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Kennyの歴史探訪:大津第九聯隊にかかわる戦争遺跡めぐり

2013-07-23 07:12:38 | 戦争遺跡

 大津第九聯隊にかかわる戦争遺跡めぐり

~大津市歴史博物館・園城寺周辺の講師による案内~
    若鷲の碑・御幸山の紀念碑・園城寺の絵馬など

            (この日記の掲載期間:7月26日~8月1日)


           中井 均先生から趣旨、見学地の説明がありました

この企画は
滋賀県平和祈念館が主催され、県戦争遺跡研究会会員の中井均
県立大教授が
現地を案内して下さいました。当祈念館では戦後70
年近くが経過し、戦争を体験された方が年々少なくなられる中で当時
の体験を直接聞く機会やこのような遺跡の現地見学会を催されて戦
争と平和について考え、平和への思いを深めてほしいと願っておられ
ます。 その他のイベントは当祈念館のHPをご覧下さい。 
  
              滋賀県平和祈念館のHPは ここを

     
中井均先生はこのように・・、
戦争遺跡は歴史を伝える貴重な資料。現物でこのように残すべきだ。
皆さんの近所に、またお年寄りのお話やご存知の遺跡などがあれば
是非紹介してほしいと。


      大津第九聯隊、  大津陸軍少年飛行兵学校のあった場所
 (大津市歴史博物館前から今の施設、大津商業高等学校方向を望む)

こんな戦争遺跡が大津市内に
大津市役所、同歴史博物館周辺に大津陸軍少年飛行兵学校(若
鷲の碑)、火薬庫跡
園城寺
三井寺)山内には西南戦争の戦没
者の巨大な「記念碑」
があります。今回もまた歴史探索イベントの
参加で、そうだったのかー、知らなかったよ、の貴重な体験日記です。

さてっと、いちから辞書を引かないとわからん・・?
第9聯隊、大津陸軍少年飛行兵学校、若鷲の碑、西南戦争の
記念碑
火薬庫跡・・・。 当の記念碑なんかは初めて耳にするし、
ともかくこれらの
地は全て初めての訪問です。そこでちょっと勉強か
らスタート、ネットで調べてみました。 正ににわか勉強です。

以下の記載は先生のお話、ウィキペデア、ネット検索でヒットした
文献を参考に部分的には私の言葉で綴っております。



 最寄り駅は京阪電車 「別所」 大津商業高等学校方向に進みます
                  
1)まずは大津第九聯隊跡地付近から

    
                 皇子山陸上競技場、別所駅線路脇に

第9聯隊
廃藩置県直後の明治4年8月、大日本帝国陸軍は新政府の軍事力
として、東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4つの「鎮台」を設置
しました。それまでの「藩」の機構を廃止するだけではなく、「藩」を支
えている古い軍事力を解体して新しい統一的な軍隊をつくり出してい
くことが必要だったのです。

この滋賀県地域は大阪鎮台の小浜分営の管轄下におかれました。
大阪鎮台には当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵で
編成された第5大隊が所在したが、これを第1大隊とし新徴兵を第2
大隊とする「歩兵第9聯隊」が明治7年5月をもって発足しました。

兵営は園城寺(三井寺)の旧寺領を用い、兵舎は現大津商業高校
所在地(記念碑がある)、練兵場は現皇子山総合運動公園所在地
に建設され、兵隊病院も設置されました。

大津陸軍少年飛行兵学校
太平洋戦争が苛烈の度を加え、戦域もどんどんと広がっていく状況の
中、航空戦力増強の要請に応じ、昭和17年に東京陸軍航空学校大
津教育隊として、そして翌18年4月この地に大津陸軍少年飛行兵学
校として独立しました。

 

時まだ15歳、16歳の少年たちは現在の別所(大津商業高校がある
ところ)の地で幹部要員として1ヵ年の基礎訓練に励げみました。
その数、
8千有余人に及ぶそうです。



                        
                    現地の石碑より(拡大します)

若鷲(の碑)
更には 操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に
巣立っていくことになります。北の、南の空の果てまで本土防衛のさき
がけとなって愛機と生死を共にします。戦後30年、関係する皆様が

どい、この思い出深き大津の地に永遠の平和を願って若鷲の碑を建
立されました。


                     弾薬庫跡 (大津歴史博物館の裏山)    

火薬庫跡
大津市歴史博物館の裏山に残っています。 ただこの時期、草木が
生い茂り近づくことが困難なため下から見上げるに留めました。爆発
事故を想定して周囲を囲った土塁が当時を物語ります。


2)次は園城寺・西南戦争の戦没者「記念碑」の場所へ

   この後、見学場所を大津市歴史博物館周辺から園城寺(三井寺)
   へと移します。

       
                記念碑 (西南戦争の戦没者)

西南戦争の強烈な衝撃のもとに、「記念碑」が園城寺山内に建立さ
れました。なお、その碑の立っている場所ですが、今は元の場所(園
城寺の観音堂の一段高い場所で琵琶湖が一望出来る)から300mほど離れ
た「御幸山」という場所にあります。ところがなぜ移設されたかの確か
な理由はわからないそうです。

  
                              
オベリスク型石碑

この記念碑、オベリスク型に注目です。 この型の碑は日本では最
初と、確か説明があったとか思います。古代エジプト期に起源を発
するオベリスク型は
四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に狭
まった、
高く長い直立の石柱です。先端部はピラミッド状の四角錐
(ピラミディオン)に
なっています。

また碑を囲む枠も五稜郭のような星形の形をしています。などなど、
是非訪れ
たいところです。通じる道はきれいに整備されています。

ところで、なぜ西南戦争関連の事が大津に?
西南戦争が戦われた場所は九州でしたが、官軍がかり出した将兵
は全国に及んでおり、大津市に営所が於かれていた大阪鎮台第九
聯隊からは、241名の戦死者が出ています。なぜ大津市に西南戦
争関連の碑があるの?の疑問はこのことによります。

 
    園城寺境内案内板  記念碑、観音堂の位置は右の絵で
                                         (拡大します。赤い字でマーク)


大津事件
明治24年、ロシア皇太子の一行が大津市に観光(目的で)で訪れ、
園城寺の観音堂を見学しています。そこを警備していた一人が津田
三蔵巡査でした。津田巡査はその直後、ロシア皇太子に斬りつけ
津事件を引き起こします。
そういう因縁の碑でもあります。西南戦争
に参戦し、勲章を持つ津
田巡査は、一行が観音堂のすぐ上の段にあ
る(当時は)記念碑を通り過ぎた時にこの碑を無視した事からとも云
われています。その場所は大津市内や琵琶湖を一望出来るベストポ
ジションです。

   
  元々碑のあった場所、園城寺観音堂上の広場。 当時は大津市内の何処
    からでもこの記念碑が見えたそうです。写真や資料の絵図も残っています。

      
何年か前に県の講座で事件当時のサーベル、血痕の布、座布団
などの現物を見せて頂いています。 ロシア皇太子ニコライのその
後の運命、津田巡査を取り押さえてロシア側から膨大な年金を受
け取った人力車夫の後日談が・・・。

日露戦争へと・・


          日露戦争出征紀念 (百体観音堂)

時代は前後しますが、明治37年には日露戦争へと突入していきます。
そしてこの大津の地から多くの出征兵士を生みます。日露戦争では
序盤から出征して各地で苦戦を強いられることとなります。 こんな記
録も園城寺内の百体観音堂にあります。


      百体観音堂  (上に掲げた地図の観音堂と同じ場所です)


お断り:過日開催された滋賀県平和祈念館主催の探索に参加させて
      頂き、ここに私自身の記憶の為にまとめてみました。記載内
      容については当日の講師先生のお話と自身でウキィペデア、
           他ネット検索でヒットした記述を拝借・参考に綴っていますが、
      内容の殆どは初めて勉強することばかりです。記述内容に
      聞き違いや勘違いによる間違いが多々あるとは思いますが、
      どうか素人の日記とご容赦ください。ありがとうございます。
                                             (当ブログ管理者、Kenny)

        今日もご訪問頂きありがとうございました


     



 

 
 


 

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