《「ハムレット」は失敗作!?》
「ハムレット」は、父王を殺された王子が、紆余曲折の末、ついに復讐を遂げる話だが、17世紀に書かれた作品でありながら、
主人公の近代的な自我の苦悩、そして彼と周囲の人々をめぐる物語には、我々の心を捉えて離さぬ魅力があり、胸に深く迫ってくるシェイクスピアの最高傑作だ。
このような作品が書かれたこと自体、奇跡とも言うべきことだと言われており、今日まで多くの人に愛され、世界中で上演され続けている。
ところが、最後に主人公であるハムレットが死ぬことから、復讐は失敗に終わったとか、この作品は失敗作だ、とか主張する人がいる。
20世紀初頭のT.S. エリオットがそう言い出したのは有名だが、そのような受け止め方はとっくに過去のものとなったと思っていた。
だが、いまだに同じようなことを主張する人がいるのには驚かされる。
確かに、復讐に至る過程で、巻き込まれて犠牲となる人々はいる(ポローニアス、オフィーリア、王妃、レアティーズ、ローゼンクランツ、ギルデンスターン)。
このように、多くの人が死ぬ、しかも非業の死を遂げるが、それでも最終的に、クローディアスという悪人が滅びることで、観客も納得できるように書かれている。
ハムレットは無事に復讐を果たし、納得して死んでゆく。
彼は決して絶望して死んだのではない。
否、この芝居の始まりから終わりまで、一度も絶望することはない。
そして最後には、それまでデンマーク国内に隠されていた暗い大きな罪と陰謀が露見し、正義が成就するのである。
そこに、観客は喜びと満足を感じることができる。
「ハムレット」については、たとえば志賀直哉のように、そもそもクローディアスはハムレットの父を殺してないのではないか、などと、
キテレツなことを言い出すトンチンカンな人もいて、実に腹立たしい。
彼は著名な作家なのに、読解力が足りないとしか考えられない。
この手の困った人たちのことは、またいずれ書くことにしよう。
≪ハムレットは優柔不断なのか≫
ハムレットは父の亡霊に死の真相を告げられ、復讐を命じられたのに、グズグズしてなかなか父の仇を取らない。
そのため、後の時代の人々の中には、なぜ彼はさっさと復讐しないのか、という疑問を抱く人が現れた。
(上演当時の人々は、そんな疑問を持たなかった。現代でも、そんな疑問を抱かない人は大勢いるだろう。)
だがそうした疑問に答えようと、これまで多くの批評家たちが頭を悩ませてきた。
有力なのは、亡霊というのがカトリックの教えであって、ハムレットはプロテスタントだから、あの夜出会った亡霊を、父の亡霊だと信じることができず、
当時よく言われていたように、悪魔が彼をそそのかすために父の姿をとって現れたのではないかと疑った、というものだ。
ハムレット: ・・・ 俺が見た亡霊は
悪魔かもしれない。悪魔には変化(へんげ)の力があり
人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら
俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。
悪魔はそこにつけこんで
俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。
もっと確かな証拠がほしい。・・・ (2幕2場、松岡和子訳)
なぜ彼がプロテスタントだとわかるかと言えば、彼は父の急死で呼び戻されるまでドイツのヴィッテンベルクに留学しており、そこはルター派の牙城だからだ。
他には、彼が憂鬱症にかかっていたために素早い行動がとれなかった、という解釈もあった。
いずれにせよ、すぐに復讐をしないのは彼の性格のせいとされ、彼は長いこと優柔不断な青年の典型のように言われてきた。
その点について、吉田健一が明快に答えている。
「それは、仇を取らねばならない事件の発生からこの作品が始まり、所定の5幕が経過した後に敵討ちが実現されるという、その経過のために生じた誤解」だと彼は言う。
つまり、わかりやすく言うとこういうことだ。
シェイクスピアの芝居は、どれも5幕という構成に決まっていて、復讐を命じられたのが1幕目で、5幕目のラストに敵討ちがなされて大団円となる必要があるため、
その間が長く感じられてしまうが、それまで仇を打つわけにはいかなかったというのだ。
何と単純明快な!
だから、たとえば4幕の終わりとか5幕の冒頭で父王が殺されたのなら、仇打ちはもっと素早くなされていただろうということだ。
ゆえに、彼が復讐を5幕の終わりまで引き延ばすのは、彼の性格のせいではなく、演劇としての必然性のせいなのだった。
「ハムレット」は、父王を殺された王子が、紆余曲折の末、ついに復讐を遂げる話だが、17世紀に書かれた作品でありながら、
主人公の近代的な自我の苦悩、そして彼と周囲の人々をめぐる物語には、我々の心を捉えて離さぬ魅力があり、胸に深く迫ってくるシェイクスピアの最高傑作だ。
このような作品が書かれたこと自体、奇跡とも言うべきことだと言われており、今日まで多くの人に愛され、世界中で上演され続けている。
ところが、最後に主人公であるハムレットが死ぬことから、復讐は失敗に終わったとか、この作品は失敗作だ、とか主張する人がいる。
20世紀初頭のT.S. エリオットがそう言い出したのは有名だが、そのような受け止め方はとっくに過去のものとなったと思っていた。
だが、いまだに同じようなことを主張する人がいるのには驚かされる。
確かに、復讐に至る過程で、巻き込まれて犠牲となる人々はいる(ポローニアス、オフィーリア、王妃、レアティーズ、ローゼンクランツ、ギルデンスターン)。
このように、多くの人が死ぬ、しかも非業の死を遂げるが、それでも最終的に、クローディアスという悪人が滅びることで、観客も納得できるように書かれている。
ハムレットは無事に復讐を果たし、納得して死んでゆく。
彼は決して絶望して死んだのではない。
否、この芝居の始まりから終わりまで、一度も絶望することはない。
そして最後には、それまでデンマーク国内に隠されていた暗い大きな罪と陰謀が露見し、正義が成就するのである。
そこに、観客は喜びと満足を感じることができる。
「ハムレット」については、たとえば志賀直哉のように、そもそもクローディアスはハムレットの父を殺してないのではないか、などと、
キテレツなことを言い出すトンチンカンな人もいて、実に腹立たしい。
彼は著名な作家なのに、読解力が足りないとしか考えられない。
この手の困った人たちのことは、またいずれ書くことにしよう。
≪ハムレットは優柔不断なのか≫
ハムレットは父の亡霊に死の真相を告げられ、復讐を命じられたのに、グズグズしてなかなか父の仇を取らない。
そのため、後の時代の人々の中には、なぜ彼はさっさと復讐しないのか、という疑問を抱く人が現れた。
(上演当時の人々は、そんな疑問を持たなかった。現代でも、そんな疑問を抱かない人は大勢いるだろう。)
だがそうした疑問に答えようと、これまで多くの批評家たちが頭を悩ませてきた。
有力なのは、亡霊というのがカトリックの教えであって、ハムレットはプロテスタントだから、あの夜出会った亡霊を、父の亡霊だと信じることができず、
当時よく言われていたように、悪魔が彼をそそのかすために父の姿をとって現れたのではないかと疑った、というものだ。
ハムレット: ・・・ 俺が見た亡霊は
悪魔かもしれない。悪魔には変化(へんげ)の力があり
人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら
俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。
悪魔はそこにつけこんで
俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。
もっと確かな証拠がほしい。・・・ (2幕2場、松岡和子訳)
なぜ彼がプロテスタントだとわかるかと言えば、彼は父の急死で呼び戻されるまでドイツのヴィッテンベルクに留学しており、そこはルター派の牙城だからだ。
他には、彼が憂鬱症にかかっていたために素早い行動がとれなかった、という解釈もあった。
いずれにせよ、すぐに復讐をしないのは彼の性格のせいとされ、彼は長いこと優柔不断な青年の典型のように言われてきた。
その点について、吉田健一が明快に答えている。
「それは、仇を取らねばならない事件の発生からこの作品が始まり、所定の5幕が経過した後に敵討ちが実現されるという、その経過のために生じた誤解」だと彼は言う。
つまり、わかりやすく言うとこういうことだ。
シェイクスピアの芝居は、どれも5幕という構成に決まっていて、復讐を命じられたのが1幕目で、5幕目のラストに敵討ちがなされて大団円となる必要があるため、
その間が長く感じられてしまうが、それまで仇を打つわけにはいかなかったというのだ。
何と単純明快な!
だから、たとえば4幕の終わりとか5幕の冒頭で父王が殺されたのなら、仇打ちはもっと素早くなされていただろうということだ。
ゆえに、彼が復讐を5幕の終わりまで引き延ばすのは、彼の性格のせいではなく、演劇としての必然性のせいなのだった。
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