ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第1回 三島宿~吉原宿(2日目)

2016年05月23日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年5月23日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの約126Kmを
2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第1回は、三島宿~吉原宿を2日間かけて歩いた。

昨日(5月22日)は、第Ⅱステージの第1回(1日目)で三島宿~原宿間を歩いた。
この日は、第1回の2日目、原宿~吉原宿を歩くことにしている。

朝、ホテル(ダイワロイネットホテルぬまづ)からの眺望
今日も天気は良さそうだ。


富士山が薄らと見える。


8時25分、ホテルで朝食を済ませ、沼津駅北口へ。
通勤・通学の時間帯は過ぎているのか駅前は静かである。


8時55分、昨日のゴール地点原駅に到着し、2日目の出発だ!


原駅入口交差点を左に曲がると、旧東海道である。


原駅入口交差点から50mほどのところに高嶋酒造がある。
高嶋酒造は、江戸末期創業の老舗の酒造である。


明治17年(1884)から造られているという「白隠正宗」は、
山岡鉄舟が臨済宗の名僧白隠禅師にちなんで名づけたもの。
朝廷が白隠禅師に贈った国師号「正宗国師」に由来する、とのこと。
機会があれば一度飲んでみたい。


9時10分、新田大橋を渡る。
この時点で、富士山は殆ど見えない。
肉眼では薄らと見ることは出来るが、このデジカメでは・・・


旧東海道は、昨日からず~っとこのような一直線の道が続く。


9時15分、原宿の一本松一里塚跡を通過
日本橋から32番目の一里塚である。
かつては街道を挟んで両側にあったが、現在は宅地化されてその面影はなく、碑があるだけだ。


9時26分、三社宮(浅間神社)に到着


由緒には、次のように記されていた。
慶安三年(1650)創建、明治八年(1875)二月村社に列せられる。
当地の鎮守の神様である浅間神社は、三社宮とも呼ばれ、氏子、地域住民の崇敬を集めている。


境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命・大己貴命・少名彦名命が祭られている。


9時34分、西一本松バス停を通過


9時35分、大通寺に到着


二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう



大通寺本堂で旅の安全をお参り。


境内には六地蔵や、


地蔵菩薩像などが安置されていた。


念ずれば花ひらく
苦しいとき母がいつも口にしていた このことばをわたしもいつのころからか となえるようになった
そうしてそのたびわたしの花がひとつひとつひらいていった


9時47分、浅間愛鷹神社に到着


由緒には、次のように記されている。
祭神は、木花咲耶姫命、愛鷹大神
延享二年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により
当地の開拓が始まってから130年後である神社の建築物は、何回も改築されている。
今のは、昭和44年に建てられたものである。
境内社としては、山神社と天王社とがある。
当地区内には、別に、桜地蔵尊と稲荷神社とがある。
(社殿は、歴史を感じさせる建物ではない)


旧東海道を歩いていると、桜地蔵尊の案内表示があった。
浅間愛鷹神社で案内板を見たばかりなので行ってみることに。


東海道線の桃里西踏切を渡るが、堂も案内も見当たらない。


ひょいと右を見ると、白い建物の隣に赤い屋根のお堂のような建物が見えた。
『もしかしたらあの建物かも・・・』
行ってみると・・・


果して、桜地蔵尊堂のようだ。


戸は閉まっていたが、鍵はかかっていなくて、戸は簡単に開いた。
中には桜地蔵尊が祀られていた。
手を合わせて桜地蔵尊堂を後にした。


踏切を横断し、100mほど進んだ所で、


10時21分、富士市に入った。


さらに300mほど行くと県道380号(現東海道)に合流


10時32分、道路の反対側に六王子神社があった。
この六王子神社には「三股の伝説」という悲しい伝説が伝わる。
昔、沼川と和田川と潤い川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいた。
この渕には龍が棲んでおり、毎年お祭りをして、少女を生贄として捧げるしきたりがあった。


今から400年程前、関東の巫女7人が京都へ向かう途中、この生贄のくじを引き、
一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。
仲間の6人は国元へ引き返す途中、柏原辺りに来た時、悲しみのあまり世をはかなんで
浮島沼へ身を投げてしまった。
村人が六人の亡骸を一ヵ所に弔ったのがこの六王子神社だと云われている。
「おあじ」は鈴川の阿宇神社に祀られている。


10時37分、東田子の浦駅前を通過


10時41分、正法山立圓寺(りゅうえんじ)に到着


山門の仁王像(阿像)
力強い像だ。


立圓寺は、日蓮宗の寺院である。
この場所は眺めがよく、参勤交代の行列が休憩がてら富士山の眺望を楽しんでいたと伝えられている。
あいにくこの日は、富士山は霞んで殆ど見えなかった。


「望嶽の碑」
尾張藩の侍医柴田景浩が、文化五年(1808)江戸に下る途中、
立圓寺に滞在した時に冨士を賞して、この碑を建てた。
石碑の裏側には漢文でその云われが書いてある。
生来山が好きな私は、山を描くことも好きである。
富士ほど珍しい山は他になく、中でもこの場所からの眺めに勝るものはない。
参勤交代で何度もここを通ったが、休憩をとるたびについ富士に見とれてしまう。
できることなら富士のふもとで息絶えたいが、思うに任せられない。
だからせめて己の髪を切り、この場所へ埋めておく。
死後、私の魂が再び、この場所に戻ってこられるように。
私の姓名は柴田景浩、字を子博といい、龍渓と称される者で、尾張藩の侍医をしている。



「望嶽の碑」の横に「ゲラティック号遭難碑」がある。
碑横にはゲラティック号の重量4tのピンク色の錨が置いてある。


ゲラティック号遭難誌
インドネシア船籍のゲラティック号は、昭和54年10月19日、
台風20号による暴風と波浪のために柏原海岸沖で遭難。
インドネシア国籍の2人の乗組員の尊い命も奪われた。
船体は、直立のまま海岸線と防潮堤の中間の陸地に打ち上げられ、
新聞テレビのマスコミにも登場し、日曜・祝日には、五万人の人出を数え、
売店が十数軒出店するなど、近郊は勿論のこと東京愛知山梨より見物人が押しかけた。
船体は、6ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。
慰霊碑には、インドネシア国籍の2名の名前が刻まれている。
インドネシアとの友好の絆として建てられたらしい。


旧東海道(県道380号)を進む。


10時58分、昭和放水路の広沼橋を渡る。


昭和放水路を渡った直ぐの所に、


増田平四郎の像・一里塚跡の案内があった。


左の松林の方へ行ってみると、増田平四郎の像と説明板があった。
天保七年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807~1892)が、
浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治二年(1869)の春で、
人々は「スイホシ」と呼んだ。
平四郎は、韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ駕訴すること6度に及んで、
ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1867)に着工の運びとなった。
それは計画の発案から27年目のことであった。
事業は、身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、浮島沼から海岸まで全長505m、幅7mの掘割を
明治二年(1869)に建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡片もなく壊された。
平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
(富士市教育委員会)


米之宮神社(右)と


淡嶋神社(左)があった。
2つの神社がこのように並んであるのは初めて見た。


駿河湾を見たくなって、細い路地を通って海の方へ向かった。


松林を抜けると、


海岸に出た。海風が心地良い。
こちらは沼津方面


こちらは、田子の浦港方面


しばらく海風に当りながら海岸に沿って進むことにした。


富士マリンプール
6月25日の営業開始に向けて準備中だった。


富士マリンプールから田子の浦港方面を望む。
「田子の浦 うちいでてみればま白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」と
山部赤人に詠まれたことでも有名な場所。
現在は工業地帯となり、往時を偲ぶことは難しいが、
富士だけは昔のままの美しさで仰ぎ見ることができる。
(あいにくこの日富士山を仰ぎ見ることは出来なかった)


旧東海道へ戻ると桧というバス停の近くだった。


桧交差点で旧東海道は、左へ分岐する。


11時50分、旧東海道大野新田辺りを通過
お昼になったが、ファミレスやコンビニなどこれまで1軒も見当たらなかったし、
この調子ではこれからもありそうもない。


小さな店があったが、閉まっていた。


向いにパン屋があったが、ご飯類が食べたかったのでパスすることに。


高橋勇吉と天文堀の碑があった。
三新田(大野・桧・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、
大野新田の高橋勇吉(1806~1866)が、天保七年(1836)から嘉永三年(1850)の14年間の
歳月を費やして完成した排水用の掘割である。
勇吉は、大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で、彼が三新田の干拓を考えたのは天保七年の
大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで、排水計画の傍ら、多くの反対や苦難を乗り越え、
ようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て、立派な排水堀を完成させたのであった。
また勇吉は、自分の田畑や財産などを売り払って工事費に充てたと云われ、勇吉が天文の知識や
土木技術に優れていたことから、この掘割のことを「天文堀」と呼んだ。
(富士市教育委員会)


旧東海道を進んで行くと、大きな煙突が見えてきた。
(後で製紙工場の煙突だったことに気が付いた)


毘沙門天用観光バスの駐車場の看板が・・・
そろそろ妙法寺に到着する頃だが???
とりあえず毘沙門天に寄ってみよう。
(最初は、ここ毘沙門天が妙法寺だとは思っていなかった)


坂道を上って行くと、毘沙門天本堂が現れた。


せっかく来たのだからお参りして行こう。
線香の煙を全身に浴びて、


本堂へお参りを済ませた。
ここが妙法寺なのではないだろうか?
しかし、どこにも寺名が見当たらない。


近くに”お身拭い毘沙門天”があった。
あなたの身体の痛むところと、この像の同じところ(例えば腰・足・ひざなど)を
御布でよくさすって下さい。
毘沙門天王が代わって、その痛みを取り去って下さいます、とある。
さすがに今日は歩き疲れていたので、身体のあちこちをさすった。


毘沙門天を後にして次に進もうとしたところ、毘沙門天の入口に妙法寺の文字が見えた。
やはり、毘沙門天は妙法寺のことだったのだ。
毘沙門天が妙法寺だと分かって胸につかえていたものが取れてすっきりした。


旧東海道を吉原駅を目指す。
工場の煙突が次第に大きく見えるようになった。


東海道線の踏切手前に小さな蕎麦屋があった。
立寄ってそばでも食べて行こうかと思ったが、ちょうど昼時で混んでいる様子だったので、
そのまま吉原駅へ向かった。
吉原駅へ行けば何とか昼飯にありつけるのではないか?
(その考えは甘かった)


東海道線踏切を横断し、


12時43分、吉原駅に到着した。
しかし、不安は的中。吉原駅前には、一軒の店どころかコンビニもなかった。
お腹も空いて疲れもたまって来たので、この日はここをゴールとした。
三島駅まで戻って昼食することにして、電車の切符を購入(410円)した。
帰りは、三島から新幹線(こだま号)を予約しているためである。


13時17分、三島駅に到着。


三島駅前商店街へ。


うなぎ屋の暖簾をくぐって、


注文したのは値段の手頃な親子丼(1,340円)だ。
うな重(3,500円)は、自分にとっては贅沢品なので、やhり注文し辛い。
浜松宿または舞阪宿まで我慢しようと思う。


昼食後、新幹線こだま号で、東京に向かった。
当初の予定としては、吉原の少し先で左富士でも見て、吉原本町から帰ろうと思っていたのだが、
この日の富士山は殆ど見えなかったこともあり、次回の楽しみにとっておくことにした。
次回左富士を見れるかどうかは保証の限りではないが・・・

この日の万歩計は、23,000歩を計測していた。

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