「このおじさん痴漢です」と女は言った。

2017年03月04日 09時22分28秒 | ホラーのかけら

最寄り駅に電車が到着し、
乗客が降り始めた時、

「このおじさん痴漢です!」

という女の声が車内に響いた。

不思議な響きだった。
怒りも動揺も羞恥も感じられなかった。
平板な響きだった。

ホームに降りると、
女がおじさんと向かい合っていた。

「このおじさん痴漢です」

再び女が言う。
明るい色のジャケットを着ていた。
おじさんはかなり憤慨しているようで、
何か言い返していたが、僕のところまでは聞こえない。

やがておじさんはその場を立ち去った。
だが、女は追いかけようとはしない。
階段を降りていくおじさんをホームから指差し、

「あの太ったおじさん痴漢です」

と再び平板で甲高い声で言った。

そして女はエスカレーターで降りると、
改札横の駅事務所に入って行った。
駅員に何か話している。
車内で痴漢にあったと訴えているのだろう。

僕の傍らを通り過ぎる若者たちの声が耳に届く。

「あのおじさん、ゼッテーやってないよな」

そうか。
一連の光景をどこか妙に感じていたのは、
周囲の乗客がいっさい反応していないことだった。
車内でもホームでも、
女の周囲の乗客が反応していた様子はない。

女が駅事務所を出てくる。
そして改札を出ると、すぐ傍にある交番に入っていった。
車内で痴漢にあったと訴えるのだろう。

「このおじさん痴漢です」

思えばあの声の平板な響きは、
言葉の内容にもっともそぐわない響きだった。

怖い響きだった。
 
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