ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第1回 三島宿~吉原宿(1日目)

2016年05月22日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年5月22日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの約126Kmを
2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第1回は、三島宿~吉原宿を2日間かけて歩いた。

東京駅7時26分発の東海道新幹線こだま635号に乗車


日曜日で朝が早いためかこだま号自由席はガラガラだ。


定刻の8時19分、三島駅に到着
ホームからはうっすらとだが、富士山が見えた。


8時29分、三島駅を出発!


市内を流れる桜川は、菰池や白滝公園を水源とする、延長4,150mの普通河川である。
三ヶ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三ヵ所の農業用水となっている。
白滝公園付近には、ハヤが生息しており、川沿いを歩く人が思わず足を止めて、
川の中を覗き込んでいる風景に出くわすことがある、そうだ。
水は大変きれいである。


桜川に沿って「三島水辺の文学碑」として正岡子規や、


松尾芭蕉、若山牧水などの句碑・歌碑が並んでいる。


三島大社で、旅の安全を祈願して行こう。


総門を潜り、


続いて神門を潜ると、


舞殿奥に社殿がある。
三島大社は、伊豆国の一宮で、三嶋大明神を祭っている。
奈良・平安時代の古書にも記録が残っており、源頼朝が源氏の再興を祈願したことでも知られている。
平成12年には、本殿が重要文化財に指定された。
頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬も篤く、三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。


厳島神社は、北条政子が信仰したと云われ、家門繁栄・商売繁盛・安産・裁縫等の守護神で、
多くの人に広く信仰されている、そうだ。


9時3分、三嶋大社の大鳥居を後にして、「旧東海道歩き」第Ⅱステージのスタートだ!

 
三嶋大社大鳥居の前の道を旧東海道へ向かう。
(実はここで、道を間違えてしまっていたのだが、この時は気が付いていなかった)


からくり人形の「めぐみの子」が水を汲んでおもてなし♪
前に立つと 「ヨイショヨイショ」の掛け声とともに男の子と女の子の人形が水を汲んでくれる。
水はひんやりとして美味しかった。


言成(いいなり)地蔵尊
昔、東本町辺りに、尾張屋源内という猟師が住んでいた。
ある日、源内のひとり娘、6歳になる小菊ちゃんが町を歩いていた。母親は道の反対側にいた。
そのとき、明石の松平若狭守の行列がやってきた。町の人々は、行列が通りすぎるのを待った。
母親はあわてて、娘にそこを動かないようにと、声をかけた。
ところが、小菊は自分を呼んだものと勘違いして、何気なく行列の前を横切ってしまった。
これを見た侍は、怒って娘を本陣へ連れて行った。


驚いた町の人たちは、玉沢の偉いお上人に頼んで、娘が助かるよう殿様にお願いした。
お上人の頼みとあって、殿様はやっと許す気になったが、このときお上人はうっかり、
小菊の父親が尾張の人であることを言ってしまった。
尾張と仲の悪い殿様は、また怒り出し、打ち首を命じたのである。
小菊は手を合わせて「お殿様の言いなりになりますから、助けてください」と、何度も何度も頼んだが、
とうとう手討ちになってしまった。
これを知った父親は、箱根の山に隠れ、行列の駕篭を待ち、殿様の駕篭に狙いをつけて鉄砲を撃った。
ところが、どうしたわけか、駕篭の中には殿様はいなかったのである。
父親は、娘の敵を討つこともできないまま、自殺してしまった。
町の人々は、お地蔵様を作り、小菊ちゃんの最後の言葉から、「言成地蔵」と呼んでいる。


伊豆箱根鉄道駿豆線らしき線路を横断し、道を間違っていることに気が付いた。


旧東海道へ戻るため、市内の住宅地を歩くこと凡そ15分、


県道22号(旧東海道)の標識が見えて来たときにはほっとした。


先ほど横断した線路を再度跨ぎ、


9時31分、旧東海道と思われる道へ。


樋口本陣跡の碑で、旧東海道に間違いないことを確信。
結局25分以上ロスしてしまった。


源兵衛橋を渡る。


三度、伊豆箱根鉄道駿豆線を横断
(三島広小路駅)


9時44分、秋葉神社があったので、参拝した。
祠の前の推定樹齢300年のムクノキが印象的だった。


20人ほどのグループが熱心に何かに見入っている。


境川橋に掛かる「千貫樋」の説明だった。
千貫樋は、清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を清水町に灌漑用水として送水するために、
境川に架設されている掛樋である。


この樋を架設した経緯は諸説あるようだが、天文二十四年(1555)に、今川・武田・北条の三氏が和睦した際に、
北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水した、
というのが一般的、とのこと。


名前の由来については、この樋が銭千貫に値するからという説、樋が高千貫の土地を潤すからという説、
樋を造るのに銭千貫が掛ったという説がある。
境川橋の奥に”千貫樋”と書かれたコンクリート製の橋のようなものが見える。


現在の千貫樋は鉄筋コンクリート製
大正12年(1923)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m・深さ0.45m・幅1.8m・高さ4.5mだった。
再建された現在の樋は、全長42.7m・深さ0.45m・幅1.9m・高さ4.2mで、従来のものとほぼ同規模である。


交差点やバス停の名前も「千貫樋」となっている。


常夜灯
建立は、弘化三年(1846)で、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれている。
いずれも火を鎮める神様である。
名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものである。(清水町教育委員会)


10時4分、宝池寺(ほうちじ)の一里塚に到着
向かい側の玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれる。
江戸から29里目になる。
長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたため、昭和60年多くの篤志により原寸どおり復元された。


百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派の寺院
元亀二年(1571)の創建


玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚
宝池寺一里塚と対になっている。
この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残している。


玉井寺の白隠の遺墨
白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、
分かり易い禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧である。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と


山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、
いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(清水町教育委員会)


玉井寺の傍に石仏群が並んでいた。
道路整備などでここに集められたのだろう。


10時16分、国道1号線を横断(八幡交差点)


旧東海道(県道145号)を進む。


八幡神社があった。
でっかい文字で対面石と書かれている。
立寄ってみようという気にさせられたのは看板の宣伝効果だろう。


二の鳥居の先の神橋(太鼓橋)を渡ると、


どっしりとした社殿があった。


社殿の左裏に”対面石”があった。
治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、
源頼朝は鎌倉からこの地に出陣し、富士川で平家軍に大勝した。
黄瀬川に陣取っていた頼朝は、奥州から駆け付けた弟の義経とこの地で初めて対面し、
涙の対面を果たしたという。
この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を”対面石”という。
(清水市教育委員会)


長沢の松並木
地元の会社の前に距離にして約100mの松並木が残っている。


10時38分、狩野川の支流黄瀬川の袂に智方神社(ちかたじんじゃ)があった。


馬頭観音・庚申塔・正観世音菩薩塔・蛇塚などの石碑群がひっそりと立ち並んでいる。
黄瀬川の改修工事の際に川辺から智方神社に移されたものだそうだ。


智方神社拝殿
瓦の色が橙色をしている神社は、今まで見たことはない。



清水町で最も大きい樹木で、目通り7m・樹高28m・根回り18.8m。
足利方に敗れた後醍醐天皇の皇子・護良親王は建武二年(1335)鎌倉の土牢に幽閉され殺された。
お側に仕えていた南の方は密かにその御首を持ち帰る途中、黄瀬川の洪水に遭いやむなくこの地に葬った。
その目印に楠を植え白馬伝説をつけたと伝えられている。
また、有名な小説家井上靖は沼津中学校への通学時にこの樹の下で休憩したとも言われている。
(清水町教育委員会)


10時45分、狩野川の支流黄瀬川を渡る。


黄瀬川橋から富士山が薄っすらと見える。
黄瀬川を越えると沼津宿のある沼津市だ。
(カメラに埃が入って見づらいのはお許しを)


黄瀬川を越えた先に臨済宗の潮音禅寺が。


門を入って直ぐ左手に亀鶴姫の墓があった。
案内板には、
黄瀬川村に小野善司左エ門政氏なる長者あり、一子なきを悲しみ、祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。
七歳の春両親に死別、十八歳の時、源頼朝公富士の牧狩りの宴に再度召されたが応ぜず
この世を憂きことと思い、黄瀬川の水上、百沢の瀧のほとりに立ち、
「み佛の深きめぐみぞ頼みなる、身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも」の一首を残し、飛泉に身を沈む、とある。


旧東海道は東下石田交差点で県道380号に合流する。


東下石田交差点から800mほど進むと、直進の小さな道があった。
旧東海道は右方向だが、狩野川の流れを見るために左へ。


土手に上ってみると、狩野川が見え、その先に橋が見えた。


最初の橋を潜ってしばらく狩野川の流れを眺めながら進む。


狩野川に沿って進むこと約1Kmちょと、別の橋があったので、そこで旧東海道へ戻った。


県道に架かる横断陸橋に”三園橋”の文字が。
一つ橋を間違えて、平作地蔵・日枝一里塚・玉砥石を通り過ぎてしまっていた。


県道を日枝神社まで引き返すが、それらしきものは見当たらない。
確か平作地蔵・日枝一里塚・玉砥石はこの辺りのはずなのだが・・・


旧東海道は、県道(東海道)の他にもう一本別の道があることが分かり、探し回ること数分。
ようやく日枝一里塚・玉砥石を見つけた。


沼津日枝一里塚
日本橋から30番目の一里塚。
伏見一里塚から計測すると距離が不足する。
本来は本町地内に造るものを宿場内であるために東方に寄せて、
日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれている。


玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。
柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。


一里塚跡からさらに引き返すと、日本三大仇討ちの一”平作地蔵”があった。
この地蔵尊の創建は明らかではないが、有名な浄瑠璃”伊賀越道中双六”に出てくる、
沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊として、その名を知られている。


”旧東海道川郭通り”という通りがあった。
川郭町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川に接し、
背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。


「川郭」は、「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して、名付けられたものと考えられる。


12時11分、中央公園に到着
沼津城本丸址碑の真ん前でギターを弾いていた。
一言断って写真だけ撮影させて貰った。
この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置している。


沼津城本丸址碑
沼津城は、慶長十九年(1614)に三枚橋城が大久保家のお家断絶のため、廃城となった後、
安永六年(1777)、水野忠友によって築城された。
明治に入って敷地が民間に払い下げられてからは、大火や道路新設に伴って遺構が徐々に姿を消し、
現在では沼津城本丸址の碑のみが残る中央公園として整備されている。


大手町という町名が今も残っている。


三枚橋城の本丸入口付近の石垣を一部復元したもの。


三枚橋城の外堀址


初代広重画の東海道沼津宿


浅間神社と丸子神社の額が入った神社が。


浅間神社(左)と丸子神社(右)の提灯が
元々浅間神社が鎮座していたが、明治になって丸子神社が遷座され、
一緒に祀られ、一扉二社という珍しい形式をとっている。


旧東海道(県道163号)を進む。
そろそろお腹が空いてきた。
12時47分、西高交差点の御成道合流点に、たまたまコンビニがあったので、弁当を買い、


コンビニの隣の山神社という小さな神社で昼食タイムにした。


13時25分、昼食後再び旧東海道を進むと、道は二手に分かれていた。
右東海道、左千本街道とある。


千本松原があると聞いていたので、千本街道を進むことにした。
旧東海道とは並行しているので、直ぐに戻れる。


海岸へ出てみることに。
千本松原は、狩野川河口から田子の浦港の間約10kmの駿河湾岸に沿って続いている松原で、
日本百景・日本の白砂青松100選にも選ばれており、松林越しに富士山を望むことも出来る、
そうだが・・・


狩野川河口方面


田子の浦港方面
残念ながら松林越しに富士山を望むことは出来なかった。


千本街道に沿って松林を歩くことにした。


松林には小さな祠や墓地があった。


松林の中は「千本ジョギングコース」になっている。


千本街道へ戻ってみると、片浜小屋内運動場の手前だった。


旧東海道へ戻ってみると、承光山吉祥院(願満具足天満宮)があった。
寛文五年(1665)正月に沼津市岡宮の大本山光長寺の末寺として、本山第25世日淳聖人が創建。


14時16分、大諏訪松長一里塚跡を通過
日本橋から数えて、31番目の一里塚である。
現在は碑が建っているのみだ。


14時27分、片浜駅を通過


14時41分、東海道線踏切を横断


「奉納赤ちゃん泣き相撲大会」のちらしが目に付くようになった。


15時9分、ちらしにあった海上山長興寺に到着した。
「赤ちゃん泣き相撲」とは、
金毘羅さんの大神さまに元気な声を聞いて頂き、健康・無病を願う行事で、
行司さんの大きな掛け声で元気に泣いた赤ちゃんの勝!
200名を募集しているそうだが、既に満員札止めとのこと。
次の日曜日(5月29日)に開かれる。
そう言えばTVで何度か見たことがある。


前を行くあるグループと一緒になった。
沼津宿から原宿まで歩いているらしい。


大本山松蔭寺
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、江戸時代に白隠慧鶴が住職を務めた寺として知られている。
現在は臨済宗白隠派大本山である。
白隠は、禅画を確立したことでも名高く、好んで釈迦・観音・達磨などを描き、
現在松蔭寺に多数保存されている。


白隠禅師の墓があるようだ。


松蔭寺の山門の屋根は、石瓦葺きであることが特徴で、幅約30Cm、長さ約1mのものを1面3段54枚、
裏表合わせて108枚を用いて葺かれており、白隠禅師の考案と云われている。


松蔭寺本堂


すり鉢の松
松蔭寺には、白隠が岡山城主池田侯から贈られた備前焼のすり鉢を、
台風によって裂けた松の枝の雨避けに被せたというすり鉢の松が有名であった。
しかし、2010年に枯死したことから、現在かつての松は伐採されている。


グループの後に付いて寺の裏へ回ると、


白隠禅師の碑があった。
石燈籠の穴から白隠禅師の碑が見える。
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師は、
駿河国原宿長沢家の三男として貞享二年(1685)に生まれ、幼名を岩次郎と言った。


15歳の時松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられ、19歳より諸国の旅を重ね、
精魂を尽くして修行を積み、享保二年(1717)松蔭寺の住職となり、
翌三年34歳の時、京都妙心寺の第一座となった。
その後、禅の大衆化を図りついに500年に1人と言われるほどの高僧となり、
臨済宗中興の祖と仰がれた。


松蔭寺を後にして、この日のゴール原駅を目指す。
15時30分、白隠禅師誕生地の碑を通過


原宿本陣跡
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫で、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。
原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり、
問屋・年寄・名主等を勤めていた。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であった。


原駅入口交差点を左折して100mほど直進すると、


15時40分、ゴールの原駅に到着した。


東海道線で沼津へ向かう。


16時25分、この日の宿泊先、沼津駅北口2分の「ダイワロイネットホテルぬまづ」に到着


ホテルの窓から富士山が見えた。


「旧東海道を歩く」第Ⅱステージ1回目(三島宿~原宿)の初日を歩き終えて一安堵だが、
三島大社を出発して直ぐに道を間違えるという単純なミスで、時間を大きくロスしたことは
大きな反省点である。
その後も狩野川の流れ見たさに道を外れて目的地を大きく行き過ぎてしまったりしたことも
反省点の一つと言える。
一人で歩いていると、判断に多少の迷いがあっても、自由なことから、犯してしまうのかもしれない。
これからは、充分注意して歩こうと思っている。

この日の万歩計は、35,000歩を超えていた。

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