ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

リングサイドで恋をして・第7話/みちのく二人旅

2012年06月14日 | RSで恋をして

第6話まで96年1~7月に起きたことを語った。

この期間、2人を取り巻くスポーツ・シーンで思い出深い出来事と言えば、

コンサドーレ札幌の誕生&伝説の厚別開幕戦に尽きる。

物語の本筋に無関係なので省くが、2人の間にプロレスに加えて

サッカーという軸ができたことは、お互いの仲をより深めたと言える。

一方、当時の共働きに加えて、「週末の厚別参り」という

新しいデートコースの誕生は、初対面の時に交わした

「みちのくプロレスを本場の東北へ見に行く」という約束の先送りにもつながっていた。

しかし8月に入って、「何が何でも東北に行かなくては!」と

2人に決意させる衝撃のニュースがプロレス界を駆け巡った。

第7話は「みちのく二人旅」の思い出を語る。


さて、この96年夏にプロレス界がどうなっていたかと言えば、

ジュニアの戦いが空前の盛り上がりを見せていた

6月にシングル8戦すべてがジュニアのタイトル戦という

前代未聞の大会「スカイダイビング-J」が日本武道館で開催。

そして、この大会での獣神サンダー・ライガー(新日本)の呼びかけに応じる格好で、

8月にはジュニア8冠統一トーナメント「J-クラウン」が両国国技館で開かれた(注1)。

・・・しかし、トーナメントの「発起人」と言えるライガー当人は

ウルティモ・ドラゴン(当時WAR)のラ・マヒストラルの前に、あっけなく1回戦敗退。

両国から遠く離れた札幌で、ワタシと2号はこの知らせに爆笑した。

ワタシ「言い出しっぺなのに、ま~た、やっちゃったよ」

2号「ホント、大一番であっさり負けるクセが治らないよねえ」(注2)

しかし、大会終了後に凶報。

「ライガー脳腫瘍」「近日中に手術へ」「長期欠場・引退のおそれも」

2人でライガーを笑ったからバチが当たった・・・当時は真剣に後悔した。

そして続報。

「手術前の最後の試合は、8月18日のみちのく青森大会に決定」

以前からの約束(注3)を守って、みちのくのリングに上がり、

サスケの代役(注4)として、メーンを務めた後に入院するという。

泣かせる

「これは何を置いても青森に行こう。考えたくはないが、ライガー最後の雄姿かも」

2人の思いは完全に一致し、場所が比較的近い青森という幸運もあって、

すぐに0泊2日、夜行列車の車中泊を伴う青森弾丸ツアーを敢行することになった。

2人で足を運んだ青森。2人で足を運んだみちのくプロレス。

主役のサスケ不在は残念だったが、

「ライガー・浜田・浪花×東郷・TAKA・船木」というメーンの6人タッグには大満足。

会場の観客全員がライガーの味方で、何をやっても大歓声。

相手のルード役の海援隊トリオも、さぞ仕事のやり甲斐があったと察する。

ライガーの頭を攻めるだけでも、悲鳴とブーイングが沸き起こったのだから。

そして、ライガーが3カウントを奪った瞬間にまた大歓声。

「病気を治して、また必ずみちのくのリングに帰ってきます!」というマイクにも

「ありがとう!」「ずっと待っているぞ!」という祈りのようなエールがとんだ。

・・・あれから16年。

ライガーはその後、レーザーメスでの腫瘍切除を経て早期復帰を遂げた。

毛根以外は至って元気だ。

確かに身体は重くなり、あまり空中技を出さなくなったが、今なおジュニアの重鎮である。

今年のスーパーJrは決勝T進出を逃したが、8月は「ふく面Wリーグ戦」に参戦予定。

「必ずみちのくのリングに帰る」という約束を何回も果たしている。

12日深夜のTBS「テベ・コンヒーロ」では、いじられ倒されていたなあ

元気な復帰の祈りが叶ったことはうれしい・・・しかし、少し元気すぎるかも。

「もしかして16年前はダマされた?」という疑念が、頭をよぎることもなくはない。


それにしても、大会自体は面白かったが、当時の青森市に抱いた印象は最悪だった。

というのも、当時は市内に「青森県民」「青森県営」(注5)と似た名称の体育館があり、

県外から訪れるみちのくプロレスのファンをしばしば混乱させていたからだ。

ワタシたち2人も、危うく引っかかる寸前だった。

「みちのくがなければ、この地に来ることは二度とあるまい」とお互いに思った。

しかし6年後。2人はプロレス会場としての青森県民体育館の「最期」を見届けることになる。

(第8話に続く)


注1・8月2~5日の4日間、新日本G1と併催された。

国内外5団体の王者8人が参戦し、ザ・グレート・サスケが初代8冠王者に。

注2・「ライガーは大きな大会のシングル戦、それも外敵に弱い」というのが

ワタシたち夫婦の持論。94年スーパーJカップのサスケ戦や95年「10・9」の佐野戦、

そして、今年のスーパーJrの初戦のPAC戦などが、その良い例と考える。

まあ、実際はシングル戦も強いし、負けた後にリベンジしているケースが目立つが。

「ライガーに勝った」という勲章を手に、ひと皮むけたレスラーも多いので問題なし。

注3・ライガーは94年から「みちのくに上がりたい」としばしば口にしており、

参戦が内定したこともあったが、本人の骨折などで延び延びになっていた。

注4・「J-クラウン」の決勝のウルティモ戦で、トペ・コンヒーロの着地に失敗。 

サスケは初代8冠王者の座と引き換えに、頭蓋骨骨折で長期欠場を余儀なくされた。

注5・この96年8月の会場は「青森県民」。前年95年の「ふく面Wリーグ戦」決勝戦で、

ドス・カラスがサスケをパワーボムで葬った会場は「青森県営」である。ややこしや。