yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

長岡京研究再建-1  門闕と二条大路と南面官衙の条

2008-09-04 22:52:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 楽しかったあの頃の発掘調査・・・ 

最後の報告書には一杯想い出が詰まっている。

その一つが西向日駅の西口を出て少し南へ行ったところにある上幸さんのお店の建て替えに伴う発掘調査だった。

このお店はNHKのドラマにも登場したとても有名なお店です。
寿岳文章先生という著名な英文学者、シエークスピアや紙の研究でも知られる学者を取り上げたドラマで、高橋幸司が主役を演じてました。その娘さんで著名な社会学者章子さんも登場するのですが、この上幸さんに買い物に行ったりするシーンがあって、当時向日町中が盛り上がりました。もう30年近く前のことです。

実はこの上幸さんのお店は長岡宮第201次調査で発見された礎石建物の延長部に位置します。このため、店舗を改装されるときにお願いして計画地の全面に発掘調査のトレンチを設定させてもらったのです。


(当時の現説資料でもこんな感じでまるで朝堂のようだと話題で持ちきりでした。)

その結果推定通りに南北方向に延びる建物の大半を発見することが出来、長岡宮城の「朝堂院」の南に南北棟の礎石建物を配置する官衙区画があり、それが南北に2区画並ぶことが判明したのです。長岡宮には朝集堂院という朝堂院に付属する施設がありませんでしたので、それに変わるものかも知れないと考えられることもありました。また、長岡宮の建設の過程を考える上でもとても重要な意味を持つ施設であることも判明致しました。

それから20年余、いろいろな事情で報告書が遅れていたのがやっと日の目を見ることになったのですが、その間に新しい調査成果も出てきました。

「朝堂院」南門付設門闕の発見です。

実は上幸さんの敷地から発見された礎石建物は、近年発見されて話題になり、史跡にも追加指定された朝堂南門に取り付く門闕の直ぐ南に位置するのです。



(門闕の東側の基壇裾を示すのがこの溝です。目を正面に向けると家々が建っています。木造二階建ての建物の向こうにやや長く見える屋根が第201次調査のアパートの屋根です。)

門闕については「翔鸞楼」などと仮称されて、長岡宮建設時に初めて設けられた斬新な遺構だという評価が一人歩きしていますが、本当なんでしょうか?もしそうだとしたら、どうしてこの様な建物をすぐ前に持ってくるのでしょうか。私が門闕の発見のニュースを漏れ聞いて直ぐに抱いた疑問でした。

門闕についてすでに二冊の「報告書」が出され、この門闕の画期的な側面が余り大した理由もなく示されていますが、ちょっと論理的でなく、あまりにマスコミ受けを狙いすぎた「報告書」ではないかと思います。残念ながら「報告書」には第201次調査の建物の分析もなく、門闕が長岡京の研究史を変えるかの如く書かれているのですが、その論拠は私にはよく判りません。

特に、鬼の首を取ったかのように問題視されているのが門闕と二条大路屯関係でした。長岡宮城の南面を通ると推定している二条大路の路面の「大半」を門闕が占め、「二条大路が機能しない」という評価です。特にこのことがこれまでの長岡宮城南面の造営過程の研究成果を完全に「否定する」ものだという「結論」まで出されているのです。自信たっぷりの文面ですが、本当でしょうか?まさかそんなものに翻弄される人もそうはいまいと鷹をくくっていると、結構それを信じている方も・・・。そこで少し反論を加えておくことにしました。

そもそもが、この門闕は本当に長岡京で初めて創出された施設なのでしょうか。その根拠とされているのが長岡京建設時の自然地形を入念に造成して構築したというその建設技術にあるそうです。礎石建物の基礎構造が手の込んだものである(この点も検証が必要だと私は思っているのですが)ことが、どうして長岡京で初めて建設された施設である事の根拠になるのでしょうか。これもまたとても感覚的です。

これまで長岡宮城中枢部で検出された遺構が難波宮のものを移建して設置されたものであることは出土瓦や遺構の比較から取られてきた成果です。ところが、報告では本遺構から大量の難波宮式軒瓦が出土しているにもかかわらず、このことについては何も触れられていません。
もちろん難波宮で門闕がこれまでの調査では発見されていないことは事実です。しかし、難波宮の当該位置は現在使用されている道路です。調査のしようがないのです。つまり比較が出来ないだけなんです。
難波宮で発見できなければ全て難波宮になかったと言えるのか?もちろんノーです。

出土瓦という有力な材料があるのに、どうして門闕は“桓武天皇の壮大な構想」の下に建設された施設”となるんでしょうか。これこそ主観的願望ではないでしょうか。

さらに、本当に二条大路は門闕によって機能不全に陥るくらい完全に塞がれていたのでしょうか。長岡京左・右京域で検出された二条大路の遺構の座標を調べてみると、門闕が占有するのは路面の2/3前後です。最低9mから最大18mまで空間は残されている可能性があります。これだけの通行空間があれば十分です。なぜなら、平城京の二条大路と東一坊大路の交差点には北から流れてきた水路が勢いよく流れていました。このため重要な道路である二条大路は路面を寸断されることになります.そこで平城京の為政者は橋を架けました。焼き物の欄干を備えたとても立派な橋です。しかし、その橋の幅は13.4m、推定路面の36%に過ぎないのです。こんなことも分析しないで、「大半」とは・・・。あるいは、私の言葉の感覚が間違っているのでしょうか。


(門闕から北を望むとこんな風景です。難波宮ではどうなんですかね・・・.塀の向こうが西第四朝堂です。)

そして問題になるのが、長岡宮第201次調査と284次調査で検出されたこの南北に延びる礎石建物なのです。私はこの建物は周辺の調査状況から長岡京の後期造営に伴って建設されたものだと評価しました。一般論として京域には寺院や離宮(以外に礎石建物が建設されることはほとんどないからです。もちろん平安宮にはこの位置に京内の官衙(穀倉院)がみられますが、長岡京の時期にはありませんのでこれに宛てることは出来ません。一体この施設は何かというのが大いに問題にされなければならないのです。
つまりそう簡単に宮城南面街区の変遷に関するこれまでの研究史を居呈することは出来ないのです。

仮にこの建物を宮城内の施設ということにしましょう。すると先の評価「桓武による荘厳化」は消えてなくなります。この官衙区画が門闕を邪魔するからです。門闕は単なる朝堂の飾りということにならざるをえないからです。それならば聖武の時に建設された可能性も十分に出てくるのです。

これまで何度も主張してきたことですが、前期の長岡宮の造営は、超特急で既成事実を作るために為されたものでした。永く続いた大和及び河内・摂津にあった王権の中心を山背に移す!これが第一目的なのです。
その桓武がもっとも必要としたことは、長岡の都に実質的機能を集中し、大和は摂津に都が移ることはないと言うことを実感させることだったのです。そんな時、新たに門闕を作る必要性が本当にあったのでしょうか。事はそう簡単ではないのです!!

学問は議論する場ですから、いろいろな見解を述べ合うことに私は何の異論もありません。しかし、少なくとも異論を批判するときは対象となる見解を丁寧に論破しなければならないはずです。どの見解にも絶対はありませんから、その隙間をうまく突ければ議論は少し有利になるでしょう。すると批判された者がその批判者の論理をまた論破するために論文を書く。これの繰り返しなのです。ところが最近の「批判」は自分が正しい!!とばかり叫ぶ。どこかのスポーツ中継のアナウンサーのようでもあります。遺跡の調査が「劇場型」になってしまっていることの証拠でしょうか。悲しい!!

近年の長岡京に関する意見??はあまりに全体像のないその場しのぎものが多すぎると思います。考古学は発掘調査をすればそれでいいのではありません。調査成果をいかに歴史へと繋いでいくのか、これこそ求められているのです。調査をして新たな成果が出るのは当たり前です。その一つ一つは確実に何かの歴史事象の反映なのです。新しい事実が出ました!と言うだけなら考古学者はいりません。歴史として語らせて初めて考古学なのです。でなければ遺跡全部を掘るまで、いやきっと全部掘っても何にも言うことが出来ないはずです。

行政が発掘調査を主導して50年、行政の学問への政治的干渉が強まっています。気に食わない者には見せない、聞かない、言わせない。そしてその先兵として発掘調査技師が「活躍」する悲しい事態を何とかしなければなりません。長岡京研究の再建のために引き続きシリーズでもって述べていきたく思っています。


 でも今は「劇場型」調査による目立つことだけが優先されて・・・ 

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