yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第5回伊勢湾熊野研究会開催&「26」歳の宴の条

2010-10-01 19:07:58 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は夏休み最後の日。伊勢湾熊野地域研究センターでは藤谷 彰氏(三重県史編さん室)による「伊勢商人の流通システムと文化ネットワーク」と題した報告がありました。

 江戸大伝馬町を中心に木綿問屋として進出した伊勢商人達。江戸の経営は番頭達に任せ主は伊勢で悠々の生活。といわれた伊勢商人達が伊勢の日常世界においてどの様な実生活を繰り広げたのか。大店の主の日記に記された日々を通して彼らの文化を垣間見んとしたものであった。

 残念ながら日記の追跡がまだ始まったばかりで、今回の調査では十分なネットワークを見ることはできなかったが、お茶や歌の世界にそのヒントがありそうなことが告げられた。

 みなさんの興味を引いたのは、伊勢商人達の資産と当時の藩の資産を比較した資料で、安永年間の川喜田家(今の百五銀行の祖)が25000両、同時期の亀山藩の年貢収入が17000両であることから、長谷川本店の142000両は41万7400石相当だという試算であった。

 いかに当時の伊勢背商人が莫大な資産を持っていたかを示す興味深い試算であった。

 質疑の中で,他の史料から伊勢商人の幅広い文化ネットワーク、とりわけ長谷川家の千家との付き合いの深さが紹介され、そうした繋がりもまた、商売に利用されていたことが示された。

 私からは、大伝馬町という立地の意味を問うたところ、参加者から「東京時代MAP」 でもって、当時の江戸の町屋が詳しく紹介され、今度東京に行くときにはこれを持って歩くことにした。次回は私からの斎宮と離宮院の変遷に関する報告である。もし興味をお持ちの方はご参加下さい。

 さて、研究会の後、納涼大宴会を開催するとお知らせしておいたのだが、連絡が遅く、大半の先生がたが帰られて寂しかったのだが、その最後に驚くべきセレモニーが。

 ハッツ??



 こんな物がでてきたのだ。何じゃこれ?

 「おめでとうございます!!26歳??62歳!!今日は先生のお誕生会なのです。少し遅くなりましたがみんなで用意しました。」

 といってでてきたのがこれ。 



 去年は中国安陽で思いがけずも地元の先生からケーキをプレゼントされ、今年は学生達からのこれである。とてもとても嬉しかった。



 実はこのハンカチもネクタイも、いずれも埴輪をプリントした東博のグッズなのだが、これもみなさんから頂いた。感謝、感激雨あられ



 ケーキを作ってくれたのはこの二人。一つはフルーツ一杯のスポンジケーキ。もう一つはタルトなしのレアーチーズケーキ。とってもとっても美味しかった。ぼくがレアーチーズケーキの下に敷くタルトは嫌い!!と知ってての快挙??!である。うれしかった!

 

 卒業生達も駆けつけてくれて、1時過ぎまで大いに盛り上がったのであった。




 今朝になって学生から、昨日渡すのを忘れてました。来られなかったNA先輩からのプレゼントですと言ってこんな物を頂いた。中味は何でしょうかね?

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 伊勢湾・熊野地域研究センター  第6回研究会(10月28日)開催案内

 第6回研究会を下記要領で開催致しますので、ご参加頂きますよう御案内申し上げます。

           記

日時  2010年10月28日(木)18:30~20:30
場所  伊勢湾・熊野地域研究センター室(共通教育4号館5階 2号館のエレベーターで5階までお上がり下さい)

報告者  山中 章(三重大学人文学部) 「斎宮・離宮院変遷と伊勢太神宮」

 要旨
 国史跡斎宮跡は現在三重県多気郡明和町一帯に140ヘクタールの広大な敷地をもって保存されています。近年の研究では初代斎王が天武天皇によって撰ばれた大来皇女であることが有力になってきていますが、伊勢での滞在地は未だに明らかにはなっていません。通説では史跡斎宮跡の西部一帯だとしますが、その根拠 は明確ではありません。最初の伊勢斎宮の設置場所はどこだったのでしょうか。『続日本紀』文武2(698)年の記事によるとこの年「遷多氣大神宮于度會郡」と「多氣大神宮」なるものが度会郡へ遷されたとあります。そもそも伊勢太神宮はどこにあったのでしょうか。
7世紀末に斎宮は現史跡指定地に置かれた可能性を示す考古資料が出て参りますが、「多氣大神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。この頃度会郡に遷された「太神宮」とはどの様な関係だったのでしょうか。また、斎王が天照大神奉祭のために伊勢太神宮に赴く際に利用した施設が離宮院だとされますが、初期の離宮院はどこにあったのでしょうか。なぜ延暦16(797)年に外宮に近い山田原の地から旧小俣町内の現史跡指定地へ遷されたのでしょうか。あたり前のように思っている伊勢神宮を巡る様々な事象の多くが未解決のままです。その背景には王権と伊勢太神宮との複雑な問題があったのではないでしょうか。その要因を主に考古資料を使って離宮院の変遷過程から検討します。

 伊勢湾・熊野地域研究センターでは充実したスタッフの下、毎月1回の研究会を開催しています。地域のみなさん、学生の参加も自由です。
今後の予定は以下の通りです。幅広い分野から多数お集まり頂き、真摯な議論が展開できればと思っております。学生や院生の参加も歓迎します。

 予告

第7回  11月24日(水) 吉丸雄哉「草双紙の中の阿漕伝説」

第8回  12月8日(水) 森正人「昭和の旅行と日本社会―誌『旅』から見えるもの―」


  伊勢湾・熊野地域研究センター 連絡先 yaa1948@gmail.com


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