最寄り駅に電車が到着し、
乗客が降り始めた時、
「このおじさん痴漢です!」
という女の声が車内に響いた。
不思議な響きだった。
怒りも動揺も羞恥も感じられなかった。
平板な響きだった。
ホームに降りると、
女がおじさんと向かい合っていた。
「このおじさん痴漢です」
再び女が言う。
明るい色のジャケットを着ていた。
おじさんはかなり憤慨しているようで、
何か言い返していたが、僕のところまでは聞こえない。
やがておじさんはその場を立ち去った。
だが、女は追いかけようとはしない。
階段を降りていくおじさんをホームから指差し、
「あの太ったおじさん痴漢です」
と再び平板で甲高い声で言った。
そして女はエスカレーターで降りると、
改札横の駅事務所に入って行った。
駅員に何か話している。
車内で痴漢にあったと訴えているのだろう。
僕の傍らを通り過ぎる若者たちの声が耳に届く。
「あのおじさん、ゼッテーやってないよな」
そうか。
一連の光景をどこか妙に感じていたのは、
周囲の乗客がいっさい反応していないことだった。
車内でもホームでも、
女の周囲の乗客が反応していた様子はない。
女が駅事務所を出てくる。
そして改札を出ると、すぐ傍にある交番に入っていった。
車内で痴漢にあったと訴えるのだろう。
「このおじさん痴漢です」
思えばあの声の平板な響きは、
言葉の内容にもっともそぐわない響きだった。
怖い響きだった。