栄光の“鹿島の10番”は北九州へ――。
東福岡高出身・本山雅志の夢は続く。
posted2016/01/09 06:00
地元でボランティアとして参加している「WAKAMATSU CUP」での本山。
text by
蘇芳あかね
Akane Suo
PROFILE
photograph by
Akane Suo
「俺、しばらく実家から通おうと思ってるんだけど。変かな!? 実家から通ってる36歳のプロ選手って、きっと他にいないよね」
本山雅志は笑いながら言った。
ギラヴァンツ北九州への移籍が正式に発表された4日後、昨年末12月30日のことである。
年末、“鹿島の10番”だった男は北九州にいた。
12月30日、本山雅志は早朝7時から、北九州市内の某グラウンドにいた。
池元友樹(北九州)や山形辰徳(栃木FC)、引退した宮原裕司、千代反田充など東福岡高校卒業生の姿もみえる。ほかにもアビスパ福岡J1昇格の原動力・鈴木惇、アギーレJAPANに招集されたこともある坂井達弥(鳥栖)、U-18日本代表の冨安健洋まで……。
彼らは“WAKAMATSU CUP”のボランティアスタッフだ。
WAKAMATSU CUP(新春初夢若松サッカー大会)は本山雅志、宮原裕司、山形辰徳の3人が主催者となり、毎年冬休みに地元の小学生チームを招待して開催している少年サッカー大会。主催者3人の実家は北九州市の“若松”区、歩いて100歩の距離にある。そろって二島小学校→二島中学校→東福岡高校→プロサッカー選手になった盟友である。
「大会」といっても優勝チームを決めるためのカップ戦ではなく、丸1日、地元小学生とプロのサッカー選手がいっしょにプレーする手作りのイベントだ。ボランティアの選手たちは助っ人外国人のように各チームに入り本気で試合をする。
6年前に引退し、アビスパ福岡で育成の仕事を始めた宮原裕司が2人に声をかけてスタート。発起人の宮原裕司は当時こう話していた。
「自分が指導者になってみて、二島FCだったり東福岡だったり、これまでお世話になってきた方々たちのおかげで自分の夢をかなえることができたんだとしみじみわかった。福岡のサッカーを盛り上げようとかそんな大げさなことじゃなくて、何か恩返しがしたい。交流の場になれるように小さいイベントでいいから長く続けたい」
その言葉どおり、少しずつ賛同者を増やし続けて第6回をむかえた(筆者も第1回から撮影ボランティアとして参加させてもらっている)。
ギラヴァンツのユニフォームを着た本山雅志。
手作りの大会ではあるものの、例年、何社か地元メディアが取材に訪れるWAKAMATSU CUP。今回は本山移籍後初の公の場となるだけにどうしたものか……。
だったら逆にしっかりおひろめできるようにしよう、と、ギラヴァンツのチームスタッフが急きょ新ユニフォームを用意し大会会場に持ってきてくれた。
本山がそれを拡げて袖を通すと、宮原がすぐ反応する。
「お、モッさん、なつかしい背番号やね(笑)」
43番は、本山が東福岡高校時代3年間つけていた練習着の背番号だ。
「ミツ(小笠原満男)に“40番にしなよ”って言われて、“なんでよ? お揃いにするわけないじゃん!”とか話してるときに、パっと43番が浮かんだの。初心に帰れるかなとも思って」
各局テレビのローカルニュース、新聞社などほとんどすべての地元メディアが集まってきていたこともあり、なりゆき上、本山雅志・ギラヴァンツ北九州入団記者会見とあいなった。
いつ、アントラーズ退団を考えたのか?
「このたび戻ってくることができて、あ、間違えました!」
囲みの記者たちから笑い声が沸き、はりつめていた空気が一気に和む。
「このたび、地元ギラヴァンツに新入団する本山雅志です。自分の育った街のチームでプレーできることになって、夢がかなったようでとてもうれしいし、光栄です。自分の持っているものをすべて出してがんばりますので、応援よろしくお願いします」
表舞台で活躍してきたベテランらしい、こなれた取材対応はさすがだ。
ギラヴァンツのユニフォームを脱ぎ大会スタッフに戻った本山に、少しずつ話を聞いてみた。
――いつごろから、アントラーズの退団を考えてましたか? 天皇杯でボランチをやった試合のあとや、ナビスコカップで優勝したときの様子がいつもと違うように見えましたが。
「いや、正直、アントラーズから正式に来季の話をされる時までは、ずっとアントラーズでチームのためにがんばるつもりでしたよ。Jリーグ最終戦の3日前くらいだったかな。もちろん自分にとっては納得がいくシーズンではなかったけれど、試合に出られていなくてもコンディションが悪かったことはなかったしね」
“鹿島の10番”のまま現役引退すると思っていたが……。
――“鹿島の10番”のままアントラーズで引退すると信じていたサポーター、多かったと思います。
「自分でも、そうだと美しいなとぼんやり考えてはいたけど……(中田)浩二が引退を発表した翌日だったかな、ミツやソガ(曽ヶ端準)の同期4人で食事をしに行っていろいろ話をして。浩二は本当にまだまだ充分トップでプレーできるのに引退を選んだけど、自分はできるだけ長く現役でプレーしたいって、そのとき強く思ったんですよね。だからチームに話をしてありました。もし自分が構想外になったときは、他のチームで現役を続けられないか挑戦したいからちゃんとクビにして欲しいって」
――中田選手が行動するきっかけをくれたんですね。
「そういえば浩二には、鹿島を退団することをいちばん初めに伝えたかもしれない。たまたま浩二が“来年のオフィシャルスーツ用の採寸いつする?”って聞いてきたから、“退団するんだから採寸しないよ”って(笑)。相手がチームスタッフのなかでも浩二だったからね、そうなった(笑)」
――小笠原選手や曽ヶ端選手はびっくりしてませんでしたか?
「ぜんぜん驚かなかった。それよりさっきサッカーとまったく関係ない地元の友達に“ギラヴァンツに入団したから、これからずっとこっちにいるよ”って言ったら“ウソウソウソ、何冗談言ってんの”って。アイツらがいちばん驚いてたねぇ(笑)」
――すぐ退団の発表をして最終節にサポーターの前であいさつすることもできたのに、そうしなかったのはどうしてですか? サポーターにはきちんとあいさつしたかったでしょう。
「引退するわけじゃないからセレモニーというのもおかしいでしょ? チームはまだ優勝の可能性が残ってたし。最終戦が終わってもしばらくトレーニングがあることもわかっていたから、クラブハウスまで練習を観に来てくれたサポーターに心を込めて話をして……次に行ったチームで活躍できればアントラーズのサポーターならきっとわかってくれますから」
退団を公表して最初にオファーをくれたチーム。
――移籍先はどうやって探したんですか?
「すべてチームにお任せしました。いろいろ手伝おうかと言ってくれた方々もいたんですが、(鹿島の強化部長・鈴木)満さんから『自分が探すから』と言ってもらったので。自分で動いたらチームに失礼になりますし。でも、せっかくだから思いきり環境を変えてみたくて、同世代の選手がプレーしていたアメリカやオーストラリアリーグにはちょっと興味がありました。調べてみたら今は移籍のシーズンじゃないということがわかってすぐ諦めましたけど(笑)」
――ギラヴァンツに決めた理由は何ですか?
「退団を公表して、いちばん初めに正式オファーを出してくれたこと。すぐに柱谷(幸一)監督が鹿島まで話をしにきてくれたこと。この時点で、ある程度心は決まっていたと思います。プロ生活も長いですから、Jリーグのチームの運営が大変なことやチーム事情というか、編成の大変さとかも理解してますから。想定外だった選手を1人獲得するのがどれだけ難しいか……。そんななかで、すぐに具体的な話をしに来てくれるというのは、本気で自分を必要としてくれているんだとわかりますから」
――早々に返事をしないでもう少し待てば、いろんなチームから選ぶことも可能だったでしょう。
「実際、いくつか話をしてみたいというチームもあったようなのですが、お会いしてお話しを聞いているとスケジュール面でギラヴァンツの始動に間に合わないと思ったんです。チームが始動する日から合流したいですから、年内にお返事しました。あとは、プロになったときからずっと1度は地元に近いチームでプレーしたいとずっと思っていて。そうしたら北九州がオファーをくれた。ほんとうにうれしかったんです」
――東福岡高校の志波芳則総監督も「プロになった選手たちにはできれば地元でプレーしてほしい」とよく仰られてましたね。
「それもありますし。うちは兄弟が多いうえに商売をしていて、両親になかなか試合を観に来てもらえなかったから。いつか地元に近いチームでプレーして、元気にサッカーしてる姿を観てもらいたいと思ってました。北九州に入団が決まって両親はほんとうに手放しで喜んでくれた。ホームの試合は全部観に行くって」
北九州スタジアムの完成を楽しみに……。
――2年契約にしたのはどうしてですか?
「確かに最近はずっと1年契約にしてもらっていたんですけどね。新しくできる北九州スタジアムにふさわしいチームになるところまで自分に対して責任を持たせる意味で、スタジアム完成までの2年にしてもらいました」
――J2ということにためらいや不安はありませんでしたか? 施設、サポート面、試合スケジュールなど環境も大きく変わると思います。
「J2だからとかいう以前に、鹿島以外のチームでプレーしたことがないんだから、全力で挑戦するしかないですよね。環境という面では鹿島は最高峰ですから。でも、不思議となんだかワクワクする気持ちというか。伸二と対戦できるんだよね、とか」
――確かに、それは愉しみですね(笑)。
これからの選手人生で鹿島の経験がどう生きるか?
「とにかくまだ1度もチームに行ったことがなくて(ホームスタジアムの)本城陸上競技場も、小学校のとき何かの大会でプレーして以来だし。石神(直哉)や池元(友樹)くらいしかいっしょにプレーしたこともないしで大きなことを言える立場じゃないんですけどね。ピッチ以外でも、観客を増やすこととか、できることから何でもやりたいと思ってる」
――18年間、人生の半分を過ごした鹿島アントラーズに対して、今思うことは何でしょう。
「これは、引退するときに初めてわかることですよね。これからの自分次第でぜんぜん変わってきますから。このあとアントラーズにいたときより大きな仕事ができたらとか、これから出てくる課題がどんなものかによって、鹿島でのどの経験が自分にとって大きかったかわかってくるわけでしょ? 今後のアントラーズに関しては、自分が何か語るのは失礼だし……それに、どうしよう、なんかもうすっかり北九州の人の気分になっちゃってるよね(笑)」
――話を聞いてると、あいかわらず律儀というか、周りの人たちのことを気づかいながら今回の移籍を進めたように感じます。こういうときくらい、自分だけのことを考えてワガママに行動すればいいのに、小笠原満男選手みたいに(笑)
「あぁ、でも、それだと自分じゃなくなるから(笑)」
17年ぶりの優勝を目指す母校を胸に刻んで。
「あ、けど1コだけ。Jの公式試合記録に載る自分の『前所属チーム』が東福岡高校じゃなくなるのは少し残念だったかな」
最後にそう言って、彼は子どもたちの待つピッチへ向かって走って行った。
卒業して鹿島に入団して以来、1度も移籍をしていないからこその“前所属チーム=東福岡高校”という肩書。「サッカーファンや関係者が公式記録を見るたびに『東福岡高校』を思い出してくれるだろうから」と、彼はずっと誇りにしていた。
しかし今シーズン、全国高校サッカー選手権で17年ぶりに準決勝(1月8日現在)まで勝ち進んだ「東福岡高校」を、世間は忘れないはずだ。
だから本山は安心して東福岡高校の広告塔をお休みしていいのだ。
鹿島の10番という大きな荷物も下ろして、軽やかに走る天才ドリブラー本山雅志……J2の試合に通うのが愉しみになってきた。
わけわけ三国志
本山の逸話を引き出すNumberの蘇芳氏である。
鹿島退団の経緯、北九州移籍の話などが並ぶ。
読み取ると、鹿島からは戦力と考えられていない旨が伝えられたように感じる。
これは少々寂しい。
それはそうと、背番号を決めたエピソードで、満男に40番を勧められた話が面白い。
「なんでよ? お揃いにするわけないじゃん!」とは本山本人の弁ではある。
がしかし、ファンとしてはお揃いの番号も嬉しかったように感じる。
また、北九州とは2年契約とのこと。
来年、北九州がJ1昇格を成し遂げれば、対戦もあり得る。
これは俄然楽しみになってきた。
北九州に本山あり。
応援しておる。
わけわけ三国志
東福岡高出身・本山雅志の夢は続く。
posted2016/01/09 06:00
地元でボランティアとして参加している「WAKAMATSU CUP」での本山。
text by
蘇芳あかね
Akane Suo
PROFILE
photograph by
Akane Suo
「俺、しばらく実家から通おうと思ってるんだけど。変かな!? 実家から通ってる36歳のプロ選手って、きっと他にいないよね」
本山雅志は笑いながら言った。
ギラヴァンツ北九州への移籍が正式に発表された4日後、昨年末12月30日のことである。
年末、“鹿島の10番”だった男は北九州にいた。
12月30日、本山雅志は早朝7時から、北九州市内の某グラウンドにいた。
池元友樹(北九州)や山形辰徳(栃木FC)、引退した宮原裕司、千代反田充など東福岡高校卒業生の姿もみえる。ほかにもアビスパ福岡J1昇格の原動力・鈴木惇、アギーレJAPANに招集されたこともある坂井達弥(鳥栖)、U-18日本代表の冨安健洋まで……。
彼らは“WAKAMATSU CUP”のボランティアスタッフだ。
WAKAMATSU CUP(新春初夢若松サッカー大会)は本山雅志、宮原裕司、山形辰徳の3人が主催者となり、毎年冬休みに地元の小学生チームを招待して開催している少年サッカー大会。主催者3人の実家は北九州市の“若松”区、歩いて100歩の距離にある。そろって二島小学校→二島中学校→東福岡高校→プロサッカー選手になった盟友である。
「大会」といっても優勝チームを決めるためのカップ戦ではなく、丸1日、地元小学生とプロのサッカー選手がいっしょにプレーする手作りのイベントだ。ボランティアの選手たちは助っ人外国人のように各チームに入り本気で試合をする。
6年前に引退し、アビスパ福岡で育成の仕事を始めた宮原裕司が2人に声をかけてスタート。発起人の宮原裕司は当時こう話していた。
「自分が指導者になってみて、二島FCだったり東福岡だったり、これまでお世話になってきた方々たちのおかげで自分の夢をかなえることができたんだとしみじみわかった。福岡のサッカーを盛り上げようとかそんな大げさなことじゃなくて、何か恩返しがしたい。交流の場になれるように小さいイベントでいいから長く続けたい」
その言葉どおり、少しずつ賛同者を増やし続けて第6回をむかえた(筆者も第1回から撮影ボランティアとして参加させてもらっている)。
ギラヴァンツのユニフォームを着た本山雅志。
手作りの大会ではあるものの、例年、何社か地元メディアが取材に訪れるWAKAMATSU CUP。今回は本山移籍後初の公の場となるだけにどうしたものか……。
だったら逆にしっかりおひろめできるようにしよう、と、ギラヴァンツのチームスタッフが急きょ新ユニフォームを用意し大会会場に持ってきてくれた。
本山がそれを拡げて袖を通すと、宮原がすぐ反応する。
「お、モッさん、なつかしい背番号やね(笑)」
43番は、本山が東福岡高校時代3年間つけていた練習着の背番号だ。
「ミツ(小笠原満男)に“40番にしなよ”って言われて、“なんでよ? お揃いにするわけないじゃん!”とか話してるときに、パっと43番が浮かんだの。初心に帰れるかなとも思って」
各局テレビのローカルニュース、新聞社などほとんどすべての地元メディアが集まってきていたこともあり、なりゆき上、本山雅志・ギラヴァンツ北九州入団記者会見とあいなった。
いつ、アントラーズ退団を考えたのか?
「このたび戻ってくることができて、あ、間違えました!」
囲みの記者たちから笑い声が沸き、はりつめていた空気が一気に和む。
「このたび、地元ギラヴァンツに新入団する本山雅志です。自分の育った街のチームでプレーできることになって、夢がかなったようでとてもうれしいし、光栄です。自分の持っているものをすべて出してがんばりますので、応援よろしくお願いします」
表舞台で活躍してきたベテランらしい、こなれた取材対応はさすがだ。
ギラヴァンツのユニフォームを脱ぎ大会スタッフに戻った本山に、少しずつ話を聞いてみた。
――いつごろから、アントラーズの退団を考えてましたか? 天皇杯でボランチをやった試合のあとや、ナビスコカップで優勝したときの様子がいつもと違うように見えましたが。
「いや、正直、アントラーズから正式に来季の話をされる時までは、ずっとアントラーズでチームのためにがんばるつもりでしたよ。Jリーグ最終戦の3日前くらいだったかな。もちろん自分にとっては納得がいくシーズンではなかったけれど、試合に出られていなくてもコンディションが悪かったことはなかったしね」
“鹿島の10番”のまま現役引退すると思っていたが……。
――“鹿島の10番”のままアントラーズで引退すると信じていたサポーター、多かったと思います。
「自分でも、そうだと美しいなとぼんやり考えてはいたけど……(中田)浩二が引退を発表した翌日だったかな、ミツやソガ(曽ヶ端準)の同期4人で食事をしに行っていろいろ話をして。浩二は本当にまだまだ充分トップでプレーできるのに引退を選んだけど、自分はできるだけ長く現役でプレーしたいって、そのとき強く思ったんですよね。だからチームに話をしてありました。もし自分が構想外になったときは、他のチームで現役を続けられないか挑戦したいからちゃんとクビにして欲しいって」
――中田選手が行動するきっかけをくれたんですね。
「そういえば浩二には、鹿島を退団することをいちばん初めに伝えたかもしれない。たまたま浩二が“来年のオフィシャルスーツ用の採寸いつする?”って聞いてきたから、“退団するんだから採寸しないよ”って(笑)。相手がチームスタッフのなかでも浩二だったからね、そうなった(笑)」
――小笠原選手や曽ヶ端選手はびっくりしてませんでしたか?
「ぜんぜん驚かなかった。それよりさっきサッカーとまったく関係ない地元の友達に“ギラヴァンツに入団したから、これからずっとこっちにいるよ”って言ったら“ウソウソウソ、何冗談言ってんの”って。アイツらがいちばん驚いてたねぇ(笑)」
――すぐ退団の発表をして最終節にサポーターの前であいさつすることもできたのに、そうしなかったのはどうしてですか? サポーターにはきちんとあいさつしたかったでしょう。
「引退するわけじゃないからセレモニーというのもおかしいでしょ? チームはまだ優勝の可能性が残ってたし。最終戦が終わってもしばらくトレーニングがあることもわかっていたから、クラブハウスまで練習を観に来てくれたサポーターに心を込めて話をして……次に行ったチームで活躍できればアントラーズのサポーターならきっとわかってくれますから」
退団を公表して最初にオファーをくれたチーム。
――移籍先はどうやって探したんですか?
「すべてチームにお任せしました。いろいろ手伝おうかと言ってくれた方々もいたんですが、(鹿島の強化部長・鈴木)満さんから『自分が探すから』と言ってもらったので。自分で動いたらチームに失礼になりますし。でも、せっかくだから思いきり環境を変えてみたくて、同世代の選手がプレーしていたアメリカやオーストラリアリーグにはちょっと興味がありました。調べてみたら今は移籍のシーズンじゃないということがわかってすぐ諦めましたけど(笑)」
――ギラヴァンツに決めた理由は何ですか?
「退団を公表して、いちばん初めに正式オファーを出してくれたこと。すぐに柱谷(幸一)監督が鹿島まで話をしにきてくれたこと。この時点で、ある程度心は決まっていたと思います。プロ生活も長いですから、Jリーグのチームの運営が大変なことやチーム事情というか、編成の大変さとかも理解してますから。想定外だった選手を1人獲得するのがどれだけ難しいか……。そんななかで、すぐに具体的な話をしに来てくれるというのは、本気で自分を必要としてくれているんだとわかりますから」
――早々に返事をしないでもう少し待てば、いろんなチームから選ぶことも可能だったでしょう。
「実際、いくつか話をしてみたいというチームもあったようなのですが、お会いしてお話しを聞いているとスケジュール面でギラヴァンツの始動に間に合わないと思ったんです。チームが始動する日から合流したいですから、年内にお返事しました。あとは、プロになったときからずっと1度は地元に近いチームでプレーしたいとずっと思っていて。そうしたら北九州がオファーをくれた。ほんとうにうれしかったんです」
――東福岡高校の志波芳則総監督も「プロになった選手たちにはできれば地元でプレーしてほしい」とよく仰られてましたね。
「それもありますし。うちは兄弟が多いうえに商売をしていて、両親になかなか試合を観に来てもらえなかったから。いつか地元に近いチームでプレーして、元気にサッカーしてる姿を観てもらいたいと思ってました。北九州に入団が決まって両親はほんとうに手放しで喜んでくれた。ホームの試合は全部観に行くって」
北九州スタジアムの完成を楽しみに……。
――2年契約にしたのはどうしてですか?
「確かに最近はずっと1年契約にしてもらっていたんですけどね。新しくできる北九州スタジアムにふさわしいチームになるところまで自分に対して責任を持たせる意味で、スタジアム完成までの2年にしてもらいました」
――J2ということにためらいや不安はありませんでしたか? 施設、サポート面、試合スケジュールなど環境も大きく変わると思います。
「J2だからとかいう以前に、鹿島以外のチームでプレーしたことがないんだから、全力で挑戦するしかないですよね。環境という面では鹿島は最高峰ですから。でも、不思議となんだかワクワクする気持ちというか。伸二と対戦できるんだよね、とか」
――確かに、それは愉しみですね(笑)。
これからの選手人生で鹿島の経験がどう生きるか?
「とにかくまだ1度もチームに行ったことがなくて(ホームスタジアムの)本城陸上競技場も、小学校のとき何かの大会でプレーして以来だし。石神(直哉)や池元(友樹)くらいしかいっしょにプレーしたこともないしで大きなことを言える立場じゃないんですけどね。ピッチ以外でも、観客を増やすこととか、できることから何でもやりたいと思ってる」
――18年間、人生の半分を過ごした鹿島アントラーズに対して、今思うことは何でしょう。
「これは、引退するときに初めてわかることですよね。これからの自分次第でぜんぜん変わってきますから。このあとアントラーズにいたときより大きな仕事ができたらとか、これから出てくる課題がどんなものかによって、鹿島でのどの経験が自分にとって大きかったかわかってくるわけでしょ? 今後のアントラーズに関しては、自分が何か語るのは失礼だし……それに、どうしよう、なんかもうすっかり北九州の人の気分になっちゃってるよね(笑)」
――話を聞いてると、あいかわらず律儀というか、周りの人たちのことを気づかいながら今回の移籍を進めたように感じます。こういうときくらい、自分だけのことを考えてワガママに行動すればいいのに、小笠原満男選手みたいに(笑)
「あぁ、でも、それだと自分じゃなくなるから(笑)」
17年ぶりの優勝を目指す母校を胸に刻んで。
「あ、けど1コだけ。Jの公式試合記録に載る自分の『前所属チーム』が東福岡高校じゃなくなるのは少し残念だったかな」
最後にそう言って、彼は子どもたちの待つピッチへ向かって走って行った。
卒業して鹿島に入団して以来、1度も移籍をしていないからこその“前所属チーム=東福岡高校”という肩書。「サッカーファンや関係者が公式記録を見るたびに『東福岡高校』を思い出してくれるだろうから」と、彼はずっと誇りにしていた。
しかし今シーズン、全国高校サッカー選手権で17年ぶりに準決勝(1月8日現在)まで勝ち進んだ「東福岡高校」を、世間は忘れないはずだ。
だから本山は安心して東福岡高校の広告塔をお休みしていいのだ。
鹿島の10番という大きな荷物も下ろして、軽やかに走る天才ドリブラー本山雅志……J2の試合に通うのが愉しみになってきた。
わけわけ三国志
本山の逸話を引き出すNumberの蘇芳氏である。
鹿島退団の経緯、北九州移籍の話などが並ぶ。
読み取ると、鹿島からは戦力と考えられていない旨が伝えられたように感じる。
これは少々寂しい。
それはそうと、背番号を決めたエピソードで、満男に40番を勧められた話が面白い。
「なんでよ? お揃いにするわけないじゃん!」とは本山本人の弁ではある。
がしかし、ファンとしてはお揃いの番号も嬉しかったように感じる。
また、北九州とは2年契約とのこと。
来年、北九州がJ1昇格を成し遂げれば、対戦もあり得る。
これは俄然楽しみになってきた。
北九州に本山あり。
応援しておる。
わけわけ三国志
↑の方に同意です。
本当に、人として素晴らしい方だと思います。
滅多に行くことのない、クラブハウスで
ファンサのところで待っていると、いつも丁寧に対応している姿をみられないのは、とても残念です。
人生の半分をアントラーズというチーム、鹿嶋で過ごしたのですから
感慨深いものがあるのだと思います。
いつかまた、茨城の地で第二のサッカー人生を選択してくれたら
この上ない喜びだと思いますし、サポも皆待っていると思います。
もちろん本城にも行きます。
鹿島の鳥栖や福岡のアウェー戦の次の日にあるといいんですが…。日程くん、お願いします。
あまり関係ないとは思うんですが、今日、水戸のスポーツ用品店で鹿島の2015年のユニを見ていたら、店員さんに「去年のユニは売れちゃって、全国の系列店の全部集めてもここにあるだけしかなかったんですよ」と言われました。その数、1stのジュニア用や2nd、ACL用を合わせても10枚ちょっと。
「強かったし、本山選手の退団で売れたみたいです」との事。
本当かなぁと思いますが、私も緊急で10番作りましたから、あながち間違いないと思います。
鹿島、北九州に恩義を感じ、それに応えようと頑張っている。
ユースの千葉選手も言っていましたね。
「本山選手の胸を借りて優勝することが出来た。本山選手より上手い選手がユース世代にいるはずがないし。」と。
モトさんはユース相手にも全力で向き合い、きっとコーチのように接していたのではないかと思います。こんなところにもモトさんの功績があったのだとその時になってわかりました。
モトさんがいなくなって、真価を問われるのは鹿島だと思います。本山がいなくなって鹿島は弱くなったと言われないように残った選手には頑張ってもらいたい。そしてサポーターも頑張らねば。
モトさんの心配は不要だと思います。
天皇杯で当たる時は少し手加減して欲しいです(笑)
『次に行ったチームで活躍できればアントラーズのサポーターならきっとわかってくれますから』さすが、わかってくれていますね。活躍している姿、たくさん見せてください!