8/20(土)
福岡ウォーキング協会は、1か月の夏休みを終え、8/20(土)の例会から再開しました。
8月も下旬になりましたが、まだまだ暑いです。今日の予想気温は36度。ただ今日は少し風がありますので幾分か過ごしやすいです。
集合場所は、JR千早駅。参加者は28人。
コースは、千早駅をスタートし、香椎浜~みなと100年公園~名島神社~多々良川緑地~千早駅ゴールの約10km。
ミーティングの後、9:30スタート。
旧3号線に行くと、この辺りにボウリング、アイススケート、ゴルフ練習場の「スポーツガーデン香椎」があったのですが、昨年9月に閉店し今は更地になっています。
スポーツガーデン香椎のゴルフ練習場の跡には、「ちはや公園」「ガーデンズ千早」に建て替わっていました。
コースは、香椎浜のマンション群を通ります。
香椎浜御幸公園で給水タイム。休憩後再スタート
香椎浜遊歩道~みなと100年公園を経て名島海岸に向かいます。
名島海岸には、「名島帆柱石」「俎板瀬(まないたせ)」など歴史に登場する遺跡があります。
「名島帆柱石」は、3世紀ごろ、神功皇后が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったという言い伝えがあります。
実際は、古第三紀志免層群名島層(約3500万年前)の砂山、礫岩層(れきがんそう)中に含まれる珪化木(けいかぼく)で、9個の円柱状石からなっています。
「俎板瀬」は、神功皇后が三韓にご出立の折、供物を供えた所、又、ご帰還の折、凱旋の祝宴をしたところと言われています。
「名島神社」は、
神功皇后の三韓御遠征の折、香椎の西にある黒津の岬より、諸軍各々に郷名姓名を名乗らせながら乗船させたことから、その場所が「名嶋」と名付けられたと伝えられます。
そしてこの地より宗像三女神を拝し、遠征の無事を祈られました。
御凱旋の後、神功皇后は再びこの地に上らせ給い、宗像三女神を勧請して御奉斎された事が名島神社の起源と伝えられています。
中世には七福神の信仰が盛んになり、三女神の市杵島姫命が弁財天と同一視された事から、名島神社は「名島弁財天社」と称され、足利尊氏や豊臣秀吉などの時の権力者の参詣も受けて来ました。
そして明治時代の神仏分離を経て、弁財天は宗栄寺へと移され、宗像三女神をお祀りする名島神社としてこの地に鎮座しております。(名島神社HPより)
また、名島神社周辺は、「名島城址」があります。
戦国時代天文年間(1532~1555)に立花城主立花鑑載が支城として築造したといわれ、のちの天正16年(1586)から慶長5年(1600)の黒田入城まで、秀吉から筑前国を与えられた
小早川隆景・秀秋がここを改修し居城とした。東をのぞく三方を海に囲まれた戦国時代の城郭で、北に本丸、その南に二の丸、三の丸を配し、海水を引き込んだ堀割と空堀で周囲を防御する。
東西840m、南北280~400mの規模をもつ。関ヶ原の戦い以降、初代福岡藩主黒田長政も初めここを居城にしたが、城下町の発展に不便な地として、慶長6年(1601)から福崎の地に福岡城の
築城を始めた。慶長12年(1607)福岡城の完成、移転とともに廃城となった。この時石垣や門などを新城に輸送したといい、遺構として名島門(市指定建造物)が福岡城に、
唐門(県指定建造物)が崇福寺に残る。
現在、宅地化が進み当時の面影をとどめないが、平成2年の本丸天守台東側の発掘調査では石垣の根石や建造物の跡が確認された。また平成16年度から本丸の確認調査が行われており、
石垣の一部が確認されている。(福岡市の文化財より)
今回のコースには入っていませんが、1930年の昭和初期、この一帯「名島水上飛行場」がありました。翌年の1931年(昭和6年)には、世界一周中のリンドバーク夫妻を乗せた
「シリウス号」がこの飛行場に立ち寄っています。
大正・昭和の歌人「白蓮」は、この地がお気に入りで、大正時代しばしば友人たちと当時は珍しかった自家用車で訪れていました。
歌にある「博多小女郎」は、近松門左衛門の浄瑠璃「博多小女郎波枕」の登場人物です。博多柳町の遊女で京都の商人小町屋惣七に見受けされて夫婦になりました。
博多の焼酎の銘柄「博多小女郎」でもあります。
名島から3号線を渡り多々良川河口へ。
3号線バイパスに入ります。この辺りは昔の唐津街道の一部で、火の見下あたりには、「蓮華坂・わくろ石」があります。昔は、ここは、蓮華坂と呼ばれていました。
わくろとは、地元の方言で「カエル」です。
水利・雨ごいの神として旅から無事に戻るという立ち帰りの神として交通安全、疫病除けの神として崇敬されていました。
11:49千早駅にゴールしました。
今日も暑かったです。