yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

河西回廊踏査-10 黒水国城踏査の条

2012-10-01 22:20:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
8月20日(月)酒泉から張棭に向かう

 黒水国南城(明城=小砂河駅-唐代-)到着。


黒水国城の文物碑



一応、文物管理所らしい



北西隅から入り西沿いに南下し南西隅辺りで時間切れ。



西城壁



順番に回ります。





甕城になった西門です。





西の外から見ると。




北のところから北城へ向かう

 南城踏査。主として北城を踏査するため、南城は西北角楼を中心に一部の踏査に止める。東西250m,南北220m余りの比較的小規模な城跡なのだが、北西隅の楼跡や南門、西門がよく残っていて大急ぎで写真を撮りながら回った。

 南城の踏査を慌ただしく切り上げ、甘粛省文物考古研究所が発掘調査中の黒水国遺址(黒水国城以前の遺跡)を目指す。携帯電話でその場所を聞きながら向かうのだが、なかなか辿りつかない。どうも案内をしてくれている「学生」が現地に不慣れなようだ。途中の民家でも聞いて、ようやくそれらしきところへ向かう。30分以上も時間をロスした。こんなことなら南城をもと見ておけばよかった。

 南城の東南1km余り。発掘現場までの途次、多数の瓦磚の集積と土の高まりを見つける。周囲に遺構が広がっていることは確かな様だが、調査した後の残骸かもしれず、相変わらずの中国の発掘事情に少々がっかりする。




なかなか辿りつかない!!


途中蟻地獄や



塼を集めた施設??で休憩
 


発掘調査地


正立下土器の出土状況



大騒ぎしながら北城へ

 各所で漢代の瓦の集積があった背景には周辺に多数の建物か墓があったからではないかといわれている。

 やっとのことで現場に到着。調査を手伝っている西北大学・吉林大学などの大学院生・学部生 が説明してくれるのだが、これが余りに頼りない!ま、日本でも同じだから、むしろ説明するくらいはまだましというべきかもしれない。

 遺跡は1990年代に現地文物局が発見し、数次の調査を経ているとのこと。銅の冶錬場などが見つかっており、継続して調査を行っているらしい。鞴の羽口や銅滓が見つかったという。ただ、学生の説明ではどこでどの様に見つかったのかがよくわからなかった。

 遺跡の時期は
 1,馬家窰文化(紀元前3000年頃、新石器時代後期。甘粛彩陶文化とも)の馬廠期
 2,斉家文化(紀元前約2000年頃、新石器時代 晩期)と馬家窰文化の混淆・過渡期
 3,四□期(紀元前2300年前、新石器時代晩期)。
というのだが、ホントかな?よう判りません。

遺構は城址と全く無関係。建物十数基、工房関係の遺物(鉱滓な ど)や焼土面、墓葬を確認。中国では珍しく発掘現場の写真撮影が許された。残念ながら各遺構の切り合い関係が全く不明で、上記時期区分もおそらく出てきた遺物の年代を述べたに過ぎないのだろう。見学中に正立下状態に坑に舞納されたと思われる土器が完形で出土しているのを見た。図面や写真を撮ってあげるべきではないかと言ったのだが・・・。

 南城から北城への移動のため、大気中のバスまで、現場で通勤?に使っている農業用荷物車?に載せていただいた。なんせ普通の農道しかないもので、とにかくガタガタ。9人が荷台の縁や中に座って、落ちないように必死で支え合って約15分くらいの移動に緊張した。荷台の中に座り込んでいた私は、お尻が痛くて痛くて着くまで1時間くらいかかったように思えた。

 荷車を乗り継いで、黒水国城北城を目指した。遺跡の直ぐ横に干乾し煉瓦工場があり、遺跡一帯から煉瓦の材料を得ているようで,その採掘跡が城壁の直ぐ横まで及んでいた。北城の外に何があったかなど全く関心がないのだろう。



北城周辺は煉瓦の粘土採集でかなり壊れてきていた。



北東角から一周することに







西城壁


南西角の隅楼部分




南城壁を東へ





南城壁は相当砂で埋もれている。


東城壁を北へ


内部
 黒水国城については山田勝久「中国黒水国遺跡の調査報告-河西回廊の要衝、黒水国の興亡を中心として-」(『甲子園短期大学紀要』No.37 2009年)に詳しいのでその内容を略記してみると次の様である。

 山田氏によると黒水国城のある祁連山脈の北麓は今から3800年から4200年前に人々が住み着いたとある(現場での話ではもう少し古そうではあるが、どちらが最新情報なのかは不明)。

 紀元前4世紀になると天山山脈北東部のジムサ地方にいた烏孫人が東征して祁連山の北方の張棭に住み着き「行国」という国を建てた。この地方の土地は黒土が多く、さらに烏は黒いので黒水国とも称せられていた。〔本来はこの遺跡の場所を黒水城と呼ぶべきなのだが〕支配地域が余りに広く、多くの支城を有していたので「黒水国」と呼ぶようになったという。

 黒水国内には古い順に駱駝城、八卦営城、明海城、羊蹄沟城、許三湾城、永固城、張棭東城仙堤城、双湖城、・・・等29もの城があったという。王城の郊外を流れる河が羌谷水で「黒河」とも称されたらしい。

 紀元前176年、北方モンゴル高原の匈奴が強大化し、西域26国を支配するようになると、黒水国のある祁連山北麓のこの地を重要視し、発展したことが出土文物により証明できるという。

 前漢時代になる特区水国は張棭に設置された十圏の一つである觻得県と称され、当該地域の中心となる。後漢時代になると東西文化交流の拠点として繁栄し、25000人もの人々が住んだ時もあったと言う。しかし漢安2(143)年の大地震により大きな被害を受けた。その後、東晋の安帝の時代隆安3(399)年の記事によると「張棭は大いに乱れ通行もままならない」状況になったという。

 隋代には再び觻得県と改められ(後永平県),これまでの王城(南城)の北2.5kmに北城が設けられる。南城には駅が置かれたらしく「甘鎮志」という史料によると小沙河駅が置かれたらしく、常に57頭の馬と軍兵113名、牛車50両が置かれていたという。

 北城の東西は254m、南北228mとほぼ南城と同じ大きさを測る。北城は黒河の東の高台の上にあり周囲がよく見渡せる。〔実際、各隅にある楼上に登ると四周が大変よく見渡せた〕


 北城には漢代の瓦が散布していることから、それ以前に何らかの施設があった可能性がある。北から入り、城壁を一周した。

 黒水国城遺址踏査後、昼食を摂って高台市博物館を目指すも、休館とのことで見学を断念し、直ちに駱駝城を目指すことになる。



南西隅部


駱駝城へ



 「河西回廊踏査-11」に続く



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