ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.54 大坂城

2017年05月14日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年5月14日(日)

この日訪れた大坂城は、別称錦城・金城(きんじょう)とも呼ばれる。
水運の利に恵まれた、大阪で最も標高の高い上町台地に、豊臣秀吉が
天下取りの拠点とするべく、天正十一年(1583)に築城を開始。
これが、豊臣大坂城である。

天正十三年(1585)には五重八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、
金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させた。
これによって、秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。

しかし、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では徳川勢を撃退したが、
翌年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまった。

その後徳川幕府は、元和六年(1620)、徳川への政権交代を
天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛土をし、
石垣を新たに積み直して城を築いた。
そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大坂城天守が
寛永六年(1629)に完成した。
現在残る石垣と堀は、この工事によって出現したものである。

しかし、この天守も寛文五年(1665)に焼失。
以来昭和六年(1931)に復興されるまで天守は存在しなかった。
なおこの3代目天守は豊臣大坂城天守を模して、徳川大坂城天守台の
上に建てられている。

東京駅7時3分発の「ひかり461号」に乗車し、
新大阪駅には10時ちょうどに到着した。
新大阪駅で駅弁を買い求めた。


大坂城に入る前に、大坂城の南西にある大阪歴史博物館
(天守閣入場料も含めて900円)に立寄ってみることにした。


NHKに隣接している大阪歴史博物館
(入口は、NHKと同じになっている)


10階の展示フロアの北端からは、広い外堀や高い石垣に囲まれた広大な
大坂城の縄張りが見晴らせる。
絶好の眺望スポットではあるが、ガラスが反射して写りが良くない。
しかし、二の丸南側に屈曲しながら長く続く石垣は圧巻の一言。
安くはなかったが、料金を払って来ただけのことはある。


大阪歴史博物館の10F~7Fの展示は軽く流して大坂城へ。
大坂城公園の南東角に入ると、大坂城南外堀が見える。
寛永五年(1628)からの工事で完成した石垣は、
ほぼ同じ大きさの割石を布積みにした打込接布積を採用している。


南外堀の石垣隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。
西から東を望むと石垣が同じ曲線で重なって見える。
寛永期の石垣構築技術の高さを知ることができる。


かつては雁行する石垣上に土塀が走り、一番から七番までの二重櫓が
建っていた、とのこと。
見えているのは六番櫓である。


南外堀を左に回り、大手土橋を進むと、


左に元和六年(1620)に建設された重用文化財の千貫櫓がある。
大手土橋や西側の水堀に横矢を効かせている。
初重に出窓型石落し、二重目には唐破風をつけた二重二階櫓である。


『千貫』の名は、本願寺の戦いの際、この付近にある櫓を攻めあぐねた織田信長が、
「千貫文出しても奪いたい」と言ったことに由来すると伝わる。
国指定重要文化財になっている。


大手土橋の右側の南外堀と見事な曲線の石垣
石垣隅角部は、算木積みとなっている。


大手門
寛永五年(1628)に造営された大坂城の大手口の正門である。
高麗門様式で、建設当時の姿を留めている。


屋根は本瓦葺き、扉と親柱は黒漆総鉄板貼りである。
親柱と後の控柱との間にも屋根を載せている。
大手門の南北に続く塀には岩岐(石段)があり、鉄砲狭間が開けられている。
門、塀とも重要文化財に指定されている。


重要文化財の大手門を入るとそこが大手桝形になっている。
周囲を土塀と巨大な多聞櫓が取り囲む。
正面には、鉄砲狭間や格子窓を配した続櫓が、
前方左には巨大な渡櫓がある。


鉄砲狭間


大手門を潜り大手桝形に入ると、巨石に目を見張らされる。
正面の続櫓に位置する大手見付石は、表面積が29畳敷(47.98㎡)で城内第4位、


左の大手二番石は、表面積が23畳敷(37.90㎡)で第5位、


右の大手三番石は、表面積が22畳敷(35.82㎡)で第8位。
いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島とされている。


渡櫓(多聞櫓)
大手口の枡形の石垣にある櫓。
大門の上部を跨ぐ渡櫓と南に直角につながる続櫓で構成されている。
高さは14.7mで全国でも最大規模。
渡櫓の壁面には通路幅いっぱいに格子窓を設けており、
櫓床下は槍落しが造られている。
もし、大手門が破られても、この桝形で敵を食い止めるためだ。


櫓門を潜って城内から見た渡櫓(多聞櫓)


土日限定で3つの櫓(多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵)の内部が特別公開されていた。
(入場料金は700円)
これは、素通りする訳にはいかない。


入場料700円でチケットを購入し、先ず多聞櫓へ。
靴は脱いでビニール袋に入れて、スリッパに履き替えて中に入る。


多聞櫓内部


多聞櫓の兵士たちの詰所
この部屋は、いざ戦いというときに兵士たちが籠城して
寝泊りするために作られたもの。
多聞櫓は大手門を防衛する兵士が詰めた場所なのだ。


大坂城石垣の刻印が展示してあった。


槍落とし
千貫櫓の石落しと同じ機能の装置で、侵入しようとする敵に
真上から槍や石などを浴びせた。
下からは気付かれにくい構造となっている。


多聞櫓を出ると、見学路は千貫櫓に続いていた。
千貫櫓は、西の丸庭園の南西側にあり、大手口を守る二層の隅櫓である。
織田信長が石山本願寺を攻撃している最中、この付近にあった櫓からの攻撃に悩まされ、
「千貫払ってでもその櫓を奪い取りたい」と言ったという故事に由来する。
造営は元和六年(1620)で大坂城最古の建築物と云われる。


千貫櫓内部


展示されている火縄銃は、ずしりと重かった。


千貫櫓から見た外堀(乾櫓方面)


千貫櫓の見学が終わって外へ出ると、そこは西の丸庭園だった。
櫓内部見学料金には、西の丸庭園の入園料(200円)も含まれていたのだ。
園内ではちょうど弁当を食べているところだった。


西の丸庭園から天守閣を望む。


天守閣を眺めながら弁当にしよう。


外堀に沿って西の丸庭園内を進むと、坤櫓(ひつじさるやぐら)跡があった。


坤櫓跡
ここには西の丸の隅櫓の一つが建っていた。
西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓と呼ばれた。
規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じであった、そうだ。


坤櫓跡から西外堀方面を望む。
千貫櫓や大手門、大手土橋が見える。


坤櫓跡から外堀に沿って進むと、乾櫓があった。
乾(戌亥)は北西を表す言葉で、西の丸の北西に位置することから
この名が付いている。


大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、
堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから、
「三方正面の櫓」とも呼ばれた、とのこと。
乾櫓から北西側外堀を望む。


乾櫓から南西側外堀を望む。


乾櫓から焔硝蔵へ向かう途中に大阪迎賓館があった。
国際会議「APEC’95」の舞台となった大阪城西の丸庭園内の大阪迎賓館が、
予約制レストランとして2016年5月中旬にオープンしたもの。


大阪迎賓館の少し先に焔硝蔵(火薬庫)があった。
櫓見学の最後の建物である。
焔硝蔵は、屋根が瓦葺で、頑丈な石造りとなっている。


外装だけでなく、壁・天井・床・梁の全てを石造りとした構造は
他に全く例がない、そうだ。
石壁の厚さは約2.4mとのこと。


焔硝蔵出口
焔硝蔵は、江戸城や二条城といった将軍の城をはじめ各地の大名の城にもあるが、
江戸時代のまま残っているのはこの一棟だけだそうだ。


西の丸庭園から内堀を挟んで天守閣を望む。


黄金色の御座船(遊覧船20分1,500円)が見える。
乗っている人は秀吉の気分に浸っているのだろう・・・


西の丸庭園から天守閣を望む。


望楼展望台には大勢の人の姿が見える。


西の丸庭園
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の
防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。
公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、
本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった、そうである。


西の丸庭園(パノラマ写真)


西の丸庭園を出て、


南仕切門跡へ向かう途中、内堀の一部が空堀になった部分があった。
西の丸庭園方面の空堀を望む。
ここに敵を引き寄せ戦闘を行ったという。


桜門方面の空堀を望む。


西の丸庭園から本丸に行くには、南仕切門跡を左に折れ、
太鼓櫓跡の前を通って桜門へ向かうことになる。
南仕切門跡を通過


太鼓櫓跡から二の丸を通って進むと本丸の大手である桜門に達する。


桜門へ行く前に二の丸にある豊国神社や六番櫓・一番櫓を見ておこう。
太鼓櫓跡正面を南外堀方面へ進むと、六番櫓がある。
二の丸の南外堀石垣の隅角に建てられていた一番から七番までの二重櫓で、
現存する一つである。


修道館前を通過
修道館は、柔道・剣道・なぎなた・弓道その他武道の普及振興を図り、
社会秩序の確立と青少年の健全な育成に寄与するという目的で、
武道の錬成道場として昭和38年に設立された。
中からは、大きなかけ声が聞こえていた。


豊国神社鳥居の先に、


豊臣(羽柴)秀吉像が建てられていた。


豊国神社拝殿
大阪城内桜門の正面に鎮座する神社で「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」
「豊臣秀長卿」を奉祀する神社である。
農民から天下人になった秀吉公に肖り、出世開運の神として
信仰を集めているとのこと。


豊国神社本殿へ参拝を済ませ、


二の丸一番櫓へ向かう。


一番櫓
二の丸南面の最も東にあることから「一番櫓」という。
大坂城は南面が陸続きであるために二の丸の南外堀に向けて
一番から七番の櫓を設けて防御としたが、現存するのは、
この一番櫓と六番櫓のみである。


一番櫓から南外堀を望む。


一番櫓の南寄りに二番櫓があったと思われる跡があった。


二番櫓跡から南外堀を望む。


本丸の大手である桜門への登城橋


桜門へ。


桜門前から見た本丸南側の空堀。
巨大な石材で算木積が組まれている。
隅石としては、日本最大規模と云われる。


桜門
高麗門形式の門
その名称は、豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、
当時二の丸に桜の馬場と呼ばれる場所があったことから、
門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。


銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団指令部庁舎(旧大阪市立博物館)
の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。
銀明水井戸は、徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸の内の一つで、
本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。
大坂城内で最も格式の高い井戸の一つである。


本丸の正門にあたる桜門の枡形も高麗門と多聞櫓で構成されている。
桝形の正面には域内最大の面積を持つ蛸石と呼ばれる巨石が迫る。
蛸石は、城内第1位の巨石で、表面積はおよそ36畳敷(59.43㎡)、
重量は108トンと推定されている。


表面左下に蛸に見える模様があることから、蛸石と呼ばれている。
備前岡山藩主の池田忠雄の担当によって築かれ、
石材は備前岡山産の花崗岩が用いられている。


蛸石の左手にも巨石がある。
振袖石と呼ばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85㎡)で、城内第3位。


桜門桝形を抜けると、右手に工事中の大きな建物が目に入る。
天守閣と同じ昭和六年(1931)に陸軍第四師団司令部として建てられた建物だ。
1960年からは大阪市立博物館として利用された。


工事中の囲いに大坂城の変遷を示す資料が展示されていた。
豊臣秀吉築城の大坂城


大坂夏の陣 大坂城落城


徳川幕府再築の大坂城


徳川期の大坂城


天守を失った大坂城
徳川時代の天守は、寛文六年(1665)、北側の鯱に落雷して焼失した。
それから昭和六年(1931)に再建されるまで、大坂城は天守のない城だった。


復興直後の大坂城
現在の天守は、昭和六年(1931)に建設、
外観復元で内部は鉄筋コンクリート八階建て、
高さは54.8mで「大坂夏の陣図屏風」を参考に、
豊臣時代の天守を再現した。
大坂城には①豊臣時代に建てた天守、②徳川時代に建てた天守、
③昭和になって建てた天守、の3つが存在したことになる。


旧大阪市立博物館の脇に建つ金蔵。
幕府御用金を収めた施設で、頑丈な造りになっている。
金蔵は国内では大坂城にしか残っていない、そうである。


本丸に聳える天守閣は、徳川幕府が築いた天守台の上に、
大阪市民からの寄附を得て建設された。
大阪城天守閣が所蔵する「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守が
モデルになっている。


天守閣入口
入場料金は600円だが、大阪歴史博物館で買ったチケットで入場出来た。


金明水井戸屋形
大坂城の小天守台にある井戸を金明水といい、それを覆う建物を
金明水井戸屋形という。
井戸は水面まで約33mの深井戸である。
寛永三年(1626)の銘があり、天守と同時期に造営された。


大坂城天守閣は、鉄筋コンクリート造りの外観5層内部8階で
登録有形文化財に指定されている。
1階~7階は展示施設、最上階は望楼展望台になっている。
100名城スタンプは、天守閣入口を入った1F案内所にあった。


最上階の望楼展望台には、大勢の観光客がいた。
韓国・中国の人が圧倒的に多い。


望楼展望台からの眺め(1)
西の丸庭園


望楼展望台からの眺め(2)
山里丸


望楼展望台からの眺め(3)
金の鯱


望楼展望台からの眺め(4)
青屋門と大阪城ホール


望楼展望台からの眺め(5)
青屋門


望楼展望台からの眺め(6)
パノラマ写真


望楼展望台からの眺め(7)
御座船


望楼展望台からの眺め(8)
工事中の旧大阪市立博物館


天守閣を後にして、山里丸へ向かう。


徳川期の天守台は、打込接布積を採用している。


天守台の隅角部は、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせた
算木積みとなっている。


天守閣の西を北に向かうと山里丸へと出る。


その手前を左に折れると、


兵士を隠していた隠し曲輪に突き当たる。
本丸に唯一築かれた帯曲輪で、再建時の江戸幕府によるものである。
天守まで攻め込まれた際の反撃拠点として設けたと思われる、とのこと。


本丸北の一段低くなった場所が山里丸で、


現在は刻印石広場になっている。


大坂城築城の過程で石垣に刻まれた刻印石が展示されている。


大坂城が多くの大名を動員した天下普請で築かれたことが感じられる。


刻印石広場の先には豊臣秀頼と淀殿の自刃の地の石碑が建てられている。
二人は大坂夏の陣の時、この辺りにあった櫓で自刃したという。
秀頼、淀殿ら自刃の地碑には献花する人が後を絶たない。


山里丸を北に進むと、本丸搦手にあたる桝形虎口があり、


その先に本丸と二の丸の北側を繫ぐ極楽橋がある。


極楽橋を渡り切り、


東へ折れると青屋口へ、西に折れると京橋口へと続く。
ともに大坂城の搦手にあたる。


青屋口には、古材を用いて復元された青屋門が建つ。
青屋門は、二の丸北東にある櫓門である。
戊辰戦争で焼失して復元されたが、再び第二次世界大戦の空襲で焼失。
昭和44年に復元された。


青屋門は太平洋戦争の空襲で甚大な被害を受け、
建物の高さなどは推定復元がされている。


京橋口の桝形には、蛸石に次ぐ巨石である肥後石が残る。
畳約33畳敷(55.71㎡)で城内第2位の大きさである。


京橋口


京橋口から北外堀を望む。


京橋口から西外堀を望む。
乾櫓が見える。


西外堀の外側から見た乾櫓
切妻破風を付けている。
外壁面には石落しが設けられている。


時間に余裕があれば、外堀の外周をぐるっと回って見てみたかったが、
帰りの電車のことを考えると、この辺で止めておこう。
乾櫓を見たのを最後に、地下鉄谷町線の天満橋駅へ向かった。

100名城巡りは、今回の大坂城で95番目となった。
残り5城となったが、全て九州の城である。
出来るだけ早く全城登城を達成したいものである。

ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
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