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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く「四辻~防府天満宮」第7日

2013-01-17 09:39:34 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月13日(日)今日は午後から天気が悪くなるということで早めに新山口のホテルを出発。
8時前日ゴールの四辻駅到着。ここから長沢池まで歩きます。
長沢池は慶安4年(1651)山口市鋳銭司、名田島、防府市台道の灌漑用溜池として当時の小郡宰判の代官 
東条九郎右衛門によって築かれました。

長沢池の2号線を右折。踏切を渡り街道はなめらかな坂に差し掛かります。

再び2号線に合流します。ここから防府市(ほうふし)大道(だいどう)に入ります。
大道は昔、台道と呼ばれていました。街道には松が植えられていましたが現在では切り株が3本残っているだけです。
  
長沢池の終点から2号線と別れ左の脇道に入ります。しばらく歩くと「津山神社」があります。
これは前述の東条九郎右衛門を祀っています。看板にはただそれだけしか書いていなく、こんな大事業を
行った方ですのでもう少し説明文などが欲しかったです。
   
街道は2号線を横断し未舗装の道を行きます。そしてまた合流。
合流したところに2つの石搭が建っています。

これは山口高嶺大神宮内宮遥拝所跡で山口にお参りに行けない人のために建てられたそうです。
また国道をそれ右の路地に進みます。
左側に厳島神社があります。
この辺りが大道の中心部です。
大きな井戸のある家がありました。ここが庄屋上田家です。
   
   
   
街道は県道25号線に出てきました。ここから大道小学校の横を通り2号線の方に行きます。
2号線のガードを潜り橋を渡ると「岩淵」に出てきます。ここで道を間違えました。ガードを潜ってすぐ右の方に行けばよかったのですが、
まっすぐ行ってしまい大回りしてしまいました。
ここも古い家が多く、しばし目を留めます。
     
町のはずれに「孝女石川於石(おいし)の碑」と「近藤芳樹先生生誕地」の碑があります。
孝女於石は、吉敷郡農家の嫁。怠け者の夫が出奔したあと身体の不自由な舅、姑をかかえ日夜働きました。
文政7年(1824)孝女として萩藩主から表彰されました。


   
山陽自動車道のガードを潜ると旧山陽道の看板が見えてきます。
ここが「佐野峠」です。
  
  
  
佐野峠は防府ロータリークラブの方が整備され気持ちのいい道になっています。この街道で歩いた峠で一番歩きやすい峠です。
途中には樹木の名札もつけられています。
    
峠の頂上が籠立場です。
眼下には高速の佐波川(さばがわ)SAが見えます。
  
  
昔の人はこの峠を昇りこの景色を見ながら一服したのでしょうね。私たちもここで休憩することにします。
天気がいい日にはここから大分の国東半島などが見えるそうですが、あいにく今日は曇っており見ることができません。

この峠には長州藩13代藩主毛利敬親の歌もあります。

   “しらぬひの筑紫路うけて うちかすむ 佐野のたむけの 春ののどけき”
一服し再び街道を歩きます。佐野峠を下ります。下って山の方を見るとこの辺の山は岩が多いです。
ですから石屋さんが多いのでしょうか?

  
    
玉祖神社(たまのおや)の前を通り高速道の下を抜けると佐波川(さばがわ)の土手に出てきました。
佐波川では橋の架け替え工事でしょうか、大きな土嚢が両岸にたくさん積み上げられています。
  

橋を渡ると防府市街地に入ります。ここで少し道を間違え慌てて戻ります。
旧山陽道には古いお酒屋さんがあります。九州の街道を歩いて感じたのですが流通経路が確立してないこの時代には
大体宿場宿場に酒屋さん、お味噌屋さんなどがありました。ここ防府でもそうだったのでしょうね。

防府には、山頭火の歌碑がいろんな所に建っています。
山頭火は防府で生まれました。
ここで街道から逸れますが山頭火の足跡を巡ってみます。
 種田山頭火(本名正夫)は、明治15年大地主の長男として防府市八王子町に生まれた。
 山口高校から早稲田大学文科に進みますが病気の為中退し帰郷。
 のちに父と市内大道で酒造業を営み、かたわら萩原井泉水に師事し自由律俳句を学ぶが家業に失敗して
 妻子を連れ熊本に移った。熊本・植木の「味取観音堂」の堂主となるもまもなく飄然と行乞流転の
 全国行脚の俳人となった。昭和7年7年間の漂泊ののち小郡町の「其中庵」を結び、更に山口市湯田、
 松山市と移り住み昭和15年10月松山市「一草庵」にて59歳の生涯を閉じる。
 念願の「ころり往生」であった。

極楽寺には山頭火のお墓があります。
  
防府駅前には山頭火の碑が。
生まれた八王寺町には生誕地の碑が建てられています。
  
山頭火が学校に通った道には「山頭火の小径」として今でも句が飾られています。
    
再び街道に戻ります。防府の宿場は昔は「宮市」と呼ばれていました。
宮市は山陽道と萩往還が交差する所です。ここから萩まで約50km余り。
  
    
防府天満宮までは山陽道と同じコースです。

今日(13日)は防府市内では一日早い成人式が行われています。
街道を歩いていると晴着に着飾った新成人の方を目にします。歳をとっても綺麗な女性にはすぐ目が行くのですね。(笑)
また、この日防府では市内駅伝大会が行われていました。ゴールが防府天満宮だそうです。
  
防府天満宮の前は宮市宿の中心部になっており、今でも旧家が立ち並んでいます。
定念寺は県指定「宮市観音」があります。
 
  
宮市の本陣「兄部家(こうべ)」は伊藤洋服店の横にありました。
案内板の写真には(H23.1撮影)建物も残っていましたが現在は門だけになっています。
  
 
防府天満宮は
 防府天満宮は学問の神様、菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命(あめのほひのみこと)・

 武夷鳥命(たけひなどりのみこと)・野見宿禰(のみのすくね)の四柱をお祀りしています。

 公は、九州の太宰府に下られる途中、船を当地勝間の浦におつけになり暫くご滞在になりました。

 ご滞在中、酒垂山にお登りになり、 「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」と

  お誓いになり、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく旅立たれました。

 延喜3年(903年)公のお亡くなりの日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引きました。

 国司は公の御霊がお帰りになられたと、翌延喜4年(904年)この地の酒垂山に社殿を建立して

 松崎の社と号しました。菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約一万二千社もありますが、

 当社の創建をもって日本最初の天満宮とし、北野天満宮(京都市)、太宰府天満宮(太宰府市)と

 共に日本三天神と称せられております。
  (防府八幡宮HPより抜粋)
  
境内の横には春風楼があります。
 十代藩主毛利斎煕(なりひろ)が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政5年(1822)6月大専坊に於いて
 地鎮供養の祈祷をし釿始めの儀を行ったが資金調達中天保2年(1831)不慮の支障に会遭い
 一時中止の止むなきに至った。
 その後塔の設計を現在の重層も楼閣様式に変更して明治6年(1873)に完工した。
 この塔の床下の木組みは文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので
 当時の面影を偲ぶに充分である。
 この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で春風楼の名にふさわしい。

  
境内を歩くと「天神餅」が売られていました。
大宰府では「梅ケ枝餅」ですがこちらでは「天神餅」なんですね。よもぎ味もありました。
  
下に降りると「大専坊(だいせんぼう)」「芳松庵(ほうしょうあん)」があります。
案内板を見てみると

【大専坊】
 天満宮の表参道には明治維新まで社坊九ヶ寺院が山門を列ね、酒垂山満福寺と総称された。
 大専坊はその別當坊で一山を支配し、宿坊として遺明使策彦や細川幽斎も宿泊した。
 弘治3年(1557)毛利元就は大専坊を本拠とし大内義長を追放して
 防長二国を掌握した。尊皇攘夷で激動した幕末には毛利藩志士の屯所となり諸国志士の往来も多かった史跡である。
 煉瓦や釘隠し、蟇股に桐・菊・大内菱の紋が見られ、大内・毛利氏の信仰を物語っている。

【芳松庵】
 御祭神菅原道真公はお茶に関する故実を調査研究さして正史に著し宮廷貴族を始め庶民生活に喫茶の習慣を
 広められ、茶聖菅公と称されています。
 この茶室は御神忌千百年式大祭の記念事業として御祭神の茶徳を顕彰し御神徳の余恵に預かるために建造されました。
 庭内には宮市にあった旅籠「藤村屋」の離れを移しました。ここが暁天楼です。

 この旅籠には幕末、高杉晋作、伊藤博文、坂本龍馬など維新の志士たちが密議を交わした所です。


時間も3時近くなってきました。
今日はここでゴールとします。
次回は3月の青春18きっぷが使えるころに再開したいと思います。

  

本日のGPS


旧山陽道も周防国府まで来ました。






 












山陽道(西国街道)を歩く「嘉川~四辻」6日目

2013-01-15 09:12:44 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月12日~13日と泊りがけで旧山陽道を歩きました。
12日、朝6時半ごろ車で福岡を出て新山口駅に着いたのが9時半。新山口に車を置き電車で前回ゴール地
「JR嘉川駅」に移動しました。
嘉川は古代律令時代では、「賀宝」という駅でした。
町を歩くと旧家が残っています。
  
更に歩くと山陽道の碑の横に顕彰碑が建っています。「本間源三郎顕彰碑」
本間家は江戸期に地域の庄屋職を歴任し、明治期の当主である「本間源三郎」は初代嘉川村村長、
県会議員、衆議院議員を歴任された方です。また本間家の書物を山口大学に寄贈されました。
  
宇部線の線路を横断し少し坂道に差し掛かります。
また宇部線を通ると小郡宿に入ります。小郡は吉敷郡小郡町でしたが2005年山口市と合併し山口市になりました。
また、JR小郡駅は2003年「新山口駅」と改称され山口市の玄関口としての役割をしています。
   
旧山陽道は、9号線に合流します。
駅に通じる信号を渡ると粟島神社があります。
  
この辺りに小郡宿本陣の「三原屋跡」があるはずなんですが、探しても見つかりません。
何人かの方に聞いたら「西中国信用金庫」の所と教えていただき、すぐそちらに行きました。
  
三原屋本陣は、歴史的な事件「三原屋事件」の舞台です。
 長州藩は文久3年(1863)5月10日赤間関(下関)で全国に先駆け攘夷を決行したのでこれを中止する詰問使者として
 幕府使番中根市之丞等が艦船朝陽丸で現地に来て協議するも話し合いがつかず藩侯毛利敬親に目通りのため
 本陣三原屋に入った。この時たまたま藩侯が病気のため快癒を三原屋で待っていた。
 8月19日壮士数人が三原屋を襲い幕府目付鈴木八五郎他長谷川勇助、須原栄の3名が暗殺され
 中根市之丞は難を逃れ脱出したが翌々日帰る途中防府市中ノ関沖の船上で暗殺された。
 これを「三原屋事件」という。

この辺りが「津市」という所、つきあたりの道を右折すると「新丁」です。
曲がったところに「道標」がありました。
   
「右、京都、江戸 」「左、萩、山口、石見(島根)」小郡は萩や石見に向かう交通の要所だったのでしょう。
また、一面には「牛馬を繋いではいけない」とも書かれています。

その新丁の町には旧家が立ち並んでいます。
そのうちの金物屋さんに入って話を伺うとこの金物屋さんで130年、元乾物屋さんも140年ぐらい、布団屋さんもその位の
歴史を持っているそうです。
  

金物屋さんの所を左に曲がると「御茶屋跡、勘場跡」です。
御茶屋とは、藩の公的な宿泊施設であってもともと藩主の参勤交代や国内巡行の便宜のため藩内各地に設けられました。
勘場とは、萩から出張してくる代官の勤務する役所で御茶屋に隣接し建物が105坪、付近には物品蔵などの
建物が3軒あった。勘場には大庄屋が毎日出勤し算用師などの勘場地下役人を指図して行政を取り仕切っていた。
  
ここの楠も金物屋さんの祖先が植えられたそうで3本あったのが枯れて1本になったそうです。

山口線の踏切を抜けると椹野川に差し掛かります。ここが東津橋。渡るとすぐ右へ
新幹線のガードの手前に一里塚があります。

ガードを渡ると陶(すえ)に入ります。
陶という地名も珍しいなと思っているとこんな看板がありました。
   
艫綱(ともづな)の森
  陶市のはずれの高台に石碑や石祠などが並んであり、「艫綱の森」と呼ばれている。
百済の皇子琳聖太子が推古天皇19年(611)にこの地に上陸されたと伝えられており、
寄宮神社として祀られてきた。以前は200m南の国道の傍にあったが、
国道工事のため、この地に移設された。太子は陶の土がやきものに適しているのに
気付き村人に土器の製法を教えられたといわれている。



陶小学校の「陶めぐり歌」には陶の歴史を折り込んだ歌です。
1 陶(すえ)のむかしをたずねれば りんしょうたいしの上陸で
  ともづなの森 すえの土器 国のたからのかまのあと

2 陶のたからはゆたかです じけのあと地としょうご寺に
  県下さいこのぶつぞうと 陶のやかたがしのばれる

3 大内(おおうち) 陶がおこりの地 守(まも)りぼとけのぶつぞうは
  かむらさきから すえがだけ 今はロンドンはくぶつかん

4 むかしのかいどう一里塚(いちりづか) ここで休んで山口へ
  一本松のささやきで むかしの旅がしのばれる

5 かすがやしろのえまを見て むかしの陶がまのあたり
  第一鳥居(だいいちとりい)のあるばしょに ふしぎな石で立石(たていし)と

6 歴史のあとのこあざには 陶のむかしがよみがえる
  せんこ ついじ いせんぼう かじやばたこに とくせんびら

7 陶は南にひろがって ながずま せはらと陸になり
  つづくけいあん げんろくと 陶の歴史はたからです

8 水をひくことはかすこと 水でくるしむ今むかし
  おどろくほどのため池と 百谷(ももたに) 刎田(はねだ)と綾木川(あやぎがわ)

9 力あわせて はたらけど かんしゃの気持ちをわするなと
  母校の石にきざまれた むかしの人のねがいあり     
(山口市立陶小学校HPより)

陶(すえ)には上市と下市があり、このあたりは下市になります。
下市には恵比寿社がありました。

橋を渡ると上市になります。
こちらにも恵比寿社があります。下市の恵比寿と違い赤い祠になっています。

春日神社の鳥居を通るとその先に石が建っています。
  
説明文では「昔から平石、平岩、建石、立石などと呼ばれているがいつごろ誰が何のためにたてたのか
解らない。ただ阡陌(せんぱく)の方向に建てられているから東西南北の目印にしたのではないか」と書かれています。
橋本川を渡ります。面白いことにこの橋は「橋本橋」向こうの広い道の方には「四辻橋」となっています。
  
鋳銭司(すぜんじ)に入ってきました。
先ず行ったのが四辻駅裏にある「大村益次郎生誕地」。
  
この碑は山県有朋の書です。
大村益次郎ですぐ頭に浮かぶのはNHK大河ドラマ「花神」。あれは1977年の作品ですのでもう36年前ですね。
あの時はドラマと並行して司馬遼太郎原作の「花神」も読みました。

大村益次郎生誕地から鋳銭司跡に行ってみます。
  
この周防鋳銭司ができたのが825年、日本では平安時代初期です。ここで造ったお金をどうやって都に運んだか
また管理はどうだったかいろいろ考えてみると古代の人は私たちが考えているよりもっと凄かったかもしれません。

鋳銭司跡を見てついでに鋳銭司郷土館を見ようとまた歩き出します。
大村神社、鋳銭司郷土館は長沢池の所から入ります。
約10分ぐらいで大村神社に到着。
  
大村神社の横には鋳銭司郷土館があります。
入場料100円を払い館内へ。
ここでは第一展示室が大村益次郎関係、第二展示室が鋳銭司関係です。
  
  

時間も4時を廻りました。本日はここまでとし本日のホテルに行くために四辻駅に戻りました。


本日のGPS















山陽道(西国街道)を歩く(厚東~嘉川)5日目

2013-01-11 16:34:01 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月6日
昨日家に帰り今日の分の地図を調べたりしていたら夜遅くなり翌日寝坊してしまった。
慌てて行く準備をし、前日のゴール地「厚東駅」に着いたのが10時ちょうどだった。

駅から厚東中学校の方に歩いていると中学校のグラウンド近くに「山陽道」の案内板がありました。
まだ新しかったので昨年ぐらいに建てられたのではないでしょうか。

その山道の山陽道を歩きます。途中草茫々とした所も通ります。
夏だったらマムシが出てきそうな所です。
  ※栗が落ちていました。
山道を下りると視界が広がりました。

先の方には看板が見えます。
近寄ってみると「どんだけ道」と書いてあります。
 
タレントのIKKOさんが以前「どんだけ~」と言って流行語になりましたが、横の山陽道の碑を見てみると
 この道は古代は山陽道、藩政時代は山陽街道、近代になって山陽国道と改称された。
 また地元では昔からどんだけ道と言っている。

お殿様が通ったから殿様道これがなまってどんだけ道になったのではないでしょうか。

この道は二俣瀬の辻堂まで約1km続いています。私たち以外には歩く人もいません。
    
下りると庚申塚があり、向こう側には大歳社がありました。

大歳社の横を通り瓜生野公会堂を経て街道は2号線に合流します。

丸山ダムの所で左折。ここには庚申塚と秋葉神社がありました。
  
二俣瀬の信号を直進。厚東川沿いに歩きます。この辺りは桜が沢山植えられています。桜のシーズンは綺麗でしょうね。

厚東川沿いの木田橋を渡ります。
すぐ見えるのが永山本家酒造。ここではNHK街道てくてく旅の原田さんが試飲されていました。
そういえば、厚狭でも永山酒造という酒蔵をみましたが、どちらも銘柄が「男山」、兄弟会社なのでしょうか?
  
二俣瀬小学校を過ぎ2号線「車地」に出ました。
国道の案内板には広島152kmと書かれています。まだまだ先は長いですね。

すぐ先の左側に「与助の首塚」があります。
               天保2年(1831)の百姓一揆で首謀者の一人として与助が斬首されました。

街道は山中宿に入ってきました。
この山中宿は上と下がありこのあたりは、下山中宿になります。
歩いていると倉庫のような建物の所に碑が建っています。よく見ると「山中宿本陣跡」。その先の奥には「薬師堂」があります。
   
旧家の横を通ると小さい川に出てきました。古い橋には庚申塚と三界万霊の碑がたっていました。
  
「三界万霊」を広辞苑で引いてみますと、一切衆生(しゅじょう)の生死を輪廻する三種の世界、即ち、欲界、色界、無色界、
衆生が活動する全世界を指す。
となっています。わかったようなわからないような感じです。

旧道を進むとまた2号線に出てきました。そこには「つるや食堂」があります。
時計を見ると12時少し前。お腹も減ってきましたしここで昼食とします。
  

お腹もいっぱいになりましたのでまたスタートします。
街道はつるや食堂の先を左折します。しばらく歩くとお地蔵様が見えてきます。
ここが「上山中宿」になります。
   
   
上山中宿を歩いていると「熊野神社」があります。
看板には山口県指定天然記念物「ツルマンリョウ」とあります。
境内を探してみますが見つけられませんでした。
  


極楽寺跡を通り旧道に入ります。
ここから山道になるのですが、山の方に行くと途中イノシシよけの柵(ワイヤーメッシュ)があり、中に入れません。
他から入っても柵があり入れません。仕方なく国道の方に廻ります。
  

お地蔵様を過ぎると山口市に入ってきます。
  
そのすぐ先には、両国国境の碑があります。この辺りが割子松峠です。
西長門国厚狭郡、東周防国吉敷郡と書いてあります。
    
国境の碑の先には「おいはぎ峠」という食堂があります。ネーミングがおもしろく写真に撮りました。
昔は追剥(おいはぎ)が出たのでしょうか?

更に国道を進むと嘉川(かがわ)の町に来ました。
橋の手前に道標があります。「あくす、とこなみ、中の村・・・・」?
あくすというのは阿知須のことでしょうか?宇部線の駅名ですがきっと宇部の方に向かう岐路でしょう。
  
14:00JR山陽線嘉川駅に到着。今日の街道歩きはここまでとします。

青春18きっぷも今日で5回分使い切ります。
折角だからここから新山口に行き山口線で湯田温泉に風呂に入りに行こうと思います。
どこでも途中下車できるから青春18きっぷはいいですね。


湯田温泉を出たのは17:00になっていました。

今日のGPS














山陽道「西国街道」を歩く(厚狭~厚東)4日目

2013-01-09 20:46:50 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月5日9時50分前回ゴールの厚狭駅に到着
今日は厚狭から厚東(ことう)駅まで歩きます。
厚狭駅前では寝太郎像の他に「献眼をたたえる碑」が平成24年6月に建てられていました。
山陽小野田市は献眼を推進していて「ほんとうにありがとう」という碑文は
日本で最初に献眼を受けた方の詩を元に作られました。
  

駅前を右に歩き前回のゴール地「祐念寺」に向かいます。

祐念寺は弥生時代の古墳がある所としても知られています。

鴨神社、雑賀神社を経て、ここで街道とは異なる厚狭高校南校舎に行ってきます。
この厚狭高校の前身は明治6年毛利勅子が日本で3番目になる「船木女児小学」です。
校舎には古くて貫録のある「同窓会館」がありました。


再び街道に戻ります。
埴生田堤、庚申塚を通り2号線に合流しました。
  
ここが西見峠といってここから「宇部市」に入ります。この街道歩きも下関市に始まって山陽小野田市と3つ目の市です。


街道は逢坂の信号から左に入ります。
街道は山道でどこまで続くのかと思いましたが100mぐらいの距離でした。
そこには地区のボランティアの方が建てられたのでしょうか、街道の碑がありました。
  
この横には「逢坂観音堂」があります。船木に住んでいた千林尼が堂主を務めていた観音様です。
行ったときちょうど地区の方が中で作業されていましたので許可を得入りました。
木造十一面観音菩薩立像は八月のお盆に公開されているそうで見ることはできませんでしたが
写真がありましたのでそれを写しました。
     

また千林尼は、山陽小野田市のHPによると
 船木逢坂の観音堂に住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、
 自ら托鉢をして浄財を集め、敷いた石畳道の一つで、文久2年(1862年)8月に完成した。
 現存の石畳道はその一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mである。
 市指定文化財。(平成6年12月14日指定)

この観音堂の下にも一部残っていました。

街道は国道2号線に沿っています。小野川を渡り先に進みますと銭ケ原の手前で旧道になっていますが、
入り道がわからずそのまままっすぐに進みます。
しばらく歩くと船木の町が見えてきました。歩道橋を渡ると「船木宿」です。
  
まず見えてきたのが「大木森住吉神社」
   
その横にはお地蔵様があります。
先に進みますと船木の旧家が残っています。
   
   
街道の交差点の所には「旅人荷付場跡」が。横には船木宿の説明看板が建っています。
   
船木宿は旧楠町の中心地で江戸時代は山陽道の要所としての地位を確立していました。
然し1900年に山陽本線が開通し、隣町の厚狭に駅ができたため、町の中心が厚狭に移りました。
そのためかまだ昔の面影が残っています。
平成17年宇部市と合併し「宇部市」に編入されました。
また、1913年ごろは宇部駅との間に船木軽便鉄道が敷設されていました。(1961廃止)
その名残でしょうか、このあたりの路線バスは「SENTETU」です。
 ※宇部市楠支所:この辺りに御茶屋、宰判勘場がありました。
※脇本陣があったとされる。
 ※明治初期には願正寺に寺子屋がありました。
願正寺の横には高札所跡。
岡崎八幡宮は船木の氏神様。全国で4社しかない清酒醸造許可を持っています。
岡崎八幡宮の先には一里塚があります。安芸国まで27里(108km)、赤間関まで9里(36km)となっています。
赤間(下関)からもう36kmも歩いてきたんですね。

先を行くと宇部興産専用道路があります。その手前には「六地蔵」が建っています。
宇部興産専用道路のガードをくぐると2号線に出てきます。
この2号線車の通行が多くおまけに歩道がありません。
スピードを上げてカーブを曲がっていく車に気を付けながら歩いていきます。
  
新幹線のガードを抜けると厚東の町に入ってきます。

すぐ目につくのが正覚寺。表から見ると学校みたいな建物です。
  
正覚寺先の信号を右に行くと本日のゴール地「厚東駅(ことう)」です。時間は午後2時。

駅前には厚東の観光案内版が建てられていました。厚東という地名は中世長門国守護であった厚東氏からとられています。


本日のGPSです。




















山陽道(西国街道)を歩く「吉田~厚狭」3日目

2013-01-07 19:55:23 | 山陽道(西国街道)を歩く
1月3日、青春18きっぷを利用し、旧山陽道「吉田宿~厚狭(あさ)」まで歩きました。
今回はこの街道最初の難所「蓮台寺峠」を歩きます。

博多発7時10分の快速に乗り小倉、下関で乗り換え9時03分に小月駅到着。
小月駅前からは、サンデン交通バスで東行庵入口前で降り前回ゴール地点の吉田宿「道標」まで歩きそこからスタートです。
今回から地図を見るために新兵器「タブレット」を持ってきました。

9時40分スタートです。
吉田の町には旧家が立ち並んでいます。
  
町のはずれには、庚申様が立っています。

この旧山陽道を歩くとよくこの庚申様を見かけますが、道祖神としての役割もしているんですね。
  
しばらく歩くと蓮台寺、常関寺の分かれ道に来ます。ここは蓮台寺の方へ。

その道を歩いていくと「蓮台寺」の看板があります。
せっかくですので蓮台寺に立ち寄ってみます。
  
哲学の道を歩きやっと着きました。
    
  
この寺あたりが蓮台寺峠の頂上でしょうか、小雪が舞っており、かなり寒いです。
寺の横に置いてある流し台には氷が張っています。ここには下関指定文化財の「木造十一面観音坐像」があります。

蓮台寺で少し休憩しまた街道に戻ります。
この峠を下りると「山陽小野田市」になります。
峠の降り口にも庚申様が・・・・・隣にはよく解らないのですが、伊藤初五郎氏の顕彰碑でしょうか、大正5年と
書いてます。

峠道を下りてくると泥濘の所に出てきました。
NHK街道てくてく旅では原田早穂さんもこの泥濘を見てびっくりされていましたが、
ここは山の水の通り口になっています。それも何か所も。
ここだけのために長靴を持っていくわけもできませんし、考えた挙句このようにしました。
   

   
  

何とか滑らずに渡ったかと思ったら前方には道が崩れています。
深さは50~70cmでしょうか、他に行く手段はないかあたりを見回しますが何もありません。
仕方なく下りてまた上りました。手袋を持って行って正解でした。


この難所?を越えると右の方に民家が見えてきます。
ここが福田という所でしょうか?
   
峠を下りた所に庚申様が建っています。ここを左に歩くと道標が建っています。右吉田、左埴生。
   
福田八幡宮の先の踏切を渡り線路沿いに歩きます。
  
この街道を歩かれた方の記録を見ていますと山の方に入ると書いてありますがその入り口がわかりません。
もっとも歩かれた先輩たちは、西宮からの下りの旅、一方の私は西宮に向かっての上りです。
また街道の標識がなく、あるのは先輩たちの地図のみです。
その地図を見るとまた合流となっていますのでここはこのまままっすぐに歩くことにしました。
永福寺の前を通り山野井に出てきました。山野井神社の手前には「庚申」ではなく「幸神」が建っています。
  

しばらく歩くと左側に道標が見えてきました。左吉田道、右はぶ?この道標の裏側を見てみますと明治10年と
なっています。

大正川を渡り田園地帯に入ります。遠くには新幹線の高架橋が見えてきます。
今日の目的地厚狭まではあと少しです。
  
  
1時過ぎましたので何か食べようと新幹線厚狭駅に入りましたが食堂らしいもの(売店含む)が一切ありません。
正月休みだから新幹線側だったらどこか開いているだろうと思ったのですが見当違いでした。
厚狭駅の新幹線は平成11年に開通しましたが、止まるのは「こだま」のみ。
ここから電車で30分も行けば「のぞみ」も止まる「新山口駅」です。
個人的な意見ですが厚狭駅の新幹線はあまり意味がないと思います。

また街道に戻ります。
新幹線のガードをくぐりまっすぐ歩くと厚狭天満宮があります。
菅原道真を祀っています。
   
  
吉武医院の所には道標が。
※あつというと美祢の厚保でしょう。
ここから駅に向かって歩くと古い建物が残っています。

ここなんか看板は右から読むのでしょうね。
駅前には「寝太郎之像」が建っています。

WIKIPEDIAによると
 庄屋の息子である太郎は、ろくに仕事もせず寝続けていたため、周囲からは「寝太郎」と揶揄されていた。
 三年三月の間寝続けた太郎がある日突然起きだし、父親に千石船と船一杯の草履を造ってくれるよう頼む。
 父親は他ならぬ息子の願いでもあり千石船と草履を作って与えると、太郎は船をこぎ出していってしまった。
 数十日して太郎が戻ってくると、船の中の草履はぼろぼろのものになっていた。すると太郎は父親に
 大きな桶を用意してほしいと頼む。太郎は父親の用意した桶でぼろぼろの草履を洗い始めると、
 汚れた土の中から砂金が見つかる。実は太郎は佐渡島へ船をこぎ出し、佐渡金山で働いている者の草履を無料で交換していたのだった。
 太郎は集めた砂金を原資に堰を作り、灌漑水路を整備して田を開墾し、村の百姓に分け与えた

この寝太郎は大内氏家臣平賀清恒がモデルと言われています。厚狭ではお酒とかお菓子に寝太郎の名がついています。

再び街道を歩きだします。
鴨橋を渡るとお酒屋さん、お味噌屋さんがあります。
建物を見ていると中に入りたいと思うのですが今日はお正月の3日まだお店はお休みですね。
  
祐念寺に着きました。時間も2時過ぎです。今日はここまでにします。


今日のGPSです。



















山陽道(西国街道)を歩く(長府~吉田宿)その2

2012-12-23 22:15:59 | 山陽道(西国街道)を歩く
(その1)からの続きです。
小月の町を抜けると県道33号線に出ます。この道と並行して木屋川が流れています。
2年前、海峡ウオークで歩いた時ここの河原で休憩したことを思い出しました。
あの時は吉田の東行庵からスタートでした。

川沿いに歩くと大きな鉄工所がありその先に新幹線の橋梁が見えます。
橋を見ていると新幹線がやってきました。すぐカメラを向けますがさすが新幹線は早いですね。
あっと言う間に過ぎ去っていきました。
それに比べ私たちは、てくてく旅。この対比がおもしろいです。
  
地図では新幹線の橋梁を渡ると左折するようになっていますが、その左折する所がわからなく
ここだろうと思って左折すると民家の庭先に入ったりします。
地図ではまた33号線に戻るようになっていますのであきらめて33号線に沿って歩きます。

吉田大橋に差し掛かります。
この橋を渡ると「吉田宿」です。
  
吉田宿は山陽道赤間関の次の宿場に当たり大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として
栄えました。
この町は厚狭(あさ)、船木を経て山口に至る山陽道本街道の所謂かみかた道と
長府より藩都萩へ通じる萩街道の分岐点にあたるため萩本陣は吉田宰判と称する郡役所にも
比すべき役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営に当たらせました。
   
  

吉田の町を歩いてみます。
ここは「柳町通り」。この通りの両側に宿屋、飲食店が並んでいました。
    
「末富家」に来ました。
  
慶応元年(1865)吉田宿に陣を構えた奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅を本陣に定めた。以後末富家は奇兵隊の物資調達など
その活動を物心両面から支えました。
「高札場」

高札とは江戸時代から明治3年に廃止されるまでの間、一般人に法令を徹底させるために街道の宿場や辻、名主宅前などの
目立つ場所に幕府や藩の法度、掟書、お触書、犯罪人の罪状等を書いて立てられた板札でこれを掲げる場所を
高札所といった。

「長慶寺」
幕末、奇兵隊の屯所やけがの手当てをするための診療所として使われました。

長慶寺の先を右折した所に旧国道の「道標」が立っています。
左萩道、右上方道。街道はこれから「蓮台寺峠」に向かいますが、雨もぽつぽつ降りだしてきました。
蓮台寺峠は、ぬかるみのある峠で有名ですので今日はここまでとし、高杉晋作のお墓がある「東行庵」に行きます。

宿場町を戻り再び一里塚の所にやってきました。
この先が「勘定場跡」(吉田宰判勘場御茶屋跡・御本陣)です。案内板を見ると
  
藩政時代(1600~1870)萩藩毛利の領地は18の宰判に分かれ統括されていた。吉田宰判はその一つで統治区域は
吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於護、河原、大嶺に及んでいた。
宰判には1名の代官が任命され平素は萩本陣に勤務しているが春、秋、冬の三季には勘定(代官所)に出張して
租税の決定、貢米の完納、土木工事の検分など民生を統括していた。勘定方、寺社方、山方など役人の任命、
民間側からは大庄屋とその部下の恵米方、算田方など選出し建物には50人ほどの役人が詰め宰判内の業務を
つかさどっていた。
御茶屋は勘場に隣接し公儀の役人や参勤交代途中の大名の休泊所であった。幕末には奇兵隊の屯所として
使われていた。

西国街道を歩かれた先輩方の写真を見ていると土塀の奥に建物がありましたが現在では何もなく
ただ草だけが生えていました。

勘場からまた前の道に戻ると吉田小学校があります。
その先は「晋作橋」

その先に高杉晋作の墓所「東行庵」(とうぎょうあん)があります。

    
   
灯篭には木戸孝允、井上馨、伊藤博文の寄進と書いてあります。
また伊藤博文は晋作のことを「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとく・・・・・・」と晋作のことを評しています。

先ほどからの雨が本降りになってしまいました。
小腹もすきましたので東行庵の近くの食堂に入ります。
名物という「晋作もち」をいただきました。

食堂で休憩し雨があがるのを待っていましたが一向に止む様子ではありません。
お店の方に聞くと13時34分の小月駅バスがあるそうです。
今日はそれに乗って小月駅まで帰ってきました。

次回は「ぬかるみ」のある蓮台寺峠です。
晴天が何日か続きたあとにチャレンジしたいと思っています。

今回はGPSが作動してくれました。
今日の行程は下記の通りです。

  









山陽道(西国街道)を歩く「長府~吉田宿」(下関市)その1

2012-12-21 11:05:10 | 山陽道(西国街道)を歩く
12月15日(土)
今回は青春18きっぷで出かけました。
6時35分博多駅の快速で小倉へ。小倉から下関へ、下関から新山口行で長府で下車。
8時30分に長府駅に到着しました。天気予報では曇りですが、今でも降り出しそうな空模様です。

山陽道は長府駅前を通っており、この道をまっすぐ歩きます。
才川の踏切を渡りしばらく山陽本線沿いに歩きます。

「宇部一里塚」に来ました。(このあたり昔は宇部という地名でしたが今は王司になっています)
道標を見ると、江戸時代赤間関(下関)から大阪までの山陽道に松が植えられ一里(4km)ごとに一里塚がたてられたそうです。
  向こう側には「堂宇」が・・・
しばらく先に進むと橋が見えてきます。
これは「神田橋」古い欄干を見ると文化八年となっています。1811年頃でしょうか?
この橋を渡ると長州藩の孫藩「清末藩」になります。
 
しんくみのグラウンドを過ぎると広大な農地が見えてきます。
左側には「豊穣の大地」という石碑が立っています。

この辺りは王司の町でしょうか。
ふと、左側を見ると古い門があります。
  
入り口には「橋本家長屋門」と書いてあります。
3年前NHK「街道てくてく旅」で原田早穂さんが立ち寄られましたね。
瓦の紋を見ると毛利の家紋がつけられています。
ここは、参勤交代の時毛利の殿様が休憩に立ち寄られた所だそうです。

清末の町に入ってきました。「道祖神」が迎えてくれます。
  

清末は長州藩の孫藩にあたり石高は1万石。

清末八幡宮が見えてきました。
清末八幡宮は、建武2年(1635)大分宇佐八幡宮から歓請されました。
境内の中には天満宮や護国神社などがあります。
  
お寺の前のグラウンドでは、近くのお年寄りがゲートボールを楽しまれていましたが、
このグラウンドには、江戸時代「育英館」という藩の学校があり、学問の盛んな土地でした。
 清末小学校の校歌に「育英館の跡と聞く・・・」と歌われているように、明治になって廃校になりましたが、清末には江戸時代に育英館という藩の学校があっ て、学問の盛んな土地柄でした。「清末の本読み」といわれたものです。
 清末八幡宮前のこの高台は、以前は小さな山で寺院もありましたが、幕末も押し迫った頃から、平地にして、藩の練兵場として使われていたところです。
 明治八年(一八七五)にこの地に清末小学校が新築開校されました。尋常小学校、尋常高等小学校、国民学校などと名前は何度も変わりましたが、昭和二十九 年(一九五四)に新校地に移転するまで、八十年間清末の教育が行われたところです。
 眼下に見える農地は、江戸時代に干拓されたものです。      平成四年十一月設置
        清末ふるさとまちづくり推進委員会


清末八幡宮を下りて再び街道に出ます。
右側に「孝女政宅跡」の石碑が建っています。
その先の左側には「孝行塚」があります。明治7年に建てられたそうです。
  
碑文は漢語で書かれていましたが横に現代文に訳されていました。読んでみますと
 政は清末の角屋助三郎の娘として生まれましたが幼くして父を亡くし長く母だけと暮らしていました。
 非常に孝行で結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので殿様から度々褒められていた。
 明治4年5月1日46歳で病死した。
 その生前の行為をたたえる者が多く募金してこの碑を建てたのである。
 これで政の孝行が忘れられなくなる。
 (今でも清末では政の命日の5月1日が敬老の日と定められています


さらに街道を進むと小月の町に入ります。
江戸時代参勤交代の時に往来していた街道で小月町の発展に貢献した要路で昭和初期2号線の
開通により「旧国道」と呼ばれるようになりました。
    
小月観音を過ぎると「見廻り通り」に入ってきます。
ここは、下市から茶屋入口までの山陽道の一部で下市は宿場町、茶屋町は歓楽街で栄えました。
このため武士が庶民の暮らしや治安を見て回りました。
     
街道はこの先を左に曲がります。
曲がってすぐ右側に道標があります。右かみかた道、左とよた道
    
この道標は小月が昔から交通の要衝であったことを示します。徳川時代小月は山陽道の半宿場町であり、
ここから右は吉田宿を経て江戸へ向かい左は萩へ通じる分岐点でした。

この辺りが本町通りです。   
北野歯科を右に折れ、浜田橋を渡ると、大きな「庚申塚」が見えてきます。
日本一ともいうべき巨大な塚で庚申の2文字のくぼみに米を入れると2斗入るそうです。
高さ2.63m、御神体のまわり3.4m、重さ7t
  
小月神社、小月小学校を過ぎしばらく歩くと大きな川に差し掛かります。
   


※少し長くなりましたのでこの後は(その2)に続きます。


















山陽道(西国街道)を歩く「下関~長府」その2

2012-12-12 21:20:47 | 山陽道(西国街道)を歩く
(その1からの続きです。)

山陽道は壇ノ浦「平家茶屋」の所から左折し、火の山方面に入ります。
ここから坂道になってきます。
最初の信号を右に入り、ヘアピンカーブを曲がっていくと火の山ロープウエー壇ノ浦駅に着きます。
火の山ロープウエーは今、休みの時期に入っています。3月から再開するそうです。
  
壇ノ浦駅を過ぎると国民宿舎「海峡ビュー下関」にさしかかります。
昨年ここに行きましたが、関門海峡の眺めが素晴らしかったです。

この辺りは、「前田」という所。急な坂に入ります。
両側には、大邸宅が並んでいます。下関の高級住宅地でしょうか?

細い道を登ったり下ったりすると「貴船神社」に着きます。

坂を下りると右側に茶臼山が見えてきました。
ここで大きな道と合流します。
  
このあたりが「野久留米」という所でしょうか?
左側には「霊鷲山(りょうしゅせん)平家塚」の看板が立っています。

しばらく道なりに歩きます。
ここでふと気づきますが、山口のガードレールは、黄色です。
昭和三十年代、山口に国体が行われたときに山口のシンボル「夏みかん」の色に
統一されたとか。


街道は長府の街に入ってきます。
「長府」という地名は、「長門国府」がおかれた所で略して「長府」と呼ばれたそうです。
古代より山陽道の中継地として栄えました。

「功山寺」

元治元年(1320)創建  鎌倉の円覚寺を模した造りです。仏殿は国宝です。
春は桜、秋は紅葉のスポットとして知られていますが、幕末高杉晋作が挙兵をした所としても
知られています。

寺には、大内義長、毛利歴代藩主、また坂本竜馬とともに活躍した三吉慎蔵のお墓があります。

隣には「長府博物館」があります。

今日は国宝の仏殿内が公開されていましたので中に入ってみました。


功山寺を出ると周辺は昔の城下町の名残を残しています。
  

「長府毛利藩邸」です。
  
以前紅葉の時に中に入りましたが、見事な庭園があります。

「忌宮神社」

昔、長府は豊浦宮と呼ばれこの忌宮神社あたりにあったといわれています。

隣には、日露戦争203高地で指揮をとられた乃木将軍を祀った「乃木神社」もあります。
  

歩いていてお寺の多いことに気が付きました。
本覚寺、大乗寺、正円寺・・・・・・・・
正円寺には、天然記念物の大銀杏があります。
   

乃木通りを過ぎると金屋町に入ります。
ここは、金屋のまちなみといって昔の町屋をイメージしたまちづくりが行われています。


13:47 今日の目的地「長府駅」に到着。


今日もGPSを持って行ったのですが、途中でおかしくなり栄福寺~亀山八幡宮までしか記録されていませんでした。













山陽道(西国街道)を歩く「下関~長府」その1

2012-12-11 10:06:57 | 山陽道(西国街道)を歩く
はじめに
山陽道(西国街道)は兵庫県西宮から山口県下関まで約500kmの街道です。
宿場は全部で50宿。
その街道を今回歩いてみようと思っています。
のんびりマイペースで歩いてみようと思っています。
さて、西宮までどのくらいかかるのでしょうか?
歩くにあたって地図とか文献を調べましたが、この街道のことを探すことができませんでした。
したがってこの街道を踏破された先輩方のブログを参考に行程を計画しました。

下関~長府
12月8日(土)天気予報では曇り時々雨か雪
一応雨合羽、傘を用意。

午前10時起点の栄福寺を出発。
山陽道は、文献では亀山八幡宮からとなっていますが、栄福寺からという方も
おられますので私の出発地は栄福寺からとしました。


栄福寺は推古天皇朝期 百済の聖明王の王子聖林太子が来朝し自身の護持仏である観世音菩薩を
本尊として建立された。
幽霊の掛け軸があることで有名です。
少し高台にありここから関門海峡を通る船がよく見えます。



栄福寺の階段を下りると旧山陽道に入ります。
さあ、ここから西宮までの長い旅が始まります。

歩いているとルネッサンス様式の建物が見えてきます。
ここは山口銀行旧本店です。
大正9年に完成したそうですので約100年前の建物です。
建築は長野宇平治氏だそうです。


そのすぐ横には「馬関越荷方役所」があります。
下関は明治22年市制施行当初「赤間関市」としてスタートしましたが、
赤間の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」とも呼ばれました。
それが略され「馬関」となったそうです。
  
ここでは越後からの北前船の米、昆布、数の子などを扱う役所でした。
あの高杉晋作も馬関越荷役所頭人を務めていました。

  


金子みすず上山文英堂跡を過ぎると下関市役所にさしかかります。
下関市は人口276000人、山口第一の都市です。
  
市役所前の信号を過ぎると商店街に入ってきます。
このあたりが「赤間通り」と呼ばれています。

商店街から西京銀行を左折すると「亀山八幡宮」が見えてきます。
この八幡宮の入り口に「山陽道」の石碑があります。
山陽道はここが起点になっています。
  

しばし八幡宮境内を歩いてみますと「床屋発祥地」の碑があります。
  
 鎌倉中期(1264~73)亀山天皇に仕えていた京都御所の武士藤原基晴は宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し
 宝刀探索のため当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。
 基晴親子は当時下関で髪結いをしていた新羅人からその技術を学び往来の武士を客とした髪結所を開いた。
 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人は、いつとはなしに「床の間のある店」
 転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになったことからここが「床屋発祥地」となった。


また、伊藤博文公夫妻「お亀茶屋跡」や「亀山砲台跡」、境内の横には「宮地嶽神社」「熊鷹稲荷」「恵比寿神社」が
あります。
  



亀山八幡宮の階段を下りると唐戸市場に出ます。
今日も観光バスがたくさん並んでいます。お目当てはフグでしょうか?
海沿いに歩きますが、今日は風が強く体感温度が寒く感じられます。

「本陣伊藤邸跡」に着きました。
  

伊藤邸は室町時代から続く名家でシーボルトや吉田松陰などとの交流があり、幕末には坂本竜馬と妻お龍が
邸内の一部「自然堂」を借りて生活していました。
邸内には、竜馬、お龍、当主九三の顔出しパネルもあります。
  

旧伊藤邸の横が「春汎楼」「赤間神宮」です。
春汎楼の敷地には、日清講和条約が締結された日清講和記念館があります。
また、伊藤博文がそれまで禁止されていた「フグ」を食べたことで知られています。
私も3年前、下関の友達からここで還暦のお祝いをしていただきました。
本場のフグは最高ですね。おいしかったです。ありがとうございました。
  

    
赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇をお祀りしています。
また、小泉八雲の「耳なし芳一」の舞台でも知られています。

再び歩き出します。
しばらくすると関門橋が見えてきます。関門橋の下には関門人道トンネルがあります。
これを利用すれば本州~九州間が歩いて渡れます。


関門橋の道路の反対側には、赤い鳥居が見えてきます。
これは「立石稲荷大明神」といって平家一門が都から下ってきたときに京都伏見稲荷の分霊を祀ったと
いわれています。正面の海の中にある岩(鳥帽子岩)が御神体となっています。
   

壇ノ浦に着きました。
今、大河ドラマ「平清盛」が放映中ですが、この壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。
ここには、源義経、平知盛の戦いのモニュメントや御裳川橋などがあります。
幕末には英国との戦いに使った砲台などが展示されています。
  
    


この山陽道、初日だというので張り切って書きましたが、あまり長くなりましたので
このあとは(その2)に続きます。