ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(1日目)

2017年05月21日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2017年5月21日(日)

昨年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、
仲間の皆さんから『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、
五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目
(2015年2月22日)に歩いているので、内藤新宿から信州の
下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第十二回目は、石和宿(JR石和温泉駅)から
韮崎宿(JR韮崎駅)までの約18.7Kmを歩いた。
1日目(日)は、石和温泉駅から甲府駅までの約6.5Kmだが、
甲府駅の北側に位置する躑躅ヶ崎館(武田神社)と、甲府城(舞鶴城)
を訪れたので、実際にはこの倍近く(12-13Km)は歩いたことになる。

この日の昼食は、甲府市内の飲食店を予定しているため、
駅弁は買わずに直接中央線ホームへ。
6時53分発の特快高尾行に乗り込む。
電車はガラガラに空いていた。


『今日は余裕で間に合ったねっ』
この日の参加者はお馴染のメンバー8名だ。


高尾駅で中央線に乗り換え、9時38分、石和温泉駅に到着。


駅舎から石和温泉駅前を望む。
駅前の花壇にはバラが植えられていた。
『たくさんのバラが咲いてるよっ』


駅前の花壇へ行ってみよう。


駅前に植えられた色とりどりのバラが、ちょうど見頃を迎えていた。
”石和温泉を訪れた人が元気になるバラ園”がテーマ、だそうだ。
『きれいだねっ』


102品種、450株のバラは、
市民ボランティア「笛吹ローズクラブ」の皆さんによって
手入れされている、とのこと。
『良い香りだねっ』


バラに元気を貰って、9時49分、石和温泉駅を出発だ!
この日甲府の予想最高気温は32℃とのこと。
熱中症には充分気を付けたい。


笛吹権三郎
笛の上手な権三郎の母が、石和川の氾濫で流されてしまった。
権三郎は、母の好きな曲を吹きながら探したが、
自らも川に落ちて死んでしまった。
夜になると川の中から美しい笛の音が響き、
いつしかこの川は笛吹川と呼ばれるようになった。


国道411号の石和温泉駅入口交差点に到着
甲府宿はここを右折することになるが、前回見落としていた
石和本陣跡を見て行くことにした。


国道411号を200mほど山梨市方面へ戻ると、
石和本陣跡の標識があった。
宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、
初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に
本陣を命じたことが始めと云われる。


以来子孫が継承して明治に至った。
明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の
石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と
諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。


史跡 石和本陣跡の碑


石和本陣跡の碑を見たことで、あらためて甲府宿を目指し、
国道411号を進む。


平等橋
平等川に架かる橋。


平等橋を渡る。


宇治平等院に比するくらい『蛍』が見事であったので平等川となった。


平等橋を渡ると、甲府駅まで6.2Kmの標識が。


あちこちの道路脇にバラを観ることが出来る。
『この辺の人はバラを育てるのが好きなんだねっ』


和戸町由来碑
和戸町は平安期この付近を中心として栄えた表門郷の遺称である。
郷とは、奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことで、
地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られる。
地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。


和戸町由来碑の後ろに道祖神が祀ってあった。


二宮尊徳像


11時3分、建物の日影で休憩だ。
石和温泉駅を出発して1時間10分余が過ぎていた。


十郎川に架かる十郎大橋を渡ると、


青梅街道との分岐点、山崎三差路があった。
『ここで青梅街道と合流するのかぁ』


山崎三差路の少し先にあの箱根駅伝で有名な山梨学院大学があった。


山梨学院大学
『いやぁ なかなか立派な建物だねぇ』


山梨学院大学から甲府駅まで3.6Kmとある。
『まだ半分も歩いてないんだぁ』


善光寺通りの先に甲斐善光寺の屋根が見えた。
『長野の善光寺とそっくりだねっ』


身延線の線路を潜ると、


右手に身延線の善光寺駅があり、ちょうど電車が発車するところだった。


甲府市を目指し、城東通りを進む。


11時52分、甲府駅まで2.0Kmの標識を通過


身延線金手駅近くで街道は鈎型(桝形)に曲がっている。


ガソリンスタンドの向かいの駐車場辺りに甲府の本陣があったそうだが、
今はその跡を示す標識など何もない。


本陣跡を探して疲れたため、建物の日影でしばしの休憩だ。


城東通りから甲斐奈通りを進み、甲斐奈神社前を通過


甲府宿、正式には「甲府柳町宿」は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒であった。
今の甲府市街は武田信玄の父信虎が永世十六年(1519)に石和から移り、
躑躅ケ崎に居館を構えたのに始まる。
天正九年(1581)には韮崎の新府に移り、翌年武田家は滅亡してしまう。
信長の死後家康が領し、秀吉の代に甲府城が築城された。
以後この甲府城を中心に発展した「甲府柳町」の名は宿中程にある、
柳町に問屋場等の機能が集中していたところから付けられた。


甲斐奈通りを進み、街道近くにある宿泊先のホテルへ向かう。
武田神社(躑躅ヶ崎館)を訪問している間、リュックなどを
預かってもらうためである。


桜通り商店街を進むと、


12時32分、この日の宿泊先、「ドーミーイン甲府」に到着
リュックなどの荷物を預けて、ホテルを後にした。


日曜日ということで、商店街の殆どの店は休みだったが、
「イオン甲府ココリ店」の近くに寿司屋を見つけた。


『まぐろが安いねぇ』
『ここにしようっ!』


この先武田神社まで歩くことになるが、
何はともあれ『かんぱ~いっ』


『お疲れさまぁ』


自分が注文したのはマグロ丼(1,000円)だ。
(それほど安いとは思えない)


甲府城を通り過ぎ、武田神社を目指す。


中央線の線路を渡ると、


右手に復元された山手渡櫓門が見えた。
武田神社からの帰りに立寄ることにしよう。


およそ2.5Km先の武田神社を目指す。


甲府駅北口から武田神社まで一直線の武田通りを進む。
緩やかな上りの道である。


織田信長と対峙した秋山伯耆守信友の説明板があった。
秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄。実名は虎繁。
信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠城代、次いで飯田城代を歴任。
織田・徳川氏を監視する役割を担った。
長篠敗戦後、織田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。


秋山氏の屋敷跡は現在の山梨大学の敷地内にあった、とのこと。


14時46分、ようやく武田神社に到着した。
『ビールを飲んだ後は堪えるねっ』


神橋を渡り、


武田の軍旗「風林火山」の幟が棚引く参道を進み、


武田神社本殿へ。
武田神社は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


武田神社に参拝
国史跡である武田氏館跡は、永正十六年(1519)に
武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅ヶ崎館」
つつじがさきやかた)の呼び名で親しまれている。
大正八年(1919)に武田神社が創建された場所は、信虎・信玄・勝頼の
武田氏三代が居住し、政務を執り行った館の中心だった。


武田神社には、薪能の舞台となる甲陽武能殿もある。


躑躅ヶ崎館(武田氏居館)跡の図
この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして、
躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。
屋形一帯の濠塁・縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し、往時を偲ぶに足る。


居館中心地域については、各説あるも一応左図の如き屋形配置が想像される。
別名「躑躅ヶ崎館」と呼ばれる武田氏館は、永正十六年(1519)に
武田信虎によって築かれた方形の館である。
周囲を濠と土塀に囲まれ、東西北にそれぞれ門がある。


現在の武田神社全図
館跡を一周してみることにしよう。


土塁や石垣がそのまま残っている。


濠を渡る土橋から館内部を見たところ。


躑躅ヶ崎館の裏は、濠に沿って道が続いている。


濠に沿ってほぼ一周すると、館東側の旧大手門(武田神社大手門)に至った。


大手門を入ると、武田神社の宝物殿・拝殿辺りに戻った。
一周約15分ほどだった。


神橋から武田通りの甲府駅方面を望む。
『ここからまた駅まで歩くのっ?』


土産物店「かぶとや」の向いに甲府駅行バス停があった。
ちょうど甲府駅行バスが来たので、乗ることにした。


『やっぱり楽だよねっ』


16時11分、甲府駅北口に到着
(料金は190円)


山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口の1つで
武器庫としての役割を果たしていたとのこと。


山手渡櫓門を潜ると、高石垣と土塀に囲まれた高麗門がある。


山手渡櫓門
中は展示室になっていて、発掘調査で出土した瓦や陶磁器、
山手渡櫓門の模型、江戸時代の歴史資料などが展示されている。


中央本線を跨ぐ舞鶴通りを通って甲府城へ。


甲府城(舞鶴城)が見えてきた。
本丸の一角に建てられているひと際高い謝恩塔が印象的である。
甲府城は、「日本100名城巡り」で2011年4月2日(土)に登城している。


16時22分、甲府城(舞鶴城公園)の入口に到着
甲府城は、今から410余年前、豊臣秀吉の命により
浅野長政・幸長によって築城された。
築城は、江戸の徳川家康を牽制する目的だったが、
江戸幕府が開かれると代々徳川一門や柳沢氏の居城となった。


内松陰門を潜って城内へ。


門を支えた基礎石と石垣が残っているだけの銅門(あかがねもん)跡を通り、
折れ曲がった桝形の石段を上ると本丸である。


本丸の芝生広場に出ると、正面に天守台が。


天守台からの眺め(東)


天守台からの眺め(南)
うっすらとだが富士山が見える。


天守台からの眺め(南パノラマ写真)


天守台からの眺め(西)


天守台からの眺め(西パノラマ写真)


天守台から稲荷櫓を望む。


天守台からの眺め(北パノラマ写真)


天守台前の芝生で一休み。
『ちょっと疲れちゃったねっ』ということで、ホテルへ戻ることにした。


鉄門(くろがねもん)を潜り、


鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸を繫ぐ坂下門跡を通り、


東の出入口である鍛冶曲輪門へ。


舞鶴通りをホテルへ向かう。


ホテルに到着後、一風呂浴び、夕食に出掛けた。
ホテルで紹介されたグルメ横丁に行ってみると、
提灯の灯りは点いていたが、日曜日のため全店休みだった。
『休みの所を紹介されてもしょうがないよなっ』


直ぐ隣に全国チェ-ン店の「魚民」があった。
他に探すのも面倒なので、ここに入ることにした。


『かんぱ~いっ』 『お疲れさま~っ』 
『また明日も頑張りましょう!』


「旧甲州街道を歩く」第十二回1日目(石和宿~甲府宿)を歩き終えた。
宿間距離は短かったが、街道から少し外れて武田神社(躑躅ヶ崎館)、
甲府城と歩き回ったため、最後はやはり少々疲れたというのが、
正直なところである。

この日は、特に何事もなく終わったが、明日はどんなハプニングが
待っているのか、明日の「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。


旧甲州街道を歩く 第十二回 石和宿から韮崎宿(2日目)

この日の万歩計は、25,000歩を超えていた。


ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次

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