2003年8月に、ブタペスト・ウィーン・プラハ3都巡りのツアーに参加した。3都とも、歴史地区の散策、歴史的な建造物の見物が主で、美術館は含まれていなかった。自由時間の多いツアーだったが、ウィーンではアール・ヌーヴォー=ユーゲントシュティールを見たり、トラムに乗ったり、シェーンブルン宮殿コンサートを聴いたりして時間切れになった。
そのときは絵画を見ていないし、グスタフ・クリムト(1862-1918)についてもほとんど知識が無かった。
クリムトが1908年に描いた「接吻」を美術雑誌で初めて見たとき、金箔を用い、恋人同士を極端にデフォルメした表現にすっかり魅了された。
クリムトはウィーン近郊の生まれで、父は彫刻師だった。クリムトを始め兄弟は博物館付属工芸学校で学び、父の死後、美術デザインの仕事を引き継ぎ、1883年、クリムト21才のころ、芸術家商会を設立、劇場装飾を手がけた。のちに金功労十字賞を受けているから、すでに非凡な才能が認められたようだ。
1894年、ウイーン大学講堂の天井画に、哲学、医学、法学をテーマにした絵画を習作するが大論争を引き起こし、その後、ナチスに没収され、焼失してしまう。
保守的な造形芸術家協会を嫌い、1897年、ウィーン分離派を結成する。1901年、金箔を用いた「ユディトⅠ」を制作、1901年の第14回分離派展=ベートーベン展に大作「ベートーベン・フリーズ」を出品する。1905年、分離派を脱退し、オーストリア芸術家連盟を結成し、前述「接吻」などの名作を発表し、1918年、病没する。
クリムトの油彩画は220点ほどで多作ではなかったし、ナチスの接収や戦禍で紛失した作品も少なくないようだが、「クリムト展」には油彩画55点を始め、120点が展示され、見応えがありそうだ。
クリムトの作品は、初期の写実的でアカデミックな画風、金箔を多用した「黄金様式」を経て、装飾的で抽象的な色面と人物を組み合わせた独自の画風を確立し、ウィーン・モダニズムの旗手として活躍したとの解説も参考にしながら、出かけた。
都美術館は第3水曜がシルバーデーで65才以上は無料になる。2時ごろで30分待ちだった。
展示は、1.クリムトとその家族、2.修行時代と劇場装飾、3.私生活、4.ウィーンと日本1900、5.ウィーン分離派、6.風景画、7.肖像画、8.生命の円環、の順で構成されている。
「1.クリムトとその家族」の「ヘレーネ・クリムトの肖像」、は1898年、6才の姪の横顔である。明るい無地の背景に白いドレスの油彩で、まだ金箔への試みは表れていない。「2.修行時代・・」も伝統的な画風の油彩、水彩が並ぶ。
クリムトは結婚しなかったが、モデルなどとのつきあいで子どもは10数人もいたそうだ。「3.私生活」には生涯のパートーナーであるエミーリエ・フレーゲら、噂のあった相手の写真や手紙、記念品が展示されている。
ヨーロッパの画家が浮世絵などの影響を受けたことは、しばしば美術展のテーマになるほどで、クリムトも影響を受けたことが「4.ウィーンと日本が1900」の主題である。
1891年作の「17才のミーリエ・フレーゲの肖像」は清楚な描き方で「ヘレーネ・クリムト」に通じるが、額縁の余白を残した梅の枝、草花の表現は日本画の影響とされる。1907年作の「女ともだちⅠ」は浮世絵の美人画をヒントにしたそうで、縦長の画面に二人の女性を描き、足元は市松模様で仕上げている。一瞬、ロートレックを思わせる大胆な構図、色彩だった。
「5.ウィーン分離派」の「ヌーダ・ヴェリタス」は1899年作で、真実の鏡を手にした裸婦を描き、裸婦の頭上にシラーの言葉を入れて、分離派への決意を表明している。1901年作「ユディトⅠ」は金箔を用いて官能的な女性を描いていて、黄金様式の始まりを感じさせる。
1901~1902年に描かれた長大な壁画の「ベートーベン・フリーズ」は、ベートーベンの交響曲第9番に基づき「幸福への憧れ」「敵対する勢力」「歓喜の歌」を描いている。展示室の3面を使った複製の展示だが、複製と感じさせない迫力がある。
「6.風景画」「7.肖像画」も見どころは多い。「8.生命の円環」の1905年作「女の三世代」は左に年老いてうなだれる老女、中央の若々しい女に抱かれて安心して眠る右の幼児が描かれている。生命の円環の暗示のようだ。
1909?1910?年作の「家族」は黒衣、あるいは黒の毛布から寝顔だけをのぞかせた母と二人の子どもの絵である。顔に赤みがあるから死んではなさそうだが、黒一色の背景が危うげな生と死の暗示だろうか。
7月10日までの開催なので、クリムトとの対面をお勧めする。
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