よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「岡山~長船」

2014-01-07 19:53:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

2014.1/02今年の初歩きで山陽道を歩きました。

今回はマイカーで岡山まで行きました。福岡の自宅を朝3:30に出て岡山に着いたのが9時。車を岡山駅近くの駐車場に置き、街道を歩きました。

今回はDバックの後ろに「博多から旧山陽道を京に向け歩いています」というプレートを付けてのウオーキングです。

 9:09前回ゴールの岡山駅西口からスタート。岡山駅西口には「旧万町跡」というプレートが立っています。岡山藩は江戸後期に東の森下町とともに旅籠の営業を許可しました。町の西端には岡山最大の

町門がありました。

岡山駅の地下通路を通り、柳川電停の手前に「金毘羅神社」があります。天正元年(1573)宇喜多直家入城による城下町整備に伴ってこの地に創建されその後岡山城主になった

宇喜多秀家が国家安泰の祈願所とした神社といわれ金毘羅大権現と呼ばれ祀られていましたが明治2年現在の社名に改められました。

        

今回通りませんでしたが、岡山宿の本陣は、表町商店街にあったといわれています。西大寺町の電停を左折すると向かい側に天保年間創業のお饅頭屋さんがあります。

      

更に先に行きますと「京橋」があります。ここが岡山の元標になっています。

     

京橋を渡ると中橋、小橋と続いて大納言に入ります。ここの角には、「きびだんご」のお店が並んでいます。もともと一つのお店だったのでしょうか?

更に先を進むと大きな川に出てきます。この川は「百間川」。100間ぐらいの川幅があるのでこの名が付いたのでしょうか?川を渡ると「幡多」(高屋)に入ります。

     

郵便局の所には「道標」が建っています。見てみると「西大寺。長岡駅」、「岡山玉島、神戸大坂京」と書いてます。

真っ直ぐみ東岡山の駅を過ぎ、赤穂線、山陽本線の踏切を渡ると「古都宿」(こずしゅく)です。

宇喜多秀家の時代に宿が「古都宿」から「藤井宿」に変更されました。したがって何も残っていませんが、地名だけは今でも「岡山市東区古都宿」となっています。

昔の役場跡は、古都コミュニティセンターとなり今、建て替え中でした。

      

古都宿から15分ぐらい歩くと「藤井宿」に到着します。岡山城下からもっとも近い宿場が置かれた所で町並みにその面影を留めています。

山陽道は時代を経るにつれて度々そのルートも変遷しており、宇喜多秀家の付け替え(藤井ー長岡ー原尾島ー森下ー内山下〈桜の馬場〉)により宿駅(岡山市東区古都宿)に替えて

藤井が宿駅となりました。そして江戸時代になり、参勤交代制を定めるにいたり、西国の諸大名が江戸への往来の途中、岡山城下町以東最初の休泊地として、本陣(安井家)、旅籠屋等が整備され大変賑わいました。

後に本陣一つでは不便であったため、更に創設され、従来のものは西本陣、新しい本陣は東本陣と称されるようになりました。(案内板より)

   

藤井宿の入り口には、素戔嗚神社があります。この神社の横には「新往来」の案内板があります。

幕末ペリーの来航で尊王攘夷運動などで諸国の志士、浪人の往来が激しくなり備前藩でも岡山城の警戒を強め山陽道を通行する人々に神経をとがらせていた。

備前藩は、長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通行するのを回避するため一時的に山陽道を宿奥ー奥矢津ー牟佐ー旭川渡りー備前国分寺の新往来を建設し

元治元年(1864)7月より通行させるようにした。

   

備前国安国寺経塔

     

時計は12時半を廻っています。今日は朝3時半に家を出ましたのでお腹もすいてきました。どこか食堂でも???と探しますが今日は正月の2日。 開いている食堂がありません。

仕方ないので上道(じょうどう)駅近くのコンビニに行ってパンとサンドイッチを買い食べました。

お腹も落ち着いたところで又出発します。上道駅の先から山陽新幹線のガードを潜り、山陽本線の踏切を渡ると「沼」が見えてきます。この一帯地名も「沼」です。

浮田小学校付近には「沼城跡」があります。秀吉軍が高松城を水攻めで落城させたのち、高松城から最初にこの「沼城」に立ち寄ったとされています。

     

上道中学を過ぎると砂川を渡ります。名のごとく河原には川砂がたくさんあります。この辺りが「楢原」。橋を渡った所に「道標」があります。

☜神戸大坂、岡山広島、反対側には、☜美作(みまさか)と何だろう?ちょっと読みづらいです。更に先を進むと「和田八幡神社」の鳥居があります。どこかな?と探すと離れた所にありますのでここはパス。

その先にはきれいに整備された水路があります。地元の方に聞くとこれは「倉安川」といって延宝年間、船運のために造られました。延長20kmで岡山城下に続いているそうです。

         

街道は2号線と交差し歩道橋を渡り倉安川沿いに歩きます。左側に「御休小学校」があります。「御休」は「みやす」と読むそうです。昔、明治天皇がここで休憩されたからその名が付いたのではないでしょうか?

その横には「福岡神社」の鳥居が建っています。名前につられ神社の方に歩きますが、本殿まで135段の長い階段が待っています。ここはパスし下の方からお参りします。

神社の由来を見ていますと地元の方が参拝に来られており、私のDバックのプレートを見て話しかけてこられました。

「博多から来て山陽道を京に向け歩いている」というとびっくりされていました。私自身も5~6年前までは街道を歩くなんて思いもしませんでした。

私より一回りぐらい上の方が東海道を歩いているブログを見て面白そうでしたから私もとりあえず近くの「唐津街道」を歩いたのがきっかけでした。

それ以来街道歩きの虜になってしまいました。それから「長崎街道」を踏破し、今回の山陽道歩きになりました。

    

先に進みます。「一日市(ひとひち)宿」があります。ここは東の「片上宿」と西の「藤井宿」間の間宿で一年に一度市が開かれたそうですが、隣接する吉井川の川止めで賑わいを見せていました。

山陽道を歩いた先輩方の写真を見ていますと田んぼの中に宿場の碑が建っていましたが、現在田んぼは埋め立てられ家が建っています。宿場の碑は駐車場の後ろにひっそりと建っていました。

常夜灯の近くには一里塚があったそうです。

      

一日市の信号で2号線と合流します。残念なことに、ここの国道には歩道がありません。道路の端を歩いていますが、大型トラックなどがスピードを上げて通行していると何か巻き込まれそうで怖いです。

備前大橋にたどりつきました。この橋を渡ると「瀬戸内市」に入ります。備前大橋には歩道も付いていて歩道の中ほどには、備前焼で造った陶板があります。

  

 橋を渡ると「明治天皇巡行之碑」が建っています。

このあと、私達は街道を外れ、「福岡県」の地名の元になった、「備前福岡」の町を散策してきました。(ブログで公開しています)

帰りは赤穂線「長船駅」17:24の電車で宿泊先の岡山駅まで戻りました。

    

今日(1/02)のGPSです。