3月9日 今日も青春18きっぷを使って徳山に来ました。
旧山陽道は、ここからはJR山陽本線とは外れ岩徳線沿いになります。
岩徳線(岩国〜徳山)は1920年代に建設が始められ1934年に全通となりました、。全通後は直ちに山陽本線の一部とされ
元の山陽本線部分は柳井線と改称されました。その後山陽本線複線化が計画されると勾配やカーブが多く長いトンネル(欽明路トンネル)を
もう一本掘らねばならないことから複線化は元の山陽本線である柳井線経由で実施されることになりました。
柳井線は1944年に複線化が完了し山陽本線に編入されました。
10時10分徳山駅をスタート。
駅前の商店街を通ります。ここが銀座通りです。そういえば徳山には東京の地名と同じ地名があります。
有楽町、千代田町、青山町、漢字は違いますが糀町・・・・・・・
線路の右側には出光のコンビナートがあります。
「孝女阿米(およね)の碑」
1791年、徳山の貧しい家に生まれる。1796年、母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。1802年に父が病気となったので、
父の看病のために帰宅し、父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。
米つきをする際には、体が軽いため、石を腰につけたと伝えられている。
阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。
1832年、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する。
後に阿米が病にかかり、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、
1852年に62歳で死去する。法名を慈順といい、川端町の徳応寺に葬られた。
旧山陽道を歩き始めて3つ目の孝女の碑です。下関清末には「お政」、防府には「於石」そしてここには「阿米」の碑。
記念碑には昭和34年阿米 百七回忌と、平成14年には阿米 百五十回忌が建っています。
旧街道は遠石(といし)宿に入ってきました。遠石は遠石八幡宮の門前町として栄えました。
ここにも白壁の旧家が立ち並んでいます。
県道側にはまるで3Dみたいな鏝絵があります。
ここでGPSのスイッチを入れるのを忘れていたことに気づき慌てて入れます。
遠石の地名の元となった「影向石」(えいこういわ)
推古天皇30年(622)春の夜、豊前国より宇佐八幡大神が神馬に跨りこの地の磯浜に降臨された。
その時神風静まりて光明と共に忽然と現れた一つの大石に降り立たれ
「吾は宇佐八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため今ここに顕わる。嗚呼遠し」と神託された。
八幡宮創建に由来するこの大石を「影向石(えいこういわ)」と称し石上に今猶神馬の蹄跡を残す神岩として
広く崇信されている。
石を見ていると蹄跡のように見えます。
影向石の先には「遠石八幡宮」があります。
旧街道は、県営住宅の先がちょっと分かりずらくなっています。そのまま真っ直ぐ歩きますがここは庭球場、どうも道を間違えたようです。
近くの方に地図を見せ教えてもらいやっと旧街道に戻りました。
「早乙女の碑」があります。
案内板によると
「当地は田植えの時期、側を通行する人に早苗打ちといって稲の苗を投げつけご祝儀をいただくという風習がありました。
ある日、九州からの飛脚が通りがかった時早乙女の一人が手に持っていた早苗を投げつけた所飛脚は無礼と激怒して
早乙女を刺殺してその場を立ち去りました。近所の人は殺された早乙女を哀れみこの場所に像を立てて弔いました。」
このあたりが早乙女坂になっています。昔は田んぼだったのでしょうね。
旧街道は「久米」に入ってきます。
坂の上から来た道を見ると徳山の町が見渡せます。
末武川に来ました。この川を渡ると「下松市」になります。
末武川には桜が植えられています。この桜が満開になると綺麗でしょうね。
2号線、山陽新幹線ガードを渡ると「花岡」に入ります。
花岡八幡宮の入り口に「金分銅本店」という造り酒屋があります。
明治33年の創業ですが、寛政9年(1797)に徳山毛利藩絵師によって描かれた「花岡八幡宮例祭御神幸絵馬」には金分銅本店が描かれているそうです。
明治よりもっと前からあったのでしょうね。
「花岡八幡宮」は和銅2年(709)豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請して祀られました。
祭神は誉田別尊(応神天皇)。
この街道で八幡宮に遭ったのは3つ目、下関亀山八幡、遠石八幡そして花岡八幡。またこの先に切山八幡がありますので4つかな?
八幡宮の祭神は応神天皇で神武皇后が三韓征伐に行った頃お腹にいた子供です。父親が仲哀天皇。
この仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っている神社は北部九州にたくさんあります。
仲哀天皇が亡くなられたのが香椎宮、応神天皇がお生まれになったのが宇美八幡宮、まだまだ調べてみればたくさんあるかもしれません。
話は横道にそれましたが、花岡八幡宮には「閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)」(多宝塔)があります。
八幡宮日本十六塔の一つで高さ13m、柿葺屋根です。
閼伽は仏に供える清浄な水、閼伽井はこれを汲む井戸です。
時間は1時近くになりました。先ほどコンビニで買ってきたお弁当をここでいただきます。
再び出発します。左側に法静寺があります。この寺の横を覗いてみると「福徳稲荷」があります。
福徳稲荷は、毎年11月3日稲穂祭では「狐の嫁入り」が行われています。狐のお嫁さんになられた方は
良縁に恵まれるそうです。
「花岡勘場跡」
毛利時代(1610~1871)この地方の19ヵ村を都濃宰判と称し萩本藩領で萩から役人(代官)が来て治めていました。
この役所を勘場といい、花岡は当時この地方の政治文化の中心でありました。
また山陽道の交通の要衝であったので御茶屋(本陣)も側に建てられました。
勘場跡には「春雨桜」の案内板もありました。
それによると、毛利敬親(たかちか)公は天保8年(1837)に13代藩主を継ぎ幕末混乱の時期に防長三州を統括し明治維新における
中心指導者として活躍された人である。その敬親公が文久元年(1861)9月16日に萩を出発し江戸に行かれる途中、福川で病にかかり
花岡の本陣で静養された。その時敬親公の心を慰めたのがこの桜である。
「春雨」は敬親公の雅号で敬親公遺愛の桜ということで「春雨桜」と呼んでいる。
先に進みます。「生野屋」という駅があります。
どういう地名なのかわかりませんが生野屋神社という石碑がありました。
旧街道は岩徳線、2号線を横断し再び2号線と並行して行きます。
国道には大型ショッピングセンターなどが立ち並んでいます。
岡市を過ぎ久保市に入ってきました。
久保市は山の谷あいの窪地にできた町ということで窪市→久保市になったそうです。
街道沿いに旧家がありましたのでちょっと覗いてみますとギャラリーでした。
可愛いお雛様などが飾られていました。
「由加神社」があります。
天保9年(1838)12月久保市に大火があり今の久保農協付近を中心に東西へ広く焼失するという惨事が起こったことから
火除けの神様 由加神社の遷宮を歓請して創建されました。
14時半周防久保駅に到着。
駅の時刻表を見ると徳山行が15時08分。博多着は20時半ぐらいになりそうです。
青春18きっぷを使っての街道歩きですがローカル線になると前もって列車の時間を調べてみた方がいいですね。
本日のGPS。徳山駅から遠石までGPSをオンにしていませんでした。
旧山陽道は、ここからはJR山陽本線とは外れ岩徳線沿いになります。
岩徳線(岩国〜徳山)は1920年代に建設が始められ1934年に全通となりました、。全通後は直ちに山陽本線の一部とされ
元の山陽本線部分は柳井線と改称されました。その後山陽本線複線化が計画されると勾配やカーブが多く長いトンネル(欽明路トンネル)を
もう一本掘らねばならないことから複線化は元の山陽本線である柳井線経由で実施されることになりました。
柳井線は1944年に複線化が完了し山陽本線に編入されました。
10時10分徳山駅をスタート。
駅前の商店街を通ります。ここが銀座通りです。そういえば徳山には東京の地名と同じ地名があります。
有楽町、千代田町、青山町、漢字は違いますが糀町・・・・・・・
線路の右側には出光のコンビナートがあります。
「孝女阿米(およね)の碑」
1791年、徳山の貧しい家に生まれる。1796年、母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。1802年に父が病気となったので、
父の看病のために帰宅し、父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。
米つきをする際には、体が軽いため、石を腰につけたと伝えられている。
阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。
1832年、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する。
後に阿米が病にかかり、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、
1852年に62歳で死去する。法名を慈順といい、川端町の徳応寺に葬られた。
旧山陽道を歩き始めて3つ目の孝女の碑です。下関清末には「お政」、防府には「於石」そしてここには「阿米」の碑。
記念碑には昭和34年阿米 百七回忌と、平成14年には阿米 百五十回忌が建っています。
旧街道は遠石(といし)宿に入ってきました。遠石は遠石八幡宮の門前町として栄えました。
ここにも白壁の旧家が立ち並んでいます。
県道側にはまるで3Dみたいな鏝絵があります。
ここでGPSのスイッチを入れるのを忘れていたことに気づき慌てて入れます。
遠石の地名の元となった「影向石」(えいこういわ)
推古天皇30年(622)春の夜、豊前国より宇佐八幡大神が神馬に跨りこの地の磯浜に降臨された。
その時神風静まりて光明と共に忽然と現れた一つの大石に降り立たれ
「吾は宇佐八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため今ここに顕わる。嗚呼遠し」と神託された。
八幡宮創建に由来するこの大石を「影向石(えいこういわ)」と称し石上に今猶神馬の蹄跡を残す神岩として
広く崇信されている。
石を見ていると蹄跡のように見えます。
影向石の先には「遠石八幡宮」があります。
旧街道は、県営住宅の先がちょっと分かりずらくなっています。そのまま真っ直ぐ歩きますがここは庭球場、どうも道を間違えたようです。
近くの方に地図を見せ教えてもらいやっと旧街道に戻りました。
「早乙女の碑」があります。
案内板によると
「当地は田植えの時期、側を通行する人に早苗打ちといって稲の苗を投げつけご祝儀をいただくという風習がありました。
ある日、九州からの飛脚が通りがかった時早乙女の一人が手に持っていた早苗を投げつけた所飛脚は無礼と激怒して
早乙女を刺殺してその場を立ち去りました。近所の人は殺された早乙女を哀れみこの場所に像を立てて弔いました。」
このあたりが早乙女坂になっています。昔は田んぼだったのでしょうね。
旧街道は「久米」に入ってきます。
坂の上から来た道を見ると徳山の町が見渡せます。
末武川に来ました。この川を渡ると「下松市」になります。
末武川には桜が植えられています。この桜が満開になると綺麗でしょうね。
2号線、山陽新幹線ガードを渡ると「花岡」に入ります。
花岡八幡宮の入り口に「金分銅本店」という造り酒屋があります。
明治33年の創業ですが、寛政9年(1797)に徳山毛利藩絵師によって描かれた「花岡八幡宮例祭御神幸絵馬」には金分銅本店が描かれているそうです。
明治よりもっと前からあったのでしょうね。
「花岡八幡宮」は和銅2年(709)豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請して祀られました。
祭神は誉田別尊(応神天皇)。
この街道で八幡宮に遭ったのは3つ目、下関亀山八幡、遠石八幡そして花岡八幡。またこの先に切山八幡がありますので4つかな?
八幡宮の祭神は応神天皇で神武皇后が三韓征伐に行った頃お腹にいた子供です。父親が仲哀天皇。
この仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀っている神社は北部九州にたくさんあります。
仲哀天皇が亡くなられたのが香椎宮、応神天皇がお生まれになったのが宇美八幡宮、まだまだ調べてみればたくさんあるかもしれません。
話は横道にそれましたが、花岡八幡宮には「閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)」(多宝塔)があります。
八幡宮日本十六塔の一つで高さ13m、柿葺屋根です。
閼伽は仏に供える清浄な水、閼伽井はこれを汲む井戸です。
時間は1時近くになりました。先ほどコンビニで買ってきたお弁当をここでいただきます。
再び出発します。左側に法静寺があります。この寺の横を覗いてみると「福徳稲荷」があります。
福徳稲荷は、毎年11月3日稲穂祭では「狐の嫁入り」が行われています。狐のお嫁さんになられた方は
良縁に恵まれるそうです。
「花岡勘場跡」
毛利時代(1610~1871)この地方の19ヵ村を都濃宰判と称し萩本藩領で萩から役人(代官)が来て治めていました。
この役所を勘場といい、花岡は当時この地方の政治文化の中心でありました。
また山陽道の交通の要衝であったので御茶屋(本陣)も側に建てられました。
勘場跡には「春雨桜」の案内板もありました。
それによると、毛利敬親(たかちか)公は天保8年(1837)に13代藩主を継ぎ幕末混乱の時期に防長三州を統括し明治維新における
中心指導者として活躍された人である。その敬親公が文久元年(1861)9月16日に萩を出発し江戸に行かれる途中、福川で病にかかり
花岡の本陣で静養された。その時敬親公の心を慰めたのがこの桜である。
「春雨」は敬親公の雅号で敬親公遺愛の桜ということで「春雨桜」と呼んでいる。
先に進みます。「生野屋」という駅があります。
どういう地名なのかわかりませんが生野屋神社という石碑がありました。
旧街道は岩徳線、2号線を横断し再び2号線と並行して行きます。
国道には大型ショッピングセンターなどが立ち並んでいます。
岡市を過ぎ久保市に入ってきました。
久保市は山の谷あいの窪地にできた町ということで窪市→久保市になったそうです。
街道沿いに旧家がありましたのでちょっと覗いてみますとギャラリーでした。
可愛いお雛様などが飾られていました。
「由加神社」があります。
天保9年(1838)12月久保市に大火があり今の久保農協付近を中心に東西へ広く焼失するという惨事が起こったことから
火除けの神様 由加神社の遷宮を歓請して創建されました。
14時半周防久保駅に到着。
駅の時刻表を見ると徳山行が15時08分。博多着は20時半ぐらいになりそうです。
青春18きっぷを使っての街道歩きですがローカル線になると前もって列車の時間を調べてみた方がいいですね。
本日のGPS。徳山駅から遠石までGPSをオンにしていませんでした。