4/05 三宮のホテルから新快速で前回ゴール地「西明石駅」へ。西明石駅構内で西国街道のパンフをゲット。
8:30このパンフを見ながら街道歩きスタートです。
西明石駅から山陽道が分らず、近所の人に聞きやっと街道に入りました。この辺りも新幹線の駅ができたりしてすっかり変わったそうです。
葬祭場あたりから左折します。「和坂」と書いてありますが、これは「かにがさか」と読むそうです。難しい読み方ですね。
この一帯、昔は山に囲まれ険しい坂道で坂の上には狐が住み、坂の下の池には蟹が住みそれぞれ旅人を困らせていた。
ある時、狐と蟹は、この坂の勢力争いをする。勢力争いに勝った蟹は、以前にも益して旅人を困らせた。
そこへ諸国を巡行していた、弘法大師が通りかかり蟹を封じ込めた。蟹を封じ込めた場所が、「蟹塚」、蟹が出没していた坂を「蟹和坂」と呼ばれていたが
いつしか「蟹和坂」の蟹がとれ、「和坂」と呼ばれるようになった。
明石市のパンフには、公園の一角に「蟹塚」の石碑があると書いてますが、探してみても見当たりません。通りかかりの方に聞いても知らないとの返事。
多分この倒れた石碑ではないでしょうか?
王子小学校の所に「王子公園」があります。公園内を見てみると石碑に「夏の歳時記園」と書いてあり、横には「山上憶良」の歌碑があります。
妹が見し あふちの花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに
(妻のながめた あふち(せんだん)の花は 今頃はもう散ってしまったことだろう 私の涙はまだ乾いていないのに)
公園の先には、「十輪寺」。ここには「太閤さん縁の木」があります。
秀吉が戦勝祈願で手植した杉の苗木が高さ25mほどになり、この付近の名物となった。昭和20年の戦火で本堂及び境内の全てが焼失した。
その時焼けた杉の幹がこれです。
十輪寺の先を左折すると山陽電鉄のガードを潜ります。この右側が山陽電鉄「西新町駅」。
南王子の信号を左折すると、県道に合流。大観橋を渡ります。右側を見ると海が見えてきます。久しぶりの海です。
その先には、明石港があります。ここから淡路島行の高速船が出ています。淡路島の岩屋まで13分です。いつか行ってみたいですね。
本町商店街を過ぎ、鍛治屋町交差点の所に「道標」が建っています。「ひだり 大坂道、みぎ ひめぢ道」。
近くを見ると「玉子焼」の看板が・・・・・・・時間は10:30でまだお腹は空いていませんが、匂いにつられ店内へ。
一皿20個入り。家内と一緒にこれをいただきます。これで明石焼き(玉子焼き)は3回目。なにかクセになりそうです。
店内には、美味しそうな「タコのおでん」。明石と言えば「タコ」ですね。早速注文しました。
柔らかく味もよく浸みこみ、まさに絶品です。
明石市の街道パンフには、この辺りに「ラジオ塔」があると書いてます。どんなものかわからず通行中の方に聞いてみますが、皆さん「わからない」とのこと。
地図を見ながら、そのあたりをしらみつぶしに探してみますと、ありました!
中崎公園内にそのラジオ塔がありました。見てみると古めかしく「塔オヂラ」「市石明」と書いてます。
ラジオの送信塔かな?と思いましたがアンテナも建っておらず、案内板もありません。
ネットで調べてみますと昭和初期まだラジオが高価で普及していない頃、公園や寺院などにこのような「ラジオ塔」を設置したそうです。
戦後テレビが普及し始めたころの「街頭テレビ」みたいなものですね。
先を進むと「忠度公園」があります。ここには、「冬の歳時記園」があります。前述の丸山公園では、夏の歳時記園でした。
柿本人麻呂の歌碑があります。
白真弓 石辺の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつをらむ
(石辺の山にある岩のように 永久に続く命なら いつか逢えるかもしれないと 恋しく過ごしもできようが 常盤(永久)ではない命なので ただ恋しく思っているだけではいられない)
裁判所を過ぎると、天文館みたいな交番があります。これが子午線交番。その横には、「大日本中央標準時子午線通過地標識」があります。
明治17年(1884)ワシントンで万国子午線会議において世界の標準時の取り決めがあった。日本では、この決定に基づき明治21年(1888)1月1日から東経135度子午線時刻を日本標準時として使用することになった。
当時、一般民衆は日本標準時が明石郡内を通過していることを知らなかったのでこの重要性に気付いた明石郡小学校の先生方が給料を割いて建設費を負担し、
明治43年(1910)にこの標識を設置した。
ここには、道標や花壇がありました。
ここで少し街道を離れ、「人丸神社」「明石天文科学館」に行ってみます。山陽電鉄「人丸前駅」を過ぎると右側に「馬塚」の案内板が立っています。
平 経盛の子である平 経正(敦盛の兄)の馬を埋めたそうです。
明石天文科学館は、東経135度の日本標準時子午線の真上に建つ「時と宇宙をテーマ」とする博物館です。1960年に建てられました。高さは54m。
天文科学館に通じる歩道には、星座の説明版もありました。山陽本線や山陽電鉄の車窓からも見える建物で明石のランドマークにもなっています。
天文科学館の横には、「人丸神社」があります。
人丸神社は柿本大明神とも称される「柿本人麻呂朝臣」を祀っています。祭神は歌道の神としての信仰を集め学問文芸の神、また「人麻呂」を「人生まる」(人うまる)と解し、安産の神、
江戸時代からは、「火止まる」と解し、火防の神としての信仰もありました。(ウィキペディアより)
神社からは、遠くですが、明石海峡大橋も見られます。
人丸神社から再び街道に戻ります。山陽電鉄のガード下には、「両馬川旧跡」があります。嘉永3年(1184)一の谷の戦いのあと、平忠度が岡部六弥太に追いつかれ二人の馬が川を挟んで
戦ったので両馬川という名前が付いたそうです。
街道は、大蔵町に入ります。明石宿は、西の大久保と東の大蔵に宿場があったそうです。
「大蔵院」があります。嘉吉元年(1441)赤松祐尚は大蔵谷に陣を構えたが、居城を三木城に移すとき陣屋の跡を寺院とした。
ここの墓地には、赤松祐尚夫妻の墓があり夫妻の法名「見江院」「大蔵院」が山号と寺名になっています。
大蔵院の先には、稲爪神社があります。
神社の由緒は、推古天皇の時代に不死身の鉄人を大将とした三韓(高句麗・百済・新羅)の軍勢が日本に攻めてきたが、九州では退治できなかった。
四国の伊予の役人、小千益躬が退治せよという命令を受け、一族の守り神「三嶋大明神」に祈ると、神様が現れ、「鉄人の弱みは、鎧兜で守られていない足の裏だから、これを矢で射よ」と言われた。
益躬は、降参したふりをして、朝廷へ向かう先導役となった。明石の浜で鉄人達が休息をした時、空が突然曇り、稲妻がおき、おどろいた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せた。益躬は弓矢で足裏を射て鉄人達はほろんだ。
この矢を【鬼ざしの矢】という。益躬は、神の現れたこの地へお社を建て、守護神三嶋大明神を奉って「稲妻神社」と名づけ、後に名前は稲爪神社と変わった。
稲爪神社から東に八百メートルの大蔵八幡町の八幡神社[元小千(越智)神社]に稲爪神社創建者の益射は祀られている。
ここで疑問が生じます。私達が学校で習ったのは、神功皇后が「三韓征伐」に北部九州から出発し勝利をおさめ凱旋したということ。
三韓から攻められたということは、習っていません。
大蔵海岸に通じる道路があります。案内板に沿って大蔵海岸に行ってみます。2号線のガードの横には、明石市マダプトプログラムということで三寿会いきいきクラブの皆さんが
綺麗な花を植えています。
大蔵海岸と言えば、2001年花火大会の帰る途中、歩道橋で群衆雪崩現象が起き、258名の死傷者が出るという惨事が起こりました。
またその年の12月、大蔵海岸で砂浜陥没死亡事故がありました。こんなきれいな海岸で悲惨な事故が起こったのですね。
この事故以降、花火大会は中止されたそうです。
大蔵海岸の反対側には、明石海峡大橋が聳えています。向こう側が淡路島ですね。
再び街道に戻ります。
大蔵八幡町には、旧家が残っています。このあたりに本陣があったはずなんですが、わかりませんでした。
明石宿は、西の大久保と東の大蔵八幡にあり、大蔵宿には、宝永元年(1704)には、屋敷294、人口1781人、本陣1、旅籠60があり、その繁栄は明治末期まで続いたそうです。
穂蓼(ほだて)八幡宮は、前述の稲爪神社と同じ「小千益躬」を祀っています。
街道は、2号線と合流。しばらく行くと「神戸市」に入ります。
(続く)