鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

昌子力・源、父子の物語

2014年12月02日 | Weblog
【鹿島アントラーズ】 サッカー選手を支える人々 第3回~昌子源選手の父 昌子力さん 前編~
2014/11/30 12:27配信
Tomoko Iimori
カテゴリ:コラム


本格的な冬がやってくる、と 冬の匂いを感じさせ冷たく感じる風が弱いながらに吹く大阪―。
グラウンドが近づくと、ボールを蹴る音と共に選手たちの声がこだまし、大学サッカー特有の選手たちが使うクリームの匂いを感じる。
11月16日。大阪経済大学を訪れた。
人工芝のグラウンドでは関西リーグ二部 大阪商業大学×姫路獨協大学の試合が行われていた。
久々に訪れた大学サッカーの現場。
学生サッカー特有の空気が気持ち良い。
日本代表がオーストラリア代表との試合を行うため、名古屋から大阪へと移動した、次の日。
私はある方にお話しを伺うために、その場所を訪れた。
目的は―。

10月の日本代表にはじめて選出されながらも、負傷により辞退せざるを得ない状況となり悔しい想いをした選手がいた。
迎えた今年最後の日本代表招集で、ついに選出を受けた選手。
なかなか次世代のセンターバックが育たない中で、注目される日本屈指といって良いだろう若き選手のセンターバック
鹿島アントラーズ 昌子源。

その昌司源選手のお父様である 昌子力監督は姫路獨協大学の監督を務めている。
サッカー選手を支える人々 連載第3回目は 昌子源選手を支えるお父様、昌子力氏にお話しを聞いた。

●強制することのなかった自然の中でのサッカー一家



昌子氏は源選手が生まれた頃にはもう、サッカー指導者としての生活をしており、サッカーが日常的に当たり前にあった家だった。
お母様も当時、まだまだ女子サッカーというものが認識されていない時代ながらも、ママさんサッカーをしており、家でボールを蹴るという遊びが昌子家では当たり前にあったという。
源選手のサッカーをはじめた頃の話を聞くと、昌子氏は自身のスマートフォンで画像を探した。
そして見せてくれたのは、源選手1歳半の頃の写真だった。
当時の写真をiPhoneに取り込んでいつでも見れるようにしてあったのだ。まだ話をほとんど聞いていない時間であっても、そこから深い愛情を感じた。
写真に写っていたのは1歳半の昌子源。
日付けも入っており間違いなく1歳半の男の子なのだが、フワフワのサッカーボールを楽しそうに蹴る姿が写し出されていた。
その姿はもちろんかわいいのだが、その姿の在り方に大人顔負けの部分があり驚いた。
1歳半の男の子はまだまだサッカーのことなんてわからないのは当然なのだが、両手でバランスを取りただ蹴るのではなく、プレーヤーとして蹴っているかのようなフォームなのだ。
その姿を昌子氏は見せてくれた。 すごいでしょと言って目を細める姿は「父親」そのものだ。
当たり前にサッカーというツールが生活の一部としてあった昌子家では、フワフワのサッカーボールを使い日常的にボールが家の中で飛び交う生活だった。
それは源選手だけに限らず、昌子氏と妻である源選手のお母様や、お母様と源選手、そして時には3人といったように誰が教えるでもなく誰が強制するでもなく自然にコミュニケーションのひとつとして昌子家にはサッカーが存在した。
幼稚園に上がると、家の中にある畳の部屋に布団を敷き、ボールを蹴ってキーパー役で布団の上にダイブしながらキャッチすることが楽しくなった。
最初は、布団に思い切り飛び込むことが楽しくゴールキーパー役が楽しかったのだが、その内蹴る側の楽しさも知った。
大人であるお父さんは当然、守備範囲が広く、なかなか蹴ってもゴールすることができない。
大人でもなかなか取れないボールを蹴るためには、隅を狙うことや、ボールスピードが必要だった。
遊びの中で、知らずの内にボールの蹴り分けを覚え、蹴ることが楽しくなっていったという。
本格的にサッカーをやるといったのは小学生になってからのこと。
同じ小学校の友達がサッカーをやるから。といった理由だった。
サッカー一家の昌子家だったが、父や母からサッカーやってみたら?といった声がけがあったわけではなかった。
本人がやりたいという意思も持つならやればいい。親として道を先に作ることはしなかったという。
それも愛情からくるものだった。
サッカーをはじめた源選手だったが、当時昌子氏は監督としてチームを率いており、土曜日や日曜日の子どもの試合を観に行くことはなかなかできなかった。
自分のチームの試合が最優先であり、子どもの試合には妻である源選手のお母様が応援に駆け付けた。
小学校4年生になると6年生の試合に出場したりと、能力が同年代から抜け始めると、選抜に選ばれることも多くなった。
当時のポジションはFW。現在の源選手は恵まれた大きな体格をしているが、当時は身体が小さかったという。
神戸市から兵庫県、そして関西選抜へとステップアップした源選手。
当時の同期であった杉本健勇(セレッソ大阪)や宮吉拓実(京都サンガ→現レンタルでカターレ富山)などはセレッソ・サンガのアカデミーへと進んだが、当時の関西選抜に選出された小学6年生の選手たちの大半が、ガンバ大阪ジュニアユースへと進んだ。
その中には宇佐美や大森といった現在もガンバ大阪でプレーする選手たちや、現在関西学生リーグ1部でプレーし関西学生選抜でも中心核となっている選手たちがたくさんいた。
当時から注目されていた宇佐美をはじめ、関西選抜の小学生の大半がガンバジュニアユースに進んだ頃。
プラチナ世代という言葉が生まれた。
これだけの選手たちが揃っている以上、ガンバジュニアユースの数年は安泰と言われるほどに、この世代は強力だと言われていた。
その一員として源選手は ガンバジュニアユースに属した。

●ぶつかった壁とサッカーから遠ざかった日々

中学3年。
源選手は大きな問題を抱え、ガンバジュニアユースを退団。
選手としてというよりは人間的な部分で、中学生という多感な時期に起こる問題を抱えていた。
父である昌子氏は、関西でも有数の指導者故にさまざまな話が耳に飛び込んだ。
指導者としての立場でいろいろな話が入ってくるのは仕方のないことだが、源選手の父としては自分の子どもと向き合うことが第一だと考え、外からの話よりも源選手から受け取れるものを優先し、言葉をかけた。
中学3年の途中でガンバ大阪を退団すると、その後サッカーをしない期間があった。
地元の中学に通いながら時間ができてしまった源選手。
多感な時期に今までになかった時間が与えられてしまうと、中学生の男子が流れてしまう道はできてしまっている。
全国大会で結果を残し、ガンバジュニアユースという当時関西では最強と呼ばれる集団の中でサッカーをしてきた選手だったという経歴を持つと、やはり知らぬ間に子どもといえどもプライドが生まれ、その場から離れた以上すぐに違うところでサッカーをするとう気持ちにはなれない。
父としてサッカーを強制することはしない。昌子氏のスタンスは変わっていなかった。
サッカーをするのが自分の子どもなのではない。
自分の子どもがサッカーをしていたのだ。
自分でサッカーをしたくないと思うのなら、サッカーはしなくていい。
そう思っていた。もちろん寂しい気持ちはあった。
指導者だからこそたくさんのサッカーをする子どもたちと深く関わり、サッカーをしてたからこそ得て成長する子ども達をたくさん見てきたからだ。
もちろん逆もたくさん見てきた。サッカーに挫折する子ども、性格的な部分で断念したり、チームメイトとうまくいかずに辞めていく子…そういった子どもたちもたくさんみてきた。
手を差し伸べたこともたくさんある。
しかし、自分の子どもには手を差し伸べる時は指導者ではなく「父」だ。
だからこそ、サッカーをすぐに源選手の目の前に出すことは避けた。
サッカーをしていなくても大切な息子には変わりはない。
当時、昌子氏はJFAのB級ライセンスを受講する人たちのインストラクターを現サンフレッチェ広島の監督である森保氏や、JFL所属レノファ山口監督・上野氏と共に務めていた。
その頃インストラクターのアシスタントとして参加していた中村氏が声をかけた。
源、どうするんですか?
中村氏は鳥取県の米子北高校のコーチを務めていた。
何も決まっていないなら、どうですか?
ボールを蹴らずに数か月来ているが、声をかけてくれた。
当時、米子北高校はプラチナ世代が在籍する関西から見ると、強豪とはいえずサッカー文化がまだまだの鳥取という地域であり、サッカーをする環境や選手の質も高くなかった場所だったが、
父として強い高校に行かせたいわけではなかった。
当然プロにする気なんて全然なかった。当時はサッカーボールすら蹴っていない状況だったのだ。
ただただ楽しい高校生活を送ってもらいたいという 父としての願いがあった。
このまま誘惑がたくさんある中で、ただなんとなく時間が過ぎ、流されその場だけの判断で人生を進んでほしくはなかった。
ただ純粋に高校生活を楽しく送ってほしい。
そのためには県外に出て、リセットするのも良いのではないだろうか。
上には上がいることを突き付けられ、多感な時期にさまざまなことが起こり、それが取り巻く環境から一度離れて高校生活を送るのも良いのではないか。
何度も奥様と話し合ったという。
もちろんまだ15歳の子どもを遠く離れた場所に、一人で出すのは親としてとても寂しかった。
特に母である奥様は、とても寂しいと何度も何度も口にしたという。
鳥取県の米子北という高校がある。
行くか?
父からの提案に
サッカーはやらんぞ。
まぁ一度行ってみるのはいいけど。
そう答えたという。

昌子氏は奥様に、源選手には言わずにスパイクと練習着を持っていってと頼んだ。
本人に見つからないように車のトランクに入れておけ、と。
ちょっと蹴ってみるかと誘われるだろうからその時に蹴れるように―。
そう言って用意して出発させたという。
お母さんと共に米子北高校を訪れた源選手に、やはりサッカー部の中村コーチは
ちょっと蹴ってみろ
と言った。
スパイクも練習着も持ってきていない。
と言った源選手に母が差し出した練習着とスパイク。
結果、久しぶりにボールを蹴ることになり、なにかが動いた―。

帰ってきた息子の顔には変化があったと 父である昌子氏は話す。
あきらかに行く前とは違った顔をしていた。
その顔を見て
行かせてよかった。
そう父は、息子の姿にしばらく心配をし緊張を感じた日々の中でホッと喜びと安心を感じたという。
俺、サッカーやってもいいよ。
照れくさそうにそういった源選手は、米子北高校に進学を決めた―。

あの日。
スパイクと練習着があったからこそ、ボールを蹴れた。
それを持たせてくれた父。
それを黙って持っていった母。
家族がくれた 大切なターニングポイント。
あの日がなければ、今の昌子源は誕生していないかもしれない―。

サッカーがある日常が当たり前のサッカー一家に生まれ
サッカーエリートのように言われてきた。
現にそのように伝えるメディアが現在も多いという。
しかし、そんなことはない。
この時、本人はもちろん、家族もプロになるなんて思っていなかった。
ただ楽しく純粋に子どもらしく、人生を楽しんで充実してほしいという親心と
一度は失いながらも、サッカーという自分にとって自然にいつもあった日常を取り戻し、サッカーやりたい・サッカーが好きなんだと思い出した少年の大志。

寂しく心配であり、不安も抱えながらも 子どもの未来を信じて送り出した、両親
一度リセットし、生まれ変わりをどこかで意識しながらまだ見ぬ新しい世界へと飛び出した、息子。
昌子源の二度目のサッカー人生がここからスタートした―。



【鹿島アントラーズ】 サッカー選手を支える人々 第3回~昌子源選手の父 昌子力さん 後編~
2014/12/02 12:14配信
Tomoko Iimori
カテゴリ:コラム




鹿島アントラーズの最終ラインは、Jリーグの中でも一番若きディフェンスラインといって良いであろう。
そのディフェンスラインの統率を行っている選手
日本代表に選出され、その将来に期待がかかるセンターバック 昌子源。
そのお父様にお話を聞いた。
サッカーを支える人々、連載第3回目のスポットは昌子源選手のお父様である昌子力氏。
父であり、指導者でもあるその存在はとても大きなものだった―。

●将来を決めた新たな可能性。運命のセンターバックコンバート。

米子北高校に進んだ昌子源選手は、それまでのFWでプレーしていた。
当時の米子北高校は全国的にみても、強豪とはいえない存在だったが、入学した時、米子北にはたくさんの有望選手が存在していたことも運命的だった。
先輩や後輩にも恵まれた米子北時代は、鳥取のサッカーを大きく動かした。
自身もU-16に選出されるなど、復帰してすぐに選手個人としても注目を受けた。
鳥取県の選抜、国体の代表に選出されると源選手はセンターバックにコンバートされた。
最初はFWとしてという意識が強く、ディフェンダーへのコンバートは納得がいかなかったという。
それでも高校2年生時、完全にセンターバックへとコンバートされ、そのポジションでプレーしていくことを決意した。
そしてその年、米子北はインターハイで準優勝という結果を残した。
鳥取県勢として全国のサッカー大会で準優勝という成績を残したことは偉業だった。
現在ガイナーレ鳥取でプレーする山本、谷尾といった当時強力と言われた2トップを有し、そしてセンターバックには昌子が君臨した。
国体に出場した際に、大切な縁が生まれた。
一回戦で対戦したのは茨城県代表のチームだった。
そこに同じ茨城県だからと視察に訪れていた鹿島アントラーズの強化部。昌子源選手の姿が目に留まったのだ。
そしてその後U-19代表候補にも招集された。インターハイ以降、一気に全国の強豪チームと肩を並べて注目されるようになった米子北の評価は高く、センターバックとしても超高校級という言葉を使われるまでに成長した。
センターバックにコンバートされてから2年弱。
昌子源の元には、鹿島アントラーズからのオファーが届いた。

当時のことを、昌子氏は「プロにするのは悩んだ」と言った。
18歳でサッカーでお金を得ることに、とても大きな不安を感じたという。
サッカー選手という特別な職業に就き、その立場を自分で理解するにはまだ18歳では難しい。
同年代の初任給よりもお金を得て、そのお金で遊んで歩くのではないか。調子に乗るのではないかと心配だったという。
たくさんの選手が高卒でJリーガーとして毎年デビューすることとなるが、親の気持ちとしてはサッカーでお金を得て、親から離れて暮らすこと、サッカー選手という一見きらびやかな世界を手に入れることによって道がまがってしまわないかという不安を持ってしまうのは親としての愛情として考えてしまうものであろう。
昌子氏は自身がユースや大学、プロクラブのサテライトで指導をしてきた際にそういった選手たちを何人もみてきたのだ。
実際にサッカー選手という職業となったことで、潰れていく選手や、人間としてまがってしまう例を近くで感じてきた。
自分の子どもは、よりそれよりも幼く感じてしまうものだ。
自分の子どもはどんなに大きくなっても、子どもだから、だ。
その不安を鹿島アントラーズの強化部長に素直に話したという昌子氏。
その時、鹿島アントラーズから予想もしない言葉が返ってきた。
大丈夫ですよ、お父さん。
そういった部分もしっかりサポートしますし、教育もします。
選手として、プレーだけの部分だけではないんです。
鹿島アントラーズに入団してもらうということは、家族になりましょうということなんです。
ですから、大切な息子さんをお預かりさせてください。

その言葉は、長年サッカー界に携わっている昌子氏でも、驚いたという。
このチームなら、信じることができる。
そう思った。
入団してから、何度か鹿島まで足を運んだ。
練習を観に行き、静かにひっそりと観ていようとしてもすぐに鹿島のスタッフが飛んでくる。
いいですよ、私はここでひっそり観ていますから、と言っても
何言ってるんですか、お父さん!私たちはファミリーなんですから!
そう言って用意した席まで通してくれるのだという。
毎回必ず、私たちはファミリーですから。と言ってくれる鹿島アントラーズに自分の息子がお世話になって本当に良かったと今でも実感するという。
鹿島アントラーズというチームに入団したことは大きかったと、昌子氏は言う。

●鹿島アントラーズでの成長 ついに日本代表という舞台へ



常勝軍団・鹿島アントラーズ。
そのチームで成長することは本当にプロ選手として、大きなことだ。
なかなかディフェンスラインで若くして試合に出場するまでになるのは難しいが、鹿島で練習を重ねることは選手として大きな経験だった。
2011年から鹿島アントラーズの選手としてスタートし、その年の天皇杯で公式戦初出場を果たした。
次の年にはリーグ戦にも出場したが、すべて途中出場。ナビスコ杯でも出場機会を得るなど徐々に機会を掴んだが、2013年には出場機会が減った。
それでもまだまだ若き選手であり、まだ鹿島には偉大と感じるベテランの選手たちも多くいた。
そして大きな変化となったのは、2014年。
今季は開幕からスタメンとして名を連ねた。聖地と言われる国立競技場で迎えた開幕戦で、スタメン出場、そしてプロ初ゴールも生んだ。
それから現在リーグ33試合すべてにスタメン出場し、全試合出場まで1試合となった。
今季はW杯イヤー。開幕から注目を集めた源選手は、はじめての日本代表候補に最後といわれた4月の国内合宿に招集された。
注目されし若きセンターバックは、日本全国からの注目を集めることとなった。
その後、サックJAPANには選出はされなかったものの、新たな日本代表となるアギーレJAPANへの選出が注目され、連日報道されていた。
しかし、初招集となる9月には選出されることがなかった。
その時、父である昌子氏は源選手と電話で話したという。
Jリーグでのプレーを観ていた父は厳しい言葉をかけた。
名古屋のケネディ、東京のエドゥ…これから世界で戦おうとする日本代表のセンターバックがJリーグに在籍している外国人に負けてたのでは選出なんてされない。
そんな甘い場所ではないだろう。まずはJリーグの外国人を圧倒できるぐらいにならなきゃな。
昌子氏だからこその、焚き付けだ。
父親としてはもちろん、指導者としての言葉でもある。
愛する息子の名前が挙がるのは嬉しい。でもただ褒めたり、讃えたりするのではなく、高くなりそうな鼻をへし折ってやるんですと楽しそうに、そして愛情いっぱいに昌子氏は笑う。
今季、試合を観ていて気になることがあった。
今年は試合に出場する機会が多くなり当然ピッチにいる時間も長いが、主審に抗議をしに行く姿を観て、父としてそして指導者として源選手に話をした。
その姿は昌子氏にとっては、嫌なシーンだったという。
抗議に行くのもひとつのチームとしてのパフォーマンスであり、スタイルな部分もあるが、それでもディフェンスラインから抗議に出ていく姿は、あまり良いものではないと感じた。
不必要な時に偉そうに主審に抗議をしに行く姿は、誰も幸せにしない。そう昌子氏は伝えた。
まだ若き息子だけに言葉を濁したが、それでもその次からはそういった姿はなくなったという。
父の言葉を受け入れたのだ。
ある試合を中継で観ていた時。
試合が止まった時に、水を飲んでいる源選手が映った。
そして相手選手に水を渡していた姿が映った。
その姿が嬉しかったという。不必要な時に抗議をする姿よりも何倍も良い。相手選手に水を渡すなんてほんのちょっとしたことかもしれないが、それでも相手選手にでも関係なく鹿島のボトルの水を渡す姿は、息子の姿として嬉しかったと昌子氏は話す。
昌子家の家訓として、恩返しという言葉があると昌子氏は言う。
感謝の気持ちを持って、自分に関わったすべての人に恩返しをすること。
それが昌子家として大切にしていることだと話す。
昌子氏は毎日たくさんのサッカー情報をインターネットや雑誌、新聞などから入手する日々を過ごしている。
それは息子のことや鹿島のことを知りたい気持ち、そしてそこに代表の情報を入れる日々も増えた。
その中で、今日の鹿島の練習に行って昌子選手にファンサービスしてもらった!優しかった!という言葉を見つけるととても嬉しくなるという。
応援してくれてる人たちに、プレーで返すのはプロとしてもちろん、そういった機会が与えられるプロ選手だからこそ、しっかりやってほしいと願っている。
優しかった、ファンサービスしてくれたという言葉や、試合後、笑顔で応える姿を観ることがゴールをした時よりも嬉しく感じるのだと言った。
親として子どもの成長と、子どもの心の部分を知ることができると昌子氏はやさしい言葉で聞かせてくれた。
10月。
日本代表に招集されながらも負傷により、辞退。
そして11月、ついに日本代表に招集された昌子源。
代表に選出されて、お話はされましたかという問いに
昌子氏はこう続けた。
初選出で迎える関西での代表戦に備えて、源選手の意識も高かったはずと昌子氏は言う。
関西は源選手にとって地元。名古屋での試合ももちろんだが、18日に行われる大阪での試合に関して昌子氏はこう言った。
代表に招集されてすぐに使われることは、ほぼない。
今後代表に選ばれるために18日の試合ではなく、お前にとって大事になるのは16日や17日の練習だ。
アジア杯を戦う上で選ぶメンバーの中で、今後につながる若い選手も帯同させたいと思った時に、選ばれるようなアピールを16日、17日の練習で見せるべき。
どうしても日本代表に残りたい!というアピールは、スペイン語がわからなくてもプレーで表現できる。
お前の戦う日は18日ではない。16日17日の貴重なトレーニング時間だ。
指導者の父―。
その言葉をかけられるのは昌子源の父である、昌子力氏だけであろう。
日本サッカーの一角の第一線で指導を続けている指導者だからこそ、そういった言葉をかけられるのだと感じた。
今でも家に帰ってくると両親と3人で足でゴミをパスして蹴ってゴミ箱に入れたりして、一緒に笑う。
帰ってくると遊びに出ることも多かったが、今はアスリートとして自然にいろいろなことに気を遣うようになり、休みは休むために与えられたものだから、と 家からあまり出ることもなく実家でゆっくりした時間を過ごす。
息子がフワフワのサッカーボールを蹴った日からの写真をスマートフォンに取り込み
父の顔でその写真を見せてくれた姿は
息子を愛する父だった。
その一方で、指導者をしている父だからこその部分を感じることもできる。
父として指導者としての両方を兼ね揃えているのは、偉大な父だときっと源選手も感じていることだろう。
22歳となる年。
姫路獨協大学を指導する日々の中で、自分のチームで深く関わる選手たちは同い年の選手たちだ。
「子ども」という視点で、源選手と比べることもあるという。
鹿島アントラーズという常勝チームで、全試合に出場し、日本代表にも選出されたことで、評価は今とても上がっている。
それで伸びる鼻を今度はどうへし折ってやろうかなと、考えているのが楽しいんです。
そういった偉大な父は照れくさそうに、笑った―。

11月18日。
日本代表×オーストラリア代表が行われたヤンマースタジアム長居。
コンコースを歩いていると、ばったりと数日前にこの取材をさせていただいた昌子氏に遭遇した。
試合には出ないでしょうねぇと言いながらも、その姿を観に来た昌子監督。
ココの席にというから…と招待されたチケットを手に、はじめての日本代表としての姿を観に来ていた。
こちらまで心が温まるような、そんな感覚を感じながら、昌子氏と別れた。

後半試合途中、ベンチからスタッフがアップをするメンバーの元へと走っていく。
昌子源がユニフォーム姿となった時、昌子親子のことを想い、立ち上がって興奮したほどだ。
しかし、その少し前にケーヒルが交代で入り、ケーヒルが得点してしまうと、その交代はナシになってしまった―。
初めての代表デビューがもう少しで叶いそうだった。
地元関西で、父が見守るその場所で。
しかし、叶わなかった。
あと少し。
でも、それが今の昌子源の立ち位置なのだ。
まだまだ、これから。
きっと昌子氏はそう、言うであろう。
まだケーヒルは止められない、そう判断されたのだ、と。
昌子氏は「今」だけを考えての言葉は発さない。
指導者として、そして父として未来のある言葉をかけるのだ―。
でも、きっとユニフォームになった時は興奮したであろう。
そんな姿は見せなかったかもしれないが、来る!と思ったことであろう。
当然だ。親として嬉しくないはずがない。
そんな姿や想いを 少しだけの時間を共有した私でさえ、感じてしまうほどの素晴らしい親子愛を感じさせてもらった。



父は有数の偉大な指導者でありながら
サッカーという世界を強制することはなく家族として共に歩んできた。
サッカーという同じ世界に自然に身を置いているが、だからこそ心配も不安もあったこともある。
むずかしさがわかるからこそ、歯がゆいこともある。
それでも父として、子どもに幸せであってほしい
笑っていてほしい
それを第一に、未来への道にアドバイスをしてきた。

プロになるなんて思っていなかったが
今は日本代表に名を連ねるまでになったプロサッカー選手となった。
15歳で親元を離れて寂しさもあったが、高校を卒業してさらに遠い茨城県に息子は旅立った。
今はテレビの中の息子を観る機会も増えたが、鹿島というファミリーがいることが心強い。
サッカー選手を支える人々―。
指導者としての顔も持つからこそ、他の父にはない一面も持ち源選手の一番の理解者である父、昌子力氏。
昌子源選手を支え、育てた人であり、一番の身近なサッカー界の先輩なのかもしれない。
鹿島アントラーズを支える、安定した最終ラインを統率する昌子源。
これからが、たのしみな選手であり日本サッカー界を引っ張る選手になる素質のある選手だ。
父からもらった言葉。
トレーニングで言葉のいらないアピールをすることができたであろうか。
年末からアジア杯に向けたキャンプがスタートする。
その代表に昌子源という名前があってほしいと願う。

姫路獨協大学の試合を観ていると、厳格な姿で選手たちを観る監督の姿があった。
たくさんの関係者や選手たちが挨拶に訪れ、偉大な指導者であることがわかる。
だが、子どもの話をしていくとやはり父の顔となり、本当にたくさんの話をしてくれた。
強面と言われるけれど、よく話すんですよ、実は。
と笑うその姿は、子どもの話をしてやさしくなる父の姿そのものだった―。

昌子源のこれからに 父を重ね
父である昌子監督のこれから関わり育てる選手たちにも興味も持つことができる
そんな素敵な出会いとなった―。

11月16日。
話しが終わった頃には、もう真っ暗になっていた大阪の空。
サッカーボールを蹴る音はまだ、 続いていた―。





昌子父子の物語である。
源の成長が語られておる。
光の当たる舞台からの転落と挫折、そして再出発。
「スパイクと練習着」
涙無くしては読めない物語がここにあった。
鹿島からのオファーも親としては手放しで喜べず、悩んだ。
「鹿島アントラーズに入団してもらうということは、家族になりましょうということなんです」
鹿島だからこそ源のプロ入りが叶ったと言い切れよう。
そして鹿島にて成長していきレギュラーポジションを得る。
その先には日本代表が待っておった。
一見すると、順調に歩んでおるようにみえる。
しかしながら、挫折を経た源の強い心がこの地位を作ったのである。
「それで伸びる鼻を今度はどうへし折ってやろうかなと、考えているのが楽しいんです」
父との愛情溢れる言葉が嬉しい。
昌子源、これからもさらなる成長を遂げてくれるであろう。
楽しみな若きCBである。

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13 コメント

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Unknown (いおり)
2014-12-03 13:27:07
涙が出てきたぜ!
返信する
家族愛 (ミタマ)
2014-12-03 13:14:02
息子をもつ同じ父親として、心を揺さぶられました

感謝の気持ちと恩返し、大切な家族とサッカー、そして、アントラーズファミリー

サッカーだけじゃない、アントラーズに関わる人の素晴らしさに目頭が熱くなりました

返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-03 00:13:30
今回ご紹介頂いたエピソードは、ぜひ全国のサッカー少年の親御さんに見て欲しいものですね!
親御さんにしてみたら、サッカー選手である前に大事なわが子ですし、
プロになってすぐに解雇されてしまうのであれば、就職したほうが収入的にも安定しますし。
今回のエピソードを知れば、親御さんは「プロになるなら鹿島で」と思ってくれると思います。
毎年、各世代の有望選手が鹿島に入団してくれるのは、
選手自身だけでなく、その家族も含めて説得するからなのだと思いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 22:28:42
ファミリー。この気配りこそがチームが選手に愛される由縁なのだろうな。
親御さんにここまで言い切れるチーム関係者が選手を粗末に扱うわけがない。
他チームでも選手を粗雑に扱い簡単に解雇する姿勢に腹が立ち、スカウトしておいて戦力に出来なかった落ち度をまず最初に詫びろと何度思ったことか。

選手を大事にすることこそがチームが愛されるために必要なこと。
育成とは常日頃からの信頼の蓄積による結果なんですね。
返信する
Unknown (源推し)
2014-12-02 22:05:12
素敵なエピソードですね。
源ちゃんは試合を重ねる毎にプレーに自信がついて頼もしくなっているのが目に見えてわかります。
コメントもいつもユーモアが溢れていながら、チーム関係者だけだなく相手にも敬意を払っているのがよくわかります。性格も明るくて優しい、素晴らしい選手ですね。
オープンスタジアムで一緒に写真撮ってもらってから大ファンになってしまいました。
来季は私も絶対源ユニにします!!
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 21:05:33
これぞファミリーの象徴のような話ですね!
こんな素晴らしいクラブのサポーターで本当に良かったと改めて思わせてもらいました!
返信する
素敵な記事をありがとう ()
2014-12-02 20:56:05
心から応援したくなった。
来年は源ユニにしよかな。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 20:18:40
「サッカー一家に育った昌子源」と聞けば、順風満帆なサッカー人生かと思いがちだが、こんな人生だったとは。
両親の様々な苦労もよく分かる。
鹿島のレギュラーとなり、日本代表にまでなったのは本人の努力が大きいだろうし、鹿島ファミリーの素晴らしさも改めて認識できる。
昌子源のさらなる飛躍を大いに期待している。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 20:00:29
『家訓は恩返し』素晴らしいですね。思い返すと源のコメントや行動は常に周りへの感謝が溢れていますよね。実力も人間性も優れた我らがディフェンスリーダー、誇らしいです!
返信する
Unknown (candy)
2014-12-02 16:24:25
涙でたーー。。。

私も、一人の親として
とても素晴らしい記事に出会えたなと思いました。

そして、みなさんと同じく
やっぱり鹿島のファンで良かった!
さすが鹿島は違うな!と思わせてもらいました。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 16:05:12
読んでいて涙が出ました。

お父様も大学サッカー部の監督ということで、昌子選手は順風満帆にここまでやってきたものだと思っていましたが…

それにしても、素敵なご家族ですね。
そしてまた、鹿島アントラーズも素敵なファミリー。
鹿島アントラーズのいろいろな記事を見るたびに、やっぱりアントラーズっていいな、サポやってて良かったと思わされます。

昌子選手のお父様、このブログも読んでいただいてますか?
返信する
Unknown (鹿魂)
2014-12-02 15:16:30
なんか泣けてきた
返信する
Unknown (Unknown)
2014-12-02 14:49:10
鹿島のスタッフが繰り返した「私たちはファミリーなんですから!」という言葉。
目頭が熱くなりました。
改めて鹿島を好きでいて良かったと思うとともに、
常勝と呼ばれるクラブの根底を支えるものに
触れられた気がします。
返信する