yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

鈴鹿関報告-6  鈴鹿関周辺遺跡・古厩の条

2006-09-05 11:47:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 歴博の共同研究で北海道に出かけていました。広瀬和雄さん主宰の「古代における生産と権力とイデオロギー」という共同研究の一環です。以前から境界において古代王権の権力・イデオロギーは「辺境」に対していかなる影響を与えるのか、与えられるのか、その影響がその後の各社会をどの様に変えるのか変えないのか、特に考古資料からその実態を明らかにしてみたいというのが私の研究課題でした。それだけに大変楽しみにしていた研究会でした。


(あこがれの擦文期の竪穴住居跡。北海道では擦文期の住居跡はあちこちの森の中で大きな凹みとして認められ、調査前から分かるとのことだった。)

 内容は多岐にわたりますが、実に充実した研究会で、初めての北海道に魅せられて帰ってきました。特に最終日にちょっとした偶然でお伺いすることのできた千歳市埋蔵文化財センターで端劇的な発見がありました。拝見した末広遺跡に残されていたある須恵器が、私に新しい課題-桓武王権による境界の拡大、決定の視野に渡島が入っていたのではないか-を与えてくれました。荒唐無稽にみえる仮説に証拠品を得ることがでたかもしれないと思っています。こうした「発見」も含めて、いずれ北海道レポートとしてご紹介したいと思っています。


(北海道埋蔵文化財センターのキウス9遺跡の現場。3mメッシュの国土座標の地区グイが見事な列をなしている。旧石器時代の宝庫である北海道でもこんな調査方法は常識なんですが、日本の中ではまだなされていない地域がたくさんあり、その意義を知らない調査員がたくさんいる。悲しい!!)

 そんなわけでしばらく現場はお休みでした。昨日から再開していますがまだしばらくガリかけ三昧ですので、新しい情報が得られるまで鈴鹿関を考える上で不可欠な周辺の遺跡や歴史的環境についてお話しすることにします。



(せっかくですので見学したキウス周堤墓群をご紹介しておきます-人の歩いているところが周堤、私の立っているところがお墓が設けられているところ-。縄文時代後期の初めにこんな巨大な穴を石器で掘り、堤を築き上げた北海道の人々のエネルギーのすごさを感じさせる遺跡でした。こんなのが20近くもあるんです。この墓に眠る人々は今何を思っているのでしょうかね。)

 まず今日は旧関町一帯にある古代遺跡の中で交通史に関係する重要な地名「古厩」についてです。
 ずばり「いにしえの厩」というのがこの地名の由来ではないかと考えられています。現在もこのように地元の人々もこの地名を大切に使っておられます。

(かつてはお寺だったという場所が現在は村の集会所として利用されている。)

 古厩跡を案内してくださった亀山市教育委員会のMさんによると、公民館の裏に広がる台地あからはたくさんの古代の土器が拾えるとのことでした。その古さが奈良時代にまで遡る可能性が高まっているのです。特に興味深いのは伊勢別街道が鈴鹿川を渡って直ぐのところにある大井神社の一角にある土塁です。高さ3㍍以上はあろうかと思われる大変大きな土塁で、直ぐ西側には小さな川が流れており、かっての堀の痕跡かとも思われます。

(古厩跡に残る土塁跡)



(井戸の一角)
大井神社の名前の由来は土塁の直ぐ横にある立派な井戸によるのでしょうか、もちろん井戸の掘られた年代など詳しいことは今となっては不明ですが、井戸は村の人々の大変大切にされているそうです。


(大井神社となった古厩古称地の一角)

 残念ながら一緒に歩いたときには拾えませんでしたが平安時代の須恵器があるそうです。
 この地は先にも記しましたように東海道から鈴鹿川を渡り、伊勢に抜ける古道との接点に位置する遺跡だと考えられております。現在の県道10号線がほぼこれに当たり、大学から関町へ来るときもいつもこの道を使っています。車でわずか30分で関に至ることができ、かなりまっすぐな道です。


(古厩の土塁の奥に広がる平坦地。この地では多くの土器を採集することができ、これが鈴鹿駅の遺跡の候補地だと言われる。)

厩と土塁との関係が今ひとつはっきりしませんが、古代の交通の要所であることはまあ違いないようです。

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