よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

越前・日本海ハイ!ウオークツー1日目(第23回 日本海コース30km)

2014-09-18 19:36:06 | ウォーキング

平成26年 9/13~14、福井県で行われた「越前・日本海ハイ!ウオークツー」に参加しました。

夏の間、雨ばかりであまり歩けていませんが、2日間とも30kmコースにエントリーしています。

初日30kは、日本海コースで 三国運動公園→→吉崎御坊跡→北潟湖→浜地海水浴場→雄島→東尋坊→三国港町町家→みくに龍翔館→三国運動公園

受付は7:30からですので、えちぜん鉄道の始発に乗らないと間に合いません。コンビニで弁当を買い食べてから えちぜん鉄道の駅に向かいます。

今日は、朝の最低気温が18℃、最高気温も25℃、天気は晴れと絶好のウオーキング日和です。

えちぜん鉄道は、福井駅から三国港に行く「三国芦原線」と福井駅から勝山に行く「勝山永平寺線」があります。勝山には、恐竜博物館があります。

 

ホームに入ったのは、一番でしたが、長椅子にもう誰か座っています。

恐竜のモニュメントでした。約1時間の乗車で終点の三国港駅に到着。三国港は、昔、北前船で栄えた町です。会場の三国運動公園へは、徒歩15分で着きました。

   

8:15から出発式。出発式のあと30k,16k,7kと一斉にスタートします。30kは、バスで「吉崎御坊跡」に移動します。

  

約30分で吉崎御坊跡に到着。吉崎御坊は、今から約540年前、蓮如上人が浄土真宗北陸布教の拠点とした所です。

  

別院には、「嫁威しの面」というのがあり、立ち寄ってみたかったのですが、しばらくは団体歩行のため立ち寄れませんでした。

どうも気になりますので「嫁威しの面」を調べました。

むかしむかし、吉崎(よしざき)に蓮如上人(れんにょうしょうにん)のお寺がありました。そしてその近くの二俣(ふたまた)という村に、与三次(よさじ)という若者と母親が住んでいました。

 ある日の事、この与三次の家に、やさしい働き者の嫁さんが来ました。嫁さんは蓮如上人の教えをうけて、毎日、吉崎御坊(よしざきごぼう)へお参りに通っていました。
 そのうち与三次も、嫁さんと二人仲よく吉崎御坊に通うようになりました。ところが母親は信心のない人だったので、おもしろくありません。
 嫁さんが、母親に信心をすすめると、「ふん! なにを言っているんだい。信心したって、腹はふくれないよ! そんなひまがあったら、もっと働き! だいたい、お前という嫁は・・・」
と、母親は嫁さんをいじるのでした。

 ある日、与三次は急な用事が出来て、吉崎御坊へ行けなくなりました。嫁さんは仕方なく、一人で吉崎御坊へお参りに行きました。
 嫁さんが、まっ暗な夜道を一人で帰ってきますと、家の近くの竹やぶから突然鬼が現われました。
「こら! 毎晩親をないがしろにして、吉崎御坊へ通うとは何事じゃ!」
 嫁さんはビックリしましたが、すぐにいのりました。「蓮如上人さま、どうぞお助けください」
 すると不思議なことに、鬼はピクリとも動かなくなってしまいました。「蓮如上人さま、ありがとうございます」
 嫁さんは急いで家にかけ込みましたが、家に帰ってみると母親の姿がありません。
「もしかして鬼が、お母さまを」 母親が鬼におそわれたと思い、嫁は母親を助けようと家を飛び出そうとしました。
 するとちょうど与三次が帰ってきたので、く二人はさっき鬼が出たところまで行ってみました。
 すると母親が、鬼の面をかぶって泣いているではありませんか。「お母さま、大丈夫ですか」
「母さん、そこで何をしているんだ」二人がわけを聞くと、母親は嫁が吉崎御坊へ行きたがらないようにと、鬼の面をかぶっておどかしたそうです。
 ところがどうしたわけか、母親の顔から鬼の面が取れなくなってしまったのです。
 二人は母親を吉崎御坊へ連れて行って、阿弥陀(あみだ)さまに一生懸命おいのりをしました「どうか、お母さまをお助けください」
「母さんも反省しています。どうかお助けください」すると今までびくともしなかった面が、ポロリとはずれたのです。
 それからは母親も心を入れかえて、三人は仲良く吉崎御坊へ通ったという事です。(福井民話より)

  

上っていくと視界が開け、右側に海が見えてきます。そして高村光雲作の「蓮如上人像」が建っています。

  

旧吉崎道は、蓮如上人が、吉崎へ下向する際に通った道です。旧北陸道と分岐する細呂木には、切通しが往時のまま残っており、苔むした岩肌が歴史を物語っています。

  

細呂木関所跡

福井藩祖「結城秀康」が慶長6年(1601)5月、越前入国の際、北陸道の開門として設けたもので、今庄町、板取の関と共に、北と南で国境を警備し通行人と物資の搬出を監視した。

この関所を通るには、福井藩の役所手形が必要で、鉄砲と女改め方には、特にきびしかった。

  

民家の庭先を見てますと、栗の実が実っています。また、畑には蕎麦の花が咲いていました。田んぼには、実りの秋を迎え、稲刈りが行われています。

雑談ですが、今や、お米のブランド名になっています「コシヒカリ」は、福井県が発祥の地です。「越の国に光輝く米」として命名されたそうです。

コースは、田園地帯を歩きます。遠くに風力発電の風車が見えてきます。私のDバックの後ろにつけている「風車」よりはるかに大きいです。(笑)

 

10時20分、最初の給水ポイント「北潟湖」に到着。ここまで7km(時速6km/h)。私にしてはちょっと早いペースです。

北潟湖は、福井県内3番目に広い湖です。湖畔には300種20万株の花菖蒲園や湖畔を一周できるサイクリングロード、湖ではカヌーもできます。本当に素晴らしい景色です。

  

パノラマで撮ってみました。

「あわら夢ぐるま展望台」が最初のチェックポイントです。目の前で見る風車は大きいです。(私の風車が小さく見えます)

ここでは、ソフトクリームがおいしいということで買ってみました。売店には、産直店も兼ねており、あの「越のルビー」「さつまいも」もありました。

  

  

展望台から海岸に向かって歩きます。途中、日本海の波の音が聞こえてきます。今日は波が高いのでしょうか、冬の海のように荒れ狂っているように聞こえます。

ここから浜地海水浴場までは、日本海を眺めながらの歩行です。ただ、この細い道に車が行き来し、通れないのでちょっと避けたりします。

  

日本海の水平線の先は、北朝鮮でしょうか?

18kmの所が、浜地海水浴場。時刻は、12時半。ここがチェックポイントになっています。ここで事前予約していたお弁当を受け取ります。

   

お弁当休憩後再びスタート。

  

このあたりは、東北の松島に似ていることから、「越前松島」と呼ばれています。磯に点在する柱状節理の岩が、独特の景観を見せてくれます。

丸岡藩砲台跡 砲台は、丸岡藩が沿岸警備のために坂井市三国町梶の東方に突出した海岸部に建設したものである。外面は土砂で築き、内面と側面は石を積み上げて作られている。

銘文によると嘉永五年(1852)2月、高島秋帆の門人と伝えられる栗原源左衛門の設計で築造されている。現存する遺構は、北面して弓形を呈し5つの砲眼を開く東西33m、

高さ1.8mの胸墻(きょうしょう:敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)を主体としている。(福井の歴史より)

  

昔の防波堤を見ていると、横がお墓です。そのお墓に、蓆(むしろ)が巻かれています。初めて目にしました。どういう意味なのか、調べてみますが、わかりません。ご存知の方教えてください。

   

コースは、「雄島(おしま)」に近づいてきました。雄島は、東尋坊の沖に横たわる島で、周囲2kmの遊歩道があります。古来から神の島と崇められており、例年4月20日には、「雄島祭り」が行われます。

  

海岸線に広い展望台があります。ここには、1997年1月に遭難したロシアの貨物船「ナホトカ号重油流出記念碑」があります。三国の海岸にナホトカ号の船首部分が流れ着き、重油が漏れ、

重油回収のため、自衛隊や民間のボランティアの方の協力で約3か月で回収を終えました。

  

雄島の駐車場がチェックポイントです。今日は、気温は、25℃ぐらいですが、歩いていると汗が噴き出てきます。小まめに水分を補給しています。

このチェックポイントでも給水サービスがあり、ペットボトル2本分の水分を補給しました。先へ進むと「思い出せ、家族や友の顔」という看板がありました。東尋坊は、自殺の名所でもありますね。

  

 

  

東尋坊にやってきました。海面から約25mの屹立する断崖が、約2kmにわたって続く景観は、日本海随一の名称として知られ、毎年百数十万の観光客が訪れているそうです。

さて、「東尋坊」という名称ですが、お坊さんの名前だろうと思っていますが、ウィキペディアをみますと、

 

昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。

東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、

恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った。

そんな寿永元年(1182年)4月5日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。

その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、

真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、

その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。

近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊はまたたくまに崖の下へと落ちて行った。

東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、

東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと吸い込んでいった。

以来、毎年東尋坊が落とされた4月5日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという。

 

  

東尋坊を過ぎると、ゴールまであと6km。東尋坊までのアップダウンで少々疲れ気味です。やはり、練習不足がでしょうか?

三国の町に入ってきました。三国港は、昔、北前船で栄えた町です。往時の面影が随所に残り、風情ある町歩きを楽しむことができます。

眼鏡橋」は、北陸線から三国へしせんが敷設されたことにより、大正2年(1913)建設されました。橋の形式は、斜角度60°の斜めアーチ型。半円断面のトンネルで、煉瓦造りの「ねじりまんぽ」と

呼ばれる珍しい技術を採用されているそうです。  お魚屋さんでは、魚を焼いていましたが、その匂いに近づいてきました。せめて写真だけでもと思い撮らせていただきました。匂いが伝わるでしょうか?

  

三国の町を歩いているとウオーカーの方が見当たらない。私達がしんがりなのでしょうか?少し寄り道をしすぎたかな・・・・・・

しかし、三国の町を歩いていると、ウダツのある家や、旧家など、街道歩きが好きな私には、嬉しくなります。

  

  

北前船貿易で莫大な財を形成した豪商の町家「旧岸名家」。2階が展示場になっています。ここが最終チェックポイントです。

北前船貿易から金融業に転換した「旧森田銀行本店」、現在は福井銀行が引き継いでいます。

    

みくに龍翔館は、明治12年にオランダ人土木技師エッセルのデザインによって川沿いの丘の上に建てられた龍翔小学校をモデルに建てられました。

内部は、三国の自然、文学、歴史、暮らしや文化などを展示されています。

   

15時44分、30kmをゴールしました。9時11分にスタートしましたから、6時間30分かかってしまいました。前半の早いペースが応えたかな????

もう足がパンパンになっています。ゴール後「おろし蕎麦」が振る舞われました。

  

地元の新聞を見てみると参加者は、7k、16k、30k合わせて530人でした。