ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第四回 (中山道)追分宿~坂本宿(2日目)

2015年05月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年5月25日(月)

第四回目は、中山道の追分宿~沓掛宿~軽井沢宿~坂本宿間(約27Km)を2日間かけて歩いた。
第1日目は、追分宿から軽井沢宿(約11Km)までを歩いた。
第2日目は、ここ軽井沢から坂本宿の横川駅までの約16Kmを歩く予定である。

第2日目
7時3分、朝食は少し早目にお願いしたが、快く受けてくれたのは有り難かった。
『おはようございま~す』
『今日一日も頑張ってくださいねっ!』


しっかりと食べてこの日の碓氷峠越えに備えよう。


8時11分、碓氷峠を目指して出発!


支配人によると、この辺りは高級別荘地で、有名な政治家や大物女優などが住んでいるそうだ。


街道からは少し外れるが、支配人に教えて貰った雲場池へ向かう。


8時31分、雲場池に到着。
『ほんとに美しいわね~っ』


雲場池(くもばいけ)
スワンレイクの愛称を持つ池で、初夏の緑と空の青さは何とも言えず美しく、
秋の紅葉は色鮮やかに雲場池に映し出される。
せり出すように茂る木々が水面に影を落とし、四季を通じて軽井沢ならではの風景を描いてくれる。(説明板)


もう少しゆっくりと景色を楽しもうとしていたところへ、ぞろぞろと大勢の若者たちがやってきた。
中国人らしい、朝の散歩のようである。
その数ざっと200人はいるだろうか、その賑やかなこと。
早々に池を後にした。


六本辻交差点
信号のない左回りのロータリーになっている。


しっかり確かめて、軽井沢宿方面へ。
ここで道を間違うととんでもない方向へ行ってしまう。


『今日も頑張ろうねっ』
女性陣は朝から元気である。


8時51分、旧軽井沢駅舎前を通過


碓氷峠への道
前方にも20人ほどの団体客の姿が。
こちらは静かだと思ったら、台湾からの観光客だった。


脇本陣「江戸屋」の看板があったので、覗いてみたら、単なるカフェだった。
『紛らわしいよねっ』


9時8分、軽井沢宿の一番奥に「つるや」旅館があった。
和と洋の調和、重ねられた時間が紡ぐ重厚感。
茶屋であった「つるや」が旅館業になったのは、明治19年頃のこと。
明治・大正・昭和を通じ島崎藤村など多くの文士たちの常宿として親しまれた。
最初はここを予約しようとしたが、料金が高いので止めた。


軽井沢宿の外れに芭蕉の句碑がある。
馬をさへ ながむる雪の あした哉
雪の降りしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。
人ばかりではない、駄馬などまでふだんと違って面白い恰好で通っていくよの意。(説明板)


避暑地軽井沢発祥の地
明治21年(1888)、別荘第1号を建てたカナダ生まれの宣教師A.C.ショーを記念し、
師の胸像、左奥に記念礼拝堂が建てられている。
右奥に移築・復元された別荘があるそうだ。


見晴台行きバスが走って来た。
これに乗れば楽チンだが、勿論乗るつもりはない。


矢ヶ崎川を渡ると、


碓氷峠まで3.3Kmの案内標識があった。
これは、道路の距離なので、歩くともう少しあると思われる。


右の遊歩道を進む。


遊歩道は緩やかで歩き易い。
緑に囲まれて実に気持ちが良い。


立派な吊り橋があった。


吊り橋を過ぎると、次第に山道になってきた。
しかし、それほど急ではない。


幾度か曲がりくねった山道を進むと、


横断陸橋が見えて来た。
碓氷峠まで1.3Kmの標識、遊歩道入口から2Km歩いたことになる。


陸橋を渡って道路の反対側へ。


9時52分、陸橋を渡ったところで、一息入れよう。


1.3Km先の碓氷峠を目指す。
陸橋を過ぎてからは、尾根のような道が続く。


眩しいほどの緑に気分が癒される。
『中山道の軽井沢側は本当に素晴らしいところだねぇ』


10時21分、熊野皇大神社と見晴台の分岐点に到着。
軽井沢宿の外れ「つるや」から歩くこと1時間10分だったが、それほどの疲れは感じなかった。
坂が急ではなかったことが要因だろう。


分岐点から数分で見晴台に到着
『いやぁ これは絶景だねぇ』


『妙義山しか見えないのはちょっと残念だけどねっ!』
『富士山はどっちの方向かな?』


見晴台は群馬県と長野県の県境となっている。
標識をバックに全員揃って記念撮影だ。


少し離れた場所からは、浅間山(2,568m)が見えた。


こちらは離山(1,255m)だ。


見晴台にはタゴール記念像が建立されていた。
ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールは、来日した際軽井沢で行われた
日本女子大の修養会に講師として招かれ、学生を前に「祈り」について講話を行った。
この像は、タゴールの生誕120年を記念して建立されたもので、
背後の壁には彼の言葉「人類不戦」の文字が記されている。(説明板)


軽井沢側との分岐点まで戻り、薬医門を潜って、熊野皇大神社へ向かう。


力餅で有名な碓氷山荘?


碓氷山荘はこちらだった。他にも似たような店が数軒。
どの店にも力餅の看板が。
力餅は碓氷峠を越える旅人が道中安全祈願で神社に詣でた際、護符として授与された餅が起源だそうだ。


10時52分、熊野皇大神社に到着。


石段を上ると、


変わった姿をした狛犬があった。
室町時代中期の作と伝えられ、長野県内では一番古い。
狛犬は、中国で陸前に魔物退治のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としているが、
ここの狛犬は、極めて素朴で大変親しみを感じさせている。(説明板)


門を潜ろうとした時、県境の標識が目に入った。


ちょうど神社の真ん中が県境になっているのだ。
以前TVで見たことがあるが、ここ熊野皇大神社だったのだ。


2つの熊野皇大神社が並んでいる。右が群馬県側、左が長野県側である。
『へぇ~っ 珍しいねぇ』
『どっちを拝んだら良いのかしら?』
ここは両方拝んで行くことにしよう。


群馬県側の神社本殿


長野県側には、科の木の大木があり、パワースポットらしい。


神社を後にする。


神社の石段の脇に、皇女和宮が江戸下向の折に小休止したと伝わる赤門屋敷跡がある。
加賀藩前田家の御守殿門に似せた赤門があった、とのことだが、今は小さな稲荷があるだけだ。


11時7分、坂本宿を目指し、碓氷峠の下り開始である。


案内標識には、8Km、130分とある。


松井田坂本宿方面へ。
”長坂道”との標識が立っている。


次第に急になるが、歩き辛いということはない。


小さな沢もある。


人馬施行所跡
笹沢のほとりに、文政十一年江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて
人馬が休む家を作った。


道中には、倒木などがそのままの状態である。
整備するのも大変なのだろう。


化粧水跡
峠町へ登る旅人が、この水で姿・形を直した水場、とあるが、水は流れていなかった。


目が滲みるような緑の中を進む。


11時36分、合流地点に出た。
戦国時代、武田方と上杉方の碓井峠合戦記があるとされる、古戦場「陣馬が原」である。


我々は左側から下りて来たが、右側が熊野皇大神社への道だ。
右側には「安政遠足(あんせいとおあし)」の標識が見える。


「陣馬が原」を過ぎた辺りから道が広くなった。


一つ家跡を通過
ここには老婆が居て、旅人を苦しめたと言われている、とのこと。


「山中坂」の説明板に見入る。
山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、「飯喰い坂」とも呼ばれ、
坂本宿から登って来た旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。(説明板)
『へぇ~っ 腹が減っては戦はできないってことだよね~っ』


「山中坂」(飯喰い坂)を下る。


安政遠足の標識があちこちに立てられている。
安政遠足は、毎年5月の第2日曜日に開催される行事。
この遠足の歴史は古く、安政二年(1855)に安中藩主板倉勝明公が、
藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走させ、
その着順を記録させたことが始まりで、日本のマラソンの発祥、である。
もう2週間早ければ安政遠足が見られたことになる。


山中学校跡
明治十一年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、二十五円の奨学金の下附があった。
また、供奉官から十円の寄付があった、と案内されている。
『こんな山の中に学校があったんだぁ』


山中茶屋
山中茶屋は峠の真ん中にある茶屋で、慶安年間(1648~)に峠町の人が用水を汲み上げる所に茶屋を開いた。
寛文二年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2ヶ所あった。
明治の頃小学校も出来たが、現在は、屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。
明治十一年と言えば1878年、今から120年ほど前のことになる。
『寺まであったとはねぇ 全く想像がつかないねぇ』


だらだら下りのまごめ坂辺りを進む。


視界が開けて遠くの景色が見えた。
しかし、どの辺りなのか、自分のいる場所も良く分からない。
熊野神社から3Kmは下っているのは確かだが・・・


だらだらの坂道(まごめ坂)が続く。


12時17分、熊野神社を下り始めて約1時間10分が経過していた。
一先ず小休止して水分を補給しよう。
適当な所で弁当にしたいが、適当な場所が見つからない。


栗が原
明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治八年、群馬県最初の「見回り方屯所」があった。
これが公番のはじまりである。
今は跡形もない。


弁当に適した場所を求めてひたすらに下る。
『いやぁ この道は長いねぇ』


「座頭ころがし」を下る。
案内表示には、
釜場(かんば)とも言い、急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。
それから赤土となり湿っているので、滑り易いところ、とある。


一里塚
座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
その途中に小山を切り開き、「一里塚」が造られている。(説明板)
お腹も空いていたので、一里塚はあきらめ、下ることにした。


12時43分、文化十五年(1818)作の北向馬頭観世音を通過。


続いて12時47分、南向馬頭観世音を通過。
寛政三年(1791)作とある。
昔、この辺りは山賊が出たところだそうだ。


12時49分、堀り切り跡を通過。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、
道は狭く、両側が堀り切られている。


だらだらとした坂が続く。


13時4分、坂本宿まで2.5Kmの標識が現れた。
近くに東屋もある。
ちょうど良い、ここで弁当にしよう。


東屋で弁当だ。


『東屋があって良かったわねぇ』


昨夜宿泊したホテルで作ってもらったおにぎり。
やや小さめだが空きっ腹だったので美味かった。


刎石茶屋跡
刎石山の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。
力餅・わらび餅などが名物だった。
今でも石垣が残っている。


弘法の井戸
弘法大師からこのところを掘れば水が湧きだすと教えられ、水不足に悩む村人は大いに喜び、
「弘法の井戸」と名付けたと言う。(説明板)


中は真暗で何も見えなかったが、ストロボの光が写っているところを見ると
水は今でも枯れていない。


風穴
刎石溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹き出している?
『風があるようには感じないわねっ』


馬頭観世音碑


覗(のぞき)
坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木がある。
一茶は、「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。(説明板)
『もう直ぐ坂本宿だねっ』
少し元気が出てきた感じだ。


上り地蔵下り地蔵
十返舎一九が、「たび人の 身をこにはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりとて」と・・・
その険阻な道は刎石坂である。(説明板)


刎石坂を登りつめたところにこの板碑のような地蔵があって、旅人の安全をみつめているとともに、
幼児のすこやかな成長を見守っている。(説明板)
『転ばないように気を付けなくちゃねっ』


刎石坂の途中に”大日尊”と刻まれた石があった。


”南無阿弥陀仏”と刻まれている石もある。
この辺りは碓氷峠で一番の難所だったところである。
旅人の安全を祈願して刻んだものと思われる。


柱状節理
火成岩が冷却・固結するとき、亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたもの。


かつての堂峰番所付近の急坂を下る。
(Iさんはこの時、かなり腰を痛めていたそうである)


次第に坂道が緩やかになってきた。


14時14分、国道18号が見えた。


14時16分、ようやく国道18号に合流した。


たまたま国土交通省のパトロールカーが通りかかったので、
Iさんを横川駅まで送ってもらうことにした。


Iさんを見送り、残った5名で坂本宿へ向かった。
妙義山がかなり近くに見えて来た。


国道18号から遊歩道アプトの道が見えた。
見覚えのある景色だと思ったら、2009年11月11日(水)に歩いたことを想い出した。


坂本宿の外れに八幡神社があった。


奇妙な姿をした狛犬
熊野神社で似たような狛犬を見たが、同じなのだろうか?


本殿にこれまでの旅の無事安全を報告。


本殿の中には神輿が鎮座していた。


14時38分、坂本宿の入口に到着


芭蕉の句碑
ひとつ脱て うしろに負いぬ 衣かへ
内容は木曽路下りのもので、碓氷峠のものではない、とのこと。


道標には、東 江戸へ三十四里 と刻まれている。
日本橋まで約136Kmということになる。


小林一茶の定宿
俳人小林一茶は、郷土信濃国柏原と江戸を往来するとき中山道を利用すると、
「たかさごや」を定宿としていた、そうである。
坂本や 袂の下は 夕ひばり


かぎや
連子窓と軒下の庵看板が往時の旅館の雰囲気を留めている「かぎや」。
先祖が高崎藩納戸役鍵番を務めていたことから、屋号を「かぎや」にしたという。


近世に設けられた坂本宿は、元々集落の少ないところに造成され、整然とした町割りが成された。
坂本宿の寛永年間の脇本陣は2軒。
現在1軒は跡地が公民館になっている。、


今も姿を残す脇本陣永井家は個人宅である。


佐藤本陣跡
坂本宿には上の本陣と下の本陣の2軒の本陣があった。
今は個人の住居になっている上の本陣佐藤家は、宿場の風情をよく残している。


下の本陣金井本陣跡
皇女和宮が江戸下向の文久元年(1861)11月9日に金井本陣に到着・宿泊。
翌日江戸へ出立された。


下木戸跡


上信越自動車道の下を通り、


横川駅へ。


霧積川の川久保橋を渡る。


15時27分、碓氷関所の東門に到着。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623)と云われる。


鉄道文化むら


15時38分、無事横川駅に到着
Iさんが見当たらないし、携帯が繋がらない。
1時間10分以上前に到着している筈で、恐らく前の電車(14時57分発)で先に帰ったものと判断するしかない。


15時59分発の高崎行き電車に乗車


『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


高崎から新幹線「あさま622号」に乗り、上野には17時46分に到着した。
家に着いたのは19時半頃だった。
Iさんの奥様から、1時間半ほど前にIさんが無事帰宅したとの連絡が入り、一安心。
携帯が電池切れになっていたため、充電中とのことで、繋がらなかった理由が判明。

次回(6月予定)は、信濃追分から軽井沢とは逆方向の上田までを歩くこにしている。
どんなハプニングが起こるか分からないが、何とか無事安全に歩きたいと願っている。

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