも様々な加筆や細工が施されていますね。

1870年(明治3年に)明治政府は明治天皇の命により、大友皇子に弘文天皇を追尊します。すずたま様の仰る通り、弘文天皇の弘は馮弘の弘だと私も考えます。明治天皇は弘文天皇が馮弘の子孫である事をご存知だったと思われます。更に明治天皇は、ご自身が天皇に即位された時に、真っ先に大宮の氷川大神宮へ参拝されています。伊勢神宮ではなくてです。スサノオと馮弘の関係をご存知であるかの様に・・・
ただ明治天皇は、天武天皇と蘇我一族についてはどう思われていたのでしょうかね?消された總持天皇の事も。

伯母の話では、「宮○庁も蘇我氏の王朝である大和・大津朝の存在を認めないと、今度こそ日本は国難を切り抜ける事ができなくなるわ。色んな悪いものが入って来てしまう。」との事です。

いち早く蘇我氏の慰霊に目を向けられた吉田様のご慧眼は素晴らしいと思います。
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天智天皇の系図も不明です。 (禮月)
2016-05-24 16:38:33
天智天皇の皇后は倭姫王で、日本書記の系図上で は、天智天皇と大海皇子の異母兄・古人皇子の娘とされています。古人皇子は異母弟二人に反乱を起こして処刑されている経緯があるのですが。この時点で倭姫王は皇后を廃位されていてもおかしくありません。因みに天智と倭姫王の間には子供はいない事になっています。

二つ目に不可解なのが、天智即位の時に彼女が太后と呼ばれていた事です。太后とは、先帝の皇后に対しての称号だから、倭姫王は考徳天皇の皇后でないとおかしいのです。

最後に不可解なのが、天智の臨終に際して弟の大海皇子が「次の天皇は皇后の倭姫王として、大友皇子を皇太子にする様」進言しています。繰り返しますが、倭姫王の父であり異母兄である古人皇子は天智に対して謀反を企てていました。しかもこの時の倭姫王の呼び名は「皇后」です。

やっぱり舒明~天武朝と蘇我馬子~果安の系図は大幅な改竄がなされていますね。

○○皇后と呼ばれないとおかしいのに倭姫王?この呼び名もおかしいです。

伯母の話を元に考察すると、671年に危篤だったのは大海皇子・總持天皇の方。倭姫王は664年に没した天智天皇の皇后かつ大友皇子の生母か伯母で後ろ楯であった可能性が高いです。

蘇我入鹿(考徳天皇)が同母弟の連子(天智天皇)と異母弟の赤兄(大海皇子・總持天皇)に反乱を起こした?しかも入鹿の娘が連子の妃?

何だか違う時代のエピソードや人間を、舒明~天武朝に挿入して、二朝並立の痕跡を消そうとしている感じもします。

高句麗・北燕・昔氏新羅の呉人残存勢力の大津王朝vs百済(中臣と藤原)・唐(高宗と武則天)・金氏新羅(北方狩猟民族の勿吉族との説あり)の奈良王朝の戦いだったと思われます。
つまり總持天皇+弘文天皇vs高宗+則天武后

これが壬申の乱の実体だと思われます。壬申の乱も唐との戦争の一環だったのでしょう。
ダライ・ラマ法王のダライ・ラマとは大いなる叡智の海という意味です。何だか天智と大海皇子の二人の名前にも共通する意味に思えてきました。
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ありがとうございます。 (りひと)
2016-05-24 17:01:48
禮月さまへ
群馬に相生あったんですよ。相生の松で。桐生はおばあちゃんに関係で知っていた地名だったのですが桐生市で相生という地名でびっくりでした。
また私の流れも理解出来てきました。そもそも中大兄皇子と鎌足は共に嫌いだったのですが主人系でどうしても関わる。百済も気になってましたが、この二人すり替わっていないかと考えていましたがそうではなくそのままだったんですね。鎌足寄りだったのですが、懐風藻の講座で天智の大津京に対して最近急上昇で天智さんの評価は変わってきました。
かたばみは、うちの関係の家紋でもあり鏡を磨く草です。鏡族との関係があるのか?
麻生、もう一つが出ないぞ(何かあるかも?)も確かにそうですね。もっと出てくるでしょうかね?
そう、柄杓とひょうたんって意味は近いようですよ、柄杓調べてびっくりしました。ひょうたんといったら乃木さんですけど吉田松蔭さんまで気になってきます。自分関わる事はゆっくりやります。
金って蜂かと思ってまして父は金とは関わっています、ただ良い蜂かもゆっくりとですね。赤については今気になる古墳には赤の色が。赤は鉄でもあるのでここも単純に保存としての赤と何かの象徴としての赤が存在するのか?見極めていきます。ありがとうございました。

吉田さまへ
相生の記事ありがとうございます。雀部までのっていましたよ、さすがです。地震を鎮める為に派遣されたお家です。フゲキとも思えます。宿禰さんとは違う血筋だと思いますが守ってくれているのであればありがたいですけど。
相生は多分群馬の地名由来からきてたと思います。この前の奈良の講座の先生も地名はあくまでも最近になってということもあるので執着なくいきますがあまりにもタイミングよすぎたのですからびっくりしてしまいました。

本題ですが、私との関わりで木原不動は盲点で場所をもっと早く知っておきたかったです。たぶん木原不動さんには行けてはいませんが現世の関わりで繋がっているといいなあと思えるお不動さんです。
九州の有名なお不動さんが先ほど地震がまだある宇土だか何かをのぞいてみて益城にお城があってそこにあると知りました。それも何か意味がありそうに思います。
そしてもう一点、六の付く神社にハニヤスさんと諏訪さんが祭神としているのにびっくりしました。
この二点も大事な点だと思います。

今日は巣鴨のお地蔵に行っている途中の発見でした。熊本は本当に大変な地です。世界のため地球のためにありがとうございます。6971、7703
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群馬県にも相生ありましたか。 (禮月)
2016-05-24 20:18:21
りひと様
群馬県にも相生ありましたか。知りませんでした!かつて藍染の藍が生い茂っていたのかもしれませんね。桐生と相生ですか。
川崎市には生田という地名もあります。麻生、柿生、生田・・・「生」は「おお」「うむ」どっちにも読みますから、近江関連の地名「生」がつく所は「大津朝」と関係があったり?
埼玉県さいたま市大宮区も、由来が氷川大神宮から来ているとの事ですが、由来は「近江の宮」や「近江の都」だった?これも妄想の行きを出ません。神戸市にも大日霊女を祭った生田神社があります。三ノ宮周辺には生田という地名があります。何故か兵庫に行ってしまう・・・

日本書記に書かれている中臣鎌足(亡命百済王族)は天智天皇(中野大兄皇子)の仮面を被っていると思います。古人皇子(伯母曰く蘇我蝦夷か石川麻呂かな?との事)が反乱を起こしたのは百済王族(鎌足)に対してではないかな?と思います。それか反乱なんて本当は最初から無かったか。
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地震 (りひと)
2016-05-24 22:42:55
青森階上(はしかみ)は、以前もよく起きていた地ですが熊本の震度3と連動しているようで。馬繋がりのように感じます。
今牧と呼ばれていたところに興味があり、牧氏、真木氏、牧野氏もどうやら現世でも縁があるようです。紀氏系で石川麻呂さんからの流れも持っています。奈良の講座で奈良の津風呂さんという方が南朝方のネットワークを持ち牧さんや青森とも交流していた可能性も。津風呂さんは、熊本の当時の役目(カミとかスケとか人数決まっていないものもあったようです)そんな位もあったようです。話の中では実際行っていなくてもそんなお役目を南朝から頂いていたようなのです。その南朝の時代のネットワークよりももっと古くに何らかのネットワークがあったように思います。
源氏と平氏も熊本も縁があるのもさきほどびっくりしました。頼朝の名馬を出した石川牧は神奈川です。他の牧にも注目しています。私の阿蘇のイメージは馬と草千里の緑です。そう馬肉を生で食べるのは海の民の名残とも思えます。

そうだ、訂正ですが木原不動は益城郡木原城だったのですからすっかり益城だと思いましたが時代が違うようですね、郡ですから南区のようです。すみませんでした。益城という地は広範囲だったようです。重要な地で港だったとも思います。
牧志と言えば沖縄の市場、益城もましきとマキシ。巻狩りって牧狩り?
とにかく牧氏の歴史の形跡は消えてます。本妙寺も三カ所いったところの近くばかり今日は巣鴨でニアミス、橘を守る日蓮さんも登場してきそうです。3664、7651
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Unknown (禮月さまへの返信)
2016-05-25 00:55:00
私も以下の考察に同意出来ます。
「果安という人物について、
蘇我王朝を悪の存在にせんが為に、
真の裏切り者の大野果安の所業を
蘇我果安ということにして被せた。」

あと大倭忌寸果安については
偉大なる宇豆毘古の後胤とされて
714年に忠孝と節操の功により
終身租税の免除の表彰が為されています。
また716年には出雲国造出雲臣果安が
たぶん初めて出雲国造神賀詞を奏上しています。
この出雲臣果安の時に出雲の祭祀が
古事記の世界に組み込まれました。
杵築大社の創建と歴史の創出ということです。
(天津神への国津神の国譲り神話)
果安という名前には
なぜかどれもに藤原氏の陰謀が感じられます。
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ハチ族、偽ハチ、はたやす (禮月)
2016-05-25 03:09:30
とんでもない時間帯に申し訳ございません。
伯母が蘇我果安を気にしていた理由がわかりました。

縄文系先住民と和合の道を選び、共に発展しようとしたハチ族の象徴が蘇我果安。
縄文系図民族を虫けらの様に滅ぼして搾取の対象としか扱おうとしないハチ族の象徴が大伴果安、出雲国造果安等、藤原(唐)に魂を売り渡した輩に象徴される偽ハチではないでしょうか?

蘇我果安(伯母曰く弘文天皇)の様に、縄文系の民と和合しようとしていたハチを騙り、悪逆非道の限りを尽くした唐の偽ハチ達。無論、縄文系民族に和合を説いていたハチに自分達の全ての悪行を擦り付ける為です。

明治天皇はやはり、これら一連の事をご存知だったのでしょう。だから大友皇子に弘文天皇の称号をお与えになったのだと思いました。

大津皇子の事件に関しても不可解です。鵜野讃良姫は何故、大津皇子だけを排除しようとしたのでしょうか?草壁皇子以外は皆、彼女の生んだ皇子ではありません。

大津皇子が対立王朝の皇太子かつ生き残りだったからです。伯母曰く蘇我赤兄が總持天皇で、その嫡男だった可能性があるからでしょう。
実在性は疑われていますが、大津皇子には粟津王子という遺児が一人いたとされています。あわつとおおつも発音が似ていますね。
昨日の夢に出てきた伯母の話では、本物の天智と天武の男系の子孫は飛騨に逃れたと語ってくれました。

ただ大津皇子謀反の事件も全容が不自然過ぎて、本当にあった事件かな?とも思えてきます。大津皇子の残した歌というのも平安時代の言葉遣いで書かれた歌ですし。
3696
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高宗と武則天の内政介入 (禮月)
2016-05-25 12:04:04
天智・天武朝にあった白村江の戦いの後、高宗と武則天の内政干渉があった事と、内政干渉以降に藤原氏の権力が増した事を歴史研究家は「推論の形」でも良いのでもっと指摘すべきだと思います。
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凄い (りひと)
2016-05-25 12:41:05
飛騨に逃げてるのですね。よかったです。とすれば主要の所から命危ない血筋の方はその時期地方に逃げているのでしょうね。嬉しいのは父は飛騨大好きなのと祖母の姉妹も初旅行した地です。飛騨は木の豊富なところでお祭りも大事な祭りありますよ。不思議だった八幡のお祭も皇子がいったなら納得。逃げるなら今の世では母の実家でしょうね?漆の赤も気になってきたぞ。朱とは色合い違うと良いなあ。
お母さんがあまりに出ていないですね。
私の立ち位置はお母さんの方かな。

明治天皇は、各地に碑を残してくれています。意味深いですし、ヒントになります。ありがとうございます。5606
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桜山八幡宮の山車 (禮月)
2016-05-25 20:35:51
長文になりそうなので予めお伝えします。

高山市の桜山八幡宮の山車祭は、やっぱりキンキンキラキラで赤が目立ちますね。何となく京都の八坂神社の祇園祭との共通点を感じます。金と赤といえば、北燕の馮弘一族の装束も思い起こさせます。八幡宮(祭神・都怒我現人ことヤマトタケ)、八坂神社(祭神・牛頭天王)でヤマーンタカこと大威徳明王です。
飛騨には、小碓命こと日本武尊が、謹慎中ね兄である大碓命を牛に跨がって訪問したという伝説があります。この姿は、正に、大日威徳明王そのものです。日本書記での日本武尊は兄・大碓命を殺害していますが、飛騨に残る伝説は全く異なります。飛騨高山の統治を任された兄を見舞っている内容になっています。

私の推測ですが、この下りは大津王朝縁の者が飛騨高山にやって来た事を後世に残す意図があるのかな?と思います。先に高山に亡命していた弘文天皇(蘇我果安)の遺児(いるのかどうか判りませんが)を大津皇子の遺児(粟津王子)が訪ねて来た事実を暗喩しているねか?と推測します。
仮に飛騨高山での伝説が事実なら、伯母の話も辻褄が合います。
天智天皇(蘇我連子)の皇太子で弘文天皇(蘇我果安)の遺児(名称不明)と總持天皇(蘇我赤兄・大海皇子)の皇太子(大津皇子)の遺児かつ皇太子(粟津王子)が共に飛騨高山に逃げ延びて、二人が彼らの祖先である都怒我現人と牛頭天皇を祭る為の儀式(高山山車祭)を行った。と考えるの何らは不自然な事ではないと思います。

すずたま様へ
もしかしたらすずたま様も蘇我果安と大津皇子に呼ばれたりしているかもしれません。
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郡上八幡市の群上は群青から? (禮月)
2016-05-25 21:14:16
郡上八幡の郡上は群青色(蘇我大津王朝)からかな?とも思っています。

郡上八幡市には、那比新宮や明星神宮に始まる高賀山信仰があります。高賀山の高は高句麗の高で、黄河文明と所期チベット仏教の影響を受けた楚系魚是人の出自(?)を示す高かな?等と想像してしまいます。

高賀山の六社(何故か七社ではない)には、由緒不明の神社が六社あります。(本当に由緒不明か否かは甚だ怪しいですが)その祭神も不明ですが、仮説として、虚空菩薩、牛頭天皇や妙見菩薩と思われる明星明神、更には瀬織津姫(本当は多分向津姫)等、呉音霊や蘇我氏や縄文の神々に縁のある神仏ばかりなのです。しかも瓢山という山もあるので、少彦名や月にも関連性があります。

飛騨高山と郡上八幡は、北燕・高句麗・関氏新羅そして蘇我氏と繋がりのある土地ではないか?と考えられそうです。

りひと様
弘文天皇(蘇我果安)と大津皇子・粟津王子親子の母君達は、飛騨高山出身の方々なのかもしれません。
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アシストあり。 (りひと)
2016-05-25 21:49:36
相生きてますよ。兵庫にそんな地名があったことも知りませんでしたが私の生のタイミングと兵庫の相生の地名で出てきたのが相生の松、そしてそこででたのが高砂神社です。稲田姫がいてやっぱりと思いましたが先ほどヤフーニュースで中3の教師への暴行事件があったのが兵庫県高砂です。びっくりもしなくなりましたが明らかに怪しい地のようですよ。

そうそう、この前何か調べていて現在の滋賀県の琵琶湖の東側なのですがあの辺りを昔のエリア分けでは群馬の古い地名として書かれている箇所があり滋賀の隣って群馬だっけ?と疑問に思いました。

私の勘違いかもしれませんが、古い時代の郡(この前は益城で今よりずっと広範囲で木原不動まで入っていたようです。)が現在の細分化している領域と違い惑われている可能性は十分あります。

というのも専門家の視点でも奈良の講演会の講師の方は、奈良の大和勢力の地域は摂津まで含めた方が良いようともおっしゃっていました。

現在どんなパズルのピースが揃ってきたのかは種着せずただ一つずつメッセージからピースを集める事に努めます。

飛騨の古川祭りは一時期凝ってました。
お母様の実家方面だと理解しやすいです。また住吉さんの裏にもいるはずです。
1257、また元寇かな?まったく困ったもんだ。神風吹いてくると良いですね。地球に住む方全てに良い方向に行くと良いですが。地球を荒らすだけ荒らして、宇宙や火星に移住するような方には関係ない話ですけど。
自然と神と人間と生き延びる為になるパズルのピースだと良いですね。
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牧島 (りひと)
2016-05-26 00:02:22
長崎の平間のトンネルで5人事故?どこか調べたら牧島。
以前牧はあったようで、また縄文の遺跡あるよう。
神社も木の感じがするし、厳島神社の鳥居の中に入った石もたくさんあるよう。また塩田も。昔は土器と海藻で塩作っていたら面白くなります。地形は私の追ってる民族の好きな地形くちばしだったかトンボロだったか?六社?クスという音、弁天堂には馬が船に乗っている像。庚申信仰。かなり揃っています。

古墳の出土品等が一番気になります。縄文の古墳という表現がありましたがそこが一番気になる所です。
道真さんの日に発見、過ぎちゃいましたが載せておきます。9010
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トンネルの場所の南です。 (りひと)
2016-05-26 00:08:11
事故の場所から近くで発見しただけです。
すみません。天草って地名と千々石(ミゲルさんいたなあ。)
海藻と小さい沢山の石。気になります。1733
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桜山八幡宮と武振熊命 (禮月)
2016-05-26 09:33:24
桜山八幡宮には、飛騨で民を苦しめている「両面宿禰(りょうめんすくな)」を討伐すべく、仁徳天皇が武振熊命(たけふるくま)をツカワシマス。ここでも武と熊が出てきました。楚系呉人の出自を思わせます。

所がこの「両面宿禰」は、地元飛騨では善政を敷いており、民から慕われていたとあります。しかも仏教の教えを保護していたとの事ですから、北燕か高句麗の出かな?と考えます。

武振熊命に命令を下した仁徳が、応神の孫の仁徳なのか雄略の叔父の仁徳なのかが迷う所です。

伯母が夢で紹介してくれた「豊熊姫」とは、武振熊と関係ある方か、飛騨高山土着の方かな?
果して武振熊命が飛騨に遣わされたのも、本当に両面宿禰の討伐が目的でしょうか?
日本書記は八割方あてになりませんからね。

伯母の話では、神功は息長足帯姫の事ではなくて、男の大王のだとの事です。その上「履中と允恭は実在しておらず、架空の存在」とも言っていました。

個人的に、呉氏骨様は飛騨高山にも足跡がありそうな感じがします。
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大津皇子の相貌はこんなだった (すずたま)
2016-05-26 11:54:42
大津皇子の非業の死は、どんどん物語性を付加され、中将姫が一晩で曼荼羅を織ったとかの不思議話にもなったのでしょう。
中将姫は、大津朝の終焉の悲劇性を悼む人たちの、皇子たちへの追悼の思いの象徴かもしれません。藤原氏の姫ですから(藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成の娘)、非道に苦しむ同族が少なからずいたということでもあるかもしれませんし。
大津皇子の名もあとでつけられたかもしれないし。
ただモデルとなった中核の人物をありありと感じるのは、最近そのリアルな相貌を夢に見たから。
それをもっと美形にしたのが川嶋喜八郎監督の人形アニメ版「死者の書」の大津皇子。
この造形だけでも川嶋喜八郎という人形作家は凄い方だと思います。
『懐風藻』による「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」
このキャラがよく造形されているのでしょうが、私に言わせれば、皇子の姿を霊的に把握されたと思います。
夢の貌は人形をもう少しやさしいおじさんっぽくした感じでした。
アニメの画像を探したのですが、なかなか見つかりません。やっとあったのが下のサイトにある亡霊となって墓から甦った姿。
http://birdscramble.blog116.fc2.com/blog-entry-1126.html
みずみずしいまでの男くささ、みたいなものがあえて強調されて表現されているように思います。
できたら曼荼羅を織りあげた中将姫が二上山の向こうに幻視する「山越え阿弥陀像」としての成仏された大津皇子の画像を見つけたかったのですが。

折口信夫は死者の書に添付する形で「山越え阿弥陀像」に関する一文を書いていることを最近知りましたが、以前から私は全く別の方向から「山越え阿弥陀像」に強い関心を持ってきました。長くなるのでいったん切ります。夜には書くかもしれません。

ps:禮月様と叔母様のおかげで、我々はすごいところにいざなわれつつありますが、いまのところ、私はこんなあやふやなところでしか何か書けません。蘇我果安についてとか、ちゃんと把握できるようになりたいです。
ただ、以前から「安」の字に反応しています。安閑、安羅、安息国・・・安はペルシャとかソグドに通じます。
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すずたま様、大津皇子かもしれません (禮月)
2016-05-26 15:15:35
伯母が又もや「蘇我氏とラジオ」の話をしてくれました。(お陰で寝不足が加速しました・・・)

伯母曰く、高市皇子と大津皇子は同一人物で、總持天皇の嫡男。彼の没年は30代から40代位との事です。すずたま様の夢に現れた大津皇子の容姿に近くなりませんか?

しかも、天豊(てんぶ)天皇として即位しており、熊本の大津に居城があったというではありませんか!

続きます。
3002
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地震 (りひと)
2016-05-26 20:49:25
箱根で2回地震がありました。普通ならなんとも気にならないのですが、深さ10キロなのです。熊本の地震が起こる前は目にした事なかった(気にしてなかったからかも?調べてみます)浅い地震。

ちょっと怖い気がします。
神奈川の蛇さんが気付いたのでない事を祈ります。警戒した方が良いです。

出来る全てをやってみます。
ただ16:16と17:17なのでひょっとしたら閻魔とたぬきの合図なのか?そう信じたいですが。見守りましょう。6715
明日は諏訪の日、ミナカタさま調整を!
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「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」と「吉野の盟約」 (すずたま)
2016-05-26 20:55:00
高市皇子~長屋親王は気になっていた存在。
何かもうすごくなってきて寒気がするほどです。
大津町をグーグルで探していたら、あった!「古城」の地名が。
熊本県菊池郡大津町古城(大字)。
調べるとやっぱり城跡があるらしい。http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/siseki/nanbu_furujou/son.html
いまのところ情報はこれだけだけど、地元の人もよく知らず遺構もほとんどないのは、相当古い城跡と思われ、あやしいかも。

いま、寒気がするもうひとつのことは、天忍穂耳の別名「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」。
オシホミミは、スサノオとアマテラスの「誓約」によって生まれた神ということになっている(詳細はややこしい)。
スサノオが行った「誓約」というと、今の私がまず思い出すのは馮弘(=スサノオモデルの一人=彦牛王)が日本に亡命するのに、半島を経て日本海海岸のどこかへの上陸にさいして「この国を侵略するようなことは絶対にしない」と、倭王に「誓約」した話です。スサノオ(=牛頭天王)の誓約ということで、これは熊野の牛王印となって残った、という。
私はスサノオの誓約の結果生まれたオシホミミに勝の字が強調されていることが気になります。
「弘」の地名のある志賀島には勝馬など「勝」の字もまたあることも。福津・宗像方面にも勝浦、勝島など。
宮地嶽神社の境内にある宮地嶽古墳の被葬者は「勝村神、勝頼神」。二神は筑紫君葛子の子と伝えられ、つまり筑紫君磐井の孫です。葛子はクスコ・クズコと読まれますが、実は「カツコ」だという説があります。
磐井は安閑天皇と同時代の人で、二人は強いかかわりがあるはずですが、それはさておき、宮地嶽古墳の遺物は、まさに藤の木古墳系テイストの仏教系金細工。
(長女は私が「仏教で縄文神を封印したスサノオ=馮弘」の渡来地探しの段階のとき、最初に「北九州から北陸までの日本海側沿岸のどこか」と言いました。そのころ吉田様のブログの「出雲井神社のサイ神」の記事に衝撃を受け、出雲に注目し始めていたし、馮弘のことを書いてあるサイトにも出雲に来たとあったので、出雲あたり?と聞くとそうかもしれないということだったのです。今考えると北九州に最初に来たかもしれない。志賀島の「弘」に来て、倭王と誓約して、その後出雲に行ったかも?)
・・・いろいろ考えることがあり、今朝書いた「山越え阿弥陀図」にも、じつは繋がっていくのですが、磐井のこともまだ曖昧だしすごく大変なテーマになるので、いずれ・・・

話を戻して、もうひとつの誓約「吉野の盟約」。
これは正史上では、「679年、天武天皇と鸕野讚良が、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子の6人を吉野に集結させ、草壁皇子を次期天皇であると宣言し、絶対に相争わないことを誓約させたもの。681年、草壁皇子は皇太子となるが、ライバルの大津皇子も政治に参加させる。そして天皇は崩御、大津皇子は謀反の疑いで非業の最期。草壁皇子もまもなく夭折し、鸕野讚良皇女が高市皇子等有力跡継ぎ候補を無視して自ら正式に持統天皇として即位する」ということになっています。

あるサイトより
・・・これは、表面上は平和の誓いだが、内実は「この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ」と、草壁以外の皇子をほとんど脅迫している。そして大津を草壁の補助役として政治に参加させつつも絶対に天皇にはなれない形にしておいたうえで、謀反の嫌疑を捏造して誓約のとおり賜死するのである・・・

もうひとつ、あるサイトより
・・・オシホミミが息子であるニニギに地上を譲ったのには、古事記編纂時の藤原氏の意向があったと言われている。 持統天皇は人望もあった大津皇子を自殺へと追い込んでまで草壁を皇位へつけようとしたが、草壁皇子が若くして死亡。それで草壁皇子の子であり、持統天皇からみると孫にあたる文武天皇が即位。 そこで「孫が皇位を継ぐ」という正統性を確固とするために、オシホミミはニニギに降臨の役を譲った・・・

このあたりも、大津皇子が「大津朝の天豊天皇」だったとしたら、別のシナリオになります。
もしかして壬申の乱は九州であったことかもしれない、ということまで考えねばならないかもしれません。
もやもやした話ばかりになりましたが、いずれはっきりしてくると思います。禮月様の叔母様、よろしくお願いいたします。
5659
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倭唐70年大戦と呼ぶべき (禮月)
2016-05-26 21:33:56
伯母はまた「ラジオを聞く機械があったから」と言って蘇我近江王朝vs唐の戦争について話を始めました。

「蘇我王朝と唐の戦いは、単に白村江の戦いだけに留まらない。長屋王の乱まで含めるべきだと、私は思うの。中でも高市皇子と長屋王親子は、近江を唐と藤原に奪われても、最後まで抵抗し続けたから。660年から729年までだから、70年間と言って良いわね。」

私「70年間も?」

伯母「そうね。英仏100年戦争に匹敵するんじゃないかしら?總持天皇とその息子・高市皇子率いる倭人連合が負けたのは、同盟関係だった筈の百済残存勢力が徹底抗戦派と和睦派に分裂したからなの。倭と唐は海戦になっても、倭には宗像水軍と熊野水軍が着いていたから海戦では負ける事は無かったわ。けれども旧百済勢力が傭兵として連れてきた「靺鞨」が突如百済に反乱を起こした為、旧百済軍が総崩れになった。そして王族や司令官の多くが連れ去られたものだから、旧百済民子の中でも唐への降参する離脱者が増えてきた。これで一気に倭人勢力が不利になって唐に敗戦したのよ。結果天智天皇(連子)は664年に半島での負傷が元で崩御。次の天皇というか摂政には、連子の正妃の倭姫王が立った。そして皇太子に連子の嫡男・蘇我果安(大友皇子かつ弘文天皇)が立ったの。対外的には蘇我果安が倭の大王で倭姫王が摂政王太后という体裁を取っていたけど。」

私「天智天皇の皇后って、まるで存在をわざと無視されてる様な感じだったけど、天皇に即位していたんだ。」

伯母「ここは意見が別れるんじゃないかしら?ただ、倭姫王の政治的手腕は見事だったし、倭姫王と大友皇子には連子の弟・後の總持天皇(赤兄)が二人の右腕を支えていたから、未だ倭人勢力はそれなりに力があったのよ。」

「でも倭姫王も666年後半か667年前半に崩御したか。唐に暗殺されたのかしらね? 」

スミマセン未だ続きます。
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倭唐70年大戦その2 (禮月)
2016-05-27 00:13:19
続きです。

伯母「倭姫王亡き後は、皇太子で滋賀の大津に拠点を置いていた大友皇子(蘇我果安)と親王で熊本大津に拠点を置いていた大海皇子(蘇我赤兄)が共同統治という異例の事態になったわね。理由は勿論、奈良盆地と摂津・山科迄を制していた高宗・則天武皇・そして二人に降伏した百済の王子の中臣鎌足勢力を挟み撃ちに対抗する為にね。だからこれは、大友皇子と大海皇子の王位継承戦争なんかじゃなかったのよ。未だ倭と唐の戦争は続いていたわ。熊本の總持天皇には隼人の兵隊達がいて、總持軍が上陸してきた唐と、昔氏と鶏林氏を追い出して新羅を簒奪し金氏新羅軍を食い止める予定だったけれど、滋賀で大伴果安と巨勢氏の誰かと物部氏?かしら・・・大友皇子の側近達が急遽大友皇子に謀反を起こしたわ。彼らは元々日和見主義者で、落ち目の大津王朝よりも勢いのある唐・金氏新羅についたのね。ただ、物部氏に関する事は疑問も残るし、よくわからないの。この一族の部分に限ってラジオが混線し出すのよね~。そして逆に大友皇子が大友果安、巨勢一族、確信無いけど物部一族の誰か?の軍勢と、高宗・則天武后の軍勢によって挟み撃ちにされてしまったの。そして671年11月(旧暦)、蘇我果安こと弘文天皇は自害。近江大津朝は滅亡した。」

ごめんなさい。
今夜は頭が回らないので、ここで切ります。その3に続きます!
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「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」の謎をもう少し (すずたま)
2016-05-27 08:51:35
伯母様情報、お疲れの中、ほんとにありがとうございます。
熊本の大津と近江の大津により挟み撃ち、なるほど!!です。
百済勢力の分裂、全てが納得いきますね。
物部がよくわからないのですね。物部こそ分裂とか古物部とか新物部とかいろいろあるのでしょうね。

アマテラスとスサノオの誓約の謎についてもう少し書いてみます。

スサノオが高天原に向かうとアマテラスはスサノオが「高天原を占領しにきた」と考え、迎え撃とうとする。スサノオは誤解を解こうと互いの持ち物から神を産み、男神が産まれたらスサノオの潔白とする賭け=誓約をする。結果、アメノオシホミミを含んだ五柱の男神が産まれて、スサノオの潔白が証明される。

この部分ではスサノオが「勝った」という形ではありますが、内実はあくまで「潔白が証明された」です。
仮にここに馮弘をあてはめると、アマテラスにあたる「北九州にあった女系祭祀に基礎を置く倭連合」に、侵略はしないとの誓約に嘘がないことを何らかの儀式によって証明したと考えます。互いの持ち物を交換とはよくわかりませんが、馮弘はきらびやかな宝物を沢山プレゼントしたかもしれません。
その後、スサノオの子供とアマテラスの子供は交換され、オシホミミはアマテラスの子供という設定に。互いの持ち物の交換からオシホミミ他が生まれたことに発するのでしょうが、全体に意味不明です。

スサノオはその後、アマテラスの水田の畦を壊したり、神殿を汚したり、死んだ馬の皮を剥いで織物工場に投げ込むなどアマテラスのクニをじゅうりんする。結果、天の岩戸事件が発生、その責任を問われてヒゲをそられ、爪を切られて高天原から追放される。
アマテラスは高天原から葦原中津国への降臨にあたり、息子のアメノオシホミミに命じる。しかしオシホミミは何故かニニギにこの大役を譲る。

これも例のサイトによる馮弘から子孫継体~大国主への流れにあてはめると、継体系出雲勢力は高句麗の騎馬兵派遣の援助を得ながら全国制覇に乗り出します。結果高句麗系の地名が全国にちらばっていきます。
ここに、「正哉吾勝」の意味がかぶさってくるのではないでしょうか?継体系出雲勢力は馮弘の誓約を守らず、各地で勝った勝ったと勝利宣言するわけです。(勝速日はニニギに対するニギハヤヒ系を表している?スサノオの子ニギハヤヒという設定により)
志賀島突端の「勝馬」の地名は、継体系勢力が騎馬軍団を率いてこの地を侵略したことを表しているのかも?
オシホミミがニニギに役をゆずるのはゆうべ書いた持統天皇のもくろみに関わるのでしょう。

馮弘という存在を私が知った例のサイトを、うのみにするつもりは全くありません。おかしいと思う部分も多々あります。だから今書いていることは仮に浮かんだ考えにすぎません。
ただ、娘が「北九州沿岸」と最初に言い、出雲方面じゃないかと私が言い、そうかもしれないと娘が地図を見て指差したのが須佐神社のあるあたりで、例のサイトに馮弘一族は川を遡って険峻な自然の要害に囲まれた須佐の地に逃げ込んだ、とあるのに一致した、ということが私にとってはある種の証とはなっています。

一族は潔白の誓約をしたものの、居住地を定めるのは困難だったのでしょう。須佐(佐田)は海から遠くない割にほんとにややこしく入り組んだ特殊な土地ですから。
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倭唐70年大戦その3 (禮月)
2016-05-27 09:21:13
昨晩の続きです。

「つまり、壬申の乱は天智没後の後継者争いじゃなくて、倭と唐の二度目の激戦の事を示すのよ。弘文天皇が滋賀大津で自害した後、皇后以外の遺族や遺臣の一部は伊勢を通って飛騨・美濃・信濃更にはもっと東にまで逃げ延びて行ったわ。この時に弘文天皇の遺族や遺臣を手助けしたのが、一世紀前の西暦550年頃から東国を統治していた安閑天皇や宣化天皇の末裔と遺臣である蝦夷の一部を内包した東国秦氏を名乗る一族だったの。この秦氏はあくまで黄河文明の影響を受けたテイ族の子孫。物部系秦氏とは出自が違うと思うわね。確信無いけど。弘文天皇の自害により、九州大津軍にも混乱が走ったわ。結果的に九州に上陸した金氏新羅軍と唐派百済残存勢力は陽動だったのかな?近畿には日和見主義的な豪族や、高宗・則天武后軍に寝返っていた豪族もいたから天智嫡流の弘文天皇(蘇我果安)勢力は不利だったでしょうね。九州の總持天皇(蘇我赤兄)は甥の弘文の援軍に向かおうと九州を離れたけど、道中(多分山口か島根の辺りかな?)で暗殺された。これが大体672年の旧暦2月頃の事ね。弘文と總持の戦死を以て蘇我大津朝は事実上滅亡。戦後は唐・金氏新羅の進駐軍が飛鳥に入城。暫定的に高宗が倭国天皇を兼務する事になったの。蘇我氏の生き残りの勢力は皇籍を剥奪されて、二度と独立国の大王を名乗らない事を宣誓させられた。つまり唐の一豪族となった事になるわね。」

その4に続きます
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小休止 (禮月)
2016-05-27 09:54:43
安閑天皇と蘇我果安の「安」はパルティア国やササン朝ペルシアとの関連が指摘される、ソグド人の親を持つ人間という意味かもしれませんね。ソグドが「そく」になって最終的に蘇我や菅、須賀、果ては関にもなった可能性もあります。唐でも玄宗時代に安録山が反乱を起こしており、この安録山は金髪碧眼のソグド人だったと言われていますから。

天孫降臨のくだりは本当に複雑で、解釈や理解に苦しみます。ただ、何となく直感的に思うのは、伯母の話してくれた「藤原不比等は百済の王孫で高宗と則天武后との間に生まれた公主(皇女)を妃にしているの。」に関係してくるかもしれません。また則天武后自身も、高宗の皇子達を何回も廃嫡しては、自分の言いなりになる皇子を皇太子にすげ替えています。

話は変わりますが、天武天皇イコール高宗で鵜野讃良皇后イコール則天武后で良いと思います。天武天皇は自らを漢の高祖・劉邦に例えており、鵜野讃良皇后は自らを劉邦の皇后である、呂后に例えていました。この事は、天武と鵜野讃良が倭人とは全く異なる価値観の持ち主である事をしめしており、彼らが倭人の出自ではない事を表す根拠になっていると思います。

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価値観の違い (りひと)
2016-05-27 14:00:25
2016/5/27今日の出来事かきます。
井の頭の象さんはな子が亡くなりました。象さんがいなくなり普賢菩薩に変化が起こるか?

また羽田で大韓航空機がエンジントラブル。被害者なし。

今後何らかの変化が起こりそうに思います。

それもこれも都民が今後今をどう過ごすか?が鍵だとも思います。飛行機、鉄道に関わる神が必死に教えてくれてるように思います。

今話題の方の地元福岡県八幡の東区を探っています。天疫神社には、稲田姫、スサノオ、オオムナムチ、事代さんなどなどもうふた方いらしゃいますが筆頭が稲田姫でおくんちも。ミズハさんと八十神もか。出雲色満載です。
また関連で出てきた美奈宜三神がとてもきになります。奈良や平安の頃から大事だった神です。またそれが二カ所あるのも諏訪にある小野神社のよう何故二つあるのか?
叔母さまの言葉に沿ってみると理解出来るようにも。東国秦氏ですね、そこを追ってみます。

タイトルにも書きましたが、この世も今全く同じ状況です。全く価値観の違う、どこを重視するかも徐々に変わったのでもなく、根本の発想が違うんです。その地やお金や権力を手に入れると変わる事もありますがそもそも素質が違うという発想も日本人にはさすがに正念場ですかた必要です。
恩情や穏やかな性格で済まない状況です。
古代と全く同じです。
熊本の方もその地の歴史が火事や戦いですっかりなくなっている神社が多すぎます。東京から日本が変わってくるのか?正念場です。5093
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倭唐70年大戦その4 (禮月)
2016-05-27 21:32:37
その3の続きです。

伯母「弘文(蘇我果安)と總持(赤兄)も戦死した後に蘇我大王家に生き残っていた有力な皇子は、未だ年少だった赤兄の嫡男・高市皇子だけだったわ。今日伝わっている天皇家の系図には、高市皇子の大津皇子がいるけど、大津皇子は高市皇子と同一人物よ。有間皇子も架空の人物。だって女帝皇極は架空の人物だから、架空の人物に対して謀反なんて起こしようが無いでしょ?有間皇子と大津皇子は、後世の歌人が高市皇子とその子長屋王を仮託した存在なの。唐と藤原の検閲を避ける為に、上手い事「仮面」を作り出した様ね。高市皇子の即位名は天豊(てんぶ)天武と読みも似てるから紛らわしいわね。たた、この高市皇子こと天豊天皇だけど、日本書記や古事記はおろか、現存している日本の歴史書からは、蘇我氏としての名前残っていないのよ。つまり蘇我・石川の系図から意図的に外されているのね。それだけ武則天や唐派の豪族達から恐れられたんでしょ。天豊こと高市皇子は、高宗から、九州の異民族(隼人・安曇、昔氏新羅、鶏林氏etc.)・更には蝦夷を纏める為に大宰府へ遣わされた。阿蘇・日向・薩摩。 因みに高市皇子の本当の生年は660年頃かしらね。没年は696年という事になっているけど、本当は695年の夏。この年にまたもや唐・藤原・親唐の百済異民と蘇我氏大津朝の激突があったわ。鵜野讃良皇太后と、684年に持統天皇として即位した藤原不比等が近畿の諸豪族達に(高市皇子が隼人・安曇・熊襲・昔氏新羅と鶏林新羅民を率いて飛鳥浄原宮に侵攻する)とデマを振り撒いて、大挙して大宰府に攻め込んだのよ。豪族達も唐が怖かったから、8割方の豪族が高市皇子討伐に加わったわ。この時に物部は親唐派と親呉派にはっきり別れたみたいね。天豊天皇こと高市皇子は隼人や熊襲や安曇達と共に、少数で劣勢ながらも、最後まで戦い抜いた。一時は不比等軍が劣勢に立たされた位にね。でも結局負けて天豊こと高市皇子は自害。その遺児だった長屋王達は人質として飛鳥に連行されたの。」

私「何だかびっくりする事ばかりで着いて行けないよ。それにしても鵜野讃良と藤原不比等は人間の格好した悪魔だね。」

伯母「私もあまり言いたくはないけど、この二人の性質にはゾッとするばかり。高市皇子が隼人や熊襲や安曇、呉人新羅の遺民達をあまりにも上手く統治していたから、鵜野讃良と不比等は恐ろしくなったのね。天豊天皇という呼び名は、藤原北家が所持していた資料にあった名前みたいだけど、その書物は行方不明になったわ。」

本当にごめんなさい。
その5に続きます。
2219
5515
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倭唐70年大戦その5 (禮月)
2016-05-28 09:48:45
「天豊天皇・高市皇子の戦死(謀死)後、彼の皇子や皇女達は、不比等(持統天皇)と鵜野讃良皇太后の監視下に入る事になったの。勿論九州の領土全ても奪われた上でね。大宰府と熊本大津は首都ではなくて、一大都市・今で言う所の政令市に近い扱いになったわ。高市皇子の長男で元皇太子の長屋王は高市皇子の良い所を受け継いだ王子だった。697年に鵜野讃良皇太后は崩御した事になったけれど、実際は飛鳥藤原王朝が機動に乗ったから、武則天が列島の運営から手を引いただけ。697年の大葬とは695年に戦死した高市皇子の葬儀の事をずらして書いたとラジオは放送していたの。何故持統天皇こと不比等と鵜野讃良皇太后こと武則天が仇敵だった筈の高市皇子の葬儀を盛大にやったのかというと、半島統一を手助けしてやった筈の金氏新羅が唐に反旗を翻して、今の遼寧省や吉林省の辺りで武装蜂起したものだから、今ここで旧熊本大津の遺民だった隼人や熊襲や安曇に反乱を起こされたら飛鳥の新王朝が早速崩壊しかねないから。彼らの懐柔の為でもあったの。武則天は列島の統治の第一線を退いた。半島の鎮圧に向かう為にね。因みに統一新羅を建国した金氏は倭人ではないという事よ。列島は、武則天の公主が不比等の妃だったから、依然として唐のいいなりだったし不比等もやりたい放題だったみたいだけどね。不比等は長屋王を自分の監視下に置く為に娘と長屋王を縁組させたわ。長屋王は唐の入り婿と呼ばれたそうよ。利用目的で婿にした筈の長屋王だったけれと、不比等は長屋王の事を人間的に気に入ってしまったみたいね。軽皇子を除いた自分の実の息子四人よりも扱いを良くしたみたいなの。長屋王も賢かったから、何とか不比等(持統)朝の中で蘇我(出雲北燕・高句麗)の血を残そうとしたみたい。軽皇子こと後の文武天皇と日高皇女こと元正天皇は、実は藤原不比等と武則天皇女との間に生まれた息子。他の四兄弟と吉備皇女は不比等と高宗の妃との間に生まれた皇女の間に生まれた子供達だったわ。」

その6に続きます。
仕事に入らねば・・・
2144
1268(中国は元朝ですね)
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禮月さまへ (りひと)
2016-05-28 18:03:56
お務めご苦労様です。相当の体力消耗の上ではないかと心配になります。
ラジオとは凄いですね。
長屋王が鍵ですね。今長屋王の屋敷跡がどうなるかも風により微妙に怖い展開です。天豊ですか、豊とはとても深い意味を持っているのでしょうね。
考古学や発掘の方で何かヘルプがあるといいです。7600今地震きましたよ。
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倭唐70年大戦その6 (禮月)
2016-05-28 21:33:23
りひと様
伯母も「これは貴女に伝えておきたい事だから、話させてちょうだい。そして貴女の先輩達の為にもね。」と言っていました。

伯母「不比等は同一倭国天皇を名乗った後、間もなく皇位を嫡男・軽皇子(母親は高宗と武側天の皇女で後の元明女帝)に生前譲位したの。これは倭国では前例の無い事だったわ。軽皇子は文武天皇として即位。不比等は天皇の父として太上天皇の称号を倭国にも新設した。理由は百済の一王子でしかなかった自分の息子として即位させるより唐の皇帝の血を引く皇孫として即位させた方が、滅亡した関氏新羅や旧北燕・高句麗の臣下となっていた隼人・熊襲・安曇の出雲連合や半島で唐に反乱をしている金氏新羅や外満州の靺鞨にも睨みが効いたから。文武に二つの和名前の諮号があるのは、近畿と九州の二つの天皇を兼任するという意味合いからよ。文武は不比等や母・元明や母方の叔母の太平公主に従順な性格だったからそこは問題無かったんだけど、如何せん体が弱くて幾度となく生死の境をさ迷う事があったらしいわよ。ひどい時には一年間に4回高熱を出して寝込む事があったってラジオの人は言ってた。だから不比等は気が気じゃ無かったみたい。妻の元明と他の四人の息子達は、長屋王の呪いだと言い張ったけど、逆に長屋王に懐柔されていた不比等はこれを信じようとはしなかった。長屋王も中々駆け引きが上手かったらしいわよ。不比等は息子の皇后に宮子をめとらせるんだけど、実は宮子は蘇我の一族である石川家の娘で、蘇我入鹿の孫娘。672年の大津朝の敗戦で土佐へ流刑になっていた所を長屋王が飛鳥に連れて来たの。九州の昔一族や隼人・熊襲を納得させる為にも、前王朝の生き残りの皇族の女性を入内させるべきだ、と長屋王が不比等と文武に進言したから、宮子は文武の妃になったれたって。けれども、宮子の入内に猛反対したのが不比等の正妻・元明とその娘の日高皇女と、長安で政治の実権を握っていた義妹の太平公主だったわ。太平公主は自分の娘を文武に嫁がせたかったみたい。唐の皇帝・皇后を両親に持つ彼女等にとって、滅ぼした倭人国家の元頭目の息女でもない宮子など、虫けら未満の存在でした。その虫けら未満の存在が一国の皇后を名乗るなど我慢ならなかった様ね。結局上皇不比等と天皇文武が宮子を妃にする事をゴリ押ししたから、元明・元正・太平公主は宮子に妻の中でも一番位の低い夫人を名乗らせる事で渋々納得した。宮子は文武夫人となって、701年に待望の皇子(後の聖武天皇)を生んだ。ますます面白くなかった元明達は、宮子に悪辣で執拗な嫌がらせをする様になった。先ず物心付いたばかりの首皇子を宮子から引き離して伯母に当たる日高皇女(元正天皇)の養子にして、親権を元正に与えたの。これには高市皇子の妻の吉備内親王も荷担した。吉備内親王も姉の元正と兄の文武と母は違えど、同じ高宗の孫娘である事には変わり無いから。母と姉・妹、そして恐ろしい長安の叔母・太平公主に文武は逆らえなかった。宮子が飛鳥宮中で元明や元正、更には遠くの太平公主から受けた嫌がらせの一部をモデルになっているのが、源氏物語の桐壷更衣の下りなのよ。」

その7に続きます(汗)
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8844蛇と呉音神が揃い踏みしています!
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倭唐70年大戦その7 (禮月)
2016-05-29 00:38:21
続きです。

私「藤原宮子って蘇我入鹿の孫娘だったの?」

伯母「そうみたいね。私は歴史の専門家じゃないから何もわからないけど、ラジオの人の話を私が聞く限りでは、ラジオの人は一生懸命話している様に聞こえた。百済、唐の『皇帝』二人、そして北燕・高句麗・昔氏新羅の血を引いた聖武の存在は不比等と高市皇子にとって正に希望の光そのもの。そんな聖武の成長を見る事なく、文武は707年に敗血症が元で24歳で崩御してしまう。この事は不比等と高市皇子を絶望の淵に突き落としたわ。不比等と高市が絶望していた理由と思惑は微妙に違っていたけど。藤原四兄弟はほくそえんだ。元明達は心中複雑だった。幼かった首皇子には生母が宮子である事と、『逆賊』の末裔と呼ばれていた理由が解らなかった。長屋王は自分の蘇我から皇后がでる事を望んでいた。そして蘇我(北燕・高句麗・昔氏の出雲連合)、藤原(百済)、唐全ての血を引いて、大日霊女の様に全ての思想をも包括するまつりごとの長の存在を望んだ。が藤原不比等は自分の血を引く天皇を輩出したかった。高市皇子と宮子未亡人が気にくわなかった藤原四兄弟は早速元明と元正に近づいた。長安の太平公主も外戚となった元百済王族の藤原四兄弟と姉の元明、姪の元正を支援する方向で動いたわ。だから文武の嫡子だった首皇子を飛び越して祖母の元明や伯母の元正が先に女帝として即位したのよ。表向きは年若い聖武では複雑な東アジア情勢に対処できないという理由でね。不比等も唐、とりわけ武一族の後ろ楯が必要だったから元明と元正の即位には反対出来なかった。707年時点では没していたけれど、女性でありながら天子になった前例は母や祖母の武則天の例があったから、元明と元正は自ら統一倭国の天皇に即位した。でも、天が武則天一族にばかり味方していたかというとそんな事はないの。713年に唐の実質上の女帝としてだった太平公主が失脚して処刑された。武一族は武則天に性質が似た人間が多かったのか、唐の宮廷内でも沢山の政敵がいたのね。相次いで後ろ楯を無くした藤原一族も流石に焦りだして来た。首皇子は父親の文武とは違って察しの良い皇子だったらしいから、次第に自分の祖父母や叔父伯母達が焦っていた理由に感づいてきたたみたい。」
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今晩も寝不足です。ごめんなさい。
3987
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倭唐70年大戦その8 (禮月)
2016-05-29 02:58:58
寝不足と言いつつその8を書かせて頂きます。

伯母「712年に即位した玄宗は武一族を排除しようと躍起になっていたのね。でも大陸や周辺諸国の異民族の国々や金氏新羅との紛争があったから、中々列島の武一族(元明天皇・元正天皇)の粛清までは着手できなかったみたい。藤原不比等は玄宗の粛清の恐怖に追われながら720年に死去。ちょっとここから私もびっくりする様な事を、ラジオのパーソナリティの人が言っていたのよ。玄宗は列島で不比等の妻かつ女帝になっていた元明にも「武一族の血を引く者は皆粛清をする。退位せねば孫も皆滅ぼす。」と言って揺さぶりを掛けたらしいわよ。元明も玄宗の事が余程怖かったのか、彼女は不比等の没前に娘の元正に生前譲位をしたの。元正も玄宗の事が怖かったらしくて殆ど玄宗のいいなりだったみたい。一方で長屋王と宮子だけど、二人間には埋められない溝があったんんじゃないか?とラジオの相方の人が言っていた。宮子は自分が皇后になる事なんて望んでいなかったし、このまま静かに土佐で余生を過ごしたかった。飛鳥に連れてこられた所為で、唐の武一族から身の毛もよだつ様な仕打ちを受けた!と長屋王を責めたと想像するってね。玄宗の干渉に観念したのか、724年になって元正は甥の首皇子に譲位をした。そしてこの時初めて正式に自分の生母が蘇我の一族である宮子である事を打ち明けられたんですって。長屋王は、藤原と唐(武一族)の専制に疑問を感じていた聖武天皇に、宮子を「蘇我皇太后」と呼ぶ様に嘆願した。聖武はまんざらでも無かったんだけど、藤原四兄弟と伯母の元正が『逆賊の一族の娘に過ぎない宮子を皇后なんてとんでもない!』と案の定反対した。藤原四兄弟と元正が恐れていたのは、他でもない蘇我王朝の復活だったから。大御祖と名乗らせる事で自体は収集を見たけど。蘇我王朝復活を何が何でも阻止せんと藤原四兄弟は元正太上天皇は、長屋王に対する謀反の嫌疑を掛けて拘束・処刑してしまったは。これが729年。これによって蘇我大津王朝は完全に滅亡した。蘇我氏はその後も蘇我石川麻呂の子孫の石川氏として生き残って行くけれど。聖武天皇は長屋王の謀反が冤罪である事を知っていた。だから、長屋王を皇族に準ずる扱いで国葬としたし、長屋王の子供達も貴族の子としての特権が守られたままだったのね。何よりも聖武自身の母親宮子が、本当は蘇我一族の出自だったからみたいだし。藤原四兄弟は737年に大流行した天然痘で相次いで死んでいったとされているわね。藤原四兄弟の相次ぐ死は、九州では『天智・總持・弘文・天豊そして長屋王を惨殺した天罰』ともっぱらの噂になったそうよ。』

伯母が語ってくれた蘇我氏に関する内容は以上です。
とてつもなく冗長になってしまって、大変申し訳ございませんでした。もっと上手く纏める事ができれなよかったのですが、何せ私は文章を書くのがとても苦手なもので、ここまでになってしまった事を重ねてお詫びします。

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和風諡号が報せる歴史事実~「押=忍=呉氏」と「天豊」 (すずたま)
2016-05-29 11:21:00
(また別記事に送信してしまいました・・・涙
吉田様、度々申し訳ありません!ごめんどうでなかったらひとつ前のコメントを削除してください・・・)

禮月様、ほんとにお疲れ様です。お身体大丈夫ですか?
纏めることに苦心されるより、どんなに長くなっても逐一もらさずお聞かせ願いたかったほどです。
いずれ論文としてお書きになるべきものなのでしょう。万人がよってたかっても絶対に推論できない真実が提示されていると思いますので。
感応力ばかりでなく、記憶力、考察力、分析力に優れた禮月様なら、真実の歴史を明かす論文を書くのに適任者でしょう。

一般には信じがたい情報ばかりでしょうが、私が信じるわけは、早い話が「ぴんとくる」からです。これまで感応力においては平凡な自分ですら何か伝えてくる存在を感じ、そのために鬱状態になったり体を壊した数年があったほどでしたが、その私にとって氷解する部分のある情報だからです。

私が夢に見た方は、伝説的に彩られた大津皇子(高市皇子に伝説の仮面を被せた姿)ではなく、滋賀の近江にいた大友皇子(弘文天皇・蘇我果安)なのかもしれません。伝説上の大津皇子は、蘇我・大津朝の悲劇的終焉を象徴する存在として物語的に造形されたのでしょうが、夢の方は、リアルな一人の男性だからです。(いま読み返したら、伯母様情報では有馬皇子と大津皇子は、後世の歌人が高市と長屋を仮託した存在とありますね)。(私の中では、大津のいじめ事件のときに突然大津皇子に意識がアクセスしたことが意味深いので、夢の男性は滋賀の大津にいた方、そして自害を強要された方、という感じがしています。そしていじめ事件の内実は、私が中途で放り出した甘粕事件から導き出された「甘粕が戦おうとしたのは今も日本を狙い続けるモンスター」に関係していると私は思っていますので・・・)

長屋王は非常に優秀なばかりでなく、聖人的な人でもあり、救世観音像のモデルは聖徳太子ではなく長屋親王だという人もいます。蘇我~聖徳太子の子孫殲滅の最後の親王(天皇?)だったので、聖徳太子が子孫の骨壺を胸にかかげるはずがない、長屋が祖先のお骨を胸に抱くのが理屈だろうというわけです。そして救世観音像には背中に太い釘が打たれ、布でぐるぐる巻にされていたとか。(HPエフライム工房、法隆寺編。高市~長屋について鋭いことが書かれていますが、さすがに伯母様情報にはふっとばされてしまい・・・)

聖武天皇は不可解な存在でしたが、母・宮子が蘇我系なら、やっと納得できます。
さて、この聖武の和風諡号は古事記「天璽国押開豊桜彦天皇」、書紀「勝宝感神聖武皇帝」。
この「押」の字は忍骨(呉氏骨)のオシではないでしょうか!?

欽明天皇が天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。
安閑天皇が古事記「広国押建金日命」、書紀「広国押武金日天皇」。
宣化天皇が古事記「建小広国押楯命」、書紀「武小広国押盾天皇」。
忍骨=呉氏骨の系統であることが表現されていませんか?
さらに武・建・楯で武内宿祢~ヤマトタケの系統であることも。
(広国は弘国?あるいは皇統から消された高句麗系を表すでしょうか?高句麗では大・広・高は同じような意味を表すとか)

和風諡号はすごいですよ、「天豊」が出てきます!
皇極と斉明が古事記「天豊財重日足姫天皇」、書紀「天豊財重日足姫尊」。
孝徳天皇が記紀ともに「天万豊日天皇」。

伯母様情報では、↓でしたね。
「天豊天皇」=大津皇子=高市皇子
蘇我入鹿=孝徳・皇極天皇
入鹿の弟・蘇我連子=斉明・天智天王

(さらに「日足」もひっかかる?ひたらしと読みますが「日足(ひあし)紋」にも繋がる?姫まで姫氏にみえてきますが、まあ女性を表現するのでしょうが・・・)
1895
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伯母もラジオの人達の言葉を (禮月)
2016-05-29 13:54:10
伯母も「ラジオのパーソナリティーとその相方さんが言ってた事を話しただけよ。私はこれらの内容が何処まで真実かは判らないけど、蘇我一族は列記とした倭国の主権者で、一時期鹿児島北部から三重県の西側迄を治めていた。早くから秩父を開拓していた安閑天皇の一族の領土も含めたら、鹿児島北部から房総半島までも治めていた事になるわ。そして民に対しては、その出自が何処であろうと善政を敷いていた事。この事だけは紛れもない真実だと、私は思うわ。」

私「消化するのに時間かかりそうだけど、頑張って私の同志や先輩達に伝えるね。」

伯母「お願いね!本当は私が出きれば良かったけど、禮月ちゃんが私を信じてくれるから助かるわ。ありがとう。」

本当に私もただ、伯母の話を文章にしただけなのです。(汗)

伯母が語ってくれた内容を纏めると、紀元前にやって来た華南系魚是人と、時代が下って西暦400年代に原始チベット仏教の信仰を伴って列島に入植した西蔵・華北系魚是人を統一して王朝を建てたのが、蘇我一族だった事になりますね。

列島に逃れてきた百済王族を懐柔して、彼らを足掛かりに侵出したのが、偽周を騙った唐の高宗と武則天。武則天夫妻は自らの皇女を百済王族に降嫁させてじわじわ畿内を制圧。旧百済王族と唐皇女の間に生まれたのが藤原氏。

という事ですね。
9042
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エフライム工房さん (禮月)
2016-05-29 18:11:10
エフライム工房様を運営されている方の着眼点というか、発送は斬新でとても見事ですね。

ですが、私は「おや?」と思う事もあるのです。それは、聖武天皇が長屋王殺害の主犯にしている所と、蘇我入鹿を藤原仲麿呂に比定している所です。

聖武天皇は長屋王の葬儀を国葬に近い、親王クラスの葬儀として執り行っています。それのみならず、長屋王の遺児達にも大貴族の身分を安堵しています。この部分を見ても、聖武は長屋王を気に入っていたとしか思えません。仇敵なら、蛇や蠍みたいな名前を付けて賎民に落とすでしょう。(武則天がそうだった様に)
伯母の話では、長屋王を暗殺を指示した主犯は玄宗で実行犯が藤原四兄弟だとの事です。玄宗は武一族の事を恨んではいたけれど、呉人や魚是人は依然として敵視していました。玄宗にとって魚是人の元主権者等、目の上のたんこぶでしかありません。玄宗と藤原四兄弟は長屋王殺しの罪を聖武に押し付けたのではないでしょうか?聖武が難度も遷都した理由は、唐と藤原の干渉を避けて旧大津王朝の故地で再起を図ったのかな?なんて思ってしまいます。

蘇我入鹿は、皇極・考徳天皇 で、和号に「天豊材」のあるお方で間違いないと思います。私は女帝・皇極に例えられた人物は、連子(本物の天智天皇)の皇后、倭姫王ではないか?と考えています。日足(ひたらし)は三本足の八尺尺烏と、三本足の雷鳥の霊烏の事で、「天を照して豊な実りをもたらす為の祭祀をしてくれる人」という意味では?大日霊女の称号も受け継いでいたと思われる息長足帯姫に通じるものがあります。更に中国の歴史書に出てくるアメノタリシヒコもこの日足が付くお方だったと思います。よく「女帝推古朝の筈なのに大王アメノタリシヒコ?」となる場所ですね。三本足の烏は黄文明の影響を受けた北方呉人の高句麗に、大日霊女のルーツは長江流域の呉人に求められます。

藤原(唐の入婿)一族は自分達の悪行を蘇我氏に移して、蘇我一族の善政を自分達の業績にすげ替えました。これは私も確信しています。
近畿王朝vs九州王朝ではなくて、唐が蘇我氏の大和・大津(熊本と滋賀両方)王朝を簒奪したんじゃないか?と私も思えてきました。

福井県の気比神宮に残る「鼻が血塗れのイルカ」のエピソードですが、これは695年に起きた武則天が高市皇子を攻め滅ぼした事実を暗喩しているんじゃないか?とも思えました。

1096十字軍遠征が開始された年なのも偶然ですね。
3416
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645乙巳の政変は695年の高市皇子の処刑を (禮月)
2016-05-29 21:12:44
伯母が語ってくれた内容を反芻する為に調べていたら、「645年の乙巳の政変は、695年の大宰府陥落の事を50年遡らせて書いたのではないか?」という考察がありました。理由は乙巳の政変で功績があった人物の冠位を、755年に上げていた事等から、この政変がもっと後に起きた事ではないか?との理由がありました。藤原一族が卑劣な手を使って列島を支配した痕跡を消す為の細工だと言うのです。

気比神宮のイルカのエピソードは、695年以降に加筆されたのでしょう。名前交換の儀式は、崇神朝の即位の儀式だったと伯母は言っていました。所が血塗れのイルカの事を加味すると、神功天皇に準えられたた武則天が我が義息子(藤原不比等)倭国天皇即位を箔付けする為に、気比神宮の儀式のエピソードを被せて後世に上書きされたものではないか?と思えてきます。伯母の話では、不比等は我が子の軽皇子(文武天皇)を唐の皇帝の孫という肩書きで即位させたとの事なので、文武とは皇帝武則天の外孫という肩書きで天皇に即位したと考えられます。この部分が天孫降臨の下地になっているのでしょうか?

話は変わりますが、最近は平安時代の評価が変わってきています。平安時代は確かに大きな戦も無く、華やかな貴族の文化は栄えました。所が、農民等の被支配者層にとっては、暴政そのものだった様です。飢饉や自然災害が起きても殆ど被災地の民は省みられる事は無かったらしいですからね。この民を蔑ろにする政治を断行したのが藤原氏です。
3395
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紫香楽宮 (すずたま)
2016-05-29 21:20:40
フウコウ紹介のHPには継体系の遠征を仏教十字軍と言っていますね。仏教こそ最高と信じ、日本を仏教国にする理想に燃えながら、やったことは高句麗騎馬軍による乱暴狼藉ですから、キリスト教十字軍とおなじ。(私が神話のスサノオの狼藉と解釈するところ)。馬の皮を云々で、フウコウ(スサノオ)の子孫が高句麗騎馬系の影響下にあった(騎馬民族そのものということではなく騎馬民を援軍としていた)ことがわかります。
禮月様の夢で、「うまに閉じ込められているのだ」と誰かが言う場面がありましたね。たしか安曇のイソラでしたか?
「うま」は、仏教をもって、この先住海洋系の神を封印したのでしょう。志賀島の勝馬の地名は、フウコウが誓約に勝った(潔白を証明した)ことにちなむとすると、侵略しないの誓約ですから、ここでは妙なことはしなかったはずなのですが?ただし福津方面、宮地嶽古墳に仏教的文物と騎馬用の遺物もありますから、少なくとも子孫の時代に「うま+仏教」は北九州一帯に侵入し「勝った」のでしょう(宮地嶽被葬者に勝の字)。
また遠賀川の流域に「吾勝(あかつ)」という地名があるそうです。
オシホミミにつく正哉吾勝勝速日の謎については、いずれまた考えたいと思います(辛嶋勝乙目もちらちらしますが、こちらはスグリ=村主の意味)。

エフライム工房様は物凄い研究量と同時に天才肌の方だと思いますが、伯母様情報を知った今は、ご指摘部分以外も、もはやかなりの部分が間違いということになります。伯母様情報の方が今のところはトンデモなのですけど。トンデモではないことを私も何とか少しずつ証していきたいと思います。

今気になっているのは聖武天皇の紫香楽宮です。
聖武はここに盧舎那仏像を建立する夢に燃えますが、かなわず、平城宮に戻り、東大寺大仏建立となります。
「しがらく」には聖武にとっての理想が込められていると思います。私はそれを「滋賀(志賀)+楽浪」ではないかと考えています。
万葉集その他の歌には「楽浪の」という語が沢山出てきます。これは「さざなみの」と読み、「しが」にかかる枕詞とされますが、「楽浪」は琵琶湖西南部一帯の古名、南志賀地方ともあります。大陸の楽浪郡を故地とする思想があるのではないかとひそかに推量しています。(楽浪郡は通説の平壌ではなく、遼東にあったとの説を支持のうえで)

○楽浪の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ 
(志賀の辛崎はその名のように幸(さき)く無事平穏であるけれど大宮人の船はいくら待ってももう来はしない )
※「さざなみの」は、琵琶湖西南部の地名「大津」「志賀」などにかかる。ただし、これを枕詞とみないで、地名そのものとする説もある。
※「辛崎」は、辛前・可楽埼・韓崎・唐崎などと表す。現在唐崎という名で、滋賀県大津市北西部、琵琶湖岸の地名。唐崎神社がある。大津京の時代にはここが船着場であったらしい。
※壬申の乱で近江朝廷が滅びた後、20年後に柿本人麻呂がこの地を訪れた時の歌である。

○さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
   平忠度 『千載和歌集』 66

○古の人に我あれや楽浪の古き都を見れば悲しき
   高市古人(万1-32)
(過ぎ去ってしまった遠い昔―そんな時代を生きた人で私はあるのだろうか。そんなはずもないのに、楽浪の古い都の跡を見れば、心が切なくてならない)

かくゆゑに見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな(万3-305)
(こんな悲しい思いをすると分かっていたから「見まい」と言ったのに。荒れ果てた志賀の古い都をみだりに見せたりして…)

他にもたくさんあります。「しか(鹿)」が出てくるものもたくさんありますが、今度にします。滋賀と志賀島の関係も宿題です。
今は聖武がある意図と希望をもって「楽浪の志賀の都」を再建しようとしたことに注目しておきます。
2462 4765
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ダブルミーニングかも (禮月)
2016-05-29 22:39:19
紫香楽宮の下りで出てくる「大津」ですが、滋賀県大津市and琵琶湖の事と熊本城大津町and有明海の二つを掛けているのかな?とも思います。九州にも志賀はあるし、北陸にも志賀があります。

北燕と高句麗の騎馬民族軍団ですが、先住民の安曇族や隼人や熊襲を武力で制圧した過去はあるのでしょう。だからこそ蘇我善徳(聖徳太子・推古・舒明天皇)は大日霊女の理念を引き継いで行こうと覚悟を決めたのだと思います。唐との戦争では、高市皇子(天豊天皇)に彼等は味方したとの事ですから、少なくても天豊天皇一人の事は認めていたと考えられます。

私自身も伯母が語ってくれた内容を確信するには、未だ未だ色んな事を調べる必要があると感じています。衝撃的過ぎて半分を受け入れられません。

私が書いた十字軍には、唐が大乗仏教の教えを拡大解釈して歪めて、それを蘇我王朝制圧の錦の御旗にしたという意味も込めて書きました。キリスト教の十字軍も時のローマ教皇ウルバヌス2世が、聖書に書かれている事を曲解してイスラム教徒やユダヤ教徒を駆逐する錦の御旗としましたから。問題は制圧した後の統治なんですよね。
3643
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Unknown (すずたま)
2016-05-29 23:29:53
>蘇我善徳(聖徳太子・推古・舒明天皇)は大日霊女の理念を引き継いで行こうと覚悟を決めたのだと思います。

その通りですね。
吉田様が蘇我氏の祭祀とおっしゃっているのは、イコール大日霊女の祭祀なのかもしれないと思います。

(k女史は大日霊女の創始した古神道という表現をしています。)
3045
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馬二頭と安曇磯良 (禮月)
2016-05-30 01:15:29
夢で安曇磯良が言っていた事はこうです。
「私は安曇磯良。馬二頭が邪魔をしている。」
この馬二頭とは、北燕と高句麗の事?
高句麗の事は「こま」と当て字をするし、駒繋神社は大国主を奉っています。やはり仏教は出雲から初期チベット仏教(山岳信仰)が広まって行ったのかもしれません。

もう一つの夢が
「私はスサノオ。猿なのだ。」です。

スサノオも乱暴狼藉を働いた粗暴な神としての側面と、豊な農作物を実らせて善政を敷いて民から慕われていたスサノオの二通りのエピソードが残ります。前者のエピソードは猿蟹合戦の猿の姿にも相通じます。後者は艮(丑寅)の方角に封印された「生け贄となった善神のスサノオ」て艮の神とされている様な気がします。

伯母の言葉の中に「出雲連合」という言葉が出てきました。出雲連合とは、北燕・高句麗・旧昔氏新羅・旧加耶(鶏林)新羅・隼人・熊襲・安曇・縄文系大国魂一族・大物主一族、そして大日霊女の事ではないか?と思えました。互いに様々な遺恨を抱えながらも乗り越えて行き、彼らの想いを受け継いで繋いで行ったのが蘇我馬子~長屋王ではないでしょうか?

法隆寺の救世観音像は、横から見たお顔は微笑んでいて穏やかそうなのですが、正面から見たお顔には底知れぬ勝負を感じます。「私は決してあなた方を糾弾しません。ですが、私はこれだけの怒りを抑えているのですよ。」といわんばかりなのです。
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ありがとうございます (りひと)
2016-05-30 10:02:21
先週末一山超えたんで今日は叔母さまのお言葉を何とか熟読しないといけないなあと思っています。まだちゃんと見れてはいないのですが聖武天皇のお母様は超大好きです。またその影響か聖武天皇は関東ともかなりの縁を持ちそのおかげ関東の歴史も微々たる物ですが残っています。宮古さんは、鉢かつぎ姫のイメージもっていまして観音様との縁があるのでは?と妄想していますよ。大阪との縁も。ダムの事故の辺り縄文の遺跡もあるので気になっている今です。
おまけに蘇我の汚名を晴らす為にはまってきたという動機もありの今。ただ物部が大昔に観音信仰持っていたならば物部も理解しないといけないと蘇我をグレーに思っていましたよ。ただ蘇我の中でも石川さんは別格、あそこの蘇我だけは現世でも縁があり信用出来ると思っていましたので宮子さんがその家系だなんて超嬉しいお話でした。
信貴山に行ったのも、聖徳太子と蘇我氏がタッグを組み物部を排除する意向があったとの歴史の解釈からも逆行してるとも不思議に感じていました。命蓮さんのお墓にもいきましたが鉢も最近やたらと。物部というと誤解が生じる今としては奥様系列を重視するならば使わず叔母さまのお言葉で使いますね。

うちの現世の周りでも間違いなく百済が関わっていますね、私にも最初は受け入れがたく思いましたがイメージではあまり執着ない天然で争い嫌い。それが意思がないようで困っている毎日です。だだ相手次第で黒にもなりかねない怖さはありますね。

青が基本あり、そこに赤で聖徳太子や聖武さんが目指したのは紫。

家族の縁からも赤も切れないこのもどかしさ、ただ尊敬する方とのやり取りでも赤を再評価し始めています。

金や黄色も怖い存在でありますがただならぬ縁も。

光の三原色ならば黒にはならず、白になる。白を目指したいですね。

全てを受け入れます。よりよい未来のために。ありがとうございました。
6367
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泉涌寺の位牌 (禮月)
2016-05-30 19:49:38
天智天皇から続く歴代天皇の位牌と遺灰が収められている京都府の泉涌寺には、天智天皇の位牌はあっても、天武~称徳女帝までの位牌だけは無いとの事です。

泉涌寺は鎌倉時代に満11歳で崩御した四条天皇の葬儀を行って以来、天皇家との縁が急に深まったお寺で「御寺(みてら)」の二つ名がつきました。

天武~称徳までの位牌が無い理由は、明治維新の混乱と廃仏政策の所為で紛失した事と、古い時代の天皇は神道を崇拝していたから敢えて位牌を作らなかった事等が挙げられてますが、理由としておかしな点だらけなのは明らかです。全く説明になっていません。屁理屈と大差ないでしょう。

天智と天武は共に同時代の天皇です。神仏習合が盛んになるのは奈良時代以降の話なので、時代の古さを理由にするのならば寧ろ聖武から称徳の位牌が無い事の方がおかしいのです。明治維新での混乱と廃仏政策の一環で天武朝の位牌が紛失したとの事ですが、何故よりによって天武~称徳まで8代分だけの位牌が綺麗に無くなるのでしょうか?そして何故壬申 の乱で大海皇子に負けて自害した大友皇子にわざわざ弘文天皇を追尊された明治天皇が、天武~称徳天皇の位牌の修復をお命じにならなかったのでしょうか?

その理由が伯母の言う通り「武則天の血を引く天皇」だったからかどうかは判りませんが、やはりこの8代は、何が何でも皇統から外さなければならない理由があるからに違いないと疑わざるをえません。

もう一つ伯母はこんな事も言っていました。

「近いうちに蘇我氏が天皇であった事を認めないと、日本にはもっと沢山の悪いものが入ってくる。蘇我馬子(推古)、蘇我善徳(厩戸皇子で推古・舒明天皇)、蘇我入鹿(皇極・考徳天皇)、蘇我連子(天智天皇)、倭姫王(斉明摂政太后)、蘇我果安(大友皇子・弘文天皇)、蘇我赤兄(總持天皇)、高市皇子(天豊天皇)そして長屋王。この9人をきちんと天皇・皇太子として祭らないと、この先皇室は加護を得られない」との事でした。

気が付いたのですが、伯母が挙げた蘇我天皇一族の人数を書きだすと。

天皇に即位したしたお方(追尊も含む)
・蘇我馬子
・蘇我善徳
・蘇我入鹿
・蘇我連子
・蘇我果安
・蘇我赤兄
・高市皇子

合計7人

摂政として一時的に天皇を代行されたお方
・倭姫王(皇后)

事実上皇太子だったお方
・長屋王

倭姫王を女帝としてカウントすると8人になります。
天武~称徳に武則天の血が本当に流れているかどうかは判りませんが、本来天皇として祀るべき蘇我氏の方々を8人とする事も可能だった事が興味深いです。

2721
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藤原五摂家 (禮月)
2016-05-31 09:02:06
藤原氏は、やっぱり藤原家は列島に独裁政治を持ち込んだ諸悪の根源と言われても仕方がありません。
藤原五摂家は、主君である筈の天皇から行政権を奪い、民から遠ざけました。この時点で天皇以上の権限を手にしています。そればかりか、皇后や他の宮家でさえ、藤原氏には何も意見が出来ないシステムを作り上げてしまったんですよ。しかもこの五摂家は世襲制で、能力により入れ替わる事は無かったのですから。

蘇我氏朝(仮)時代は、大政大臣・関白に相当する身分には必ず天皇の血族(とりわけ皇太子)が就いていました。伯母も「蘇我赤兄(總持天皇)は蘇我果安(弘文天皇)政権での摂政みたいなものだった」と言っていましたし。

『天皇を蔑ろににして、政治を意のままにする。』これこそ正に藤原氏そのものです。

所で物部家についてですが、伯母はこんな事を言っていました。

「う~ん、何だろう?物部氏という集団はとにかく数が多いわね。人種的にはまばらだと思う。ヨーロッパにもいるかもしれない。中国東北部やモンゴルやシベリアにもいたかな?特定の民族と言うより、ある一つの思想の元に一つに纏まっている集団?でも不思議よね~。物部氏に意識をアクセスすると、どういう訳かブロックされちゃうの。」

との事です。
5249
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頭抱えます。 (りひと)
2016-05-31 09:33:10
禮月さまへ

もう手遅れなんじゃないのか?と。中枢に一部分ならうまく対処出来る可能性もありますが結構すでに?
どうやら天智朝の行く末をみて攻略法を探さないといけませんね。

天皇の頑張りも評価。
ラジオで気付かせたい見えない方々もいるはずですし。感謝しかありません。
それを活かせるのか?

やっぱり物的証拠。(考古学+α)

以前蘇我の方のお名前が気になった事がありますが、馬イルカ蝦夷と私の好みが多いのも。まずは一般的に評価が変わってきている馬子さんで探りますね。
熊本西区で地震がありましたが、馬頭観音のお寺が健在なのです。四宗網羅していたり、四面だったり。琵琶湖の東や岐阜の方のも馬頭さんがひっそりといます。奈良は難しいでしょうけど必ずどこかに痕跡があるはずですね。長屋王のお屋敷だかの上はホテルになるのか?この前イタリアでも古代の遺跡が出たら展示も共存でいくとのニュースがありました。
地元の方も反対したり調査をもっと望んでいたりと厳しい目があるはずです。

それでも楽天的なイタリアでも遺跡共存なのに真面目な日本が永久封印しちゃうのか?そこもすでにもう手遅れで、住民や日本人のため政治ではなくなってしまっているのか?判断出来るかもしれませんね。長屋王ですよ。
今回水の下ではないので前向きに微かな可能性ですが英断があることを思い描いています。もしも封印してしまったなら叔母さまのお話では、悪い方々も溜め込んだお金を火星にでも持っていかないと生きられるか?火星じゃお金も意味ないだろうし、全てリセットですもん。
さあどうなるか?

そういえば欠史八代の天皇方は実在しまさに大事な部分に絡んでいる故消えていると思ってます。(大学の文学部長さんもも無くなるのが一番のフィクションだと言っていたのが私のベースです)
今回の蘇我の8代がリンクしてくるか?そこもみてみますね。

蘇我のお名前では、善徳とか果?とか?両方に関わる名前もありますからそこもどっちがどっちかと区別も必要ですね。

人間出来る事しか出来ないので残る部分は見えない力がどう作用してくるのか?見えない方は準備万端ですよ、イライラしているようにも。人間しか出来ない役割を果たして行きましょう。

禮月さまは、クタクタなはず。無理なくしてください。
その努力を必ず活かしていきますからね。素人でもベストを尽くします。
見えない世界の方々は成果主義、仕事した分ご褒美も違う所で頂けるはずなので全く負担はなく。
この世も成果主義だといいのに、なんでなにもしていない方が豊かになるのか?
それを良しとする政治や法律も治さなくてもいいのか?治さず素質のある方を大多数にすれば良いだけですが、そこが一番大変ですね。4644、3514
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ビンゴですね、きっと! (りひと)
2016-05-31 11:12:12
禮月さま、凄いヒントありがとうございます。欠史八大から見ただけでもかぶってきますよ。

4代の時に百済か初期出雲(スサノオになってる?)かワニが入ってきてますがその後もそれなりの連合でやってきたはずです。

面白い事に5代の陵か宮が御所市の池の付く地域なのですが、ここは歴史書では推古の時期の造池の記事があり、この場が比定するならば時代は推古朝以降では?と。5代は連子の辺りなら時期としてもピッタリでは?

また姫の摂政の時代が6代でここは別件で出てくる場所なのですが、男系は吉備へ女系は奈良へと別れる様相があるんdrすよね。表舞台には巫女しかいなくなってるはずだと思ってました。秋津という地名が宮で陵が玉手です。私が祖母と父が別れた分岐点だと思う天皇の所です。

この6代の方の息子へは今年地元の方もすべき事は現世の天皇の功績を繋ぎやることはしたようで安心。

6代からうずめ系の馬(忍、押し?)が中心になるのですがここで政とは分離気味になってどんどん中枢に侵攻されてきてしまうような?

その後は武力のみの世界で泣く泣く、生き続けるのみ。

最後の天豊さんに関しては個人的にハニヤスさんには供養を第一にしております。

かなり進展しましたよ、ありがとうございます。ここから先はツッコミすぎると命消されたり危険なので一時撤退しておきますね。4569
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消された蘇我8代を欠史八代に? (禮月)
2016-05-31 14:21:15
抹殺された蘇我氏8代を神武~考元までの欠史8代に持ってくるという事ですか?これは物凄いひらめきかもしれませんね!事実和風諮号の中に「押」の時を持つ方々も出てきますし。

『ラジオの相方』曰く蘇我氏の家系図も書き換えられている部分があるだろう、との事ですから検証が必要な事には変わり無いでしょうが。欠史八代も順番が違う可能性も否めません。

ここでもう二つ伯母情報を

「蘇我朝天皇達には、埋葬地が近畿じゃない人達がいるらしいわよ。例えば四国とか広島とか・・・島根にもあるんじゃないかしら?」

「鎌足と不比等だけど親子・・・かな~?確実に血は繋がっていると思うけど、親子よりもっと遠い血縁って感じがするの。伯父と甥?祖父と孫?う~ん・・・大叔父と大甥かもしれないけどよくわからないわ。」

3766
7828
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吉田一氣 (禮月さまへの返信)
2016-06-01 00:44:33
藤原家が列島に独裁政治を持ち込んだ諸悪の根源ということを
十分に理解しないと
蘇我氏の作り上げようとした
日本の理想国家像が見えてきませんね。
本当の蘇我氏が見えてくると
さらには海神たる豊玉姫 玉依姫の神霊が
現われてくると思いますよ。


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地球が人間と共存共栄できるために。 (りひと)
2016-06-01 00:50:07
こんな凄い説本当論文などで発表すべきとも思えます。禮月さまが伝えてくれた思いはまさに本物の巫女、利害は全くなしの行動です。素晴らしいです。

吉田さまのプログで何かを感じそれぞれが独自に何かを発見することを望みます。時間が限られていますので。

なのでサラッといきますね。
その後も別件から気になることが出てきています。筆頭は鰐、和邇ですね、こちらのサイトから距離を持ち始めた時に急接近。豊というのが私の中で大阪豊中で待兼山のワニのイメージで豊というエリアはかなり川を伝って広がっているように思いましたよ。豊のつく地名はかなり広がって行きます。

スサノオさんは猿だとおっしゃっていますが猿は水神との説もありますから海神なのでしょう。出雲でいけば龍蛇様のような。海の蛇とワニと龍というのも猿の姿にも感じています。

また追加二つの情報ありがとうございます。
鎌足、不比等の件は直系でないのは嬉しいです。個人的には異母だけでなくもっと遠いのは嬉しいです。不比等の奥様のお父さんであれば足らしいのですが血はない義理の父で。こどもには血はいきますけどね。大化改新の頃鎌足はすでにいないならもっと嬉しいです。

お墓の件は、そう近畿以外からおそらく出されてしまっているか、改築されているか?そしてその地以外に子孫が行った所に作られている可能性ありますね。形と石棺の作り等で分析しないといけませんね。
円墳かなあ?前方後円墳の後ろだけとか?そうだ八角形が怪しかったですよ。群馬にもあったなあ確か?
太田稲荷さん(いもあらい)にお世話になっているのですが、そこに行く日のニュースでアサガオの古墳の近く太田姫のがとびっくりしたのを覚えています。ここが八角だったかな?聖徳太子も八角好きですよね。法隆寺は共存できていたのかもしれませんね。住吉のお神輿八角ですね。豊で川を辿ったら住吉ありましたね。

葛城には、今の研究家さんの注目が集まってもいます。蘇我系との土地の縁も必須です。

叔母さまのお話と考えは似ているので本当ありがたいです。見えない力の意思に感謝いたします。それを伝えるお役目も能力も圧倒されます。ありがとうございました。6339
大友と大伴など、誤解し安い事も利用されているようです。
淡海三船さんは、意図があり何かを伝えてくれてるのでしょうね。3158
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吉田一氣 (りひと様への返信)
2016-06-01 01:47:23
私も同感ですね。
このブログでないと出てこない
霊的神秘もあるかとは思いますが
でもどこかでまとめておかないと
このコメント欄に残すだけでは
いつか散逸してしまうと思います。
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論文ででない別な方法で (禮月)
2016-06-01 10:32:32
私は本当に伯母の言っていた事を書き並べたまでで、利害関係なしで私達に様々な事を伝えてくれた伯母こそ、真の巫女なのです。

伯母は、世間一般では「狐憑き」と呼ばれる「一精神疾患患者」でしかなく、アメリカの精神医学界では「アルコールや違法な薬物が原因でなる」という見方が主流と言って差し支えない状態です。故に私が伯母の言う事を元に論文を書く、なんてしたら伯母と伯母の後見人のもう一人の叔母と従弟の社会的立場まで危うくする可能性は高いでしょう。

なので、私は伯母が語ってくれた内容は「小説」という形にして「フィクションの様なそうじゃない様な・・・」曖昧で謎を孕んだな雰囲気の中で文書に残します。そうした中で何かに閃いてくれる考古学者の人がいれば嬉しい事この上ありません。

伯母の狐憑きを治すためにネットを検索していたら、修験道と蔵王権現がご利益があると聞き、更に蔵王権現と安閑天皇を調べる事に。2015年の9/28日のスーパームーンの夜に見た夢に伯母が現れる(それも心身ともに健全な状態で) 。それ以来伯母は夢に出てきて日本の天皇の系図が誤りだらけである事と、どんな学術書を読んでも核心に迫る説のない八幡神の正体を矛盾無く説明。蘇我氏が本当は天皇であった事と、唐が列島を支配した事。唐に組み込まれた藤原一族が日本の神々や本来の仏教の教えを抹殺し、事実上の奴隷制社会を浸透させてしまった事を説明。etc.

正に神霊界と繋がる事の出きる彼女でなければ、此処までの事は知り得ないでしょう。

りひと様
伯母の話では、蘇我氏の遺体は畿内から持ち出されたのではなく、元々大和盆地と福岡から九州の二つを拠点としていた為墓所は畿内だけじゃないとの事です。蘇我善徳(推古・舒明天皇)のお墓は九州の何処かだと言っていました。
3821
2913
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うわあ~!。 (りひと)
2016-06-01 12:41:10
参りました、大作書いて3088でしたがどうやら書きすぎたようで消えちゃいましたね。4258、まだまずいようですね。
流れに従います。

超悔しい!
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西暦935年と妙見の槍 (禮月)
2016-06-01 12:44:27
昨晩の伯母が残してくれた情報も物凄いものでした。本来ならば連日の激務と寝不足で布団に入ると直ぐに寝入ってしまう所ですが、昨晩に限っては凄まじい動悸と耳鳴りに襲われたので、全く寝付けませんでした。

そんな状態の中で伯母が私の部屋に現れて、以下の事を言いました。

「935年。妙見の槍。」

私「伯母さん、どういう意味?」

伯母「蘇我大王の即位の証である『妙見の槍』というものがあるの。天皇家の家宝の三種の神器の蘇我家版みたいなものかしら?その『槍』に関する事が935年にあったのでも大王蘇我家の子孫は、男系・女系どちらも続いているけど、大王である人はその『槍』とやらが難なく使いこなす事ができるんだって。『槍』の方から大王を選ぶらしいわよ。ただその『槍』が文字通り武器の『槍』を表すのか、『槍』は喩えでもっと別な物を表すのかは判らないわね。」

そこで西暦935年を調べてみると、何と平将門の乱があった年ではありませんか!!これには驚きの余りに外である事も忘れて声を上げてしまいましたもの。平将門は妙見を崇拝していましたからね。(一方の成田山は不動明王で龍宮系ですが。) 平将門の乱と蘇我大王の大王位の証らしい「妙見の槍」は何か関係がありそうです。
3544
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善光寺と蘇我善徳 (禮月)
2016-06-02 09:52:43
長野善光寺には、お寺の由来になった善光という人物と蘇我善徳(聖徳太子)がやり取りした書簡が残っているのですね。

長野善光寺には不動明王が祭られており、そのルーツには龍宮の豊玉姫がいらっしゃいます。蘇我家は、豊玉姫と玉依姫との縁が深いというのを実感しました。そもそも私がお不動様との縁を得たのは、能登の重蔵神社産屋をお参りしてからです。その重蔵神社も龍宮と宗像に縁があるから、何となく蘇我氏の御霊達に呼ばれていたのかもしれません。
9910
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禮月さまへ (りひと)
2016-06-02 10:55:24
昨日は1日でわたしの中では妙見の日でして私も敬意を評して投稿は遠慮しましたよ。その前のコメントも日をまたいでいたのですね。
今日は大丈夫でしょう。

まずは、禮月さまのお気持ちが私と一緒で嬉しいです。世の中お手柄にガツガツしていかに早く自分の手柄にして自分が発表したり書物のしたりと執着する方が多いの大変です。
実際にどこかの首長さんとおんなじで日頃姿や行動を見て本当の凄さが分かりそこからはお金ではないいいネットワークや人の縁が出来るんですよ。今迄の禮月さまを見ていれば分かります。お金では得られない縁が一番得られると思いますよ。

昨日から熊本地震始まり、震度3までも。
参りますね。八代はそういことかも?
でも禮月さまへお伝えできれば、茨城での地震で千葉県中央区、調べてみたら蘇我のつく地名がいっぱい。茨城の蛇は喜んで合図してくれているかもしれませんね。その地の有名人は千葉氏なので調べてみます。

昨日消えたのは蘇我馬子からの蘇我側から調べてみました。入鹿って異質じゃないですか?天智は入鹿についていた取り巻き気にしたかもしれませんね。4代天皇頃です。何か入り始めたのでしょう。

この前の文章を書くには気力が持たないのでポイントだけ入れてみます。今週末越えたら詳しく書きますね、お邪魔もきていますので。

で馬子は私の中でいい母の血、堅塩の文字から縄文からの塩を作っていた家系ならば信用できます。また子供の次の善徳のお墓か御宮が片塩?これも妥当で3代に繋がります。そしてその先がイルカ!少し変わった血が入ってきますがそこはイルカをやっつけて女系で維持したように思います。そして5代と天智天皇さんですがここも上手く行きましたが天智さんって少し穏やかなので百済に頼りつついたような?5代がまた分かりやすく子供の種類分け出来るんですよね。本物と関係者と共存しています。これ天智さんとかぶりますね。色々な勢力が子供にしろって?本物はたやすにたどりつける見込がなく。そこで倭姫命が摂政で入る。倭姫命は大事な丹波道主さんと丹波の女性なので巫女のサラブレッド。そして品格のある皇子と距離を開けられた。
巫女になんと不比等も近づいたはず。
なので不比等は倭姫命の家系の娘を奥様にいれてますよ。不比等と崇神垂仁さんも同じイメージ。怖い父の影に言いなりに動くような。ここで言えば鎌足と巫女の血筋の女性を妻にしたかな?
そして倭姫命が神事をすることで政治は違う勢力にほぼ掌握されてします。はたやすも力不足で違う者が仮面をかぶり自殺したか移動して生き延びてそう。はたやすには7代孝霊さんですがこちらも兄の大吉備津彦のが妥当だったのかも?
ここからは外来生物に政治部分はのっとられ、赤兄の孝元がなんとかしようとおもったが開化(本筋ではないような気します)は言いなりで大事な妻と息子は戦いで一気にやられてしまう。

そんな妄想には当てはまります。

神への神事と政治とに距離を持たされてしまったのが敗因かもしれませんね。現世でも気をつけたいですよね。女性の気になる方は靖国行きましたよね?あの方血筋もありそうだし、将来のリーダーになるといいなあ。どうやら日本は神と政治の接点があった方が良さそうですね。天皇だけじゃなく。

はたやす孝霊さんの所も違う血筋が最初の初期のみで別人がいそう。難しい所みたいです。

倭姫命の所にも天智さんの所にも行けているので一安心。

善徳さんを名前を変えたいなあ、蘇我 津彦さんでは?世の中の研究家はそれならきっとかぶり付いてるくれるかも?

この方はと思う尊敬する方にもこの考えお知らせしましたよ。
何か一斉変化が起こるといいですね。

政教分離は自然崇拝古代ではあり得ない。そしてやましい事があることへの怨霊封じに神事がなり政治と距離がでたことが日本にとってやばいこと。
やましい事がなければ怖い神も減りますが自然崇拝の神事は続けないとまずいです。縁あって住んでいる地元の神を研究して本物の大地の神を全国で探すと一人になってしまうかも?身近にできる事をやりましょう。2966、7084
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 (りひと)
2016-06-02 11:09:59
いいですねえ、槍のお祭り滋賀県東部であるような?使える方は怪力の方ですね。剣じゃないんですよ。まっすぐなのです。あれ?紀州から来た王子神社の槍あるかも?

古代の剣はまっすぐで戦いに使うのではなくお守りのような物だったようですね。鉄製の獲加多支鹵のありましたよね。
ヤマトタケルの剣は戦いかな?大吉備津彦ならば蘇我の槍つかえるかもしれませんね。

ヴォータンの槍思い出しますね。少し赤っぽい山岳っぽいイメージあるので赤兄さんかもしれませんね。ハニヤス彦かな?

9684
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りひと様へ (禮月)
2016-06-02 12:34:06
伯母の話では、倭姫王は連子(天智)の後に即位した果安(弘文)は、16歳と年少だった為伯母にして母親の倭姫王が摂政に立ち弘文を支えたとの事です。彼女の政治的手腕は見事で、高宗もタジタジだったとの事。

赤兄(總持)が筑紫の護りに付いたのは、元々蘇我王朝が筑紫と近江の二つを都にしていたので、赤兄は引き離されたのではないそうです。事情が事情だった為、弘文と總持が同時に即位するという、異例の事態だった様ですよ。
9185
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禮月さまへ (りひと)
2016-06-02 13:49:57
いい感じですね。
ばっちりですよ。日槍ですよ。ヒボコですよ。
たぶん、大友皇子(弘文)が大吉備津彦ではないかな?鉄農具とか生活に密着していた製鉄関連の方でお守りとしての槍を持って逃げたかも?それで新羅の方は剣(槍ではないけど)を盗んだりそんな事件ありましたよね?そうそう、大友さんはまずお母様系を辿り伊吹山近くの鏡山に始め行ってその後は吉備かな?

つまり剣を神器だと思っていますが本当は槍だと知っていたかたが日槍でメッセージ残してくれたのかも。また百済や新羅ではない蘇我由来の槍です。ジャパン製鉄由来です。

そう、奈良と九州と二つの宮ってのも邪馬台国と同じですね。だって一緒だもん神事と政治は。

弘文と赤兄は離されたってのも超理解できます。赤兄の娘と天智の子供が山部皇女で大津に嫁ぎますからやっぱり赤兄の血も天智の血も欲しかったんでしょうね。天武さんたちも。大津皇子は、九州の那大津で生まれていますって。熊本大津でしょうね。

ならば大津で天智天皇(蘇我連子)と赤兄の妻を守る神がきちんと祀られているか?ですね、吉田さまよろしくお願いします。
大津さんの子の粟津さんが雅楽の笛の家系だそうです。伊吹山の風の神の血がありそうです。風がないと製鉄できないですからね。

王子神社にはやはり槍祭りありました。熊野の神が祀られています。速ってやはり風の神かも?梵天かな?

ということで私の辿りたい母の方がまだ見えないのですが、さきにミナカタさんの方をまず復活させないと合図起こしかねないのでこれでどこかでお知らせ地震を待ちます。

豊玉さんとやまとひめは同じ流れでしょうね。その血を欲しがった不比等はなかったのでしょう。子供にはあるのが厄介ですが。そうそう、天智天皇の妃の額田王はその筋です、天智は鎌足に託したと信じたいですね。連れ子とも。生きていますよ、子孫は。
万葉集の漫画の本でも天武は蚊帳の外でしたよ。

結構繋がってきました。槍はその筋のその方でないと動かせないので他の人が探しても見つからないし、豚に真珠です。
なので見つかったら天皇家に渡してあげたいですね。美智子さまのおかげで辻褄が合うのかと思っています。
9555、9492投稿出来るかな?
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蘇我果安の謎 (りひと)
2016-06-02 14:34:41
この方、最初の方と十市皇女と結婚した方と二人いそう。高市皇子とくっ付いていたらよかったのに?ただ高市皇子も考えましたよ。但馬皇女と結婚してよかった。鎌足血筋なら額田王の血があったかもしれませんから。
すると
長屋王はやっぱり最重要人物です。

過去はどうでも良いので日本が良くなる事望む人は長屋王関連の遺跡は国の宝です。それを封印したり終わりです。
日本の中に色々な立場の方いますが、どうすべき考えて欲しいです。外国人向けのホテルを作る方が良いならそれはそれで流れに任せます。3970
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禮月 (りひと様、ちょっと違います・・・)
2016-06-02 15:12:35
ちょっと違うんですよ!
伯母が語ってくれた内容もショッキングなものばかりで、私自身も気が動転しているから、文章が変でわかり辛いと思いますが・・・

そもそも蘇我朝は、近江と筑紫二つに都があったとの話しです。近江の天皇が弘文で、筑紫を大政大臣かつ弘文の次の天皇の赤兄(總持天皇で大海皇子)が、筑紫の守を固めていたのです。唐・金氏連合軍は九州から艦隊を率いて列島に上陸したので。あくまで近江の弘文と倭姫王、そして列島を護る為だったんですよ。(汗)

ここから下は、昨晩伯母から聞いた追加情報です。

645年の乙巳の変に「本物の中兄皇子の蘇我連子」は全く関わっていません。伯母の話しでは、鎌足の正体は百済・義慈王の弟です。鎌足の兄の義慈王と鎌足に、唐の高宗と則天武皇が近づいて「倭を裏切って唐と組めば百済を復興支援させてやる」と言って近づいたとの事です。伯母曰く不比等は鎌足の「多分甥かな?」だそうで。

唐になびいた鎌足の息子の一人が、蘇我善徳(聖徳太子かつ本物の舒明天皇)を毒殺したと、伯母は言っていました。これが伯母がラジオで聞いた乙巳の変の真相だそうですよ。

だって本物の中大兄皇子(天智天皇)の蘇我連子は、善徳の息子ですから、寧ろ百済王族の被害者なのです。善徳と入鹿は双子の兄弟ではないか?とも伯母は言っています。

それと「妙見の槍」は、現天皇家の神器ではなく、あくまで北燕や高句麗の流れを組む「継体・蘇我王家」の神器です。その神器は明治維新の混乱期に、薩摩・長州・土佐藩が五摂家(藤原家)から持ち去ったとの事ですから。元々蘇我家から藤原氏が盗んだものなのでしょう。
2285
5672
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そうなんですね、了解いたしました。 (りひと)
2016-06-02 17:18:16
ご指摘ありがとうございます。解釈が違うので起きた地震だと申し訳ないです。
4:07で宇城方面、4:44に産山で地震がありました。7は槍系男足で4は鏡系女手で良しとおもったのですが。縦糸と横糸。


もう一度良く考えますね。
剣がある神社からいっとき飛騨の水無神社に行ったのまで繋がったと思いましたが。入鹿がやられるよりも善徳がやられる方がまずいんですよ。天智は関わる訳はがない。そこに黒幕と鎌足系なるほど、いつもの構図です。そこに鎌足の息子がそそのかされた。それはよく理解できます。

さすが厳密ですね、妄想とは質が違います。図をきちんと書いてみます。

熊本の地震も同じ時間、4時なら近くで二回ずつ起こっているようにも感じていたので二つの要因がありそうです。
一つは豊玉さんもう一方は盤古で槍と風は付き物のように思います。阿蘇の山から吹く風大事が味方に付かないとと思います。5927 地震続かないといいです。
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禮月 (こちらこそスミマセン!)
2016-06-02 17:54:18
りひと様

私が書い倭・唐70年大戦を読み返したら・・・誤字脱字どころか、誤変換や誤記入も多くて愕然としました。これじゃ解りにくいですよね?
この点は誤ります。ごめんなさい。
でも、1~8 を読まれて判らない所や、おかしな所があったら指摘して下さると助かります。

妙見の槍は天日槍ですか?
ヒントその1かもしれません。
ただ、伯母が言うには、開化が崇神の子で仲哀が応神の子だそうで、日本書記とは親子関係が逆なのです。だから神武~考元も親子が逆になっている可能性も否定できません。
7353
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双子! (りひと)
2016-06-02 18:13:01
私が一番こだわってきたのが双子。
今回欠史八代と継体・蘇我王家がかぶってくると困ることは、邪馬台国は248あたりに卑弥呼の存在ががなくなること。時代が変わること。なので春日に縄文遺跡があるなら奴国玉名(那?)は金印時代に国家になっていたはずですよね。同じく奈良玉手にも同じ時代に王国があったということであればそもそも一つの国から双子が生まれたから蘇我馬子の頃にはすでに二つの関係国があっても良いのでは?善徳さんのところにメモしてたのが事代主、耳の方でこの二人が双子なら超納得しますが。事代主は葛城の神ですからね。

奈良で気になるのは奈良と熊本とがやけに接点がありすぎる事。そもそも一体であればその方が理解しやすいです。その後の対抗勢力は、勿論上から来ます。
また秋津遺跡もかなり古い遺跡で川の近く。

逆魏志倭人伝と同じシチュエーションを作っちゃったというのもありかもしれませんが考古学は地層等で細工できないはず。蘇我と葛城は近すぎで双子はありです。それに蘇我氏が双子出来る家系ならば私の中では本物です。6406
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蘇我連子(そがのむらじこ)は個人の名前です。 (禮月)
2016-06-02 19:46:59
りひと様の書き込みを見ていて気になったのですが、蘇我連子を「蘇我の連れ子」と勘違いされているのかしら?

伯母が中野大兄皇子・天智天皇に同一視している蘇我連子ですが、連れ子の意味ではなくて蘇我連子(蘇我連子・そがのむらじこ)という個人の名前です。一度ウィキペディアで調べて下さい。伯母はこの「そがのむらじこ」を蘇我善徳の嫡子だと言っており、611年に生まれて664年に没したとの事です。「そがのむらじこ」の弟が蘇我赤兄「そがのあかえ」で大海皇子であり、日本書記では天武天皇にされているお方です。本当は總持天皇という即位名だったけど、この天皇の名前は消されていると言っていました。
623年生まれて672年春頃没したらしいです。
2126
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吉田一氣 (りひと様への返信)
2016-06-02 19:52:31
「妙見の槍」から「天之日矛」を導きだしたのは
いい感じですね。
吉田一氣の思いつきでは
「天之日矛」は呉音霊がらみであれば
兵主神であり高千穂の『天の逆鋒』で
あるべきだと思っていますが
いずれにせよその御神霊は御神器であると思われます。
以前より「天之日矛」と『天沼矛』のつながりを
探っていましたが
もしかすると「妙見の槍」は『天沼矛』なのかもしれません。
返信する
妙見の槍が天逆矛 (禮月)
2016-06-02 20:37:11
吉田川様

「妙見の槍」が「天逆矛」ですか。
もしかしたら本当にその通りなのかもしれません。蘇我氏も呉人も共にご先祖様は「魚是人」ですから、蘇我氏の大王位継承に必要な家宝が天逆矛と同じものだったとしても頷けます。
それでは、平将門は天逆矛を巡って朝廷に反旗を翻した?伯母が言うに、妙見の槍は、明治維新まで五摂家が保持していたらしいですから。仮に伯母が教えてくれた「妙見の槍」が本当に蘇我家の家宝で京都市内の何処かにあったとしても、歴代の天皇を含める皇族の方々はその存在すらご存知ではなかったでしょう。全部五摂家が秘密裏に蘇我氏から奪って保持していたと考えられます。

りひと様
これも「倭唐70年大戦シリーズ」の補足ですが、有間皇子と大津皇子は架空の人物だと伯母が言っています。彼女曰く「この二人は高市皇子と長屋親王をカムフラージュする為の架空の人物で、藤原不比等勢の検閲を避ける為に生み出されたの。例えば柿本人麿呂辺りが作ったのかもしれないけど、誰かまでは特定できないそうよ。」との事です。
伯母が聞いた高市皇子の生年・没年は、660頃~695頃だとの事です。高市皇子は九州て「天豊天皇」として即位していたらしいですよ。

9444
9に4が三つも!
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蘇我氏八代に関しては (禮月)
2016-06-02 22:44:02
「蘇我氏八代の天皇に関しては、きちんと天皇として弔うべき。さもないと、これからの日本にはもっと悪いモノが入って来るし天皇家もこの先加護を受けられない」と伯母は言っています。

世の中には「水に流しても問題ない過去」と「決して水に流してはいけない過去」の二つがあると、私は考えています。少なくても、蘇我氏の供養に関しては「本来、決して水に流してはならない事」であると信じているのです。未来の私達や、私達の子々孫々に関わる事だと思いますので。
1137
何の年でしょうか?
返信する
かなり興奮の一日でした。 (りひと)
2016-06-02 22:46:49
禮月さま
温かいツッコミありがとうございます。
連子は大丈夫です。天智と解釈していますよ。むらじって音でちょっと調べたりもしました。
それから双子の件ですが、近江と熊本の大津で双子の方がいいですよね。私の場合なぜか熊本と奈良なってしまう。それは善徳さんの関係でだとなんですよ。鎌足系にやられて九州にお墓がある。すると今までなら菊池と思う所ですが宇城ですかねえ。再度見てみます。鎌足が奈良にいたならその子孫が九州に出る、時代の舞台は百済は南からってのも少し意外に思いますね。

善徳のもう一人の双子が鍵を握っているように思います。双子でも多少気質が違うと思うので。どっちが穏やかだったか?葛城っぽくって穏やかな無頓着探します。

トリックでしたか?大津皇子は了解です。柿本さん、何を意図したのか?どう混乱させるのに必要だったのか?そこを探りたいですね。気になりますね。

吉田さま
高千穂にあるのは?と私も思いましたよ。逆鉾。鉾は銅鐸ともに祭事用。槍のが古い時代で生活に密着しているようにおもいますね。鯱鉾の鉾でもあるのかあ。
槍って木+石器。金属ではないので古そうですね。個人的には木のが好きなので槍はかなりはまってしまいます。木偏に倉で槍。いちいの木じゃもったいないけどお守りならば、古墳で黒曜石っやたら出てるけど何に使ってたのかなあ?槍って事はないかな?9943、9534
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禮月 (吉田様へ)
2016-06-02 22:47:25
100番目のメッセージで、吉田様のお名前を「吉田川様」と誤変換してしまいました。

こんな事ばかりしていて申し訳ございません。
これでは、りひと様も混乱される訳ですね。
5744
返信する
吉田一氣 (禮月様への返信)
2016-06-02 22:51:50
蘇我氏の御神器に「妙見の槍」があるとしたら
と『天沼矛』ではないかと記載しました。
京都市内の何処かにあるという話であれば
高千穂峰にある『天逆矛』では
つじつまが合いませんね。
返信する
確かに京都にあったとの事です。 (禮月)
2016-06-02 23:22:42
伯母は確かに「『妙見の槍』は明治維新まで京都市内の何処かにあったけど、薩摩・長州・土佐が幕末の動乱の最中に京都から持ち出してしまったのよ。」と言っていました。
天沼矛と高千穂の天逆鉾を調べてみましたが、同一の存在とする説と両者は別物とする説とに別れていましたね。更にややこしい事に、その(それらの)所在地や行方にも諸説ある始末ですから。何だか、第三者が意図的に私達の様な者達を撹乱している様で、困ります。

疑ってはいけないと思いますが、天沼矛にも天逆鉾にも偽物が何本か用意されていた、という事はないでしょうか?蘇我氏の王権の証を示すものだから、万一に備えてレプリカ位作っていそうです。(この偽物やレプリカに関しては、伯母は何も言っていませんでした。)
2319
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善徳と入鹿 (禮月)
2016-06-03 01:25:10
りひと様へ
善徳と入鹿は、二卵性双生児か同じ年に生まれた異母兄弟かな?とも思いました。

伯母の言葉を再現すると
「物凄く歳が近い兄弟?それか双子かしら?でも普通の兄弟かもしれないのよね。顔も確かに似てるけど、双子っていう程瓜二つでもないの。」でした。

異母兄弟なら、善徳か入鹿どちらかの母親が奈良の葛城系かもしれません。私も二人は性格が異なっていたと思います。

吉田様
蘇我氏の家宝は『妙見の槍』が一つだけかな?とも考えています。九州と近江二つに都があり、蘇我連子が没した664年から672年までは太宰府と近江の二ヶ所に同時に大王が在位していたそうなので、もう一つ『妙見の槍』に相当するものがあるかもしれません。
7169
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ちょっとの間にすごい展開に・・・ (すずたま)
2016-06-03 09:44:59
妙見の槍以前に、私の悪い頭にはこれまでのラジオ情報はなかなか呑み込めないので、とりあえず自分のため整理してみます。
書紀の皇統譜にそって、なるべく時系列になるように書き出してみます。
(新しいコメントでは善徳と入鹿が年の近い兄弟または双子となっていますが、5月23日のコメでは入鹿と連子が善徳の子で年が近く、二人の異母弟が赤兄となっています。新しい方が正しいのですね?)

29代欽明天皇=蘇我高麗
30敏達   =蘇我稲目
31用明(?)
32崇峻   =蘇我馬子
33推古   =蘇我馬子
34舒明   =蘇我善徳=馬子の子=聖徳太子
35皇極   =蘇我善徳(皇極3年まで)+蘇我入鹿
36孝徳   =蘇我入鹿=馬子の子。同じく入鹿の子である善徳の年の近い兄、または双子
37斉明   =蘇我連子=中大兄皇子=本当の天智天皇。馬子の子で善徳・入鹿と異母兄弟。611生~664没)
 ●總持天皇 =蘇我安磨呂(=大海皇子=蘇我赤兄。連子の異母弟。皇統から外される。623生~672没)
 ●天豊天皇 =大津皇子=高市皇子。總持天皇の子。熊本の大津が拠点。皇統から外される。660~695)
38天智   =蘇我連子=中大兄皇子。斉明と同一人物。后は倭姫。
39弘文   =蘇我果安=大友皇子。滋賀の大津が拠点。大野果安の悪行を被せられてその名がつく可能性?672年壬申の乱による大津朝の敗戦で自害。
40天武   =唐の高宗(后:則天武后)が倭王を兼任したもの。鵜野讃良(偽持統)は則天武后+偽唐諸勢力の仮面。697年鵜野讃良皇太后死去は、飛鳥藤原王朝が軌道に乗ったので彼らが列島の運営から手を引いただけ。697年大葬とは、695年に戦死した高市の葬儀のことをずらして書いただけ。
41持統   =藤原不比等(鎌足の甥?子・文武に生前譲位し、太上天皇となる)
■藤原鎌足=亡命百済王族。百済義慈王の弟。高宗・則天武后がこの兄弟に近づき、倭を裏切って唐と組めば百済を復興支援するとそそのかす)
42文武   =不比等の嫡男、母は高宗・則天武后の娘である元明。不比等=持統に生前譲位され、唐勢力にあやつられる。蘇我の娘宮子を后とする。病弱で707年敗血病で没。宮子を推したのは高市の子長屋王。
○長屋王:藤原勢力に取り囲まれつつもしたたかに賢く生き、不比等に人間的に気に入られていた。
○宮子:蘇我の一族石川家の娘で入鹿の孫娘。672年大津朝の敗戦で土佐に流刑になっていたのを長屋王が飛鳥に連れてくる。文武の妃となり701年に首皇子(後の聖武天皇)を生む。
43元明   =不比等の正妻。高宗・則天武后の娘、太平公主とは姉妹。娘元正とともに宮子に悪質な嫌がらせ。首皇子を宮子から引き離し、元正の養子にさせる。これには高市の妻吉備内親王(高宗の孫娘)も加担。藤原四兄弟と長安の太平公主も元明と元正の支援に動く。しかし712年に唐で即位した玄宗が、武則天一族の粛清を開始、713年太平公主が失脚、処刑されてから、元明は危機を感じ始め、不比等の没前に娘元正に生前譲位。不比等は粛清の恐怖に怯えつつ720年死去。
44元正   =不比等と元明の娘、日高皇女。母元明に生前譲位され、玄宗勢力のゆさぶりに怯え、観念して724年甥の首皇子に生前譲位。
45聖武   =父は文武、母は宮子。百済+唐+蘇我(北燕・高句麗・昔氏新羅)の血をひく。長屋王は大日霊女の様な全てを包括する祀りごとの長を彼に望んだ。蘇我王朝復活を阻止せんと、藤原四兄弟と元正太上天皇は729年に長屋王に謀反の嫌疑をかけて拘束・処刑、蘇我大津王朝は完全に滅亡。聖武は長屋が免罪であることを知っていたので国葬とする。藤原四兄弟は737年大流行の天然痘で相次いで死す。

聖武天皇を切り口にして考えるところがあります。伝説としての大津皇子造形にも関わる「山越え阿弥陀図の謎」に繋がっていきます。
これは九州の小倉の池周辺が舞台となります。ここに倭国(大日霊女から繋がる筑紫王朝)の聖地があったと考えています。詳細を書いていくのは大変なので、場をあらためてとは思っているのですが、ほんのちょっとだけ前ふりしておくと、宇佐神宮とは駅館川を挟んで西方になる小倉の池に臨むと、稲積山のコニーデ型の秀麗な姿が見えます。一部の阿弥陀来迎図にはコニーデ型の山のあたりから阿弥陀の一群が池のほとりの寺に来迎する図になっているものがあり、稲積山と小倉の池の構図になっているのです。稲積山は辛嶋氏の聖地でもあります。小倉の池の周辺に元祖・東大寺があったという説があり、池のそばの山越しにそれを望む地に拝殿という地名があります。山越え阿弥陀は拝殿から望む元祖東大寺の阿弥陀像というわけです。夜にもう少し書けたら書きます。
4060
返信する
双子の件 (りひと)
2016-06-03 09:48:45
禮月さまへ
善徳と入鹿なのですね。今までは徳善が好きではないので入鹿の方が歴史ではやられてるしとそっちかと思ってましたが、やはり蘇我八代をみると入鹿は特に異質に思います。双子であれば私は穏やかな方が神事系、勝気な方が政治系に傾くと思うので善徳のが穏やかな印象を持ちます。先ほどみたら地震で山都郡が気になって調べると恋の神社が出てきました。祭神の中に阿蘇都姫が出てきました。私が阿曽姫好きで熊本阿蘇ならとこちらのサイトの質問したのも関係が出てきそうです。阿曽姫は吉備だっけ?最後は。話を戻すと阿蘇都姫が子宝の神である可能性が高いですし、この前の産山だけでなく熊本で木製の柄杓やしゃもじの信仰は残っているようですよ。多賀と春日と同じ。槍の関係では木+石で母は木の神のように感じますし、ベンガラ石橋穴生とすれば石が父ありその象徴で槍なのでは?と思います。石由来の鉄も範疇にははいるかな。日槍、太陽の槍?ゆっくり探します。

古墳の中で発掘されるのは木は無くなっていたら先端が残る、木片はゴミとして処理されてしまう事が多いようで木片を保存してくれている研究者がわずかです。ただそういう実際やってくれている方もいるので今後は安心です。

山都には縄文遺跡で巨大な神殿、柱穴のある場所もあるようなので槍がふさわしい場所だったかもしれませんね。

双子に関してはヤマトタケルさんも同じイメージです。ただ関東まで戦いに行ってるので戦い系なので入鹿系、もしも善徳に娘がいたら彼を守るとすると弟橘媛。九州にも信仰ありますね。

双子なら母は同じと思いましたが、似ていない。また異母兄弟もありですね。あまりにも気質が違うなら異母でしょうね。
善徳のお墓が九州なのであれば神事のメインが九州であった可能性もあり。政治は近江に移行して神事も奈良へいられない理由があったはずですね。
神事があれば槍はどっちか?それとも二つか?近江朝がなくなったのを考えると奈良にいき、そこに政治の方々も入ってきたら?奈良の古墳はかなりエリアが近くてみ種類が違う所が共存しています。
琵琶湖の西と同じ様相、ただ琵琶湖の西は短期間だったからか聖徳太子が守っているところもありますね。

流れは少し見えてきました。

阿蘇都姫を瀬織津に近いとするサイトもあるようです、祓いの神の巫女なのは確かでしょう。例の比較で考えれば倭姫王と似ているかも?気質の穏やかな一方がその筋だと考えられるかな。8527、9442
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善徳と入鹿 (禮月)
2016-06-03 12:28:52
すずたま様
昨日のりひと様の考察を読んだ所、私も善徳と入鹿は兄弟が正しいのではないか?と思えてきました。事実伯母も「ラジオの人は蘇我氏の系図も、大なり小なり書き換えられている部分がありそうと言ってたわね。私もこの二人は双子か異母兄弟だと思うの。」と話しています。

りひと様
私も誤字やら誤変換やらが多いので、私の書き込みを解読されるのに苦労されていませんか?
本当に恐縮です。
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禮月さまへ (りひと)
2016-06-03 14:22:57
そんな事言ったらこちらのサイト見てる方はりひとの方がかなりやばいし、そのままだしって笑ってると思いますよ。

蘇我さんは名前が複雑で出てきた所で見たりはしてましたが、難解でして。
ですが今回、順番も蘇我の中でも私達に関わる所をピックアップして頂きありがとうございました。重労働だったと思います。お疲れさまでした。

内容はとても分かりやすかったです、八代との比較でも。
先ほど色々調べていたら入鹿の兄弟が異母との考察は存在するようです。みんなが疑問に思っていたり独自の目で見てもらうのがいちばんですね。常識ってそもそも基準で動いてはいけない物でしたがそれに疑問を持ち行動している方のおかげでトリックから抜け出せているのかもしれませんね。イエスマンは嫌い方なので相手の意見を受け入れてその後自分でどう思うかの作業したいと思います。

逆に迷惑かけているのは私の方です。
温かい対応感謝しています。
今後のご活躍応援しております。
禮月さまの月って意味ありそうですね、日にも星にも繋がりそうで。5295
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時間がないので簡単に (禮月)
2016-06-03 15:50:43
伯母がまたもやラジオを聞いたらしく、蘇我蝦夷は蘇我家の人間ではないそうです。「今度は別のコメンテーターの人が来ていてね、その人が蝦夷は善徳の乳兄弟で、善徳の腹心として働いたとの事。秦河勝の関係者じゃないか?っていう事よ。」

取り急ぎここまで書きます。
返信する
禮月さまへ (りひと)
2016-06-03 22:02:53
やっぱり臭いと思ったら蝦夷という名前で秦よりですかあ。入鹿も当然そっちよりですね。ということで双子近い乳兄弟は蝦夷と善徳。上手い具合に名前が反転してる裏の勢力図ですね。ということで私は善徳を追って、葛城の母に行きたいのですが、母については阿蘇都姫の流れかはまだグレーとしておきます。
ラジオの性能が良すぎで、聞きたい事が出てきますね。

乳兄弟って昔ドラマあったけど、一人の親が育て一人が本物の息子でもう一人が血はつながらないけど愛情込めて育てたって事かな?すると玉依姫の系統が母になってるかなあ?善徳のお后さまは、豊玉さんか玉依姫さん系かどちらかですね。いつかみた夢の赤ちゃん持った方はどちらかですね。秦さんが駆らんできた方が玉依姫さん系でしょうね。
ありがとうございます。1943
くまもとには両方の関係がいますね。
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善徳・入鹿・蝦夷 (禮月)
2016-06-04 01:24:42
私も伯母が効いていたラジオを聞きたい位です。(苦笑)でも、私では絶対に聞けない様な気がしますね。

禮月のH.Nの由来は前にも書いた通り、頭の中に男性とも女性ともつかない不思議な声で「禮月」という文字が響いたのです。文字が響くって変な表現ですが、そうとしか表現の仕様がありません。

伯母「蝦夷は秦氏の出自みたいだけど、馬子・善徳そして入鹿の懐刀として活躍したらしく、馬子も息子の様に可愛がっていた様よ。無論馬子と蝦夷には血の繋りがあるのかどうかは判らないし、ましてや親子ではないけど。単なる乳母の息子ではなくて、馬子にとっては一族と同等の存在として見なしていたって言ってたわね。」との事でした。

所で、さくら様という方が妙見様と縁の深い方の様ですね。吉田様の祭祀に対しても。心強い助っ人になりそうで私も嬉しいです。
8317
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妙見祭りで調べてみたら (禮月)
2016-06-04 09:46:13
八代の妙見祭りの行列の中に、槍と刀と弓を持った一団が含まれますが、このお祭りの中に「妙見の槍」の存在に関するヒントが隠されていないかな?と考えています。
八代のお祭りのみならず、全国の妙見に関するお祭りや祭司を調べて行き、平将門の乱と関連付いているものがあれば、『蘇我一族の神器としての妙見の槍』に一歩近づける事になりそうです。

話は変わりますが、蘇我馬子が崩御した天皇対する歌の中で自らが呉王朝の末裔である事を歌っているものがありました。そのサイトの管理者の人は馬子が書いた呉の意味を「一般的に呉とは、古代中国の王朝全体を示す枕詞みたいなもので、三国志の呉の末裔という意味は無い。」と解釈されていましたが、私には明らかに馬子が、春秋戦国時代の周や楚の呉人(魚是人)の血を引く末裔である事を歌っている様に思えました。

伯母がくれた新情報によれば、「百済は西暦500年に突入した辺りから、中国の王朝の傘下に入ったグループと倭国の傘下に入ったグループとに分裂していたそうなのよ。」更に「日本書記で舒明天皇と皇極・斉明夫妻とされている人達は、百済王と百済王妃の事だって。敏達と用明も馬子や善徳とは縁もゆかりも無い人達らしいわ。日本書記の皇統上、舒明と皇極・斉明にされた百済王と王妃の事じゃないか?って今度のコメンテーターの人は言ってたの。だから本来、つまり舒明の位置に敏達が来て皇極の位置に用命が来るのよ。女帝・推古の正体は馬子の正妻で、物部大臣の姉か妹らしいわね。つまり善徳(聖徳太子)は馬子と推古の息子なの。」

続きます。
1436
4241
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吉田一氣 (禮月様への返信)
2016-06-04 11:01:43
例えば蘇我氏と深くかかわる武内宿禰公由来の
槍であれば
一般的には日本武尊が拝領したとされる
比比羅木之八尋矛がありますね。
この矛は鹿児島の伝承では弥五郎どんが持っています。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/e58c2b7ea8e62fc55753e50b45ded78a
比比羅木之八尋矛は伊邪那岐と伊邪那美が
修理固成の際に使った天沼矛=天之瓊矛ではないかと
私は思っています。
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弥五郎どんの槍 (禮月)
2016-06-04 12:37:44
吉田様
弥五郎どんの槍が『妙見の槍』の可能性がありそうなのですね。ありがとうございます。
伯母曰く赤兄(總持)と高市皇子は隼人を従えていたので、その理由に弥五郎どんの槍が関係しているかもしれませんね。

天皇の系図は以下の様になるみたいです。
欣明、
推古(馬子)
舒明(善徳)
考徳(入鹿)
天智(連子)
斉明皇太后(倭姫王)
弘文(果安)、總持(赤兄)二人同時即位
天豊九州天皇(高市皇子)
崇俊天皇(長屋親王に聖武が追尊)
2164
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補足説明 (禮月)
2016-06-04 14:49:43
敏達・崇竣・用明は、本来生きていた時代よりも過去に遡らせて、馬子と聖徳太子の時代に持ってきたそうです。更に敏達と用明に到っては、倭の王族ですらありません。不比等が自らの出自と皇位を正当化する為の細工だとか。
崇竣は長屋親王に敬意を表したのと、隼人や熊襲、昔氏と鶏林氏への配慮から、聖武天皇が649年に追尊した即位名だそうです。
更に釿明天皇(蘇我高麗)の次は稲目なのですが、稲目の即位名は「健仁または健忍・けんにん」だったとコメンテーターの人が話していたと言っていました。
4063
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蘇我氏の遺跡 (禮月)
2016-06-06 13:19:19
昨晩も伯母が出てきました。

伯母「蘇我氏にはね、家紋があったらしいの。戦の時の軍旗や舘の彫刻にも彫られていたそうよ。」

私「蘇我氏の紋章!?」

伯母「そう。亀とサンザシの花がモチーフになっているらしいの。発掘をして亀とサンザシが出てきたら、蘇我氏に連なる一族の遺構である可能性が高いって。」

私「亀とサンザシ?紋章ってどんなデザインなの?亀とサンザシはどんな風に図案化されているの?」

伯母「それが、私も実際のデザインを見てないから、何とも・・・奈良県や他の近畿圏内も含めて、九州や中国大陸北部も発掘する必要があるらしいわね。」

私「中国大陸って・・・中国は広いよ。こりゃ大変そうだね。(汗)」

伯母「華北の省、例えば山東省とか遼寧省、吉林省辺りが有力だって。」

私「え!場所判ってるの?」

伯母「大体はね。本当は北朝鮮も発掘すればもっとわかるらしいんだけど、今の北朝鮮が発掘調査に協力するとは思えないから、北朝鮮は諦めた方が良いわね。因みに言っておくけど、蘇我氏は現在の朝鮮半島に住んでいる人達とは違う民族よ。勿論中国の漢民族ともね。7世紀までの中国北部と朝鮮半島も人種のルツボだったから、今の朝鮮半島と中国の東半分とは民族が全然違っていたの。」

だとの事です。
1367
4370
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きたきた! (りひと)
2016-06-06 18:59:44
家紋いいですねえ。亀があってほっと。
そしてサンザシですね、調べてみます。
今気になっているのは、水の綺麗な地に生える梅のような小さな白い花付ける梅花藻と、先ほど気になったコアジサイ。
タイミング的にはコアジサイなら凄いですが。懐風藻の勉強会でもおっしゃっていたのがお花を和歌に話題にする一つステイタスみたいなものはアジアにもあまりなく日本のが早そうだと。また日本でも梅が早そうですね。どちらも小さい可憐なお花でしょうね。

2016/6/6の6時台に蘇我と亀が繋がって嬉しいです。
昨日天王祭で大好きな飛鳥大神さんに挨拶してきましたが、お祭の時はみんなの腰掛け場所でお参りも恥ずかしいほどでしたかがしてきましたよ。飛鳥の由来も例の亀石の表紙の講演会でも阿須賀とか言ってましたが蘇我も直結しそうですね。
そう境内に青面金剛さんもいるのですが射的のテントの裏。ひっそりと守られいます。

サンザシ聞いた事もあり、桐竜胆っぽいのかなあ?でも意味合いはコアジサイか梅花藻が近いとおもいます。9931
水神ですね。
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中国由来の生薬だ! (りひと)
2016-06-06 19:12:57
禮月さま
凄すぎ、証明するにはそこしかないんですよ。そもそも植生は変えられないし、それがある事実で判断する事が出来る。バジルの花粉と同じルートで来ていますね。
やっぱり五弁のような?白いお花。
中国とかのお菓子とかも特殊な味しますもんね。

サンザシとても意味ありそうですね。
すみません。桐竜胆ではなく笹竜胆の間違いです。あのお花みたいなのが星三つ付くというのはどうかな?調べてみます。亀の紋も神社で二つあるとか見たような?

そうそうやはりあのイトーヨーカ堂の下を日本政府がどうするのか?日本人のための政府なのかその歩みで見守ります。
3061
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サンザシとコアジサイ (禮月)
2016-06-06 19:16:32
りひと様
サンザシとコアジサイの花は見た目が似てると思います。遠目で見たら見間違えてもおかしくありません。果実を採るサンザシの花は原産地が中国東北部からシベリアで、5~7月頃が開花時期です。北燕の都が龍城で現在の遼寧省なので、ずばり果実サンザシの産地の範囲内ですね。

古墳時代の列島にはサンザシが輸入されていないので、蘇我氏がコアジサイの花を見てサンザシを思い出した可能性は否定できません。
7338
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伯母が凄いんです。 (禮月)
2016-06-06 19:19:41
りひと様
凄いのは伯母ですよ。
私の力では、この様な情報源に辿り着く事さえ不可能です。
6633
凄い数字ですね。
返信する
果安が元号でありました? (禮月)
2016-06-06 23:29:13
九州王朝説はマイナーでもないのでしょうが、その中に九州王朝専用の元号があるというテーマがあります。

何と驚いた事に『果安』という元号が記載された資料も存在しているのです。しかもこの『果安』は西暦672年で弘文天皇(大友皇子)と蘇我果安の没年と同じではありませんか!!これは、伯母がラジオで聞いた言う「大友皇子(弘文天皇)イコール蘇我果安」の根拠としてかなり有力なものになり得ませんか?

日本書記や古事記だけで列島の歴史を語るべきではないでしょう。魏誌倭人伝、後漢書東夷伝、宋書、晋書、黎書、後唐書等、大陸の歴史書とも照合して史実を解明すべきです。
ただ後唐書は唐にとって都合の悪い事が書かれていないので、そこを考慮する必要があります。とはいえ、西暦600年代の列島が二朝並立状態だった事を書いているのは、評価できますが。
4006
返信する
吉田一氣 (禮月さまへの返信)
2016-06-07 00:17:23
『果安』という元号について興味深いですね。
知識がなく良く解らないのですが
九州年号の朱雀 01年が
経緯が分からないものの
私年号(逸年号)で『果安』と
なっているように思えます。
九州年号 684 朱雀 ← (ナシ) 朱雀 果安
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nengou.html
九州元号 673 朱雀 01年(果安)
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/siryou/e-kyusyuG.htm
私年号一覧表 687 果安 持統天皇称制時代 1年
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi12.html

いずれにせよ『果安』という消された年号があったと
みて良いでしょう。

返信する
古賀達也氏のサイトで見つけました。 (禮月)
2016-06-07 01:33:49
吉田様

果安という年号が672年という説は、古賀達也さんという方のサイトで見つけました。
668年から671年迄には大元か中元という年号もあったとの事ですから、伯母の「連子(天智天皇)の后で果安の摂政だった倭姫王が没したのが667年頃みたいよ。」の話にも合致してきます。667か668年~671迄は赤兄(大海皇子で總持天皇)も果安と同時に即位したとの事ですから、これも矛盾が少なく説明可能です。ただし、あくまで古賀氏の説が正しければの話ですが。

伯母の語ってくれた事が益々真実味を帯びてきたのでしょうか!?
8425
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古賀達也氏のサイトで更に驚くべき事が (禮月)
2016-06-07 09:32:17
古賀氏のサイトには、太宰府陥落後の九州王朝の残存勢力が熊本に拠点を移した事と、水城の形跡が無かった事から南方隼人とも友好な関係を築いていたのではないか?という考察がありました。

伯母の「筑紫が唐と藤原に制圧された後は、高市皇子が熊本の大津で隼人や熊襲達を率いて武則天・持統天皇として即位した不比等に従った近畿圏以西の諸豪族達の討伐軍と奮戦したのよ。」という話にも合致します。
ただ古賀氏は、鵜野讃良皇后と天武天皇の正体が武則天と高宗である事や、不比等が唐の皇帝夫妻の皇女と結婚して唐の婿養子となって「持統天皇」として即位した事。不比等と結婚した唐皇女が後の元明天皇で、妹に大平公主がいる事・・・等は勿論何も仰っていませんでした。この部分は伯母が独自に仕入れた内容だと思います。
6198
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先代旧事本記(禮月) (こちらに書いた方が良さそうですね。)
2016-06-08 09:39:41
物部氏の視点で書かれた先代旧事本記は、改竄と創作だらけの日本書記を補完する所望としては、画期的な本です。

けれども、古賀氏や古田氏という九州王朝支持派の方々からすれば、旧事本記も年代や時代が矛盾する事が多く、ある出来事や人物を過去に遡らせたり、逆に孫の代まで繰り下げたりした痕跡が見られるそうです。宋書や晋書ともかなり食い違っている部分があるそうで。こちらにも相等藤原の改造があるだろうと言っていました。

私も、善徳と入鹿は年の近い異母兄弟説を推したいです。
9538
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左義長って? (りひと)
2016-06-08 13:00:30
最近ダムへの転落事件の場所で興味持っていたらulalaさまの記事にコメント書いていて久々に覗いてみました。

その中で神社のお祭りに左義長があり左義長を調べると人形とか塞の神とかも各地で色々あるようでびっくりしました。
その祭神の中には妙見宮というのもありますし、人柱不詳もあります。
まだまとまっていませんが、海神由来の火と炭の神事ならば風も不可欠で、江戸時代は梵天天王とか?どうやらこの辺りと阿蘇も関係ありそうに思います。

近江の白鬚さんは5/5あたりがお祭りで、東京の白鬚さんは6/7。そして今年もうっかりしていましたが風のお祭りが五月にあるんでした。梵天。
梵天は6/7の牛頭天王のベースにあるようです。

大阪の河内長野の梵天と熊本の長野と付く祭神と近江の白鬚のベースに梵天、風はありそうに思います。
火祭りも風の神の関係のように思います。

うさぎとサギも紙一重と思っていましたが、左義長も関係を急に妄想しはじめました。もう少し理解してまた。
4852
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蘇我日向も天皇 (禮月)
2016-06-09 09:30:29
伯母がまたラジオを聞けたそうで、今度は「蘇我日向」も天皇だったと語っていたそうです。

伯母「蘇我日向は655~661年の間大王だったって言っていたわ。日本書記では斉明女帝が治めてい事になっている時代かしら。日向は考徳天皇こと入鹿の息子か甥で、半島の百済と高句麗がほぼ壊滅状態で多数の難民が押し寄せて来た事唐の追撃が激化してきた事を受けて、太宰府で大王に即位したと言っていたの。この間の番組の人は、連子の后の倭姫王が斉明だと言ってたけど、今度のコメンテーターさんは日向を斉明天皇に当てていたわね。それで日本書記で女帝・斉明とされる宝皇女だけど、本当は列島に亡命していた百済王妃の事ですって。宝皇女の夫は百済王で本物の敏達だって言っていた。敏達は本来640年頃の人間だったのを、50年過去に遡らせたんですって。それで敏達を本来は馬子の后だった物部姫の夫にしてしまったらしいのよ。そして宝皇女は本物の叙明こと善徳の妻の位置に切り貼りしたとの事だったわ。因みに用明天皇とは、鎌足の長男とされている人物の事で、僧侶になっていたのを還俗して倭国亡命王朝の百済王に即位した存在ですって。用明王も時代を50年位遡らせて、善徳こと聖徳太子の父にしてしまったらしいの。587年には倭国の大王に該当する人物の葬儀が行われていた記録は、隋代の文献には無いそうだから、西暦590年前後に用明という倭国大王は存在していなかったと解釈できるんですって。」
7443
4260
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ふたりの聖徳太子 (すずたま)
2016-06-09 09:33:35
「ふたりの聖徳太子」という本があったことを思い出し、図書館で借りて数ページコピーしたものを今やっと探し出して読んでみましたが、当時と同様私には難解。聖徳太子および蘇我氏の究明自体が超難解なのではありますが。
その本(関口昌春著)によると、まず出だしに「聖徳太子に多米王という兄がいた・・」とあり、要点は、多米王といわれる兄の太子と上宮の太子といわれる弟の太子の二人がいたというところにあるらしいのですが、多米王がちょっと気になります。

600年ごろの倭王アメノタラシヒコとか、上宮法王とかいろんな存在が聖徳太子像のモデルとなっているようですし、「倭王は天を兄とし、日を弟としている」という中国の史書の言葉も気になります。いろんな情報がバラバラしてひとつになれません。

アメノタラシヒコはヒコでなくホコ(北弧)が正しいようで、矛・鉾を思ってしまいますが、「法興」から来ているという説も。

善徳の兄弟である入鹿とは何者なのか?
(娘によると、入鹿は聖徳太子の理想を引き継ごうとしたが殺されたと言い、かつ私の父親は入鹿と縁があるとか言いましたが・・・?)
(入鹿がグレーなのではなく、日本に侵入した限りなくグレーな人々が黒幕となり、日本分断を図り、蘇我家を分断し、蘇我と物部を分断し、かつ入鹿を罠にはめたと想像しています。)

禮月様
伯母様情報は、すでに何人かの研究家に推測されている諸説の、推測では絶対に解決できない矛盾点を解決しさらに強力に推し進めるもので、決してトンデモでもなんでもありません。これを膨らませるだけで、すでにどこにもなかった本が一冊書けそうなほどだと思います。
伯母様はどちらかいうと親隼人・親蘇我で、私のルーツと似た系統なのだろうかと思います。
禮月様自体は別の系統も半分入っているので、禮月様自体の今後が期待されるのではないでしょうか。
例えば今私が興味を持っている「こうやの宮」の、気になる海人像は安曇系ではないかと思いますが、同じ海人でも隼人と安曇は敵対する勢力の援助をしたように思います。禮月様自体ではイソラにアクセスされているほどですから、親安曇であり、モノノベにも親和力はお持ちなのではないでしょうか?七支刀もその意味で禮月様自体に縁があるのだろうか?と思いました。

とにもかくにも日本にわだかまるものは、浄化されることが早急に求められていると思います。
頑張ってください、応援しています。
返信する
すずたま様 (禮月)
2016-06-09 09:55:37
蘇我は、確かに滋賀と熊本で「物理的に」分断されていますね。それをしたのは唐の武則天と武則天をも利用した外満州に住んでいた勿吉(後の靺鞨)族だと思います。

倭王アメノタリシホコ。
正に槍が王権の象徴になっているではありませんか!伯母さん有難う。
5916
返信する
お嬢様のお話し (禮月)
2016-06-09 13:51:14
すずたま様
お嬢様は入鹿の事を他にどの様に仰っていましたか?伯母の話では「入鹿が考徳天皇で、645年から655年迄倭国を統治したけど多分毒殺された」との事でした。更に驚いた事に、日向こと斉明大王は、熊本のククチか菊地に私邸を築いていたと言っていました・・・(これには流石に仰天です)なので日向こと皇極大王のお墓はククチだか菊地だかにあるだろうとの事です。

アメノタリシホコの天を兄、日弟という発言から、星の信仰をしていた様ですね。金星、シリウス、北斗七星・・・悪神として追放された天甕星や天香香背男や妙見菩薩そのものです。

それと確かに私には隼人と安曇両方の血が流れていると思います。母は大の沖縄・琉球嫌いですが、母の父は奄美諸島出身です。絶縁確定の父は石垣島や西表島や与那国島にが第二の故郷とまで言っていました。
1897
歪んだ労働力至上主義はこの時から始まっていそうです。
4153
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うわあ、消えた。 (りひと)
2016-06-09 17:12:19
今日は勾玉の日、また大作書いたのに。
では一言だけ

豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)はその筋の方でしょう。母妹も。父は誰かな? 4108
返信する
禮月 (すずたま様有難うございます)
2016-06-09 20:15:28
私は、超一流の能力を持つ巫女としての伯母の生きた証しを、必ず残したいと思いました。
自身の健康を犠牲にして労働力を提供したり、個人が一生掛かってもつかいきれない程の金銭や貴金属を集める事が、世の中と人類に貢献する方法では断じてない事を、証明したいのです。
あくまでエンタメのミステリー小説という形なら、日本国内外の学者様方の攻撃はかわせそうですね。

所で、百済という国も元来多民族国家で、一つに纏めるのが大変だったのではないか?と思われます。伯母の話では、百済も500年代に入ってからは分裂したとの事なので、グレーな存在は百済王族や貴族に入り込んでいたと思われる非・扶余族の存在だと考えています。その中の一つが勿吉(後の靺鞨)だと思います。勿論他にもそうした民族はいたと思いますが。靺鞨兵が百済を裏切った為に百済軍は総崩れとなり、半島の百済は滅亡。倭も惨敗して天智(連子)、總持(赤兄)そして弘文(蘇我果安)の戦死並びに戦犯としての処刑という、あまりにも大き過ぎる損失を被りました。唐は列島に残留していた親唐派の百済王族に近づき共に倭の息の根を止めたのです。

りひと様
蘇我大王家の『妙見の槍』ですが、幾ら蘇我氏や石川家の末裔が見つけ出したとしても、『槍』が認める者が皆無なら、今上天皇陛下に預けてしまうのがベストかもしれません。『妙見の槍』を扱うにに相応しくない精神性の者なら、善徳も長屋王だったら、敢えて子孫に渡さない様な気がしますから。
1120
4790
返信する
もしかしてヒミコは・・・ (禮月)
2016-06-10 09:32:32
テーマとは外れた内容になりますが、ヒミコの人物像について「もしかしたら?」と思う事があったので書きます。
ヒミコという音の響きには、太陽または火山の巫女だったのではないか?と思わせる節があります。

よく呉人の末裔大日霊女や息長足帯姫等のヒルメと同一視されますが、ヒミコとヒルメは別人だなと思います。奈良の槇向遺跡や箸墓古墳はヒルメ関連の遺跡だと考えます。ヒルメと同属の崇神は、伯母情報を元に考察すると、玉名に都を置いていたそうですから、狗奴国に属しており、ヒミコとは敵対関係にあった筈です。奈良盆地への進出は崇神の子の開化・垂仁と孫の景行・成務の時代に行われたのではないでしょうか?

ヒミコに話を戻しますが、彼女の姿を見た者は殆どいないとの事です。彼女の言葉を弟王が聞き取って民衆に伝えていたとの事ですから、ヒミコは人前(特に民衆の前)に出られない状態だったのではないか?と思います。でも、外交や軍事は勿論祭司に関する事に関しては、的確な判断を下せる模様でした。私はこの部分を読み、常に神懸かっている状態、つまりトランス状態か何かにあり、常人が見ると精神異常者の様に見えた可能性があります。血縁者である弟王の夢に現れては、様々な助言を与えていたのかもしれません。意識のチャンネルと波動を神霊界にアクセスできた女神官でしょう。もしかしたらヒミコは伯母みたいな状態だったり・・・

恐山のイタコは盲目か弱視の女性が多く、琉球諸島のユタも心身に何らかの障害を抱えている女性が多いです。(イタコとユタには、少数ながら男性もいる様ですが)そして、この両者には共通する行動があります。それは山や小高い丘で儀式が行われる事です。イタコは恐山で、ユタは御嶽(ウタキ)と呼ばれる小高い丘でです。どちらも山岳信仰が根底にあります。イタコもユタも死者の魂が集まる黄泉の世界に精神をアクセスさせる為に山や丘に集まります。山岳信仰と狐憑が関連付けられたのは、山岳に上れば精神と肉体が異常な状態でも、精神を神霊界等の高次の世界にアクセスするきっかけを得られる可能性が出てくるからかな?と思いました。

ただ、ヒミコや伯母の様に神霊界の様な高次の世界に意識をアクセスできる様になる巫女や巫覡は数える程しかいなかったと考えられます。

政府も、そうした精神疾患状態にある人達を、一律社会のお荷物にしてしまうのではなく、もっと別で有益な人材活用方法がある事に気付くべきなのではないか?と思う次第です。ほんの少しの気付きと勇気が、途方もない国益を生む事だってあるかもしれないからです。
やっぱり神事と政治は不可分なのだと思いました。分離した結果、唐や今のアメリカみたいな誤った金銭及び労働力至上主義が生まれてしまったのでしょう。
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霊界ごと (はまだ)
2016-06-10 15:52:37
沖縄は存じませんが、九州には霊能力がおありになる方が多いような感じがします。
九州にある教団の教祖が、「精神病院に入院されておられる方の中には、すごい霊能力を持っておられる方がたくさんおられます。」と話されていたのを思い出しました。
禮月さまも自信をお持ちになって、伯母様の事を世に問うて下さい。
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いい流れですね。 (りひと)
2016-06-10 19:49:07
同じくそう思います。このサイトで話したかはわかりませんが、伝説や歴史の中には目が見えないとか耳が聞こえないというエピソードが結構ありますよね。私も日吉大社でも地元のおじいさんにこの神は耳が聞こえない(目が悪いと少し記憶が曖昧ですが)から大きな声で名前を言って呼びかけてからお参りした方が良いよと助言された経験があります。鈴も思いっきり鳴らしてお参りしました。

ある意味の個性だと思います。決してオールマイティが良い時代は無理していた時代。これからは、それぞれの役割を持った方がきちんとそのポジションについていないと対応出来なくなって行くでしょうね。機会や自動車の職人はそれ以外に走ってもどっちも終わってしまったらもともこもない。その分野の職人気質が大事です。その時に耳が聞こえないから劣るなんて発想をしていたら足元すくわれるでしょうね。

権力があり全てを手に入れたとおもいきや、その底辺にいる職人を大事にその分野を任せまたきちんとした特殊才能を認めた成果を与えなければ人類もこれ以上は無理なのでしょう。

縄文時代が今から3000年前で人間としてレベルを下に思っている方もいるかもしれませんがもっと高度な共同体だったかもしれませんし、奈良時代も医療技術が自然由来で副作用のない高度な医療を持っていたかもしれない。その証拠に古代遺跡の技術や天文学の知識をいまの人間は解明できてもいない。

常識とは恐ろしい事、身分とは恐ろしい事、ある面では優れていてもある面ででは劣っているいて万能ではない事が最近よーく分かってきましたよね。

子供の知的障害もやたら増えていましてそれも大きくなってからと分かる事も増えてきています。全部が出来る事を目指す教育だとそこからはみ出してしまうとその関わるコミニティーの方しか出会えなくなり成長がかなり止まってしまいます。

また普通の子達もそういうある分野が苦手の子がいるというだけで一つの経験になりそれを頭ごなしに怒る方法では切り抜けられない経験をすることで幅広い考えと観察力が養われています。親からはびっくりすることも。

隔離する事ではなくある意味このポジションならきっといいのでは?と判断できるリーダーは必要になってきていますね。本物の目を持っている方。
松下幸之助さんだったら出来ていたでしょう。組み合わせにも周到な策を練っていたようですから。

劣っているようにみたりせず光輝く凄さをみぬいてあげれるよう社会になると良いですね。万能じゃなくて良い、個性はただ先天性に近いとは思います。作るものではなく、元々あるものだとは思います。4611
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はまだ様 (禮月)
2016-06-10 20:25:31
はじめまして。
九州の宗教団体とは、どういう教団ですか。ちょっと気になります。
所で話は変わりますが、伯母が伝えてくれた内容を世に出す事に対して背中を押して下さった事を感謝します。

りひと様
知的障害者でも、ある特殊な分野では天才的な能力を持つ例では、サヴァン症候群がありますからね。欧米では、こうしたサヴァン症候群の人達を、犯罪捜査等活躍させる試みも行われています。「サラリーマンになれない奴は社会のお荷物」という思想は全く正しくないのです。飛騨高山に伝承が残る両面宿禰も、もしかしたら現代で言う所の奇形児だった可能性があります。現地での伝承では、両面宿禰は仏教の信仰に基づいた善政を敷いていたとの事ですから、統治者としても宗教家としても有能な人物だったのでしょう。

P.S
昨晩も伯母は「消された蘇我大王家」について、新事実を語ってくれました。
「本物の叙明こと、蘇我善徳の后の名前は『多米(目)女王・ためじょおう』か『多弥女王・たみじょおう』だったそうよ。」
との事です。
4446
三つの呉音霊に亀一匹
1481
何の西暦かな?誰かの生まれた年だったと思います。
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な~るほど (すずたま)
2016-06-10 22:48:18
善徳の后が多米女王ですか。
「古代神都・東三河」という著書のある方のサイトによれば、豊橋市に多米町があり、古代には多米はずっと広い地域だったそうで、聖徳太子にちなむ寺院がたくさんあるそうです。
厩戸の皇子・上宮聖徳太子の腹違いの兄「多米王」が真の聖徳太子で、かつアメノタリシヒコである、とその方は仮説をたてています。(東三河地方と聖徳太子)
私は厩戸の皇子・上宮聖徳が聖徳太子の本体である善徳だろうかと思いますが?では多米王が入鹿かといえば、そこまでは??
アメノタリシホコは東三河というよりは九州にいたと思うし。

ただ東三河という地は何かありそう。
神都の意味は、環太平洋古代文明に属するピラミッド群があるのだとか。伊勢湾に沈む遺跡があったりするのだとすれば、二見ヶ浦あたりもそのつながりか?
それはともかく持統はこの地方に度々行幸しており、それは例の恐ろしい「玉藻狩り」のためだったという説あり。
多米にあった聖徳太子ゆかりの血を断ったと思えばなるほどです。
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中部地方に残る謎の仏教国の伝承。 (禮月)
2016-06-11 00:22:33
すずたま様
私は、入鹿が弟で兄が善徳だったと思います。ただ古代の兄弟の順番は年齢ではなくて、序列だったとされているので、家系図上では馬子の皇后であるトヨミカスキ姫(物部姫・女帝推古)の間に生まれた善徳が嫡子で、小野氏出身の妃(妹子の妹か従妹らしいです。)との間に生まれたのが入鹿で次男坊扱いなのかされません。

それと、尾張地方には日本書記には書かれていない『盂波梨(ウパリ)』と呼ばれていた謎の仏教国があったという伝承もあります。『盂波梨』は、元々南方にあった、尼僧が女王の原始仏教を信仰する国だったそうですが、崇神・開化親子に攻められた為に、故地を捨てて現在の愛知県に逃れて、静岡県の浜名湖の辺りまで統治した国だったそうです。善徳の妃の多米女王というお方も、盂波梨国と関係がある方かもしれません。

もし盂波梨国の存在が事実なら、日本には既に崇神朝の頃には仏教が伝来していた事になります!
9437
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盂波梨! (すずたま)
2016-06-11 06:17:38
盂波梨とは初めて聞きました。
法興寺を建てるのに、「尼寺しか無かった」ので法師の寺を建てるよう勅があった、という書紀の記述を不思議に思っていましたが、やっと意味がわかりました。
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盂波梨が尾張の語源 (禮月)
2016-06-11 09:12:12
すずたま様

そのサイトの運営者さんは、盂波梨が尾張の語源になったという説も唱えていらっしゃいました。

伯母話では更に驚く新説があったらしいです。
「今の番組のコメンテーターさんね、鵜野讃良が持統天皇として在位していた期間と、則天武后が武則天として在位していた期間は共に690年から697年だったから、鵜野讃良と則天武后は同一人物だって言い切っていたわよ。事実鵜野讃良は天武が没してから4年後という不自然な時期に即位しているし、大嘗祭も692年にやっと行ったって言っていたから。大嘗祭を経ないで天皇になったのは、鵜野讃良くらいのものですって。だから天皇として即位したのは鵜野讃良ではなく、藤原不比等の方じゃないか?って。天武=高宗だから、高宗が没した683年から695年まで天皇だったのは高市皇子こと天豊天皇だったのよ。それと武則天には自分が産んだ皇女が二人いたんだけど、太平公主の姉の安定公主は生まれてすぐに武則天が殺害して、その罪を王皇后と粛妃に擦り付けては二人を処刑したでしょ。でもね、安定公主は死んでいなかったの。唐の人質だった百済王族の鎌足に預けたのよ。だから戸籍上は、百済王の親戚という形で百済貴族の娘として育てられていた。皇后となった武皇后は鎌足に、娘が結婚適齢期になったら百済王族の誰かと結婚させる様に命じたの。勿論自分が百済の外戚となって百済を乗っ取るつもりでね。最初は鎌足の長男で僧藉に入っていた定恵を還俗させて安定に嫁がせようとしたけれど、定恵は血友病だか何かの先天性疾患を患っていたから、還俗して百済王・用明王として即位して間もなく24歳で没してしまったの。その時は未だ安定も13歳か12歳位だったから、用明王妃にはならなかった。そこで武皇后は、鎌足の甥か大甥の不比等に目を付けた。不比等が結婚可能な年齢に成長するのを待って、安定は唐公主として不比等に嫁がせたの。事実は不比等を唐の入り婿にしたんだけどね。この時安定公主は18歳~20歳位で不比等が13歳~15歳位だったみたい。後に安定公主は元明女帝として、息子文武に先立たれた後に即位していたのよ。」

実際中国でも安定公主は密に生かされており、何処かの異民族の王妃になったという都市伝説は、かなり昔からある様です。
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禮月さまへ (はまだ)
2016-06-11 11:59:09
お尋ねの教団は福岡で立教されて、現在熊本に本殿がありますw。
柴燈護摩を奉祭しています、「宗教はそのうちなくなるよ」
とも仰ってました。
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情報を有難うございます (禮月)
2016-06-11 12:33:00
はまだ様
例の宗教団体に関する情報を有難うございます。詳細を調べてみます。
伯母に関しては、中立な視点で彼女が見聞きした様々な事を、私に語ってくれていると思います。
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禮月様 (はまだ)
2016-06-11 13:56:03
ネットでは多分でないと思います。
もうご高齢です、昔は家に行列ができて評判の霊能者だったようです、除霊するだけでは根本的な解決にならないと、心の持ち方の指導など採りいれ立教後も悩まれて試行錯誤されていて人間臭く、理解するのが大変でした。
教団もつぶそうと大きな爪痕を残されたりと、大変そうですが、伯母様はなにかに守られているような感じを受けます。

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尾張って怖い所で。 (りひと)
2016-06-11 16:40:40
梨がつくのですね。とっても嬉しいです。尾張氏って私の中ではかなりグレーで田原の鎌足系のイメージの方々にかぶって入ってきたのかなあと思っています。
熱田神宮絡みでもなんとなく嫌な感じなんですが、そもそもそこに国があり仏教がありそこに尾張氏がやってきて追い出したとすると納得出来ちゃいます。
穂の国と友人が記事を書いていて私も穂の国を何かを調べていて出てきて特に私と縁がある字でもあるし気になっていましたがその国って穂の国かなあ?少し調べてみます。

それから女帝に対してのおばさまの見解が超納得しましたよ。鎌足の長男は難逃れしていたのですね。良かった。不比等は捕まってしまった。事実を知っていると相当苦労したでしょうね。そう不比等の子なのですがこの前知ったのですが、三人は同じお母さんで一人違うのって?ちょっとそれも調べてみます。

うちはあのお邪魔のコメントとから子供にやけどさせちゃい、昨日も今日も頭痛です。切り込みすぎたようです。

違う角度から行こうと思います。

もしも尾張に仏教あったならば観音信仰だと良いなあと思います。物部守屋さんの息子さんが立てたお寺の前身とかで。物部さんが観音捨てたってのが信じられず神道よりで捨てたならばわかりますが聖徳太子との争いも仏か神との争いとも言えませんし、ただそこに中臣がその後に活躍するために確実に没落していますので。藤原も後に阿弥陀三尊の中に観音いれている所も考えると観音へのやましい気持ちがあるでしょうね。
勢至菩薩は蘇我への供養かとも思います。

米と目でいくと久米がやっぱりと絡んできます。大日経の関連も早い段階で来ていたのに消えていて南都六宗と兵庫の寺も継承していくのかなあ?と思いますね。千手観音になってくるのでしょうか?

仏教の中も色々あるんですねえ。複雑です。

伯母さまのTVのコメンテーターさんにより伝えたい重要ポイントが違うようでとても興味深いですね。
鎌足やっぱり加担させられていましたね、鎌足は償いの為協力してくれる可能性もあると信じたいですね。長男さんの定慧?だったかなあ、名前が違うようでしたね。この方も間違いなく慰霊に同行してくれるふげきになってくれそうに思います。百済っていざという時強いんですが若干脇が甘いというか、熱さ故なのか?王子って家柄いいからのんきというか人が良いというか加藤さんも百済のイメージなのですがどうでしょうね?加賀の藤原氏と解釈できるみたいですが。伽耶とか新羅とかガツガツとは百済はちょい違いそうですね。
百済観音って何かでやったなあ、単純に百済+日本で百済観音だったりして。
法隆寺にもあったような気がします。
5325、7561
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はまだ様とりひと様へ (禮月)
2016-06-11 20:12:50
はまだ様
ネットでは検索できない組織なのですね。
話は変わりますが、やはり伯母には果たすべき重要な使命があるのだな、と実感しています。施設での彼女の状態を鑑みるに、彼女に対しては何の加護もあたえられていない様に思えますが、夢の中の彼女は何人たりとも侵すことの出来ない位に強靭で崇高なのです。

りひと様
蘇我大王家が信奉していた仏教と唐王族が信奉していた仏教は、全くの別物と言って良い位教義や根底に流れる精神性が異なりますよ。
蘇我大王家は、あくまで「統治者とは仏法の下に置かれるべき」と考えていました。対照的に唐は、「仏法さえも自らの王権強行の為なら利用してやる」です。

鎌足と定恵は完全に唐に生殺与奪権を握られていた様なので、心中複雑だったと思います。とにかく怖かったでしょうし。但し不比等はそうではなかったみたいです。

伯母「不比等はねぇ・・・物心付くか付かないかの頃に、高宗と武則天が引き取って育てていたらしいからね~人質とはいえ、格段に待遇が良かったらしいわよ。高宗の皇子達と同じ内容の教育を受けたり、太平公主とは実の兄妹みたいに過ごしてきたみたいだから。不比等にとっての肉親とは、高宗と武則天と太平公主だったらしいからね。まあ、他の皇子達は面白くなかったでしょうけど。つまり不比等は完全に唐の人間だったらしいわ。」

との事ですから。
因に伯母はラジオを聴いていたと言っていますよ。

藤原氏にも、少数ながらまともな人達は確かにいましたからね。観音菩薩を奉ったのは、藤原北家の人達ではないでしょうか?
5011
8779
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ありがとうございます (りひと)
2016-06-12 00:49:41
私も鎌足は好きですが不比等はまさに封印した側と思っていましたし、伯母さまのお言葉では子供の頃からの教育はすでに違っているのも現世に当てはめれば治るわけもなく見込もないと理解できました。人が良い部分もありますが、不比等には同情の余地なしというスタンスで行きますね。
ありがとうございます。

今アマノコヤネさんについて気になってきているのですがこの方蘇我善徳さんをモデルにしていないかしら?と。伯母さまから小屋根さんの事出てきたら教えてくださいね。タケミカヅチさんも同じよう周りの関係です。上手く使い分けているようにも思います。鉾を持っているなら小屋根さんのがいいなあと思いますけど。6206
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コヤネとミカヅチは感応がありませんね。 (禮月)
2016-06-12 18:59:50
りひと様
アメノコヤネとタケミカヅチは、何故か感応が無いのです。よくわからないけど、血統とか霊統の問題でしょうかね?伯母も私も今の所は感応がありません。

伯母がまた新な情報をくれました。
仁徳~武烈までの血統も滅茶苦茶かつ、この時も北魏に王朝が一時乗っ取られたとの事です。

伯母「仲哀天皇と仁徳天皇が共に応神天皇の息子だって話したと思うけど、仁徳~武烈の間も大変な事があったのよ。先ず先に話すけど、息長足帯姫と武内宿禰の生きていた時代と、雄略天皇が生きていた時代は、それぞれ60年位ずつ後ろにずらされてるわ。日本では、神功皇后の三韓征伐が史実と捉えて、好太子土王碑文に合わせて神功皇后と応神天皇の治世を390年~420年としているけど、応神天皇と仁徳天皇迄は朝鮮半島とは割と有効な関係を築いていたから、戦争なんてあり得なかったの。新羅と高句麗に侵攻したのは雄略だから、寧ろ雄略の治世をこの時代に合わせないとおかしいんですって。そして雄略は仁徳と履中・安康兄弟を滅ぼして自ら倭国の大王を名乗った。反正と允恭は架空。王朝が交替していた事実をカムフラージュする為のダミーですって。高句麗と新羅が怒ったのは、仁徳を雄略が殺害したからなの。だから朝鮮半島と倭国は戦争になったのね。それに雄略の正体は北魏の皇子の一人だったんですって!」

一先ずここまで。
7666
8147
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少しオマケを (禮月)
2016-06-12 20:57:08
伯母「三韓征伐から帰って来た神功皇后と武内宿禰が倒した香坂皇子と押熊皇子のモデルは、履中天皇と安康天皇の事じゃないか?って言っていたわよ。それに倭の五王の事も、大王には即位しなかった皇子や宿禰と言った方々も含めて考察すべきだってね。それと時代が60年位後ろにずらされている事も注意すべき事でしょう。」

ちょっと補足のオマケでした。
3857
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禮月さまへ (りひと)
2016-06-13 07:15:17
感応なしなら実態も?ですね、了解しました。頭は痛くはなくなったのですが、八代でまた大きいのが。辛いです。

伯母さまのお話、私も古墳群が集中している所、大仙のところで仁U+5FB7さんではないのか?三人一緒ならと考えていました。ただ仁徳さんはいい人そうですね、少し妄想改めてます。時代がずらされていることも先人達の研究と同じようにも思いますね。
今日は関東大雨、日枝に行こうと思ってましたがどうすべきか導き従います。8496 熊本の安全を祈ります。
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道武帝の弟が倭国に逃れたそうです。 (禮月)
2016-06-13 16:31:26
以下は伯母の話です。

「北魏という国はね、皇子が皇太子になるとその生母は死ななければならなかったの。だから、北魏の後宮妃や嬪達は男の子が生まれると直ぐに殺したり、家臣や使いの人間に預けたり果ては皇女として育てて二次成長が来る前に降嫁させたりしてたみたいね。道武帝の妃の一人もそうだった。彼女は息子を生まれて直ぐに家臣に預けた。皇子・(大泊瀬と仮に呼ぶわね)は成長すると養父母から出生の秘密を知らされた。自分の出自を知った大泊瀬は、山東省で将軍になり、既に先に百済に皇女として降嫁していた彼の異母兄弟や叔父達と連係を取って、百済でクーデターを起こして百済を半分乗っ取ったの。まあ、この時から既に百済には半分中国の勢力が入り込んでいたからね~なかなか統治が難しかったと思うわよ。大泊瀬は中国各地に散っていた自分の兄弟達との大軍を率いて山東半島から海を渡って九州に上陸したわ。そこで安曇族の王国の国王が治める国と交戦状態になったの。海軍を率いて奮戦したけど、結果安曇の王だった玉垂は戦死。次に田油津姫が治めていた八女王国も攻め落とした。その知らせは香椎の仁徳天皇の元にも届いたわ。仁徳も安曇王国の軍隊と共に交戦したの。でも、半分北魏の手に落ちていた百済が加わり、北魏・百済連合軍は香椎も陥落させた。結果仁徳も戦死。香椎を占領した大泊瀬は倭王を名乗って高句麗と新羅にも宣戦布告したのよ。何とか難を逃れた仁徳皇后の押坂大中姫と玉垂の后の豊姫は、河内にいた皇太子の履中と共に体勢を整えて香椎の大泊瀬軍と戦う事にしたわ。目的は新羅と高句麗と組んで北魏・百済連合軍を撃つためにね。この時の押坂大中姫の姿が神宮皇后として記録されてるのよ。豊姫は安曇王・玉垂の后の事。三韓征伐の話は対北魏・百済の戦争が、藤原不比等によって歪めて伝えられていたのね。だって不比等は元百済王族だから、百済の事を悪く書く筈がないもの。それに押坂大中姫は允恭の皇后ではなくて、仁徳の皇后よ。倭の五王には安曇の玉垂命も含まれるかもしれないって。」

一旦ここで切ります。
7040磯良と呉音霊。
4440呉音霊が3つ。
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神功皇后の三韓征伐は真っ赤なデタラメ (禮月)
2016-06-13 19:17:40
続きです。

伯母「大体自分の産んだ子供達同士が殺し合いしてるのに、それを止めない母親が何処に居るっていうのよ?本当に押坂大中姫が允恭の皇后で大泊瀬の生母なら、自分の産んだ他の子供を殺す大泊瀬を非難する歌くらい読んでいてそれが残っている筈ですって。それが無い時点で日本書記の系図がおかしい事が一目瞭然だそうよ。そして、三韓征伐の時代を記した韓国側の歴史書である三国史記にも、当時をリアルタイムで記した好太子土大碑文にも、中国大陸の南半分を支配していた宋の歴史書にも、倭軍は女が率いていたなんて記録は何処にも残されていないの。いくら男装していても女は女って直ぐにわかるし、ましてや身重よ?日本書記の記述は不自然な矛盾点ばかりみたいね。それと『神功』という称号を用いたのは大泊瀬の事で、倭の王・神功を名乗ったそうよ。史実の雄略は日本書記上の武烈天皇の事で、彼は大泊瀬の息子。実際の天皇家の構図は、仁徳の皇后が押坂大中姫で息長足帯姫。この二人の子供が履中と安康。履中の太子が清寧。清寧は虚弱で政務が務まらなかったから、実姉にして皇后の飯青皇女が政務を取り仕切ったわ。この時の飯青皇后の姿も息長足帯姫として記憶された。清寧と飯青皇后との間に生まれたのが、仁賢と顕宗。安康には娘しか生まれなかったから、皆安曇の王家に嫁いで行って応神朝と安曇王国家の橋渡しに勤めたの。」
5539
6181
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現世がしっちゃかめっちゃかで。 (りひと)
2016-06-13 21:12:13
伯母さまのお言葉を図に書いて理解出来てなくて追いつけてません。本当申し訳ないです。お腹の大きな女帝に関しては同じ見解です。

一つ、確認したい事があるのですが仁徳さんと表現している方は仲哀さんとは別の方でしょうか?これふと思っただけなのと明日日枝に行こうとも思っていまして、そこに仲哀さんと言われている足の付く方がいらっしゃるのでただのタイミングなのですが。

仁徳さんは、以前私の中では血はありましたが逆の勢力との板挟みだったのではと思っていました。初期はとても評判も良かったですし、ポリシー持っていらっしゃた。ただその後変化が起こったようなイメージではいました。
伯母さまのお話もまだ理解しきれていませんがそこだけ確認してみようかと。

応神さんも仁徳さんの血がありそうに思います。逆ですけど。

本当頭ではまだまだ練れていないのですがすみませんそこだけ先に聞いておきます。香椎に仁徳というのもおや?と思いました。

今日は行けずだったので明日、明後日と何か報告出来る事があったら伝えてあげたいなあとも。4887
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応神の子が仲哀と仁徳です。 (禮月)
2016-06-13 21:50:30
りひと様

仲哀天皇は応神天皇の長男(序列的な意味での)でした。母親は応神の実の娘で皇后だった方です。近親婚の影響が覚醒遺伝してしまった様で、次男(こちらも序列的な意味での)仁徳天皇が河内から大政大臣として仲哀を補佐していた様です。因に仲哀の后は安曇王の王女だったとね事です。
5731
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つぶやき~オシホネ~オシサカ (すずたま)
2016-06-14 18:27:47
頭が無理っぽくなっていました。しょせん歴史など無理な分野に引っ張り込まれたのが間違いの元、など弱気になっていた数日間。しかも何かが変に引っかかってきたようで、2日前、またもや頭痛と吐き気に。「アメノタリシホコ」が気になったあたりだったか?

隋書俀国伝に明記される「俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤」。倭国ではなく俀(タイ)国。
佃収という人の著書には、阿毎王朝は物部尾興が初代王とある。531年物部アラカヒが磐井の筑紫倭王朝を倒して肥前~筑前のあたり(筑紫より以西)に立てた「物部王権」を、さらに別系統である物部尾興が倒して552年に初代となったのが「阿毎王権」で、福岡県鞍手郡が本拠地とか。守屋は尾興の子で、守屋討伐は阿毎王権の群臣が王権を乱す人物として行ったこととか。

物部が出てくると、頭がぐちゃぐちゃしてくる・・・
「俀国」には、かつてのヒミコのヤマタイを継承したような感じがあるし、物部は親ヒミコ、親安曇だったと思う。
七支刀はこの王権のものではないか?(こうやの宮も俀国の本拠に近い)

聖徳太子モデルの一人であるアメノタラシホコと聖徳太子自身の関係を調べようと難解な「二人の聖徳太子」を読み始めて、やっぱり頭が無理なまま、ふと浮上したのが、

「忍坂日子人(おしさかひこひと)大兄皇子」

という存在。よくわからないが「筑紫太宰」の皇子だったらしい。この本に依れば、聖徳太子(多米王)と上宮太子と、この忍坂日子人大兄皇子が、3人の「聖徳な」太子だというが?
私には右脳的にひっかかる名前。
忍坂~呉氏骨の「忍」「押」。
「日子」は彦山(英彦山)の名になり、「人」は日十大王の日十(ひと)だとこの著者はいう。
(日十というと、私は丸の中の十字架を思ってしまう。イメージとしてはコプト十字の一種?十字のはじが太くなった「テンプル十字」を丸で囲んだもの。適当な画像が見つからない。彦山に飛来した八角形の水晶に浮かぶ十字はこれ↓?http://voidmark.fc2web.com/quartz3/grounding-2.html

どうしても気になるオシホミミ。
英彦山に祀られるオシホミミと香春のオシホネ。香春は銅と石灰石の山。私が気になる稲積山も石灰石の山。香春と同じく採掘のため無残に半分削り取られている。香春は英彦山山系になるらしいが、英彦山自体は何の鉱石由来の土壌だろうか?硅質(クリスタル)?

石灰石とは、わかりやすく言えばサンゴや生物の化石由来らしい。サンゴだけで出来た島、宮古島で感じた何とも言えない柔らかさ温かさ。台風接近で物凄い蒸し暑さなのに、足下からは不思議に晒されたように明るく乾いた空気感が心地よかった。あの懐かしさは何だろうか?山岳修験の方向にはいかない気がする。

・・・と、あやふやなつぶやきを書いていたら、禮月様コメントに「押坂大中津姫」の名が。
仁徳天皇の皇后で、「捏造された神巧」のモデルである、息長足垂姫とのこと。
大泊瀬~北魏も凄い。大変な事実が呈示されました。
伯母様情報で少なくとも歴史が糺される方向に再編成される可能性が見えてきました。
返信する
コメント出来るかな?14:07できなかった (りひと)
2016-06-14 19:50:57
禮月さま
ありがとうございます。
今日はびっくりしましたよ。コメント読めない状態で変な感じ。偶然なのか理由があるのか?
まあ、事実は変わる訳でもなくまた人の手があっても見えない世界の方のが強いのでその恩恵に感謝して流していきます。
私の中ではフタジリイリヒメという方が特に好きで仲哀さんのお母様か姉妹かだかだと思っています。伯母さまのラジオの話、図に書いてみようと思います。
シモテルさんかなあ?とも思っています。

今日何年かぶりに御朱印頂き、フタバアオイ、これも薬草かも?と。

そうたまたま台湾の方に聞いた玉山という山がやはり二つの峰で、二上山とか筑波山とか二つの峰がある山への信仰がこの仲哀仁徳辺りでないのかなあ?と。

熊本にもないかなあ?八代どうだったかなあ?

私の追っている双子はこっちの方みたいです。そう仲哀天皇の墓が河内長野市との説あるようです、ダム湖の件で調べた地でびっくりでした。

少し時間が出来たのと気持ちよくリフレッシュできたので少し考えてまた疑問があったらコメントいたします。
ありがとうございました。5111、9304
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私も頭がヘロヘロです。 (禮月)
2016-06-14 20:11:37
すずたま様

私も頭がヘロヘロ状態ですよ~(涙)
休みの日は寝坊しているんですが、目覚めてもかえって疲れてる位ですから・・・次から次へと衝撃的な事実が発覚し過ぎです。

アマ族や安曇族も、思想的な意味での物部集団に属するのか?と勝手に考えています。

「物部は人種はまばらみたいで、ユーラシア大陸全体からヨーロッパにも住み着いた集団がいみたいなんだけど・・・」の伯母の発言から、物部集団(敢えて一族とは言いません)は、凶奴じゃないかな?と推測します。事実凶奴は多民族国家みたいですし、ハンガリーを建国したフン族は正に凶奴だという説で固まりつつあります。それかユダヤ教徒だったか・・・

伯母の話を元に系図をさくせいするとこんな感じです。

応神長男、仲哀(皇后:安曇王女で豊姫のモデル)
応神次男、仁徳(皇后:押坂大中姫で神功皇后のモデル)

仁徳皇子:履中
仁徳皇子:安康(皇女ばかりで、皆安曇王国へ嫁ぐ)

履中皇子:清寧(皇后は同母姉の飯青皇女)
履修皇女:飯青(同母弟の清寧の皇后。彼女も政治的な手腕から神功皇后のモデルに)

清寧皇子:顕宗(伯母いわくこちらが長男)
清寧皇子:仁賢
顕宗も仁賢も母親は飯青皇女。

続きます。
6630
8120
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雄略の系図 (禮月)
2016-06-14 20:41:30
大泊瀬:(後の雄略天皇)
元北魏皇子で拓抜氏出身。皇太子の生母は殉死を強要される為、家臣に養育される。成長して山東省で武将になり、百済へ亡命していた兄弟や叔父達と共に百済でクーデターを起こす。そうして百済を半分乗っ取った大泊瀬達一行は九州へ上陸。安曇王国とや田油津姫治める八女王国に甚大なダメージを与える。安曇王・玉垂と八女王・田油津姫を殺害。仲哀と仲哀を補佐しに香椎へ来ていた仁徳もこの時殺害する。そして倭大王を名乗って半島も平定しようとする。

雄略皇子:武烈
父親同様、苛烈な暴政敷く。ただこの暴政は安曇、宗像、熊襲そして北魏寄りだった隼人にも愛憎を尽かされる原因を作り、次第に孤立無援になる。但し履中と安康を殺害している。
政治的に強かだった飯青皇后の巧みな外交政策により、高句麗、新羅、任那、そして倭に寝返った百済、更には南宋によって挟み撃ちにされる。それ以来北魏は倭に攻めるのを諦めた。
9110
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市辺押磐皇子と住吉中兄 (禮月)
2016-06-14 21:28:08
補足説明です。

市辺押磐皇子は、実は清寧天皇の事で父親は履中天皇。

住吉中兄は、安曇王玉垂の王太子で玉垂亡き後に安曇王に即位。后妃は安康の皇女。住吉中兄も幼くして即位した為母の豊姫の補佐を受ける。伯母曰く「この方は(多分姉上)が宗像に嫁いでいると思うわ。」
1662
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オシホミミは6世紀に田河郡大津邑に来た? (すずたま)
2016-06-14 22:37:03
以下はひもろぎ逍遥様ブログでみつけた彦山に関する記録の抄訳をさらに簡略に約しました。

『彦山流記』より抜粋
甲寅の年、中国の天台山の王子・晋が旧跡を離れて東に向かった。
晋が乗った船は「豊前国田河郡大津邑」(※)に繋ぎとめられた。今「御舟」という。
はじめに香春明神に宿を請うたが、地主神は狭いのを理由に貸さなかった。
次に彦山に登って、地主神北山三御前にその地を譲るよう要請した。
地主神は許斐山に移られた。
金光7年丙申の年(576)、敏達天皇の御代のことである。
(※豊前にも大津があったのですね!)

『鎮西彦山縁起』より抜粋。 
(前略)三女神は日の神の勅命で宇佐嶋に降臨した後、英彦山に遷ってきた。
そこで大己貴の神は三女神をめとって妃にし、北嶺に鎮座した。それで北山地主と呼んだ。
ある時、天の忍穂耳尊の神霊が一羽の鷹(※)となって東から飛んで来て、峯に止まった。
そこで、大己貴命は北嶽を忍穂耳尊に献上して、タゴリ姫とタギツ姫を連れて山腹に下り、その山を日子山と名付けた。
そののち、三女神は宗像宮へ、大己貴神は許斐山へと移った。
(※鷹が出てきました。八幡神の降臨と同型です。鷹と言えば秦氏らしいですが)

豊前国田河郡大津邑にやってきたのは「中国の天台山の王子・晋」そのものではなく、6世紀後半敏達の頃(時代としては蘇我稲目のとき)にやってきた「王子・晋を信奉する誰か」で、それを「一羽の鷹の姿をした天の忍穂耳尊の神霊」と言っているようです。王子・晋を信奉する誰かとは、呉系の日子?かもしれず、秦氏系でもあることになります。稲目が呼び寄せたのかもしれません。あるいは、その誰かに持ってこさせた「王子・晋の御霊のこもった八角水晶」そのものが問題なのかもしれません。香春で断られたとあり、それを収めることに対し、早くに渡来した同族?に拒否されたことになります。
そして重要なことは、その誰かが来る前に先住神である大己貴と大己貴が娶った三女神がいて、追い出されたことです。
追い出された先は、↓に図があります。
http://lunabura.exblog.jp/19783724

これらのことは、忍坂日子人大兄に関係あると思います。
日子山と名づけられたのも、大己貴が山を下りてからのことだとあります。
7770
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視点が凄いです。 (りひと)
2016-06-15 07:12:36
禮月さまへ

この辺りは歴史の研究者もアジアの情勢がわからないと辿りつかない視点で伯母さま凄いですね。

北魏なんて一般人(日本史)の方にはほとんど出てこない。私だけかな?そこが中心となり百済の一部がはまり、倭とその他朝鮮の国とが対立構想になりその舞台が日本であり大阪と九州とは?びっくりですが昨日図を作って理解出来ましたよ。
ただこれ北魏をブラックとして理解しないと出来ない事でしょうからそう簡単ではないので辿りつかないくらい大変なところです。雄略さんについては私でも違和感感じていたのでそこを視点にすると先の研究者も理解している方はいるかもしれませんね。先人のアシストも必要になってきそうです。

またダミー皇子が明確でそこに惑わされず済みましたよ。この手法は他の部分にもあるということもあり個人的には人間の過ちを言葉でなく行動でみるのに超役立ちます。個人的には歴史の中でやたら皇子と妃が多い方が違和感感じていましたがダミーはやっぱり存在しそうですね。それも本筋を隠す為にで。

時間をずらすことは先人でも指摘、60年というあたりも現世で二世代なら孫になるので父と母隠せるので有効なフィクションですね。

対立関係とその勢力との関係ともう一つ倭の五王ってのがひょっとしたら呉音かなあ?とも思いました。ゆっくりみていきますね。
妄想での倭の五王は、勝が応神、讃が仲哀、珍が仁徳、興が安康、武が履中、哲が清寧、満は市の付く方?
大事なのが済で玉垂、ここは全く形跡がないほど隠したい方なのでしょうね。

五王以外も出てきていたのでついでに当てはめましたがダミーがいないと迷う事なく時代や関係からスムーズでした。
まあ、真実があっても誰も違うとも言えるものでもないので妄想との事で記載しておきますね。

追記の豊姫さんが宗像にいっちゃたのも残念ですがそれがないと今もないのでよしとしています。その後の流れもかなり理解出来るお話だと思います。

私は八幡は避けていたので応神とそこにつるんだ仁徳さんは避けていましたが、なんと何と大事だったと頭切り替えましたよ。仲哀側だと敵なのかと思ってました。仁徳さんは偉い方なのはグローバルに評価されているのにも日本だけじゃないようですごい話。
いま、アジア史を海外で研究して日本に戻ってくる方も話しやすい風潮になってきているとも思います。(そうしないと日本は歴史繰り返しちゃいそうですので)

今後がいい方になると良いですね。
過去はいいから過ちを繰り返さないために知識を得たいですね。

禮月さまの伯母さまのありがとうございます。6232、5263
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りひと様 (禮月)
2016-06-15 08:22:31
豊姫は宗像へは行っっていませんよ。
住吉中兄が成長するまでは彼の摂政を勤めたそうです。宗像王家へ嫁いだのは、住吉中兄の姉妹です。安曇と宗像は、蘇我と物部みたいな関係じゃないか?との話です。(伯母曰く)

もう少し読んでからコメントして下さると嬉しいです。前にもお願いしましたが。

それともう一つ、どうでも良くない過去だってあると私は確信しています。白村江の戦いが、蘇我大王家率いる倭国対唐・倭から唐に寝返った百済、勿吉の連合軍、神功皇后と武内宿禰の三韓征伐が倭・新羅・任那対北魏・百済の親北魏派の戦いだった事も念頭に入れないと、今後の日本とアジア諸国の外交問題にも多大な影響を及ぼします。

りひと様と私とでは、やはり違う所がありますね。人間が違うんだから当たり前ですけど。
7557
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禮月 (すみません。ちょっと熱くなりました。)
2016-06-15 09:00:55
りひと様

ごめんなさい。ちょっと酷い言い方してしまいました。所詮は伯母が夢で語った内容でしかなく、その伯母も「私は歴史なんか全然解らない。ただラジオの人の言っていた事を伝えているだけ。そのラジオのコメンテーター2人も、自分達のコメントはあくまで仮説と言っている。」との事なので、色んな推測やら仮説が有って当然です。私はただ伯母が伝えてくれた事をここに書き出すだけで、考察までは出来ていないんですよ。だから、きちんと考察する所まで行っている分、りひと様の方が凄いです。

但し、現在まで連面と続いている過去(千年以上前から続いている)の恨禍があるのは事実です。この点に関しては、戦争に勝った側も自身の過ちを省みるべきです。

確かに大陸中国の歴史書は、倭や東南アジア等の国内外の異民族の事情に関する記述は、中立で公平です。しかしながらとてつもなく大きな落とし穴もあります。それは、自分達にとって都合の悪い事は一切書かない点です。今回私も神功大王(日本書記での雄略)と雄略大王(日本書記での武烈)を北魏の人間と判断した理由は、 高句麗と宋が詳細な記述を残していた事です。

それと、これも私の勝手な妄想でしかありませんが、倭の五王は本来「倭の呉王」だった可能性もないかな?なんて思います。

昨晩は、福岡て少名彦名に出会った夢を見ましたが、後述します。
1537
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すずたま様 (禮月)
2016-06-15 09:44:05
多利思北孤は物部出身?との説があるのですね。531年頃と言えば、倭の大王と王太子が相次いで亡くなった年でもあります。531年だと、馬子の父親の稲目の時代でしょうか?
物部ってやっぱりよくわからない集団です。神武朝が実は物部大王家だったという説はありますし。大国主と田切姫・田貴津姫が追い出されて呉音霊系の集団か秦氏がやってきた、というのも複雑な歴史ですね。

531年と言えば、高句麗の安蔵王と安平王の時代で、高句麗側の記述ではどちらもこの辺りに没しています。それも若くして。確か安平王の子供達は列島に逃れたという説がありますね。安蔵王の子供も逃げてきた説がありますが。
安蔵王と安平王が、安閑と宣化という説もあります。物部と高句麗・北燕の関係は?気になりますね。それとこの時の大陸の国家は、高句麗イコール倭と見なしている節があります。少なくても、この531年か532年には列島内で王朝交替があった事は確実でしょう。

面白いのが安蔵・安平と安閑・宣化兄弟の没年が調度35年ずつずれている事です。やっぱり応神と神功(雄略)の治世を60年位ずつ後ろにずらした事の調整かな?と思います。2世代位抜かしていますね。
2257
6702
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安平王ではなく安原王でした。 (禮月)
2016-06-15 11:56:16
安平王でなく、安原王でした。
すみません。
私はこういう所がダメなんです。

出雲の大国主は、卑弥呼の子孫と結婚して邪馬台国(邪馬壹・やまいち国の可能性もあり)
出雲・邪馬台(邪馬壹国)連合国を作ったという説がありますね。

以下は伯母の話です。
「卑弥呼の後継者の名前は『イヨ』で『トヨ』ではないみたいよ。邪馬台国は八女王国の事で、原始仏教を信仰していた尼さんが女王の国だったんじゃないか?って言ってたわ。」

これは、宇波梨?!
9891
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気になさらず (りひと)
2016-06-15 12:13:09
よかったです。関係者の姉妹ですね。
そこは大切なのでいいやり取りだと思います。今日は忙しく今赤坂います。まもなく神事はおわります。時間がなく考察も所詮オリジナル、巫女がこだわる所は特に大事なので遠慮なくたたいていいですからね。きっと追い風になります。
1879
五色の旗に槍のような突起物ありましたよ。
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邪馬台国は無くて邪馬壹国? (禮月)
2016-06-15 14:17:10
伯母「邪馬台国じゃなくて、邪馬壹(いつ)国が正しいんじゃないかな?奈良盆地のヤマト国とは別物なんじゃないか?って・・・」

衝撃的な内容です。

つまり、魏誌倭人伝にあるヒミコが治めていた国は邪馬壹国であって邪馬台国ではない。邪馬台国という国は存在しない。似たような発音のヤマト国はヒミコの国とは別物。ヤマト国は周人・楚人の連合国家。こちらにはヒルメがいた。という事になります。

こうなったら、古代出雲の変遷も見直す必要がありますね。

「イヨと同盟をしたのは、寧ろ大国主の方。イヨの墓は、八女か出雲にあるんじゃないか?って言っていたわ。そして、ヒミコの時代の邪馬壹国は、壱岐島や沖縄本島の辺野古の辺り迄が領土だった可能性がありそうですって。熊木と奈良が呉人・楚人の崇神の国でね。」

1975
3031
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続オシホミミ考 (すずたま)
2016-06-15 23:08:03
呉方面から「王子・晋を信奉する誰か」が「王子・晋の神霊をあらわす八角形の水晶」を携えて「一羽の鷹の姿をした天の忍穂耳尊の神霊」となって、豊前の大津~香春を経て彦山にやってきた。

では、やってきたのは「天の忍穂耳尊」なのか?というと「天の忍穂耳尊の神霊」とあるから、これも例えば「天の忍穂耳尊という神」をそのやってきた人が持ち込んだ、とか忍穂耳に縁の深い豊前田川をめざしてやってきた、とかいうようにも読めなくもありません。しかし縁が深いはずの(すでに忍穂耳を祀る?)香春では何故か断られたと。

ともかく忍=呉氏なのならば、天の忍穂耳尊とは呉系の神か、呉の太伯や王子・晋のような呉系の偉人なのか、いや鷹が絡むところをみると楚系か、とも。

やってきてから大国主らが彦山を去るまでどれくらいの時間だったのか、金光7年丙申の年(576)、敏達天皇の御代とあるのは、去った年なのか一連のことがすべてこの年に起きたのかはっきりしませんが、伯母様情報では敏達(偽)に相当するのは稲目とおっしゃっていますから、稲目のときに起きたことだろうか、と思ったわけです。
そして金光とは、今調べると九州年号、しかも佃収氏の本では阿毎王権の年号なのです。

ところで彦山を高天原ともいった、という説があります。オシホミミとは、「もうひとつの天孫」なのかな?とふと思うのです。天孫オシホミミはニニギに譲って降臨しなかったのではなく、しなかったことにされたのではないでしょうか?
で、私が思うに、オシホミミの正体は定かでないままに、オシホミミの系統とは大日霊女の系統であり八幡神の系統であり呉音霊の系統なのではないか、ということになります。また八幡神に鷹がまつわるように、神霊オシホミミにも鷹~秦氏~呉系楚人がまつわるようにおもわれます。
そしてこの系統もまた、大国主に「国譲り」をせまったらしいわけなのです。
(初代大日霊女はそんなことを願わなかったでは・・・?)

別の話になりますが531年は重要な年で、筑紫の君磐井が殺されたのも531年(別の説もあるようですが)。高句麗安蔵王の死も531年で、高句麗と日本に同時クーデターみたいなものが起きた年らしいので、ときの蘇我氏は蘇我高麗かな?と安易ですが推定してみたり。

倭の五王(呉王?)ですが、この時代では宋と通交があったことになっていますから、南朝の呉方面と縁ふかい大王たちであることは確かですね。
9729
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蘇我、物部そして秦 (禮月)
2016-06-16 00:00:00
英彦山と香春の歴史には、蘇我、物部そして秦の三つの家系の相剋と融和の歴史が断片的に記されているのかな?と思いました。

この御三家が持ち回りで倭国大王を排出していたとかは、考えられないでしょうか?
この三つの家系も三種の神器を持っていて、蘇我が『妙見の槍』だったり・・・すみません。妄想が過ぎましたね。播磨か何処かの伝承には、安閑天皇の唯一の子供は皇籍離脱をして秦河勝になったと書かれています。また、高麗が残した「三国史記」にも安蔵王には王席離脱をして生き延びた遺児が一人いたとあります。安閑イコール安蔵と解釈します。安と蔵が着く事から、安蔵にはペルシアとチベット両方の血が入っているのでしょうし。蘇我、物部、秦の三家はよくゴッチャになってきます。
継体は複数の王を一人の存在に纏めているそうなので、複数いた継体天皇の時代がブラックボックスなんですよね。
3132
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いい感じですね。 (りひと)
2016-06-16 10:06:08
まず、私にとても信用がないようなので補足紹介してみます。私は自分家が男が病気になるような家系体質を持っているので父もその流れで理由があるのでは?と。幸い私は女なので鈍感でいられる。ならばその体質の理由は過去に何かにたずさわってきてしまっているのかも?と思い父の家系の慰霊をしています。なので悪い事をした血がある可能性も十分あるというのがスタート時からあります。
その流れを生きている人間が変えるには、やってしまった方がお詫びを続ける事しかないと今のスタンスでおります。
変えられるのは過去の歴史を理解した上での今現在を変える事が大事です。
なので自分の流れが悪かったならば、その被害のあった方々を助けたい。その立場の子孫が動く必要があるという考えで動いています。勝者側いる人間なのか?私も最近違うかも?と思い始めましたが、あくまでもそうした立場でもスタート時点で事実を自分なりに確認して被害者の気が済むように自然からのメッセージで軌道修正しながらやっているつもりです。勝つことでなく負ける事も目指しての活動です。負ける事が一番の修行になると思っています。

幸い、私は鈍感なので霊感もないですし周りからの自然からのメッセージのただのタイミングだけで自分ベースで判断ですのでご迷惑はかける事も。
ただ、誰かに有益ならと。

なので信念はあります。
まず、自分の体験に基づき自分の意見を述べる事を第一に。(これ日本人が弱いのが外国に行き分かったので、自己主張と相手の影響をいけないために)

その後、相手の意見を聞く事。
こちらのサイトでもそれぞれの方のお話を全て受け入れ色々な情報をまず入れる事。これまでも単純に文字の読み取りを間違えたことや素朴な質問をしたことで問題のなってますが、自分は意図があってそうしたつもりもなくむしろ負けての修行ですのでいけない。事実が自分が主張しても変わるはずもないですから。

昨日、二回子供の病気で行けなかった丹生川上下社さんの講座に念願参加できました。その中で、言挙げせずとう言葉を学びました。言葉で言わなくてもなんとなくお互いが空気感を持って動く。
日本のこころです。私もどこか説明しなくても分かってくれるそんな関係が理想ですし、誤解されてもいつか現世脱出そてから理解されてもいいと思っていました。ですが伝えるべき時に伝えないとひどくなるかなあと歴史から学び伝えておきますね。

過去はどうでもよいとの表現も過去ではなく今、敵方とかが協力したりする現在があれば過去の印象も変わるとの考えのためで、過去に処罰を怖がっている方が逆上しないための言葉で、自分を守るためでもあります。本心ではないですよ、自分は理解したいですからね。また検閲も、怖いですから。

今回本当悲しい現実を打破しようと説明させて頂きました。

昨日の宮司さんのお話にも感動しました。仏教が入り畏れ敬いとなったと。それまでは尊び敬いが神(自然)との付き合い方だったと。感謝の対象を増やす事で神も増えてきたと。お互いが感謝し合いお互いを助け合うから自分にもいい効果が自然の生まれる!

こちらのサイトもそういう意味で有効でしたが、なにかとてもお邪魔がきているように私は信用されていないのかなあと。

今後は呼びかけられた時だけにしますね、吉田さまのが良いでしょうし。

禮月さま、宇波梨凄いですよ。巫女の職人気質ばっちりです。
すずたまさま、オシホミミバッチリだと思います。私も去年そればっか呟いていました。多賀、穂があるので宇波梨の王だったら凄いですね。

邪馬台国については八大に当てはめた辺りで奈良と別の存在に感じていました。何故なら八大に当てはめると卑弥呼時代的にいなくなっちゃいますから。沖縄ってのはありそうですね。

8は蘇我王、5は倭の五王。そこまでは分かったのであとは言挙げせずにいい方法探してみます。5474、7500
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勿論大切なのは今・現在です。 (禮月)
2016-06-16 13:02:09
りひと様
そういう意味だったのですね。
理解しました。では、私からも。

お互いが過去をきちんと認めた上で軌道修正をし、滅ぼし合った者達同士が知恵を出し合ってより良い世の中を作って行く・・・これが大日霊女や蘇我善徳(聖徳太子)の理念だったと思っています。勿論、人間界の概念では過去は変えることができません。でも今や未来は幾らでも作り上げて行けます。作り上げて行く基本の方向性を誤らない為にも、過去は重要と私は書きました。きれいさっぱり忘れてしまっては、なんの改善点も見いだせませんから。

りひと様の「気づき」の能力だって、十分に凄いです。少なくても私にはない能力ですね。りひと様の「気づきの能力」のお陰で、考察の方向性が纏まった事は何度かありました。

すずたま様
507年に呉氏骨がやってきたとありますが、この年を三韓征伐の事例に倣って35年~60年位前に遡らせると、北魏の干渉によって北燕と高句麗が戦争していた頃です。
「この時代の大国主」を馮弘とすると、馮弘は高句麗の高氏に殺されていますから、大国主が山の中腹に下りたのは、これを反映していたのかな?と思います。つまり北燕も高句麗も倭人と同じ「魚是人」を祖先としているという意味で、一括りに「倭人」とされていた、とかはないでしょうか?北燕と高句麗が呉系楚人の集団なら、昔氏新羅と任那は呉系周人の集団でしょう。英彦山と香春山のエピソードは、更に、呉系楚人同士の争いに勝利した高句麗と、呉系周人の争いの事を書いたのではないかな?と思います。

所で、魏誌倭人伝には、邪馬壹国(私は田油津姫を排出した八女王国と仮定します。)の東隣には「秦人の国」があると書いてあります。この「秦人の国」の存在もひっかかりますね。英彦山の鷲を魏誌倭人伝にある秦人の国とイコールとすれば、秦氏は蘇我氏よりも古くから列島に住んでいた事になります。しかも宇佐神宮は「秦人の国」の領土内にありますから、秦人が呉人(周系・楚系共に)の手助けをしていた事は明らかです。う~ん、何だかまた纏まらなくなりました。伯母さんヘルプ!

伯母の話が出たついでに話しますが、狐憑きの伯母(仮名・慶子)の後見をしているもう一人の伯母(仮名・千鶴)から、昨晩メールがありました。

「慶子姉さんが『熱いお汁粉が』食べたいって言って暴れているって職員の人から呼び出されたのよ。私が施設へ行った時には姉さんは薬のお陰で落ち着いていたけど、うわ言は言っていたの。『お~あちめ、お~あちめ、ひるこ、ひるこ』って。」

あちめは宮中神楽の「阿智女作法」の阿智女で、ひるこはヒルコの事で間違いないでしょう。阿智女の意味にも諸説有って考察が難しいですね。しかもこの歌の意味も様々な解釈があります。
5735
8917
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阿智女作法 (禮月)
2016-06-16 13:28:52
慶子伯母さん(仮名)は10歳の転がら73歳の今まで、ずっと施設暮らしなので、阿智女作法やヒルコを知っている可能性は低いです。
ですが、神霊界と交信をする事が可能なので、神霊界で何か起きた事は確かでしょう。

阿智女の意味は、アメノウズメや大日霊女という解釈が一般的ですが、ひもろぎ逍遙様での解釈では、安曇磯良としていますね。
4250
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木の影から勇気をだして い~れ~て (木の葉)
2016-06-17 01:11:00
吉田さま みなさま はじめまして木の葉といいます。

私も自分のルーツを知りたくて色々調べているうちにこちらのサイトにたどりつき以来ずっと興味深く読ませてもらっています。

・・が 難しい・・ 何年もお邪魔しているのになんとなくしか理解できていません (涙)

里中満智子の「天上の虹」の愛読者としては最近のコメント欄は興味津々で、今まで以上にお邪魔する機会がふえていました。 でも・・なかなか頭が追い付けてません(汗)
もう授業についていけてない学生時代を思いだします・・(´;ω;`)

そんななかでコチラのサイトへくるきっかけになった、りひとさまが・・
ですので何が言いたいのかうまく言えないのですが・・

私のお気に入りのサイトにはよくりひとさまがいらっしゃっています。
引かれる先が似ているのかしら?と勝手に感じたりしております。

私も鈍感で霊感もないですし感覚だけで生きていますのでずれたコメントをしてしまいそうでなかなか勇気もなく・・会話もあまり得意ではありませんから遠巻きから眺めておりました・・

でもこの流れはいやだなと感じたので、コメントさせてもらいました。
言葉足らずでコメントになっていませんが・・

以前、りひとさまが天津児屋根命と武甕槌命が気になるとか・・

私の父方が熊本の玉東町にある宇都宮神社の宮司家の流れです。
生まれも玉名の繁根木です。
こちらのサイトにも玉名はよくでてきますよね。

現在は巡りめぐって八王子市鑓水に住んでいます。

両親は今は花園にすんでいます。 やはり熊本は重要な土地だということは理解し感じております。
その土地で生まれ育った事が私の誇りでもあります。 あとコチラのサイトも私の心地よい居場所でもあります。

この投稿に深い意味はありませんのでどうか独り言だと思って聞き流して頂けるとありがたいです。

微力ながらみなさま応援しております。

人生初投稿・・ うまく送れるかな
3864
4973 ありがとうございました
返信する
私が変な流れ作ってますね。 (禮月)
2016-06-17 02:22:23
そもそも吉田様のサイトは、神霊界を真面目に考察するサイトです。そこに自分の夢の内容を書くなんて場違いなのでは?とふっと思いました。
吉田様の行為に甘え過ぎていたのでしょう。ここはオカルト関係のサイトではありませんものね。

りひと様
物部一族や天兒屋根、武甕槌そして布津主に関する感応なら、私よりもりひと様の方が遥かにあると思います。これは血筋的なものだと思いますから。寧ろこちらがりひと様に教えて貰いたい位ですよ。何か直感的にひらめいたりした事があったら、是非とも語って欲しいです。
2402
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禮月 (すずたま様へ【私信です】)
2016-06-17 18:28:52
スレッドの流れを変な風にしておいた手前、少々書き辛いのですが、これだけは呟かせて頂きたいと思います。すずたま様のお役に立つかはわかりませんが、呟かないままだと尻切れトンボのままになると思ったので。

伯母の夢の話の要点だけを端折って書きます。
物部集団の一部は、建築や天文学等優れた知識を持つ高位の分官として、百済に使えていたとの事です。所が拓抜氏が中国大陸の北半分を支配する様になり、百済に内政干渉を始めると拓抜氏と対立していた物部一族は百済を離れて半島を脱出。その時に物部氏を支援したのがヒミコとイヨを排出した邪馬壹国の後裔の八女王国。八女王国と百済脱出組の物部氏との連合王国が上宮家だそうです。聖徳太子のモデルには、蘇我善徳の他に物部・八女連合王国である上宮家の王がいたのだとか。半島を出た物部一族は、八女王国の領土だった壱岐島に辿り着いて八女王国の庇護を受けたそうです。この時物部一族を壱岐島迄道案内したのが、宗像族だったとの事です。(後に北魏の追っ手が八女王国迄延びて、女王の田油津姫は大泊瀬に殺されるのですが。)

この時に北魏の追っ手を逃れた物部と、女王田油津姫を失った元・邪馬壹国の連合国家である上宮王国が九州に上陸して「九州物部王国」を作ったのではないか?と話してくれました。

夢の話は、このサイトでは場違いにも思えるので、控えた方が良さそうですね。
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禮月様へ(皆様へも) (すずたま)
2016-06-18 01:34:55
禮月様、まずは新しい情報をありがとうございます。
「上宮王家」というものが解明されないと、聖徳太子像がいつまでも像を結ばず、果ては「いなかった」扱いにされることからの脱却が図れないと思っていたところなので、「物部・八女連合王国の王」という情報は、重い言葉を手渡されたようです。到底今は理解できないものの、おそらくこの言葉ひとつをもってしても、隠された日本の真実解明に関して大変な情報量を持つと思います。
はしょってお伝え下さったとのことですが、出来たら逐一お伺いしたいところです。

>夢の話は場違いで、控えようか云々・・・
私が思うに、例えばですが、今すぐ御自分のサイトを開設されるとか、または例えば私が開設してそこにコメントをお願いするとかの場合を想定しますと、果たしてラジオ情報はスムーズにその場に伝えられるのでしょうか?もしかして、この独特な場でこそ、伯母様と禮月様を通しての情報が伝えられる霊線が出来ている、ということは無いのでしょうか?この場はある意味狭き門ではあるようなので、許されてここに開示されているのではないですか?
吉田様がどうお考えかはわからないまま、まことに勝手なことを申すのですが。

それと、私が歴史に引っ張り込まれたのも、ほとんど「夢の話」からでした。ここに書くほどではありませんが、おかしな夢をいくつも見ており、私の場合高位の情報などではなく、先祖か誰か普通の人が何か必死に言ってきている感じにすぎませんが。で、本人にとっては夢は最も「たしか」で動かしがたいリアルさを伴うものなのですよね。私の場合は「えっ何?何のこと?」→「調べる」になっちゃって、結果として一見「博学?」そうなことを述べることにもなります。そんなの知らないよと放置して一週間熱出して仕方なく調べ始めたということもあります。しかし娘にいわせれば調べれば調べるほど頭が汚れるそうで。吉田様のおっしゃっていたように「あとで修正することが増え続ける」ことでもあります。

それでも鈍感な私ですら気づくほど背後からなにやら訴えてくるのですから、鈍感だからこそ普通に暮らしていますが、けっこうきついこの10年でした。頭は汚れ続けるし成果はあがらぬしで。
そんなわけで皆様にも声を大にしておおいに弁解したいところなのですが、本人は仕方なく「全く向かない分野」に必死に取り組んでいるわけで、ここに書いてきた程度のことも、書く前に必死でwikiみたり過去に無駄に貯め込んだ情報ひっくり返して間違いのないようにすごく時間かけているわけで(涙)、「博学」とは程遠いんですよ。実は私右脳しかないので(苦笑)記憶力も致命的にないし、本来感覚人間なので。

感覚人間なのに一見理屈っぽい発言をするのは「インプットは右脳でアウトプットが左脳」というタイプらしいです。その逆のタイプやインアウトとも片側だけのタイプもいるらしい。
例えばりひと様は「どちらも右脳」タイプだと思いますよ。相手に伝える場合には理解を得ることにおいて損する場合があるかもしれません。でもその方がぴんとくる人も多いはずです。

さてここのコメント欄問題ですが、しばしばコメント欄が勝手に盛り上がるという場面が多かったとは思います。吉田学校で、あるグループが先生抜きで盛り上がって、先生は腕組みして黙って勝手にさせている感じ?(苦笑)歴史ブログではないのに歴史解明に傾いてしまってさすがに先生からも短いお言葉があったり。また禮月様の夢の話や伯母様情報があまりにも特異なため、私たちはつい夢中になって別スレッドが立ち上がった如く肝心な元記事のことを忘れていたりということはあったと思います。

しかし元記事ということでいえば、実は今私にとっては、「呉氏骨」というテーマを出された吉田様のこの記事について、いまや伯母様情報がおおいに関わってきそうなのです。
時間がなくて今はちゃんと書けませんが、オシ(忍、押)を呉氏と理解したうえで、「忍坂日子人大兄皇子」という存在にスポットをあててみると、伯母様情報なしではたぶん解明できない古代史の秘密が浮かび上がってきそうな気配なのです。
まずこの人は〈敏達天皇〉の第一皇子で、〈息長真手王の女・比呂比売(広姫)〉が母。すでに敏達の名は仮面で、別の存在をほかから持ってきたことが伯母様情報に出ています。被せられた仮面の実体は蘇我稲目ということも。
母は息長氏。本当の息長タラシ姫は神巧ではなく忍坂大中姫とも出ており。息長と忍坂は強い関係にありそうです。
記紀で「忍坂日子人大兄皇子の子は舒明」。伯母様情報によれば「舒明=善徳」。善徳は馬子の子。
つまり、「忍坂日子人大兄皇子の子は舒明」=「馬子の子は善徳」!
すなわち「忍坂日子人大兄皇子=蘇我馬子」!?

(以下は付け足しで、想像の域。
すでに書いたように、彦山修験の記録によれば稲目の代に「神霊オシホミミ」は先住神を国譲りさせ彦山に「もうひとつの天孫」降臨、呉由来で高句麗系仏教色を加味した「日子」祭祀はじめる。馬子はその日子日十(ひこひと)大王となる。「日十」には原始キリスト教、というかエジプトに始まるコプト教~アルメニア正教の十字架が隠される。厩戸などにそれが暗示され、蘇我氏~聖徳太子の仏教にはキリスト教が隠されているのはすでに言われていることである。)

・・・続きは明日、できれば。
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結局は私の甘えでした。 (禮月)
2016-06-18 03:01:59
タイトルの通りです。
スレッドのタイトルとは関係のない話を延々としてしまったのは事実です。この点に関しては、先ずお詫びをします。
幾ら蘇我氏に関わる内容とはいえ、スレッドのタイトルとを無視した内容では、所謂「荒らし」と大差ありません。

もはや言い訳にしかなりませんが、私が伝えたかった事は、「忍」や「呉氏」の血統は歴史の表舞台からは見事に(それも意図的に)隠されてしまっているだろう、という事です。それと「もう一つの天孫降臨」の事も然りです。本来なら稲目や馬子と同世代ではない、ずっと後の人間(それも全く関係ない血筋の人間)を態々父親や祖父に持ってきていた訳ですから。そこまでして「忍」や「呉氏」の血筋を系統をバラバラにして隠ぺいする理由は何なのか?って思います。

私の役割の一つを見つめ直す事が出来ました。
それは、「無慈悲な侵略者や骨肉の後継者争いを繰り広げた神功皇后」にされてしまった、人間・息長足帯姫(達)の魂を慰める事です。

話が逸れてしまいましたが、もし今後夢の話を書かせて貰うとすれば、スレッドに関係する内容の事を夢で語った時だけにします。
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すずたま (吉田様へ)
2016-06-18 09:16:00
禮月様は「スレッドのタイトルを無視した内容では、所謂荒らしと大差なかった」とまで言われ、今後ひかえてゆく方針を口にされています。
私個人は、今までどおりラジオ情報を継続してほしいのです。もっと逐一聞きたいくらいです。
何故なら、このブログのテーマのひとつである蘇我氏の追及は、ラジオ情報によってどんどん解明されそうな気配を私個人は感じるからです。(ラジオ情報には、物部にこちらが照準をあわせればそれにしたがって・・という気配もあります。)

私がこのブログに一気に引き込まれたのも蘇我氏の記事によってでした(出雲井神社のサイ神)。絶対にほかではみられない発想が衝撃的でした。この記事に導かれて出雲旅行に行き、感応力のない自分などには珍しい経験をしました。

蘇我氏の真実に関しては、そこにラジオ情報が加わって、ここにすでに強力な情報開示の場が出来たと、勝手に想像しています。日本の真実の開示の場ですらありえると。こちらの求めるところに応じて今後もっと濃い内容が明かされていく可能性もちらっと。
スレッドの内容によって取捨選択するよりも、吟味せず機械的に伝えていただいてこちらが取捨選択すればよいと思うのですが?
確かに特異な内容を理解するのにはある程度知識が求められ、一見知識があると誤解されやすいコメントが増え、他の貴重な意見をお持ちのかたが口をはさみにくい空気をかもしかねません。
私はいろんなルーツや個性のかたに参加していただき、参考にしたいのです。最近声をあげる方が増えてすごくうれしいです。
禮月様はスレッドを吟味して限られた内容に伝言をひかえ、それ以上は個人で場を持てばよいと、吉田様はお考えですか?
私もここでこそ書ける、とばかりにここを私論の発表の場として依存しすぎており、ほどほどにしたほうがいいとお感じですか?
それと、私自身が最近自覚する自分の方向性は、今このブログから打ち出されている「大難を小難に」の仕事に、微力ながら参加したい、ということです。
「ラジオ情報の理解および歴史追及」にかける時間は、私自身としては優先順位の2番目にするべきでしょうか?
前者に集中する場合、ここへの書き込みは圧倒的に減ると思います。自分で決めることではありますが、もしアドバイスがあるなら教えてください。ご多忙の時にもうしわけありません。
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禮月 (すずたま様感謝の言葉もありません。)
2016-06-18 11:46:27
すずたま様、私の暴挙とも受け取れる「夢の話」を擁護して下さって感謝致します。
私個人としては、夢の内容を語るにしても、吉田様が立てられたスレッドの内容に沿ったものであるべきでは?と考えています。

何れにしても、サイトの管理者である吉田様 のご意向に従います。
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あくまでタイトルの範囲内だと思います。 (禮月)
2016-06-18 14:28:03
呉氏骨の変遷については、以下の様な順番になったと思います。

1 BC700~600、姫太白率いる周系呉人の第一団が入植する。

3 AD190頃~240頃に第二団として都怒我現人率いる長江文明系呉人が入植。ヒミコの治める邪馬壹国とは対立関係。

3 AD330~380頃に拓抜氏(後の北魏)から逃れる為に百済を離れた物部一族が邪馬壹国の後裔の八女王国と宗像首長国に助けられて入植。(この時は呉人国家よりも物部・八女王国・宗像連合王国が優勢に立った為、ウガヤフキアエズ の両親が一時的に大国主と田心姫になる?そして現在の島根県まで領土を拡大して、出雲王国に?)

4 AD 420~480頃? 初期チベット仏教の信仰を伴った、黄河文明の影響を受けた楚系呉人達(北燕・高句麗亡命王族。蘇我氏もこの時に)が入植。この時に八角形の水晶と王子・晋の信仰が入ってきた可能性があり。仏教信仰組の呉人が物部・八女連合王国を英彦山から追い出した。

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吉田一氣 (すずたま様(禮月様)への返信)
2016-06-19 00:12:04
私は管理者のコメント管理画面で
コメントを時系列で読んでいるので
何の不自由も無いし
スレッドもあまり関係してきません。
読者様はTOPページの最新コメント欄から
コメントを探して読むとなると
時系列の理解等が大変かもしれませんね。
コメント数が多くなるとスマホ等では
最後への移動も大変な場合もありそうです。
禮月さまのコメントは連続で読めた方が
具合がいいかもしれません。
一度書いたコメントを別のスレッドに移動させることは
出来ないのですが
今からでも禮月さま夢啓示のページを作って
そこに一度まとめた方が読みやすいかもしれませんね。
禮月さま次第でしょうか?
まとめ記事にしたいようでしたら
yoshi_iltuki@awa.bbiq.jp
に送っていただければまとめた内容を添付させていただきます。
それ以降はそのスレッドのコメント欄に記載していただければ
ある量溜まったところでほかの方のコメントと共に
本文に移動も可能かと思います。

返信する
禮月 (吉田様、大変感謝致します。)
2016-06-19 00:37:47
吉田様
多大なるご好意とお気遣いに心から感謝申し上げます。お陰でスレッドの主題について考察されたい方々や、純粋に祷りに集中されたい方々のお邪魔をしないで済みます。
該当のスレッドのタイトルに関係が深いと思われる夢を見た時で、かつそのスレッドにレスをした方が明らかに良いと判断した時は、そちらに書き込む事にいたします。

すずたま様
お力添えを心から感謝致します。すずたま様のご協力とご好意無くして、この様な幸運は起こり得ませんでした。

そして、私に対して大きな気付きをもたらして下さって方々にも、等しく感謝致します。
7435
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ありがとうございました (すずたま)
2016-06-19 05:43:57
吉田様
ご配慮に感謝いたします。
なお、自分できめるべきことを質問形にしてしまいましたが、答は自分ですでにわかっておりますので、そのようにしたいと思います。
(自分のブログ開設云々は、結局時間がとうぶん無さそうですし、もし開設するにしても、歴史ブログにはならないと思います。)

禮月様
スレッドに関係ない話題で云々、と言いだしたのは私ですので、とても気にしていました。結局最適なかたちを用意していただけてほんとによかったです。
どこにもない新しい古代史復元のために、のびのびと、もらさず伝言していただければ嬉しいです。
禮月様自身の夢の話も続けて聞きたいです。
ラジオ情報に照らし合わせて記紀を読みなおしていくと、記紀は実は真実の宝庫かもしれません。
ただ現在の私は、最近あらたに人員削減もあって加重労働、齢も齢なのでヘロヘロの毎日。照らし合わせる作業にかける時間がないうえ、資質的には結局向いてないと痛感もしています。でも気が付くことがあったら書き込ませていただきます。
7889
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吉田一氣 (木の葉さまへの返信)
2016-06-20 12:49:35
返信が遅れて申し訳ありません。
これからもよろしくお願いします。
玉名の繁根木八幡宮には
よくお参りさせていただいています。
木葉猿の宇都宮神社にも
参拝させていただいています。
『天上の虹』は30年マンガの一つですね。
『ガラスの仮面』なんか40年マンガとなってしまったし。
ところで以前は16号線を通って相模原から
八王子に通っていました。
小泉家屋敷は養蚕農家ですが
鑓水から大塚山への「絹の道」は
調査したので記憶にあります。
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木の影から勇気をだして 誤解です~ (木の葉)
2016-06-20 21:46:04
吉田様 返信ありがとうございます。

本当はもっと早くにコメントすべきでしたが勇気がでませんでした。

お邪魔なのかなと思いコメントを控えようとしているりひと様がとても寂しそうに思えて・・

いてもたってもいられなくなり「お邪魔だなんてみんなそんなこと思ってないと思いますよ」のひとことが言いたかっただけなのですが 曖昧な表現のコメントをしてしまい 禮月様を夢の話は場違いなのでは?と感じさせてしまい

正直 思いもしない展開になりここ数日、もうどうしてよいのか・・
禮月様を悩ませていることに心痛めておりました

私にコミュニケーション能力があればすぐに伝えることができたのですが
また流れをかえてしまいそうでもう怖くて・・書いては消し。書いては消し(._.)

禮月様
私は学生時代に「天上の虹」を読み歴史に興味をもちました。この時代を考察し色々調べているうちにこの時代にはなにかある・・もっと知りたい・・と常々おもっておりました。

伯母様の夢の話は正しくその時代の話で
時間が出来ればこちらのサイトに訪問し必死に読んでどんどん引き込まれていっていたんですよ
最近は楽しくて皆様のドンドン出てくる考察に読んではまた分からない部分をネットで調べて「死者の書」の人形アニメの話が出れば探して動画でみるほど熱中していたほどです。
私の言葉足らずのコメントで禮月様を惑わせてしまったこと本当にお詫びいたします。

すずたま様
吉田様への呼び掛け もう絶望の中の希望でした なんとか元の流れにもどせないかと・・吉田学校の表現は私もいつも描いておりました。

このクラスは心地よい居場所だなって。
でも大好きなクラスメートを誤解させてしまい・・でも話したこともない禮月様になんと言えばよいのか?
その節は忙しい中本当にありがとうございました。

今回、吉田様が余計なことは言わず誰も傷つけることなく淡々と新しいページを提案しているコメントを読んだとき
なぜ私がこのサイトが心地よい居場所に思えたのか 難しいと感じながらもなぜか訪問してしまうのか わかった気がしました。

今回の件で私は自分自身を批判していましたから正直救われたのです。

長くなりましたが
皆様応援しております・・
あと故郷の方々が一日でも早く安心して過ごせるように祈っています。

また木の影から出ることができました。
ありがとうございました。

7603
3453
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木の葉様 (禮月)
2016-06-20 22:33:14
改めて、初めまして。

いえいえ、夢の話が場違いだと思い始めたのは、木の葉様がいらっしゃる少し前からですよ。
私も言葉足らずで他人に誤解を与えてしまう事が結構あるので、逆に木の葉様に変な気を使わせてしまったな、と思っています。
吉田様に夢のスレッドを作って頂けるという、身に余るご好意に預からせて頂けたのは、木の葉様の書き込みも大きいと思います。

寧ろ感謝したい位です。
私も伯母から聞かされる内容は、びっくりする事ばかりで、正直頭が付いて行けていません。
^^;
先ず学術書としては、間違っても絶対に世に出せない物ですからね。

私自身は(伯母もですが)物部氏に関しては、殆どピンと閃くモノが無いのです。なので物部氏関連の内容こそりひと様の閃きやインスピレーションの出番だと思っています。
8490
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木の葉さまへ (りひと)
2016-06-22 09:39:43
今回の件では、全く私も知らない方がフォローしてくれるというびっくり経験でした。ネットの世界ですのでどこまで信用出来るのか?と迷いながらでしたが大好きな巫女さんに頂いたコメントで正直凹みました。至らなさもあり。
本当にありがとうございました。

宇都宮私の急上昇ワードです。
なんとなく見えない力+木の葉さまへ感謝です。

吉田さまへ
すみません、お礼は伝えたかったのでコメントさせて頂きました。夢の記事の方だけ顔出しそうです。ご迷惑おかけいたします。6392
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木の葉さま (すずたま)
2016-06-22 14:17:40
よけいなこと言わずさらりと。私も、吉田学校の先生、かっこいい!と思いましたよ(笑)
で、あとからかたじけなさがじわ~っと。
(でもこの先生、授業も余計な説明が無いので、とっても難解なんですけどね、笑)

人形アニメ「死者の書」をごらんになったのですね。
漫画家とか映像作家とかの中に、凄い人たちがいますね。対象の掴み方が、直観的である以上に巫覡的だと思います。
大津皇子の悲劇とは蘇我王朝殲滅の数々の悲劇の象徴として造作された物語なのだとしても、誰か特定の実在人物が強く何かを伝えてきていて、人形作家川本喜八郎氏がそれをキャッチして造形したように思えてなりません。
夢の人は結局大友皇子なのか、誰だかわからないのですが、にこにこされていましたから、少なくともとっくの昔に成仏はされているはず。中将姫に象徴されるように、死を悼む無数の祈りがあったからということもあるのでしょう。

巫(かんなぎ)系作家と対照的なのが、今読んでる佃収氏の歴史本。見事な情感のなさ、対象が何を思って生きたのかとかいうことに完全に興味が無いらしい。これはこれで自分にできない部分だから役に立ちます。

アメノコヤネってどんな神様なのでしょうね?
でも神様の詮索は無用でしょうね。
私にとっての白山姫も、「いのちの親神様」で十分ですから。4128
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桜井の忍坂と忍坂日子人大兄皇子 (すずたま)
2018-01-15 02:41:16
今は忍穂耳・忍骨関連だけに絞りたいので、「畏るべし戊戌2018年…」に書いたことの続きはこちらに書かせていただきたいと思います。「忍坂神=少彦名への旅」の何回目かになる気もしています。

今「忍坂日子人大兄皇子」に注目しています。以前どこかに書いた気がするのですが、すっかり忘れているので改めて。

まず忍坂に桜井市の忍坂を思います。呉氏坂であり、忍坂神=少彦名神に縁ある地です。
日子人には、英彦山を思います。

忍坂日子人大兄皇子の名は、和歌山県の隅田八幡神社に伝わる「人物画像鏡」との関連があるようです。その銘文は、

『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作 此竟』
意味:癸未(みずのとひつじ)の年八月十日、大王と男弟王(おほどのおおきみ)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(しま)が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(えひと)(漢人)今州利(こんすり)の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱(かん)をもってこの鏡を作る

これは解釈の一例にすぎないので、「日十大王」と読む人もいるようで、私はこちらです。
その「日十」に、コプト十字みたいな○の中に十の絵柄をどうしても連想するのです(どうしても感覚的な話になってしまう。これが私なのでしかたないです)。
そして日子とあいまって、彦山に降臨した八角形の水晶の中に輝く十字を連想。

その大王と男弟王とは、大王(おおきみ)は女性祭祀王、それを補佐する男弟ではないかと、オリジナルな解釈が浮かびました。
それが意柴沙加宮に在るとき、とはこのペアが桜井の忍坂に居るとき、です。

おおきみは、息長系の女性ではないか。
以下「息長氏異聞その1オシサカ」というサイト等を参考にし、理由を述べます。

まず忍坂集落の伝承によるとこの地は往古、息長庄と呼ばれていた時代があった。

忍坂の地に、少彦名神を祀る「忍坂坐生根神社」がある。
神社が遥拝する外鎌山(近年まで忍坂山といわれたらしい)には舒明天皇陵や大伴皇女の陵がある。
29代舒明天皇(息長足日広額)は、歴代天皇の中で唯一息長の名を持つ。
舒明の父が敏達天皇の皇子、忍坂日子人大兄皇子。

忍坂日子人大兄皇子は敏達と息長真手王の女、比呂比売の間に生まれている。
舒明の父、祖父さらに遡れば26代継体天皇まで息長氏との繋がりが見られる系譜伝承になっている。
大伴皇女は忍坂日子人大兄皇子の叔母。
舒明天皇の陵墓は3段築成の方形壇の上に2段築成の八角墳。

ということで、一帯には息長系の大王家があったように思われます。
辰砂等金属資源豊富な垂涎の地を、呉氏系の息長(呉姫那珂)が手に入れた。呉音霊に導かれ。
そしてたぶん女系で、女性祭祀王の弟王が天皇系譜になっている?
オホド王=継体天皇とするなら、「継体は息長系」の傍証にもなる。
そして禮月様説を参照すると、蘇我系でもありそうなのです。つづく

手探りの考察ですが、続きはまた時間のある時になります。
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続き~忍坂宮は忍坂大中姫の宮? (すずたま)
2018-01-15 08:38:56
結論いうと、人物画像鏡の「意柴沙加宮」にいた「おおきみ」とは、忍坂大中姫ではないか、という話です。
ところがその結論を説明するにはいろいろややこしそうなので、知識と時間が必要になり、少し先になりそうです。血流の相関関係などは不得意中の不得意分野なので。
参考にしたサイトはかわかつ氏の以下の記事です。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55524781.html
いろんな人のいろんなサイトを読めばもっとわかるかもしれません。

意柴沙加宮にいた大王が忍坂大中姫と結論すれば、結局忍坂宮にいた神功皇后と竹内宿祢系の誰か、という話になるのです。
そうすると吉田様が「畏るべし戊戌2018年・・・」に書かれている「いつの時代かどこの地かで呉系求鉄族と蘇我氏が手を結んだ」という話に繋がるはずです。

私は息長氏の知識含めこのへんをきちんとまとめる力量がないので、とりあえず直観的結論を先に書きました。

呉音霊が呉系求鉄族を、「求辰砂族」の垂涎の地・桜井~宇陀に導かないはずがない。
桜井に宿泊した以上何故か少しでもこの地を探索したかくて取りあえず鳥見山に行き、頂上から元来た道を戻るつもりで真反対の方向に向かうという超方向音痴のおかげで「忍坂集落」に降りた。懐かしい苦労話も意味があったと。
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大王(おおきみ)について (すずたま)
2018-01-17 07:08:31

大王(おおきみ)について
どうも上のコメは断言調ですが全く確信無く、大王の解釈は、参考サイトをざっと見ているうちにふとひらめいた思いつきにすぎません。
ただ大王(おおきみ)が、鏡大王・額田大王というように女性に用いられ、祭祀巫女とか巫女女王を言ったという感じは前からありました。

馬子の妻が気になってきました。

前に調べたことも全部忘れているのでちょっとだけ調べなおすと、
馬子の妻は書紀では物部守屋の妹であり、
「紀氏家牒」では守屋の妹は「太媛(ふとひめ)」とされています。

旧事本紀では守屋の妹・布都姫と記述され、「物部守屋公・・・・妹物部連公布都姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ」とあります。(※フツノミタマと何やら繋がるのですが…?フツ~物部系は蘇我の根っこの縄文系に婿入りし、のちの蘇我の創始となった。)
そして旧事本紀で馬子の妻となっているのは「鎌姫大刀自」(守屋の妹ではなく姪にあたるらしい)。

禮月様情報によりますと、馬子の妻は推古天皇(皇豊御食炊屋姫)とされている存在でした。

馬子は物部フツ系の祭祀女王を妻にした、あるいはここでも婿入りしたということでしょうか?どちらにしても女系重視社会が引き継がれていたということか。

しかも禮月様スレp1あたりをざっと読み返しますと、
「蘇我稲目(安閑天皇の忘れ形見で、別名豊彦王。)諸記編纂者により敏達天皇の仮面を被せられる。后は広姫とされるが詳細不明。太子に蘇我馬子こと押坂彦人大兄。馬子を物部氏が打ち立てていた王朝の大王である欽明天皇の妹か皇女と結婚させる。」
とあるではないですか。
忍坂彦人大兄=蘇我馬子!!??

また継体は広開土王系とか、欽明以降の天皇や皇后名はほとんどダミーだとありますね。
欽明は物部系が強そうでしょうか。
欽明の時代に蘇我・秦・物部の連携がなされたとも。
本物の敏達=百済亡命王朝の舒明、ともあり!
このへんのややこしい相関図と書き換え、苦手ですが復習する必要がありそうです。
舒明陵が外鎌山にありましたが?
忍坂はややこしそうな土地ですね。
つづく
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「大々王」~元興寺伽藍縁起并流記資財帳 (すずたま)
2018-01-17 08:05:54
元興寺伽藍縁起并流記資財帳とは、

「桜井等由羅宮に天の下治しめしし等与弥気賀斯岐夜比売命生年一百。歳次癸酉正月九日に、馬屋戸豊聰耳皇子、勅を受けて、元興寺等の本縁および等与弥気の命の発願ならびに諸の臣等の発願を記すなり」
(桜井豊浦宮で豊御食炊屋姫命(推古天皇)の生誕100年目に、馬屋戸豊聰耳皇子(聖徳太子)が元興寺建立の縁起と推古天皇および諸臣の発願を記したもの)。

この本文の中に「大々王」という言葉が度々出てきます。「大后大々王」とも。
これがどうも元興寺建立を命じた人、推古天皇その人のようです。
大々王とは大王(おおきみ・祭祀女王)の中の大王(おおきみ)、あるいはのちに男王(もとは補佐の男弟)が大王(だいおう)となっていった時代に、かつてそれより上に立っていた存在という意味があるのでしょうか?

この大王(おおきみ)と男王のペアは、弟橘姫とヤマトタケルのペアであり、神功と竹内宿祢のペアであり、
私が思うところの、ある時期にオシサカの宮に居た忍坂大中津姫と補佐する男弟(オホド)王のペア。
みな呉音霊に導かれ日本国を発展させていった。
(さらには静御前と義経のペアもその可能性あり?義経もまた呉音霊に導かれ大陸に渡り帝国を築いたと考えます)。

このヤマトタケル系の男王たちはかなり強引に先住者の土地を手に入れていったので、慰撫の祭祀が必須だった。それが少彦名神による封印の意味でしょうか。

元興寺伽藍縁起并流記資財帳はじっくり読みこむ価値がありそうです。
馬子や善徳の位置づけもはっきりするかも。
ただ記紀に合わせざるを得なかった部分はおおいにありそうです。
又書けるときにときに書きます。
返信する
 (すずたま)
2018-01-17 08:40:56
なお、今回の書き込みを後押ししてくださった「川上村・・・」スレの吉田様コメにある重要部分も抜き書きしておきます。

>忍坂大中姫が神功皇后で忍坂神が少彦名神(ということはありうる)

>忍坂宮生根大明神=少彦名神。
三輪山は少彦名神で封印されている。
この甘南備の忍坂山=外鎌山を封印する神も少彦名神なのかもしれない。
この地域には忍坂山口神社もあるが、こちらは参拝した感覚からは鳥見山の神。
最も古い忍坂神は尻尾のある土蜘蛛の八十建の可能性を否定しきれない。
さらに忍坂大那珂姫という名前から連想されるのは呉氏と那珂と神功皇后。
那珂は長にも入れ替わっている可能性あり。つまり息長は呉氏那珂か。

最も古い忍坂神、の部分に震撼です。
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大王とは女王か女帝? (禮月)
2018-01-17 09:12:14
大王と男王の組み合わせが女王と男王の組み合わせ、というのは伯母からも聞かされました。

代表的なのが、善徳女王(徳曼皇后)と蘇我善徳(敍明大王)と真徳女王(勝曼皇后)と考徳上宮大王との組み合わせです。古代は夫婦共に一国の主権者という事はざらだったそうです。つまり王妃でもあり女王、皇后でもあり女帝だったのです。飯豊青皇女も実は仁賢・顕宗兄弟の姉ではなく、顕宗の皇后でした。そればかりか、前燕・慕容王家で生存していた唯一の家督保持者で、「女天王」を名乗ったと伯母は言います。仁賢天皇は顕宗の甥か年の暮れた弟で、父である市辺押磐皇子が北魏に殺された後、兄又は叔父である顕宗に引き取られます。妻である飯豊青女天王も実家が北魏に滅ぼされており、弟であった青寧天王を失っているそうです。女天王の称号は出雲の大田皇后も持っていたと伯母は言います。

だから押坂大仲媛こそが大王というのも私は納得が行きます。豊御炊媛も大王、その夫の蘇我馬子も大王なのだと思います。
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継体天皇のモデル達の中にも女帝が (禮月)
2018-01-17 09:42:04
すずたま様

継体天皇もヤマトタケル同様、複数のモデルがいる様ですが、その中に女王や女天王が含まれていた可能性があると私は思います。

当時の大陸南朝の記録によれば、倭人の主権者は高句麗王が兼任していたと思われる記録があります。また伯母も継体天皇のモデルは広開土王の王太子・木梨軽皇子(ここでもカルが)とその息子達の安蔵王や安原王も含まれているそうです。そう言えば継体天皇の母親は振媛(ふりひめ)ですね。この振媛は(フル媛)で布留・・・フツ物部家の王女なのでは?継体天皇のモデルの中にはこの、物部系と思われるフル媛も含まれているのではないでしょうか?

因みに継体天皇が皇后にした手白香皇女は、仁賢天皇の娘ではなくて姉か叔母だそうです。(私の伯母説)
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仁賢天皇と安閑天皇 (禮月)
2018-01-17 18:00:30
仁賢天皇と安閑天皇は、共に春日山と名の付く皇女を皇后としていますが、この春日が付く皇女様こそ蘇我の女大王ではないか?と思います。

それとあくまで私個人の感想と思い付きでしかありませんが、安閑=仁賢、宣化=顕宗ではないか?と思えるのです。播磨風土記(確か)では仁賢の母親が手白香皇女とあります。

播磨風土記の記録が正しいなら、共に同名の母と皇后を持つ事になるので、少なくても安閑=仁賢ではないか?と私は仮説を立てます。
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豊姫が振姫なのは (とくこ)
2018-01-17 20:46:01
横から失礼します
振姫とあだ名される豊姫は、真澄探当證では、応神天皇六代目の孫にあたるとしています。

振り姫とあだ名されるのは父の彦主人王が身分を娘であるた豊姫に伝えなかったため、雄略天皇に彦主人王の館が襲われ、母綾姫と豊姫は諸国を流浪し、乞食のようになって、ようやく彦主人王を訪ねてきたため、顕宗天皇は乞食のような姿での初対面だったため、皇子である顕宗天皇とは身分が釣り合わないと顕宗天皇が思って、都に戻るときに振られたからと書かれています。
顕宗天皇も豊姫も、豊姫の身分を知らなかったために、豊姫は振られて尾張においてきぼりにされてしまったと書かれています。
父の彦主人王は豊姫が「逆心」を抱かないように身分を明かさなかったと書かれていますが、応神王朝が仁徳王朝にとってかわられたからかもしれません。
それで、振られた豊姫は尾張国造や真清田神社関係者に「私の身分を教えてください」と泣いて、みんな「えええっ、本当に知らないんですかぁっ!!!!???嘘でしょ!!」となった描写があります。

また春日姫は武内宿祢の孫の葦田宿祢(真清田神社神主)の娘とされています。

また継体天皇の養育者である草平とおなみは物部姓を下賜されたとされています。
継体天皇の乳母であった草平とおなみは物部守屋などの祖とされていますが、何故か系図では見たことがありません。
以前、調べてみたところ、確かに継体天皇以降、物部氏が出世し躍進していました。育ての親である乳母の家を引き立てたとすると納得です。

まあ、真澄探当證ではそう描かれていますということで
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追記です (とくこ)
2018-01-17 21:10:32
ちなみに、真澄探当證では、
春日姫は市辺押磐皇子のお妃の蠅姫の姪にあたり、葦田宿祢と蠅姫はきょうだいです。

春日姫と仁賢天皇や顕宗天皇はいとこ同士になっています。

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蘇我氏も武内宿禰から (禮月)
2018-01-17 22:32:32
とくこ様

丁寧な解説をありがとうございます。
所詮伯母も私も「霊感という怪しげな代物(これも伯母の言葉)」から得た知識や情報でしかないので、信憑性や精度の面では当てにならない部分も多分にある事は承知の上です。

やはり書物や伝承を丹念に調べ上げているとくこ様は違うな、と私は常々感服しています。

蘇我氏の祖先も武内宿禰とあるので、蘇我氏の父方の祖が武内宿禰の所に婿入りしたと思われます。春日山田皇女が蘇我氏の母方の従姉妹等の親族とは考えられませんか?

スミマセン。私も伯母も本当に解らないのです。伯母の精神が住む世界で放送しているらしい、学者さん達の討論会のラジオ番組の情報を私が更に記憶しているに過ぎないので。だから、伝言ゲームの様に伯母から私に伝わる過程でも、私が間違って聞き取っている可能性も十分にあります。

振媛の名前の由来は解りました。血縁的には物部とは関係が無い様ですね。でも気になるのが、彼女の乳母って誰だったんだろう?という事です。古代の乳母や乳母の一族の地位は極めて高かったらしいですから、もし仮に彼女の乳母の実家か婚家が物部系の家なら、物部の里で育った姫様という称号も与えられていたとしてもおかしくはなさそうですが・・・

これも根拠の無い憶測に過ぎません。
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私も自分の疑り深い性分が嫌いに (禮月)
2018-01-17 23:23:40
実は、私はかなり疑り深い所があります。尤も私の場合は少々度が過ぎる事があったので、可愛気のない子と言われた事もしばしありました。

歴史とは勝った者が編纂した歴史が正しいとされ、負けた側のそれは「偽りの歴史」として片付けられてしまいます。フーヴァーの残した手記でさえ、第二次世界大戦の先勝国にとっては都合の悪い事が随分と書かれていたので、割りとつい最近まで余りの日本では知られる事がありませんでした。

負けた側が、勝った側に都合の良い様に史実を書き換える事を余儀なくされたり、肝心な情報を削除させられたりする事は世の常です。(100%嘘ばかりだと言っているのではありません。)

話が脱線しましたが、古代の皇族や豪族の人間関係を考察する時に無視してはいけないのが、入婿と乳母の一族だなと思いました。

江戸次代以降乳母の社会的地位が低くなったせいか、近代以降の古代史の研究では乳母の一族は軽視される傾向にあると感じました。例えば養い君が女の子で自分の実子に男の子がいた場合は、息子の格好の入婿先となります。

儒教思想が強くなった江戸時代以降や西欧史では父権制社会なので父方の姓や一族中心に考察されますが、古代日本は母権制的な要素の強い父権・母権双方の社会でした。

それらの点も全部ひっくるめて考えると、頭に色んな仮説が浮かんできてしまうのです。

奄美大島生まれの祖父から聞いた話もありますし、私の頭は大混乱状態にあります。(汗)
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残念ながら物部の里とかはなかったです (とくこ)
2018-01-17 23:54:05
私も真澄探当證を読んで、そこに出てくる人達がいたので、書いたのですが、
雄略天皇の突然の襲撃で、綾姫と豊姫は二人だけで従者もなしに二人だけで逃げたので、乳母は連れてなかったようです。
なので乳母の記述はないです。

豊姫(振姫)母子は乞食同然で、心労から母綾姫は現在の一宮市内で投身自殺を図り、豊姫がわあわあ泣いていたので、近所の人に助けられ、綾姫はしばらくして亡くなり、豊姫一人、そこから7kmくらいの真清田神社近くの父や顕宗天皇のいるところにたどり着いたのですが、

父の彦主人王は隠れ住んでいるのがばれないように、娘の豊姫にも身分を伝えず、顕宗天皇の侍女ということにして、顕宗天皇たちがすむ掘っ立て小屋に父と住み込んでいたので、乳母は不明です。
館に住んでいた時はいたと思いますが、乳母もちりじりに逃げたのではないでしょうか。

春日山田皇女は真澄探当證には出てきてないので、別人だと思いますくらいしかわかりません。

尾張国主や葦田宿祢はもちろん豊姫の身分も知っていて、親しく付き合っていたのですが、物部氏というと草平とおなみの記述しかないんです。

草平は彦主人王の従者で、赤ん坊の継体天皇を連れて、岐阜の山奥に隠れ住みますが、継体天皇が長じても、誰も嫁も来てくれず、もう一人継体天皇に付き添っていたのちの氷室氏の兼平と
「俺たち都にいたころは公卿だったのに、今じゃ百姓にも木こりにも縁談を断られて」ぶちぶちぐちりあう場面があって、草平も元は身分は高かったようです。

物部氏も色々な系統があるみたいですが、尾張にいたときに国主や葦田宿祢たちとも草平は顔見知りだったので、草平が物部守屋の祖だとしても、継体天皇が即位しても、蘇我氏と血縁の葦田宿祢やらとは親しくしていたのではないかと思われます。

豊姫は真清田神社近くの掘っ立て小屋に侍女としてすんでいたので、物部の里とは書いてなかったです。

彦主人王の従者の草平がのちの物部守屋の祖だとは書いてありました。
もしかしたら、草平の祖がそれこそ饒速日命かもしれないですけど、残念ながら草平の祖の記述はなかったです。

応神天皇系王朝が途切れ、仁徳王朝になったとしても、豊姫は応神天皇の六世孫で、継体天皇は応神天皇と仁徳天皇の血を引く正当な継承者だと彦主人王は継体天皇が生まれたときに喜んだということです。
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尾張に仁賢・顕宗天皇がいた痕跡も消されてます (とくこ)
2018-01-18 00:58:18
天皇家と尾張の関係を知られるとまずいと思う一族がいたようで、かなり仁賢・顕宗天皇の痕跡は消されてます。

それでも、地元の伝承は残っていて、真澄探当證と照らし合わせるとなるほどという地名とか由来とかがまだ残っています。

嘘のような生々しい話とか、豊姫が振られて、自殺しようとしたけど、腰をしこたま打って、死ぬに死にきれず、杖ついて帰ってきた道のりとか、皇族のあまりにもみっともない話もあり、ああ、あそこからあそこまで通ったんだ、とか、地元民が読むと納得できるので、信憑性が高いと感じてしまいます。
「振られ姫」と言われたとか、嫁振村とか、売夫(ひめふり)神社とか、腰を打って竹ざおでようやく立ったから「竹の腰」とか、毎日、豊姫は自殺する機会を伺っていたようで、同情されて豊姫の自殺しようとした地名の゜由来となっているようです。
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日十大王とは?(もやもやしつつ試行錯誤) (すずたま)
2018-01-18 19:12:51
手堅く地道な歴史研究には全く向かず、本来感覚的で右脳しか無い人間が嫌々古代史系に引っ張り込まれたので、いつも逃げ腰でいます。
今回こちらに書き込んだのも、《忍穂耳》《忍骨》とは何か、という命題がまず右脳的に浮上して、《英彦山》のヒコ(日子?)が気になって、関係あるのか無いのか《忍坂彦人大兄》が浮上して、《天台山の王子晋》の《八角形の水晶に浮かぶ十字》が気になって・・・
そうこうするうち自分が導かれるように行った《桜井の忍坂》は大重要ポイントだと気づいて、これは諸歴史家がすったもんだ解けないでいる「隅田八幡宮人物画像鏡銘文」の《意柴沙加》だと気づくとともに、かねての「十字とは日十」のぶっとび妄想に繋がり、日十大王とは何か、の命題があらためて浮上し・・・

結局は「忍坂」をめぐって自分なりの「忍坂神=少彦名への旅」を続けているんだろうなとひそかに思う次第です。

(今気づきましたが少彦名にも懸念のヒコが?)(そうすると彦主人王もヒコ?)

彦主人王って誰だっけ?何も知らないのです。
妃が振媛で、子が継体とされているのですね。
このあたり振媛ひとつとっても物凄い葛藤と歴史の綾がからまっているのですね。
彦主人王をちょこっと調べると、
「継体天皇の系譜を伝える「釈日本紀」所引の「上宮記」によれば、汙斯(うし)王と記し,応神天皇の子孫の乎非(おひ)王が牟義都(むげつ)国造の伊自牟良君の女子の久留比売を娶って,王を生んだとある」
ムゲツ??

何にしろ継体の前後は古代史のわけわからなさの大元。これまでわかったところでは継体系には北燕や高句麗が入っている。蘇我氏の色が濃くなってゆく。この時期蘇我・物部・秦・息長、全て絡んでいる。

男弟王とは。
人物画像鏡の男弟王はオホド王=継体と解釈するむきが多いが、男弟(おおど)とオホドは言語系統が違うという説あり。
九州王朝論者古田氏の「日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」の解釈は、
「年」を日十大王「年(歳)」(倭王の中国風の一字名)とする。
「男弟王」:日十大王「年」の弟。九州王朝=俀国では兄弟統治をおこなっていた(隋書俀国伝に記載されている)とのこと。
兄弟統治の男弟王か、祭祀巫女女王の補佐役の男弟王か?
どうも後者の方だと思う。前者ではわざわざ男とつける意味がないという単純な理由。

もやもやしつつ、続く。又書けるときに。
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日十大王お試し解釈 (すずたま)
2018-01-18 20:15:35
もやもやしつつの「日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」の現時点での私のお試し解釈その1は、

「倭王である『日十大王=女王+男弟王の祭祀ペア』の時代(年)に、男弟王が息長氏の席捲する桜井忍坂で養育されていた頃、即ち即位前」

つまり真正呉氏系・呉の姫氏の那珂王朝を築いた息長氏が呉音神に導かれて辰砂の列島第一の大産地・宇陀の入り口である桜井忍坂をおさえていた時代があった。
天皇として記される方の男王は、元々は息長氏に婿入りした系統の子であり、その後も母系に養育される時代が続いた。

お試し解釈その2
「元は九州にあった倭の呉王の1人であるところの日十大王『年』が、その母系であるところの息長氏の許にいた頃」

つまるところ、
忍穂耳も忍骨も忍坂も忍坂神も忍坂彦人大兄も全て呉系。
彦は日子。彦山は日子山で、トーテムとしての王子晋が渡来したところ。
忍坂彦人大兄は、日十大王という祭祀ペア、オトタチバナ姫+ヤマトタケルや神功皇后+竹内宿祢のパターンの男系の1人。大兄に高句麗系の要素あり?

画像鏡で記念されているのは神功(=忍坂大中姫)とその弟王(竹内宿祢系の誰か=倭の呉王)のペア。

禮月伯母様情報に「忍坂彦人大兄=馬子」とありますが!?
流れとしてはおおありです。
蘇我氏は桜井忍坂にいた息長氏と結びつくことでも財を得たのでしょう(道氏だけでなく)。
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Unknown (とくこ)
2018-01-18 22:07:51
彦主人王(ひこうしおう)

>振姫とあだ名される豊姫は、真澄探当證では、応神天皇六代目の孫にあたるとしています。
>振り姫とあだ名されるのは父の彦主人王が身分を娘であるた豊姫

彦主人王は応神天皇の五代目の孫
彦主人王の娘の豊姫(振姫)は顕宗天皇との間に継体天皇を産むが、離縁されるをもって「振られ姫」というあだ名がついたそうです。

人物画像鏡の男弟王についての知識はありませんので存じません。

>男弟(おおど)とオホドは言語系統が違うという説あり。
「おおど」と「おほど」ですが、どう言語形態が違うとはどういう意味でしょうか?

大学時代に万葉仮名の講義を受けましたが、「お」と「ほ」、それから「を」は発音が違うので違う漢字をあてているはずですが、充ててある漢字によって発音が違うのはわかりますが、言語形態とは初耳なのでわかりません。

万葉仮名では、普通は漢字を一文字をひらがなの一文字にあてるものが多い(違うものもあります)ですが、万葉仮名の解釈では、

万葉仮名に従って読むと
継体天皇(男大跡王)
「お」於、意、憶、應ですので、違います。
「を」乎、小、緒、矣、遠、 尾、呼、雄、男、麻、 袁、越、怨、絃、(為)袁、遠、烏、嗚、塢、乎、弘、 於

とありますので、「男」は「を」と発音します。

「ほ」と発音する文字は、
穗、火、百、褒、朋 保、大、富、倍、 報、帆、布、譜、費 弗、太、穎、袍、陪などがありますので、
「大」は「ほ」と発音します。

「と」は、刀、門、戸、外、度、斗、 利、土
「ど」do は、等、登、跡、常、与、 十、得、迹、鳥、共
騰、止、飛、澄、杼、砺
なので、
「跡」は「ど」と発音します。

「男大跡」は万葉仮名から解釈すると「をほど」となります。

同様に、男弟王は
「男」は、「を」と発音します。

「で」と発音するもの
泥、涅、提、底、弟 堤、禰
のなかに「弟」がありますので、

「弟」は
「で」と発音します。
もしくは「弟」「おと」(年下のという意味の「乙・おと」)と表記したとすると、
「をおと」となります。

あくまでも万葉仮名での読みですが、
男弟王は「をで王」もしくは「をおと」ですので、

「男大跡」は「をほど」
「男弟」は「をで」もしくは「を(お)と」、あるいは「をと(゛)」となります。

「をほど」でしたら個人の名前だと思いますが、
「男弟・をと」は「おとうと・弟」という意味だと思います。

九大の研究者は万葉仮名のことをおっしゃっているのでしょうか?
早稲田の文学部をでた人は万葉仮名すら知らなかったので、九大の先生は万葉仮名による解釈を試みておられたのでしょうか?

国語国文専攻と考古専攻では意外と知識が違いますので、九大の先生が万葉仮名のことに言及されていて、なおかつ当時の言語形態(?)が違うとおっしゃるのであれば、私には意味がわかりません。

ですが、
「をほど」は個人名で、
「を(お)と」であれば、「弟」という意味で使っていると思います。個人名とは違うと思います。
それしかわからないです。
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うし (とくこ)
2018-01-18 22:18:16
「うし」ですが、「大人」と書かれることが多く、偉人というような意味です。

手力男の墓所とされる場所も「牛小屋」といいますが、元々は「うし」=偉い人、権威ある人という意味で使われます。

彦主人王(ひこうしおう)ももしかしたら、はっきりと名前が伝わってないのかもしれません。
もしくはぼかすために「主人王」と言っているのかもしれません。
豊姫の夢に出てきて「我が名は彦主人王」と名乗っているので、ほんとうに彦主人王という名前だったのかもしれません。

記事の内容とずれてしまったことをお詫び申し上げます。
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ウシ王の妃がクル姫! (禮月)
2018-01-19 00:24:54
そう言えば、継体天皇(オオド王or男弟王)の母君は牟義都国造の娘の久留(クル)姫でしたね。

戌年のスレッドでとくこ様が言及されていた縄文時代に列島に流入したとされる国栖と、伯母が夢で語ってくれた「クル族・コレ族」には似通ったエピソードが多くて驚いています。クル族・コレ族はコルキスやインドのコルカタ(カルカッタ)、果てはクレタ文明も作ったと伯母も語ります。元々アラビア半島南端に住んでおり、海路でバルカン半島やインド亜大陸や中国大陸や列島に散って行った様です。

応神天皇も継体天皇(のモデルのうちの誰かかもしれない)も、「牛の子」という称号を持っていたとも聞かされました。オオド王か男弟王のどちらかの父親がウシ王・・闇に消された歴史の謎は複雑ですね。

所で、スマホで「こず」という漢字を変換していると「牛頭」や「五頭山」という単語が候補で出てきます。国栖や国主も「こず」と読む場合がありますね。奄美生まれの祖父は「大国主が元々住んでいたのは、沖縄県の国頭郡。最初から島根県の出雲に住んでいた訳ではない。武御名方が住んでいたのも奄美諸島の諏訪瀬島。出雲のスサノオとは戦争もしたが、最終的には同盟を結んだ。」と語ります。

話は又々飛びますが、インド神話のシヴァの別名の一つに「マハー・カーラ」というのがあります。「偉大なる黒」や「偉大なる時」という意味になるのですが、有史以前に存在していた、シヴァのモデルになった人物が「国栖」か「クル族・コレ族」だった可能性はありませんかね?シヴァの乗り物はコブ牛で、インド人は基本的に牛肉を食べません。(でも水牛は悪魔と蔑んで食べるみたいですが)

マハー・カーラ、国栖、牛頭天皇、ウシ王、オオド王か男弟王、中国大陸で仏教の信仰を身に付けた国栖族かクル族・コレ族の末裔ではないでしょうか?
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豊姫…彦主人王… (すずたま)
2018-01-19 00:29:11
万葉仮名のことを詳しく書いて下さりありがとうございます。

私は大学も一年未満で退学し、学問らしい学問をした経験がありません。
しかも最近の書き込みは、もやもやの試行錯誤とありますように、大体が思いつきのヤマカンでぱぱっと書いていますので、学問的なつっこみをしていただく価値の無いものです。そんな文をどんどん投稿していることを反省します。むしろつっこんでいただくと、間違いに気づけますのでありがたいです。
私は忍坂大中姫とか忍坂彦人大兄のことなどを今急に知りたくなっているので、ヤマカンなどではなく学問的知識を仕入れたいとは思っているのですが、下地・能力・時間ともに無く、皆様のお力をお借りしたいのです。

件の「男弟・おおど」問題は、「元の音が違うから当てられる漢字が違う」という話で、そうどこかに書いてあった(古田氏ではない)のを、勝手に言語系統が違うという言い方に安易に書いてしまったと思います。言語系統という言葉は確かに絶対おかしいですね。誰もそんなことは言ってないはずです。
(九大の先生って古田氏のこと?それすら私は知らず、第一古田説に私は賛同していません。)
今見ると継体は音ではヲホドであることは確かですね。

「男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)、『筑後国風土記』逸文に雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)、『上宮記』逸文に乎富等大公王」

この程度は確認しておくべきでした。
このことからして、人物画像鏡の男弟王は「いわゆる個人としての継体」ではないということは確かのようですね。

彦主人王の情報もありがとうございました。
振姫はあだ名で本当は豊姫(豊姫という系統にある女性)であることは重要に思えます。
応神の系統であるの意味は神功と竹内宿祢の子孫ということでしょうか?
その女性に、我は彦(日子?)の王者、と言った…

豊御食炊屋姫も豊姫の系統といえるのでしょうか。
その宮もまた一時は桜井豊浦宮、つまり忍坂にあった、と資材帖は告げています。
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ウシの意味 (禮月)
2018-01-19 00:51:36
とくこ様の博学ぶりには毎回頭が下がります。

「ウシ」の意味は「偉大なる」というニュアンスの意味なのですね。勉強になりました。

だから応神天皇や継体天皇が「ウシの子」と言われたのも、「偉大なる人の子」という意味ならば、正に王族に相応しい肩書きですね。

長い歴史の中には消された事実も数えきれない程沢山ある筈で、そうした書物には残せなかった「消された事実」の部分を考察するのもまた醍醐味では?書物の中の記事ばかりに意識を捕らわれ過ぎていると、私だったら頭でっかちになり過ぎてインスピレーションが鈍りそうです。(尤も私の場合はインスピレーションと呼べる程高尚な物ではないけれど)あくまで日本書記や古事記を読んでいる時にはそう感じました。

やっぱり私は霊感や突然頭に降りてきた閃きを元に、後から調べて行くタイプの人間だと思います。

男弟王なら、誰かの弟という意味ですね。一体誰の弟だろう?と私も気になります。何度か触れていますが継体天皇とは特定の一人の人物を示すのではなく、複数のモデルになった人間(少なくても二人)がいるという説も未だに根強いそうですね。

継体天皇については、学会・在野を問わず様々な研究者がおり、それぞれの持論を展開しているので、情報を受け取るこちら側は頭が混乱します。しかもどの説もみんな説得力があるから益々「どうすれば良いのかしら?」状態です。

とくこ様は本当に研究者なんだなと想いました。私とは対照的です。
7715
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呉氏骨(うしほね)?忍坂(うしさか)? (禮月)
2018-01-19 01:16:39
スミマセン。

私もついつい調子にのり過ぎてしまいました。もういい加減に私自身も連投を止めるべきかと思うのですが、呉氏骨は(うしほね)で忍坂は(うしさか)とも発音していた時期が古代ではあったのかな?と根拠の無い思い付きを閃きました。

古代南方では余り母音の区別が明確では無い時期があったらしいので、呉氏が「おし」と「うし」どちらの音でも発音されていたのではないか?と思っています。なので「ウシ王」も「呉氏王」で列島にやってきた「呉氏」の中に立派な王様がいたから「呉氏」という言葉が立派という意味に紐付いて行ったのかな?と・・・

以前に私が「息長足帯姫の息長は呉姫那珂ではないか?」という思い付きでしかない書き込みをしたら、吉田様が「その考察も有りかもしれない」と仰って下さった事がありました。

もう一つ「ヤマトの国」や「ヤマトタケル」のヤマトはチベットの仏尊の「ヤマーンタカ」から来ているのでは?という思い付きを書いた時も、吉田様は興味を示して下さいました。

そうした閃きを単なる閃きではない、閃きの中にも史実があった事を立証して下さる方がいらっしゃると有り難いです。

とくこ様の知識と伯母が夢で語ってくれた内容がオーバーラップした時は、本当に嬉しかったですよ。伯母の人間としての尊厳が認められて行くのを目の当たりに出来たのですから。
1981
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千手観音に導かれ・・・? (すずたま)
2018-01-20 18:11:16
この記事もつくづく深いですね・・・
天台山の王子晋が投げかける謎。

延暦寺に、円珍の山王院堂と円仁の常行堂があるのですね。
円仁と円珍は思想がかなり違ってしまったらしいが?
山王院堂は千手観音を祀る。
常行堂では阿弥陀如来を本尊とし、「引声念仏」が行われる。
うかがい知れないものがあります。

菊池氏の信仰である熊野十二所権現の筆頭は千手観音でした。
十二所の中身をじっと見つめ、不思議さ不可解さにうたれます(最初のコメントにコピペあり)。
第一殿(西御前):熊野牟須美大神・事解之男神(千手観音)・・・・
気になるのは、第五殿(禅児宮):忍穂耳命(地蔵菩薩)

()は本地仏。忍穂耳命の本地が地蔵菩薩とは???
深い所でこころが微反応するのですが、もどかしいです。
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王子晋のトーテム「八角形の水晶」私考 (すずたま)
2018-01-20 20:14:10
以下は八角形の水晶を画像でみたときの最初のヒラメキですが、ここに書くのはためらいがありました。スルーしていただけば幸いですが、単にここに残させていただくことをお許し下さい。

光の当て方でみごとな十字架が現れている八角形水晶
http://voidmark.fc2web.com/quartz3/grounding-2.html

禮月様スレにざっと目を通しているうちに、「稲目様」がエジプトに言及しておられるのを目にし、蘇我氏はエジプトに縁が深いというかねての思いを強くしました。
八角形の水晶に浮かぶ十字は、やはり「コプト十字」に似ています。
コプト教とはエジプトのキリスト教。この十字架のかたちは、ギリシャ正教やロシア正教に伝えられます。
高市皇子や大津皇子らの生き方に原始キリスト教的なものを感じていましたが、私的には繋がります。

真ん中のがコプト十字。アンクからコプト十字に変遷していった形跡を示す画像。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/684/98/N000/000/003/126794062785116112832_20100307d.JPG


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稲目様とホルエムヘブ王 (禮月)
2018-01-20 23:06:10
すずたま様

アンクのマークは金星(イシュタル・天香香背男も金星を守護星に持)のマークにも似ています。金星自体の意味も色欲や愛欲と言ったネガティブなものがあるものの、生命の生育という意味もあります。アンクも同様の意味がありますね。コプト十字にも水面下で、アンクや金星の持つ「生命の生育」の意味があるかもしれません。

蘇我稲目様が私にアマルナ朝の混乱とその混乱に終止符を打ったホルエムヘブ王の事を話されている時の状況は、伯母が蘇我大王家や高海原の話をしている時の状況にそっくりなのです。エジプトの太陽神・ラーは頭部が隼ですね。そして高句麗の遺構からも太陽と三本足のカラスの絵が書かれています。

蘇我稲目の父は高句麗の安蔵王というマイナー説があります。鳥の太陽神(ラー・ヤタガラス)の信仰を、蘇我氏は古代エジプトから引き継いでいたのかもしれません。太陽光の中のアンクがコプト十字や他の正教会の十字架でメジャーなキリル十字になって行ったのでしょう。

話が逸れますが、安蔵王から「安」を取ると蔵王ですね。蔵王と言えば蔵王権現。蔵王権現と言えば安閑天皇です。安蔵王と安閑天皇、蔵王権現と役小角、そして蘇我大王家や上宮王家の事に繋がって来ました。
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