鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

ユキ・植田・豊川、J-22選抜選出

2015年07月31日 | Weblog
明治安田生命J3リーグ J-22招集メンバー確定のお知らせ(第24節 ブラウブリッツ秋田戦)
明治安田生命J3リーグ 第24節 ブラウブリッツ戦の招集メンバー16名が確定しましたので、お知らせ致します。

  クラブ POS. No. 漢字名 英語名 生年月日 身長(cm)/体重(kg) 招集回数
1 磐田 GK 1 牲川 歩見 Ayumi NIEKAWA 1994/5/12 195/90 15
2 京都 GK 16 山田 元気 Genki YAMADA 1994/12/16 187/77 1
3 柏 DF 6 山中 亮輔 Ryosuke YAMANAKA 1993/4/20 171/65 1
4 鹿島 DF 2 伊東 幸敏 Yukitoshi ITO 1993/9/3 175/68 2
5 新潟 DF 9 川口 尚紀 Naoki KAWAGUCHI 1994/5/24 177/72 1
6 鹿島 DF 4 植田 直通 Naomichi UEDA 1994/10/24 186/77 1
7 広島 DF 15 宮原 和也 Kazuya MIYAHARA 1996/3/22 172/66 1
8 柏 DF 3 中山 雄太 Yuta NAKAYAMA 1997/2/16 180/70 7
9 神戸 MF 8 前田 凌佑 Ryosuke MAEDA 1994/4/27 172/65 1
10 広島 MF 10 野津田 岳人 Gakuto NOTSUDA 1994/6/6 175/70 1
11 柏 MF 13 秋野 央樹 Hiroki AKINO 1994/10/8 176/68 2
12 松本 MF 11 前田 直輝 Naoki MAEDA 1994/11/17 175/66 2
13 名古屋 MF 7 望月 嶺臣 Reo MOCHIZUKI 1995/1/18 167/57 8
14 新潟 MF 12 小泉 慶 Kei KOIZUMI 1995/4/19 173/69 1
15 新潟 FW 5 鈴木 武蔵 Musashi SUZUKI 1994/2/11 185/75 2
16 鹿島 FW 14 豊川 雄太 Yuta TOYOKAWA 1994/5/4 173/62 2
※招集メンバーは変更になる可能性がございます。


J-22選抜に選出されたユキ、植田、豊川である。
今回はJ1が中断期間ということもあって、リオデジャネイロ五輪を目指すU-22日本代表メンバーが数多く名を連ねた。
連携で崩し、勝利をもたらすのだ。
活躍の報を楽しみにしておる。

走れ秀平

2015年07月31日 | Weblog
午前練習


厳しい暑さに見舞われた今日、選手たちは9時からトレーニングを始め、パス練習などを行いました


練習を行う赤である。
ダヴィの復帰により、先発の座を譲ったが、途中交代でゴールを奪い存在感を示した。
決定力と動き出しなら赤と印象づけたであろう。
中断明けからは過密日程が続く。
レギュラーFWの座は誰もが安泰ということはなかろう。
赤にかかる期待は大きい。
ゴールという結果を積み重ね、世に名を知らしめるのだ。
頼もしい赤の活躍を楽しみにしておる。

16年ぶりの出来事は、鹿島の伝統の底力を問うている

2015年07月31日 | Weblog
鹿島の「16年ぶり」
功労者の解任


解任された鹿島のトニーニョ・セレーゾ監督。写真は2014年撮影【時事通信社】

 7月21日、Jリーグの鹿島から報道向けリリースが届いた。「本日、今季の成績を総合的に考慮したうえでトニーニョ セレーゾ監督との契約を解除することを決定しましたのでお知らせいたします」

 今季の鹿島は低迷を続けている。2ステージ制が11年ぶりに復活した今季、第1ステージは優勝した浦和と勝ち点差19の8位に終わった。第2ステージも、第1節の新潟戦こそ後半ロスタイムに2点を奪う劇的な逆転勝利を収めたが、第2節の清水戦は0-0で引き分け、第3節は松本に0-2で完敗。解任まで、いずれも下位チームを相手にした3試合を終えて1勝1分け1敗の勝ち点4と出遅れていた。

 今季は攻守に甘さを露呈し続けていた。最終ラインの集中力が一瞬途切れるシーンが多く、攻守の切り替えも遅い。固い守備から鋭く攻め込む、往年の強さは影を潜めたままだ。

 鹿島は、Jリーグ最多の年間優勝7度を誇る屈指の強豪だ。1993年のJリーグ開始時には、後に日本代表監督も務めるブラジルの「神様」ジーコを擁して前期優勝。その後は着々と歴史を積み重ねてきた。その鹿島にとってシーズン途中の監督交代は、99年8月のゼ・マリオ監督解任以来、実に16年ぶりの事態となった。

 薄れかけていた記憶をたどった。6月のある日、運動部のサッカー担当記者だった筆者は某所でクラブ関係者と話した。「監督は、今シーズンは続投ですよね」。何気なく聞いたところ、その関係者は「結果を残せないとねえ…」と言葉を濁していた。ジーコと同じ元ブラジル代表の名選手で、最初に鹿島の監督を務めていた2000年シーズンに史上初のJ1、ナビスコ杯、天皇杯の3冠へ導いた功労者のトニーニョ・セレーゾ監督も、今季は有効な策を打てないままチームを去ることになった。

早まるサイクル


【時事通信社】

 鹿島のリーグ優勝は、09年にJリーグ初の3連覇を達成したのが最後。小笠原満男ら主力の高齢化と、世代交代が長年の課題だった。13年から2度目の指揮を執るトニーニョ・セレーゾ監督は、以前も鹿島で柳沢敦や中田浩二、小笠原ら若手を登用し、主力に育てた手腕を買われた。

 復帰後、柴崎岳を始め昌子源、土居聖真ら若手を積極的に起用。13年と14年もシーズン序盤こそ出遅れたが、最後まで優勝争いに絡み、世代交代は着実に進みつつあるかに見えた。しかし、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)も戦った今季は、復調の兆しを見いだせないまま、監督解任まで至った。

 筆者が6月のある日、「続投ですよね」と聞いたのは、成績は伸び悩んでいるが、クラブは引き続き監督に若手の強化を託し続けるに違いないと思ったからだった。しかし、その「読み」は外れたことになる。

 日本代表FW武藤嘉紀が今夏、F東京からマインツ(ドイツ)へ移籍したように、Jリーグは有望な若手が次々と欧州に挑戦の舞台を求める傾向はますます強くなっている。鹿島も例外ではない。右サイドバックの主力に育った内田篤人は10年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会後、1トップとして成長著しかった大迫勇也が13年、ともにドイツへ移籍した。鹿島の中盤の要に成長し、日本代表に定着しつつある柴崎岳も、昨オフは欧州への移籍を模索していた。

 鹿島の別のある関係者は、「他のクラブも同じだと思うけど」と前置きした上で、「これまでは若手を育てて、主力になって、また新しい若手を育てて、というサイクルは5年だった。それが、今は3年になっている」と説明する。世代交代のサイクルが早まることを余儀なくされているジレンマを抱える中で、クラブが下した決断は監督の途中解任だった。

熱血漢との別れ


2011年、富士ゼロックススーパーカップで名古屋との試合前、ベンチに座る鹿島のオズワルド・オリベイラ監督(神奈川・日産スタジアム)。2007~09年にJ1初の3連覇を遂げた【時事通信社】

 鹿島はほぼ一貫してブラジル出身監督の路線を継続してきた。余談になるが、筆者は鹿島戦の試合後の監督会見に出席するのが好きだった。筆者が取材したオズワルド・オリベイラ監督、ジョルジーニョ監督、トニーニョ・セレーゾ監督の記者会見に共通するのは、鹿島の伝統と誇りを強調し、選手をけなさず、判定へ注文を忘れない。会見は、他のクラブのように会見の冒頭は監督の総評から入るのではなく、いきなり質疑応答が行われる。なので、出席する記者はあらかじめ質問事項を頭の中で整理しなければ、コメントを手に入れることはできない。

 中でも厳しかったのは、11年シーズンまで指揮を執ったオズワルド・オリベイラ監督だった。長いコメントの中に、「記者の皆さんもサッカーをよく知ってほしい」と織り交ぜてくる。ある記者の質問に、「その質問には先ほど答えました」とだけ返すこともあった。ブラジルの名指導者に、どう質問をぶつけるか。試合終了から会見開始までは、10分足らず。緊張感が、楽しくもあった。

 トニーニョ・セレーゾ監督の会見も味わい深かった。声の大きさ、熱血漢ぶりが際立っていた。快勝すれば、「イバラーキ!(茨城)」とこぶしを高々と掲げながら満面の笑みで会見場に登場。14年には、同じブラジルのDFアウベス(バルセロナ)が客席からバナナを投げ入れられる差別行為への抗議の意味を込めてバナナを食べたことにならい、会見後にバナナを食べ始めたこともある。

 また、トニーニョ・セレーゾ監督はなぜか横浜Mには強い対抗心を燃やしていた。最初に鹿島を率いた当時、2年連続で年間優勝した相手へのライバル意識なのだろうか。いつも「マリノスとの戦いはダービーだ」と言っていた。そんな熱血漢との別れは、寂しい気持ちもある。

問われる伝統


2001年Jリーグ1部(J1)後期で優勝し、記念撮影をする鹿島イレブン。前期11位から巻き返し、チャンピオンシップでも磐田を破って2年連続年間優勝を果たした。【時事通信社】

 解任決定時の第2ステージ第3節終了時点で、鹿島の年間順位は8位。第2ステージに限っても、残り14試合で首位広島との勝ち点差は5。他の中堅クラブなら監督解任を決断する数字ではない。それでも、あえて監督交代に踏み切ったのは、タイトル獲得への決意の表れにも映る。

 14年、鹿島は優勝の可能性をわずかに残して最終第34節に臨んだが、ホームで鳥栖に完敗。優勝はならなかった。試合後、鹿島の強化に長年携わってきた鈴木満常務は悔しさをあらわにしながらも、「若い選手たちが『タイトルを取れなければ意味がない』と言うようになった」と、若手の成長への手ごたえを口にしていた。

 一方で、鈴木常務は「負けて強くなることはない」とも言った。勝つことで選手が育ち、育った選手でタイトルを取る-。鹿島が20年以上かけて培ってきた伝統を端的に表現している。裏返せば、惜しいところまで行っても強くはなれない、強豪復活にはタイトルをもぎ取らなくては、と言っているように聞こえる。

 14年限りで現役を引退した鹿島OBの中田浩二氏は、鹿島がJリーグ3連覇を遂げた09年、ベテランとしてチームを引っ張ったシーズンを振り返って「(かつては)秋田(豊)さんや本田(泰人)さんが一生懸命やってくれた。強さは同じ」と語ったことがある。Jリーグ開始の93年に活躍した秋田や本田らを見て育った中田、小笠原らから、どう次の世代へ強さを受け継ぐのか。

 後任監督の石井正忠氏も、93年に活躍した鹿島OBだ。鹿島は00年の前期は8位、01年の前期も11位と低迷しながら、ともに後期は優勝し、チャンピオンシップを制して2年連続年間優勝を果たしたように、後期に強いと言われる。監督解任後、鹿島は2連勝。若手たちがどう奮起するか。16年ぶりの出来事は、鹿島の伝統の底力を問うている。

(時事ドットコム編集部 舟木隆典)


監督解任について記す時事ドットコムの舟木氏である。
「あえて監督交代に踏み切ったのは、タイトル獲得への決意の表れにも映る」と述べる。
鹿島の目標はタイトルである。
まだまだ三冠の可能性を持っておる。
石井監督へのしかかる責任は重い。
とはいえ、圧倒的不利な状況にて戦った93年を知るものとして、この責務を果たすに十分な人物であろう。
16年ぶりに行った英断で、伝統を復活させたい。