昨日、5月からの新しい元号「令和」が発表されました。出典は日本最古の歌集「万葉集」の一節で、天平2年(730年)当時太宰師「大伴旅人」邸宅で催された「梅花の宴」で詠まれた32首の序文、
「初春令月、気淑風和、 梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」 (初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす)の「令」と「和」からとって「令和」と決定したそうです。
また、大伴旅人の邸宅は、都府楼跡の近くの坂本八幡宮ということで今日、早速行ってきました。
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。
その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。万葉集には"遠の朝廷(みかど)"と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、
そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
神亀5年(728年)大伴旅人は、大宰師として妻女大伴郎女を伴って大宰府に赴任しましたが、赴任後すぐ奥様を亡くしています。
大伴旅人の邸宅跡は、現在坂本八幡宮になっています。ここで旅人は、梅花の宴を催しています。
正直言ってここに八幡宮があることは知りませんでした。
境内には、大伴旅人の歌碑があります。「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿」 (私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて妻問いしていることよ)
旅人は、この地で赴任まもなく妻を亡くした旅人の暮らしは心淋しいものだった。
八幡宮の前には、桜や梅の木がありました。ここで歌を詠んだのでしょうね。
昨日、急にこの神社が新元号の地と決まりましたので今日は朝から氏子さんが神社の周りの清掃を行っていました。
八幡宮の少し先にも旅人の歌碑がありました。
大宰府政庁跡の横に、「大宰府展示館」があります。ここには、博多人形で「梅花の宴」が描かれています。
大宰府には、他にも唐招提寺を創建した鑑真ゆかりの「戒壇院」や斉明天皇ゆかりの「観世音寺」などもあります。
1時間ほどの見学でしたが、この坂本八幡宮が大宰府の新しい名所になることでしょうね。