よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

大野城市・御笠川流域の文化財めぐりウォーク(福岡県大野城市)

2021-03-16 16:06:28 | ウォーキング

3/13(土)のふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「大野城市・御笠川流域の文化財巡りウォーク」でした。

集合場所は、JR大野城駅。参加者46名。

 

  

御笠川にやってきました。

 

御笠川沿いの大文字公園が最初の休憩地。大文字公園は毎年9月の大野城市最大とも言われている「おおの山城大文字まつり」の会場となっています。

「おおの山城大文字まつり」とは、昭和57年に始まった日本最古の朝鮮式山城「大野城」が眠る四王寺山の山腹にまつりのシンボルとなる『大』の文字が灯され、たくさんの団体が

ステージやパレードでまつりを盛り上げ、市内外から約6万人の人出がある、秋の一大市民まつりです。

公園内には、河川の改修事業を終えた記念碑が建てられていました。

  

10分ぐらい休憩の後再スタート。

 

宮添井堰とは、

大野城市に残る「ひんどの人柱と火の玉」の伝説の記念碑です。平成15年1月に建てられました。
山田村や乙金、金隈村(かねのくま)へ水を引くための宮添井關は、御笠川が氾濫(はんらん)するたびに流されていたので、修理の話をしているときに人柱(ひとばしら)をたてて

井堰を築くと壊れないという話が持ち上がりました。

生きたまま井堰の下に埋められるのですから、自分から進んで人柱になろうとする者はいないでしょう。
そこで庄屋(しょうや)の甚兵衛(じんべえ)さんは翌日の公役(こうやく)の時に横縞(よこじま)の襟(えり)の着物を着ているものを人柱にしようと決めたそうです。

翌朝横縞の襟の着物を着た人がいたので、その人を井堰の下に埋めましたが、甚兵衛さんの姿が見当たりません。甚兵衛さんは自ら犠牲になり井堰の下に埋め込まれ人柱になったのでした。

完成した宮添井堰は、その後の大洪水にも壊れず田畑をうるおし、山田村は豊かな村になったそうです。その後毎晩のように堤防(ていぼう)の上に火の玉が出るようになりましたが、

庄屋の甚兵衛さんが火の玉となって見守ってくれていると考え、火の玉に向かって手を合わせ感謝したということです.。(まどかぴあHPより)

※ひんど(貧土)とは、やせている土地の事。

   

 

二回目の休憩地は、仲畑中央公園です。

 

ここは、福岡空港の南側に位置し、飛行機が間近に見れます。

 

 

御笠川の名前の由来になった「御笠の森」にやってきました。

「仲哀(ちゅうあい)天皇のお后(きさき)である神功皇后(じんぐうこうごう)が、荷持田(のとりだ)(甘木市秋月字野鳥)に住む羽白熊鷲(はじろくまわし)という豪族を従わせようとして、橿日(かしい)の宮(福岡市東区香椎)から松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡三輪町)へ向われていると、突然つむじ風が起こり皇后のかぶられていた笠が吹き飛ばされて、

この森の木にひっかかったため、御笠の森というようになった。そして、この地の地名も御笠郡と名づけられた。」
また、神功皇后の笠が脱げたところを「笠抜」、笠の紐が高い楠の木にひっかかり神様にお願いして取っていただくために舞を奉納(ほうのう)した場所を「舞田(まいでん)」と

呼ぶようになりました。今は旧小字名(こあざめい)は廃止されています。昔の地名にはいろいろな由来がありました。
御笠川の名前も、御笠の森から名づけられています。(大野城市HPより)

御笠の森には、太宰大監「大伴宿祢百代」が、坂上郎女に送った恋の歌の一首があります。

 念(ねが)はぬ思ふといはば 大野なる 御笠の森の神し知らさむ

  

 

山田4丁目の交差点で信号待ちをしていたら、前の集団から取り残されてしまいました。この信号の近くにある観音様が見つかりません。

ちょうど近所の方が通りかかりましたのでこの場所をお聞きしました。

  

前の集団から遅れましたのでこれからは地図とにらめっこしながらのウォーキングです。

雑餉隈恵比寿神社:雑餉隈(ざっしょのくま)地区は、中世以降は博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店、日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町で

あったため、商売繁盛の神様である「恵比寿様」と防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神である愛宕様を宿場の鎮護の神として勧請しました。

さて、福岡の方だったら読めますが、難解地名の一つ「雑餉隈(ざっしょのくま)」の地名の由来は、太宰府の官人の一つ、「雑掌」の人の居があったこと、又はその昔大宰府へ向かう人々を

主な対象とした多くの店が連なっていた場所であったこと、などがあげられます。

 

錦町の所には、「郡境界標」が建っています。西那珂郡、東御笠郡。尚、本物の境界石は、大野城市歴史資料展示室に置かれています。

御笠郡とは、筑紫野市、太宰府市の全域、大野城市の大部分。那珂郡とは、春日市、那珂川市、福岡市博多区一部、南区一部、東区一部のことです。

御笠郡と那珂郡は、明治29年(1896)筑紫郡と改められました。(現在それぞれの町が市に昇格し、筑紫郡はなくなりました)

  

日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って

往来が多い街道でした。

江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を配置していました。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で交替する

ことになっていました。また、各地の領主である大名は、 1年おきに在府・在国する三勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。                              筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。現在の大野城市内の経由地は、山田・雑飼隈・筒井・瓦田・白木原・東大 あい 利で、

中でも雑飼隈は間の宿(中間の宿)としてにぎあっていたようです。この通りを、古い記録には宰府往還ともしるされ、天満宮参詣客や物流関係者などの往き交いも多かったそうです。

歴史ある日田街道も、昭和7年の国道開通によってその役割りに終止符が打たれました。 

一度日田街道を歩いてみたいですね。 

  

旧日田街道の所に新川を整備し、遊歩道ができています。

   

 

大野城市まどかぴあ。大野城まどかぴあの「まどかぴあ」とは、ふれあいの象徴的な言葉「円(まどか)」と未来にはばたく所「トピア」の合成語です。

12:12 ゴールの西鉄白木原(しらきばる)駅に到着しました。

※白木原の地名は、かつて朝鮮半島にあった「新羅」の国に由来し、かつてこの地に朝鮮半島から渡来した新羅人の集落があったことから付いた地名です。

 

大野城市には、「大野城トレイル」があります。大野城トレイル」とは、本市の豊かな景観・自然・文化財・街並みをつなぎ、市民や訪れた人が安全で快適に歩くことができる散策路のことです。
 
計画策定においては平成26年度にアンケートの配布など、市民の皆様から意見を頂きながら検討を行い、7つのテーマに分けトレイルの設定を行いました。

このコースも今度ウォーキング教室のルートにも入れたらいいですね。

今日のGPSです。