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「捨ててこそ空也」斜め読み(1)

2023年02月18日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>  book547 捨ててこそ空也 梓澤要 新潮文庫 2017


 
2023年1月、コロナ渦の行動制限が解かれたので京都を訪ね、2日目に六波羅蜜寺の拝観を予定し「捨ててこそ空也」を持参したが読むいとまはなく、帰宅後に読んだ。
 六波羅蜜寺(写真)は文中に登場する西光寺である。表紙の空也上人像も拝観した(運慶の4男・康勝作)。口から出ているのは6体の阿弥陀仏である。
 文中に描かれる十一面観音像は六波羅蜜寺の秘仏で12年に一度しか開帳されないが、増長天像、地蔵菩薩像などは拝観した。
 帰宅後、「・・空也」を読み、人間は悩み苦しみ弱い存在だが、南無阿弥陀仏を唱え「捨てて生きる道」をまっとうし、市聖(いちのひじり)として崇められる生き方に感無量になった。梓澤氏の筆裁きの妙もあろうが、空也の「捨ててこそ」に教えられた。


 本文最初の見開き2ページに「ふたりの子」が書かれている。菅原道真(845-903)が福岡県太宰府に左遷され、悲運のうちに死んだ903年、二人の子の一人、京で醍醐天皇の子として生まれた五宮常葉丸(のちの空也)、もう一人が板東(現在の関東)で生まれ、のちに新皇を名乗る平将門(903-940)である。
 物語の最初に空也と平将門をふたりの子として登場させるから、平将門との出会いが空也に大きな影響を及ぼす展開かと思ってしまう。読み通してみると、空也の求道の生涯の一断片として将門との出会いが描かれるだけだった。
 物語は、第1章・出奔、第2章・里へ山へ、第3章・板東の男、第4章・乱倫の都、第5章・ひとたびも、第6章・捨てて生きる、第7章・光の中で、終章・息精は念珠、と展開する。粗筋を拾い書きしたら、けっこうなページになってしまった。空也の生涯は=梓澤氏の物語は、なかなか捨てきれない表現が多い。


 空也は、60代醍醐天皇(885-930)の皇子として生まれ、五宮常葉丸と呼ばれた。母は天皇の寵愛を受けていたので、いずれ皇子として認められると思ったのであろうが、左大臣・藤原時平のごり押しで、時平の妹・隠子に生まれた保明が皇太子に立てられてしまう。
 激昂した母は五宮を投げ飛ばし、五宮はその後左肘が動かなくなる。・・父との出会いもなく、母は狂気、左肘が動かない、その不遇が空也の心にひずみをつくりだしたのか。空也はいつも悲しみにあふれ、涙を流す・・。
 五宮の乳母は渡来系の秦命婦、その息子の道盛は舎人として五宮に仕える。道盛の妹阿古は五宮を慕い、五宮に抱かれ子も生まれるが、あっけなく世を去る。


 醍醐天皇の父=五宮の祖父は宇多法皇(59代天皇867-931)である・・宇多は887年に天皇を継ぐと、藤原時平を参議とし、菅原道真や源氏の皇族を重用する。897年、宇多は譲位し、宇多法皇、醍醐天皇の治世になる。
 藤原時平は菅原道真を政敵とし、901年に道真を太宰府に左遷する。道真は、903年、悲運のうちに命を落とす。同年、時平は39歳で急死する。時平の死、続いて起きる朝廷での変死、富士山噴火、地震、日照り、飢饉までも道真のたたりとされた。
 宇多法皇は東寺で灌頂を受け、仁和寺で落飾入道して空理の法名を授けられ、東寺で伝法灌頂を受けている。法皇は主催の歌会に五宮を招くが、五宮は馴染めない。
 法皇は東寺、比叡山延暦寺、興福寺から僧を呼び、五宮に仏教を学ばせたが、五宮は鬱屈していたせいか、教えに納得できない。法皇は仁和寺阿弥陀堂で童子の行う不断念仏の行法を催し五宮を呼ぶが、五宮は違和感を感じる。
 五宮は自ら比叡山を訪ね、東塔常行堂で行われる堂僧の不断念仏に息を呑む。その後、何度も比叡山を訪ね、僧に話を聞くが、仏の教えは誰のためにあるのか、何のためにあるのか、自分はこれからどう生きればいいのか、悩み続ける。
 ・・五宮が仏道に関心を持ったのは宇多法皇の影響があるようだ。だが、五宮は法皇の考える仏教、仏僧に違和感を感じる。その違和感が五宮をその後の求道に向かわせたようだ・・。


 五宮が法王主催の歌会を途中で抜け出したあと、五条の鴨川の土手で野棄の亡骸を燃やす臭いに気づき、荼毘に付される遺骸を見る。このときに、喜界坊を頭目とする集団とその一人の猪熊に出会う。
 五宮が気分晴らしに道盛とともに嵯峨野に出かけたときにも、化野で骸を焼く臭いに気づく。荼毘に付していたのが鬼界坊の集団と猪熊たちで、五宮はとっさに荼毘に付すのを手伝いたいと申し出るが、かえって迷惑と追い払われる。
 野棄ての遺骸の荼毘も五宮の心に沈殿したようだ。
 五宮の母は、五宮に親王宣下を受けようと画策して失敗し、井戸に身を投げてしまう。母の自死も五宮の心に沈殿する。
 五宮はすべてを捨てようと邸を出る。ここまでが「第1章 出奔」のあらすじである。のちに市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖、市上人(いちのしようにん)として崇められる空也のイメージにはほど遠い。この落差が、梓澤氏の狙いのようだ。


 屋敷を出た五宮を道盛が供をし、右京七条の道盛の恋人草笛の家に泊まったあと、五宮は孤児の常葉として道盛とともに喜界坊、猪熊の集団で働く。集団は水路の開削、井戸掘り、橋の付け替えを行いながら、山城、大和、河内、和泉、摂津の五畿、東海、東北、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道を渡り歩き、野棄ての遺骸を荼毘に付していく。
 喜界坊たちは「オンアソワカ」「オンアミリタテイゼイカラウン」と真言陀羅尼の一字呪、小呪、125字の大呪を唱え、死者の魂を鎮める祈りをあげる。常葉も「南無阿弥陀仏」を唱え、手を合わせる。 ・・喜界坊はこのあと登場しない。猪熊は盗賊になって空也に喜捨する場面で登場する・・。
 
 道盛に母命婦から手紙が届き、阿古と五宮の子である4歳の女子が流行病で死んだことを知らされる。苦悶する五宮=常葉に、道盛は二人は極楽浄土に往生し、我らが行くのを待っていてくれるようにと、南無阿弥陀仏を唱える。放り出してきた阿古、顔も見たことのない我が子の死も常葉の心に沈殿したようだ。
 常葉が19歳のとき、道盛が吉野の蔵王権現への山行の途中、崖から転落死する。常葉はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え、いつか会えると念じる。いつも支えてくれた道盛の死も常葉の心に沈殿していく。
 923年、常葉21歳のとき、保明親王が突然死する。世間ではまたも道真の怨霊の祟りと噂する。保明親王の子・慶頼が春王に立てられる。話が飛んで、慶頼王も5歳で薨去する。中宮隠子は息子に続き孫も失う。常葉は、人は誰も苦しみが絶えない、と思う。


 常葉は病に倒れ、一人都に戻る。秦命婦の住む嵯峨野で体を休めながら、人は何のために生きるのか、人の苦しみはなぜ尽きないのか、悩み続ける。元気を回復した常葉は仏法を学び直そうと、尾張国分寺・願興寺を訪ね、悦良に師事する。
 常葉は、悦良のもとで「不生不滅=いかなるものも生じることなくいかなるものも滅することはない・・・・」、「あらゆるものは因縁によって生じる」「すべてのもの、人間、現象は因と縁が関係し合い、生じ、とどまり、変化し、滅する、そのことをという」「真理を知らないことが無明、人間は無明の闇をさまよい歩いている」などを学ぶ。
 常葉は、悦良を伝戒師として出家し、「・・衆生の大苦を減除し・・大乗の深義は空なり」を心に刻み込むため、名前を空也とする。空也の考え方は定まる。市聖空也の第1歩といえよう。


 悦良に勧められ、播磨国の峰合寺で一切経を勉学し、修行を重ねる。峰合寺の寺奴をしている頑魯と知り合う。この先、頑魯が空也の支えとなる。
 930年、空也28歳のとき、父・醍醐上皇の訃報が届く。空也は、播磨から京まで4日かかるのを2日で駆け抜け、初七日の法要に間に合う。清涼殿で宇多法皇を中心に法華経が読経され、空也も読経する。法皇に呼ばれた空也は、すべての人を救いたい、その方法を探していると言い切り、法皇と別れる。
 峰合寺に戻り、自分の自己満足に気づいて嗚咽していると、頑魯が仏様はいつも見ていて、救いに来ると話す。不意に、観世音菩薩が頭にひらめく。
 家を出てから宇多法皇崩御までが「第2章 里へ山へ」に描かれている。無明の闇を歩く空也に観世音菩薩は微笑むだろうか。梓澤氏は読み手の気持ちを離さない。


 「第3章 板東の男」前半で、空也は阿波・淡路島の南の湯島に祀られる十一面観音(観世音菩薩三十三変身の一つ)を目指す。頑魯が同行する。頑魯の櫓さばきで荒海を渡り、湯島の岬の観音堂を開けると神々しい十一面観音像が安置されていた。
 空也は如意輪陀羅尼経(如意輪観音も観世音菩薩三十三変身の一つ)の六度行を始めるが、2ヶ月過ぎても求めるものは見つからない。空也は七日間の不眠不休の行を始め、七日目の夜、瞑った目に結跏趺坐した阿弥陀如来が現れる。信じて不断の行を行えば仏が現れることを空也は実感したようだ。空也は目に現れた阿弥陀仏と十一面観音の像を木に刻む。
 二人は湯島の観音堂をあとにし、悦良のいる尾張国分寺・願興寺に行くが、悦良は飢饉で多くの餓死者が出ている陸奥に旅立ったあとだった。
 当てもなく歩いている空也は悦良を知る遊女に出会う。遊女たちが暮らすあばら屋で、死に瀕した遊女に空也は「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏が迎えに来ると話す。息を引き取った遊女を河原で荼毘に付し、10日かけて彫った阿弥陀仏を遊女たちに渡し、悦良のいる陸奥に向かう。


 東海道を下り・・大井川を渡り、雄々しく荒々しい冨士を眺め・・、白河を越え、荒々しく無骨な磐梯山まで来る。村人によれば、磐梯山の大爆発で大きな被害を受けたとき徳一菩薩が鎮めたとき建てた慧日寺に悦良が訪れ、農地開墾を手伝っていたが、山に修行に出たまま戻っていないそうだ。
 空也は悦良が住んでいた古堂を拠点に、雨不足で干上がっている田畑のため井戸を掘り、山際に野棄てされている骸を荼毘に付し、村人のため阿弥陀仏を彫り、「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土に導かれると説教して歩く。悦良が凍死体で発見される。
 続く
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