ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

関東ふれあいの道(神奈川)No.14「峰の薬師へのみち」

2014年05月11日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2014年5月11日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破し、認定証を受領した。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画したものである。

第15回目となる今回は、コースNo.14(峰の薬師へのみち:約10Km)を歩くことにした。
(注:梅の木平バス停から高尾山口までの1.5Kmを含む)
昨年(2013年)1月から開始した神奈川県「関東ふれあいの道」も今回が最終回となった。
今回で完全踏破する人は数人だが、ゴールの高尾山口で、ささやかながら祝杯を上げたいと思っている。

この日の参加者は10名である。
この日は津久井湖畔の城山高校バス停がスタートとなるので、上野駅から東京駅に向かう。


東京駅1番ホームへ。


8時40分発高尾行き中央線快速に乗り込む。


空いているうちに、と朝食をする人も。


9時10分、橋本駅に到着


橋本駅北口バスターミナルへ。


9時24分発の三ヶ木行きバスは既に到着していた。


バスの客は我々だけだった。


9時46分、スタート地点の城山高校前に到着。


早速準備体操をして、


9時51分、峰の薬師を目指して出発!


歩き始めて直ぐ県立津久井湖城山公園「水の苑地」の看板が目に入った。
津久井湖を見てみたいのと体調を整えるために、ちょっこっとだけ寄っていくことにした。


城山公園水の苑地の正面に見えるのは城山だ。
『3月にあそこを歩いたよねぇ』
2カ月前のことが懐かしく想い出される。


階段脇の斜面に紅白のツツジと黄色のモッコウバラ(木香薔薇:中国原産のバラ)が満開状態である。
『これだけのモッコウバラは珍しいわよねっ』


津久井湖が美しい。


体調を整え、あらためて峰の薬師を目指す。


三嶋神社前を通過


道は途中で右に折れ、峰の薬師への参道となった。


緩やかな坂道を上る。


この日も天気は良く、最高気温は25℃とのこと。
緩やかな坂道だが、次第に汗をかき始めた。
ちょっと木陰で一休みして、水分を補給しよう。


時々津久井湖が見え隠れする。


緩やかながら坂道が続く。


2度目の休憩


Y子さんが持参したオレンジが配られた。
このような暑い時に、冷たい水分を多量に含んだ果物はありがたい。
『いただきま~すっ』


もう直ぐ峰の薬師だ。


11時1分、峰の薬師の裏門に到着。
城山高校前バス停から1時間10分かかったことになる。


境内の一角には、”姿三四郎決闘の場”碑があった。
茶店の人の話では、富田常雄の長編小説「姿三四郎」を黒澤明監督が映画化。
ここで撮影が行われたそうである。


峰の薬師は、明応年間(1492年)の室町時代に創建された古寺で、武相四大薬師の一つとして有名だそうだ。
高尾薬王院、新井薬師、伊勢原の日向薬師と峰の薬師を四大薬師と呼ぶそうだ。


鐘撞堂をバックに全員の証明写真の撮影を済ませた。


本堂の少し先へ行ってみると、津久井湖の美しい景色が目に飛び込んだ。


峰の薬師からの眺望(動画)


『いやぁこれは実に美しい景色だねぇ』


左手には、橋本の高僧マンションが見える。
『天気も良くて今日は最高だねっ』


城山が目の前である。
時計は11時16分になろうとしていた。
昼食にはちょっと早いので、もう少し先を目指すことにした。


峰の薬師から10分ほど進むと、峰の薬師奥の院があった。
コンクリート造りだが、かなり傷んでいる状態だ。
50年近く経っているのかもしれないが、あたらめてコンクリート造りは案外寿命が短いものだと思った。
このような建造物は少なくとも100年以上は持ち堪えて欲しいものである。


奥の院から弁当を食べる場所を求めてさらに進む。


無線中継所の電波塔(その1)


無線中継所の電波塔(その2)


無線中継所の電波塔(その3)


なかなか弁当に適当な場所が見つからない。
こうなったら三沢峠を目指そう。


はて? どこか見覚えのある場所である。


いつの間にか神奈川県と東京都の都県境の三沢峠に着いてしまった。


時刻は11時46分、うまい具合にベンチが空いていたので、ここで弁当だ。


12時13分、弁当も終わり、梅の木平バス停目指して出発だ!


あまり特徴のない山道を下り初めて20分、周りに杉の木が目立ち始めた。


12時34分、休憩所の東屋を通過


さらに2分ほど下り、宿泊研修施設「高尾グリーンセンター」を通過。


「高尾グリーンセンター」を過ぎる辺りから、美しい杉木立の道になる。
こういう道は歩いていて気持ちが良い。


道端の草花が気になるらしく、あちらこちらで道草が始まった。


道端の石像には花が供えられていた。
無縁仏だろうか?


奥高尾の高級懐石料亭「うかい竹亭」前を通過。
一度こういうところで静かに京風懐石料理を味わってみたいものである。


『なかなかこんなところには来れないよねぇ』
年金暮らしの身としては懐具合が気になる雰囲気ではある。
因みに、竹亭懐石(\11,880)、高尾懐石(\6,860)と紹介されている。


間もなく、梅の木平バス停である。


13時14分、ゴールの梅の木平バス停に到着。
しかし、高尾山口まで行かなければ本当のゴールとはならない。


高尾山口行きバスは16時過ぎまでないため、ここは歩くしかない。
このことは最初から想定内である。


高尾山IC


高尾山IC
2年前の3月に東京都の「湖のみち」で通った時はちょうど開通式が行われる日だったことを想い出した。


国道20号線を高尾山口を目指す。


高尾山薬王院の自動車祈祷殿が見えてきた。


13時35分、高尾山入口交差点に到着
ここを左折するとケーブルカー駅に続く。


高尾山入口交差点近くのそば処「橋詰亭」へ。


先ずはビールで『かんぱ~いっ』
『完歩おめでとうございま~すっ』
全15回のうち、完歩は全部で3名である。
もう1回が2人、もう2回が1人と続いており、完歩は時間の問題、何とか頑張って欲しい。


女性陣も祝杯を上げている。


おでんを肴に飲むビールが美味い!!


祝杯の後、京王高尾山口駅へ。


JR高尾からは、始発の中央特快で東京神田へ。


皆さん、ややお疲れの様子
『皆さんっ 今日は大変お疲れ様でしたぁ』
神田までひと眠りがよろしいようで・・・


この日も好天に恵まれ、神奈川県の最後のコースとなる「峰の薬師へのみち」を歩くことが出来た。
今回で一応神奈川県の「関東ふれあいの道」は終わったが、まだ全コースを歩いていない人もいるので、
これからはコース案内人として、皆さんとできるだけ共に歩き、踏破認定の一助となるよう頑張りたい。

次の「関東ふれあいの道」は、埼玉県に決まった。今年9月開始を予定している。
また、皆さんと一緒に元気に楽しく歩きたいものである。

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まるで競歩 額田城跡と曲がり屋を訪ねる

2014年05月10日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2014年5月10日(土)


毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第5回(2014年第15回)、「額田城址と曲り屋を訪ねる」ウォーキングに参加した。


この日は水郡線・ディーゼル列車を乗り継いで古社寺や萱葺き屋敷の風景を楽しむ、
というもので初めての企画である。
「茨城歴史探訪ウォーキング」(メイツ出版)を参考にした。
水郡線額田駅をスタートし、3度も乗り継ぐため、「ときわ路パス」が利用できる土曜日の実施とした。

この日のウオーキングマップ(その1)
この日のコースマップは1枚で表すのと縮小し過ぎるため、2枚にしている。
先ず水郡線額田駅をスタートし、鈴木家住宅を訪ね、次に額田城址を目指す。
時間があれば阿弥陀寺に寄り、額田駅に戻る。
次は額田駅から上菅谷駅へ行き、那珂市曲がり屋を訪ね、宮の池公園で昼食。
不動院に立寄って上菅谷駅に戻る。


この日のウオーキングマップ(その2)
最後は上菅谷駅から再び水郡線に乗り、後台駅で下車し、清水寺を目指す。
清水寺参拝後は後台駅へ戻り、帰路に就くという、全長約9Kmのコースである。


荒川沖駅7時5分発の電車を待っているところ。


常磐線車内
この日の参加者は、荒川沖駅から15名、土浦駅から5名の合計20名となった。


仲良し3人組
『今日は楽しみにしてるわよ~っ』


水戸駅で水郡線のディーゼルカーに乗り換える。


水郡線車内も土曜日のためか、比較的空いていた。


ホームの反対側に停まっている列車は、水郡線全線開通80周年の記念企画として、
5月から運転されている「水郡スターライン」である。
車体を星形の蓄光シールで装飾したラッピング車両で、夜間は車体の星形が光って見えるという。
7月21日まで、水郡線水戸~郡山間および水戸~常陸太田間を走る定期列車として運用される、そうだ。


8時45分、3分遅れて額田駅に到着


駅前の地図でコースを確認。
『今日はこの辺りを歩くんだねっ』


駅前の広場で準備体操をして、


8時53分、出発!


先頭はOさん、女性陣に囲まれてご機嫌である。
県道62号線を鈴木家住宅を目指す。


後方を務めるのは、会長のIさん。
『のんびりと後ろを歩くのが楽で良いよっ』


麦の穂が風になびいている。
のどかな風景である。


9時3分、最初の国道349号線を通過
額田城跡は、もう一度国道349号線を渡らなければならない。


さらに県道62号線を10分ほど進むと・・・


この日最初の訪問地「鈴木家住宅」の看板があった。


鈴木家住宅
江戸中期の建築で、当時就藩した藩主の瑞竜山墓参の昼食場となっていた、鈴木市十郎宅であった。
鈴木市十郎は、水戸藩時代庄屋を務め、とくに徳川光圀の娘を迎えたほどの旧家と云う。


この家のお婆さんが『上がって!』としきりに奨めるので、家に上がらせてもらう。
お婆さんは一生懸命に説明してくれた。
徳川光圀公が西山荘への往復の途中に立ち寄り、宿泊にも用いたとも云われている、そうだ。


鈴木家住宅の平面構成は8畳敷きの2室からなる。
奥の間は平書院造りに改修し、御殿風の造りになっている。
『この書院に水戸様(徳川光圀公)が宿泊していた』とのこと。


書院造りの間から庭を見ると・・・


光圀公が植えたと伝えられる2本のモチノキ(樹高10m、推定樹齢300年)があった。
那珂市指定の天然記念物となっている。


お婆さんはまだまだ話し足りなかった様子だったが、時間の都合上先を急がなければならない。
厚く礼を述べて鈴木家を後にした。
『ありがとうございましたぁ』


2度目の国道349号線を通過して額田城跡への入口を探したが、なかなか見つからない。
県道62号線には額田城跡を示す案内板はなく、道を探すのに一苦労。


細い道があったので進んで行くと、案内標識が現れた。
県道にも設置して欲しい標識である。
右側は堀跡と思われる。


二の丸と本丸の間に設けられた空堀を渡る。
かつては、ここに橋が架けられていたと思われる。


これは二の丸と本丸の間に設けられた堀跡だ。
当時はもっと深く、簡単には渡れないように水を湛えていたものと思う。


本丸はもう直ぐのようだが、額田城跡は想像していたより、広い。


堀跡は杉林となっている。
堀の杉は自然に生えたものだろう。


案内板で確認中。


額田城跡の説明が紹介されている。
額田城は、建長年間(1249~1256)佐竹氏5代義重の次男義直が鎌倉初期に築城し、
額田氏を名乗るようになったものと云われている。
10代義亮の時、佐竹氏宗家と対立し、応永31年(1424)佐竹13代義人に攻められ落城し、額田氏は亡んだ。 
その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり、以後七代善宣に照通に異心ありとし、攻められ、落城した。
照通は陸奥へ亡命し、以後廃城となった。
城の歴史は17代、約340年続いた。


額田城跡の案内図


案内図によると、空堀に沿って歩いてきたところは二の丸で、この案内板の前も二の丸である。


空堀を通り、


本丸へ。


この辺り一帯が本丸ということだろう。
『しかし、ここの本丸はもの凄く広いねぇ』


数百m四方に渡って杉の木が林立している。
案内によると本丸跡面積は16,000㎡というから4,800坪にも及ぶ。
「100名城巡り」でこれまで全国のいろんな城を見て来たが、これほど広い本丸は初めてである。


本丸の中の本丸を探しているうちに、数人を残して皆さんは先へ行ってしまった。
皆さん、天守閣や石垣などの遺構もない城跡には興味はないのだろう。


説明によると、
内部に四方約60m、高さ約1mの主殿跡と思われる遺構がある、とのことだが、
これがその主殿跡なのだろうか。


この時点で時刻は9時53分、上り列車は10時27分である。
ここでゆっくりと過ごしている時間はない。阿弥陀寺への立寄りは断念せざるを得ない。
先行する仲間の後を追って額田駅へ急ぐことにした。


額田城跡の道は堀であったり、土塁であったりするが、道案内がまったくないため、
元の県道に出るのに一苦労。
先行する皆さんはどの道を進んだのだろうか?


携帯電話で連絡を取りながら、兎に角先行する皆さんを追いかける。
1つ目の国道349号線を過ぎ、2度目の国道349号線の信号のところでようやく皆さんに追いついた。


時計は10時15分、列車まであと12分しかない。
兎に角全員駆け足にも似た急ぎ足で額田駅へ向かう。
『今日はウォーキングじゃなくて、競歩みたいねっ』


10時20分、何とか額田駅に到着。
全員が駅に到着したのは、10時23分であった。
『10時27分の列車に間に合って良かったねっ』


ほどなく上りの列車が来た。


10時38分、上菅谷駅に到着


上菅谷駅は真新しかったが、駅前のお手洗いは旧いままだった。
この秋に新しくなるそうだ。


10時50分、曲がり屋目指して上菅谷駅を出発!


水郡線の踏切を渡り、


300mほど進むと、左手に大きな池(一の関ため池親水公園)が現れた。
池の向こうに那珂市役所の建物が見える。


池に沿って進むと・・・


11時ちょうど、那珂市曲がり屋に到着した。
江戸時代末期に那珂市戸崎地内に建てられた茅葺の民家を解体保存し、平成10年から「一の関ため池親水公園」内
への移設工事を開始し、平成11年に復元が終了した。


厩(うまや
「曲がり屋」とは、土間と厩が突出し、住居部分と馬小屋・物置が一体となった居宅形式で、
寒さの厳しかった東北地方と茨城県の一部に見られる民家である。
厩には、かつては馬がいたが、今は農作業の道具を展示していた。


囲炉裏


かまど
萱や柱を煙で燻すことで、虫がつくのを防ぐため、かまどでは毎日、火を燃やしている、とのこと。


曲がり屋全景


奥の縁側で少し休憩していこう。


裏から見た曲がり屋
どっしりとした萱葺き屋根が頭の高さに迫っている。


那珂市市役所


那珂市市役所前を進み、


右に折れて水郡線の陸橋を渡る。


陸橋を渡る頃には時計は11時22分を差していた。
そろそろお腹が空いてくる頃だ。


陸橋から右手を見ると、目の前に上菅谷駅が見える。
前方は水戸方面である。


11時29分、宮の池公園に到着。


公園内の適当な場所を見つけよう・・・


目の前には大きなグラウンドが広がる。
ここなら眺めも悪くない。


『ここで弁当にしましょうっ』


こちらは東屋で弁当だ。


昼食後、宮の池近くの不動院へ向かう。


宮の池
東西に外周500mほどの大きな池が2つ並んでおり、春は桜の名所としてたくさんの人が訪れる、とのこと。


12時11分、不動院本堂に到着
不動院は、王朝の昔から900年の法灯を伝えてきた古刹で、延宝3年(1675)水戸光圀公の命により再興され、
現在の山号、寺号に改められた。


安産や子育て、病難除け、金運などに御利益があるとされている。
不動堂にお参りを済ませる。


弘法大師像


次の上り列車の発車時刻は12時22分である。
あと8分しかない。急ぎ上菅谷駅へ向かう。


12時16分、上菅谷駅に到着。
今度も何とかぎりぎりで間に合った。


12時22分発の上り列車で再び水郡線で後台へ
上菅谷駅ホームは、この時間は上りと下りが同じになっており、両方の人でホームはいっぱいになった。


半数の人が下り列車で行っってしまったため、上りはほぼ我々だけとなった。
ほどなく上り列車がやってきた。


12時33分、後台駅で下車。


後台駅周辺は学校が多いためだろう、駅の駐輪場には自転車がいっぱいだ。
『物凄い数の自転車だねぇ』


12時34分、後台駅から2Km先の清水寺(しみずでら)を目指す。


のんびりとした田園風景の中、清水寺に向かう。


県立那珂高校の校舎が見える。


12時49分、県立那珂高校の入口を通過


左手には茨城女子短期大学、


右手には那珂市立五台小学校、小学校の裏には水戸農業高校と学校が多い。
この辺りは後台という地名で、駅は後台だが、小学校は五台と名前が混在している。
かつてこの周辺には那珂郡の「五台村」があり、その五台村が後に那珂町に合併されてからは、
五台村という名の代わりに後台という別の名前が使われるようになった、そうである。
今でも、周辺では旧村名を使う施設もある、とのこと。


清水寺までもう少しだ。


清水洞の上公園の看板


13時6分、清水寺に到着。
後台駅からちょうど30分を要したことになる。
清水寺は、元禄十年(1697)に、徳川光圀公が明の僧心越禅師のために、京都・清水寺を模して建立したと云われる。
本尊は、心越禅師が明の杭州永福寺より持参した白衣観音で、「清水の観音様」として世人の信仰が深いものだったが、
大正十年(1921)1月、火災で消失してしまった。
現在の御尊像は聖観世音菩薩となっている。


清水寺の大杉
樹高30m、根回り9.47m、樹幹回り5.2m、推定樹齢500年
那珂市の天然記念物に指定されている。


清水洞の上公園
豊富な湧水がある池や山林が広がる。
天然湧水を活かした公園には池や遊歩道があり、四季折々の風景を楽しみながら散策できる。
この日は後台駅13時56分発の列車に乗らなければならない。
ゆっくりと見て行きたいが、時間がない。


止むなく後台駅へ戻ることにする。


後台駅へ向かう。


後台駅へ向かう。


前方に後台駅が見えて来た。


13時46分、後台駅に到着。
列車の到着まで残り10分、何とかセーフだ。


『いやぁ今日は少々歩き疲れたねぇ』


『発車時刻過ぎてるのにまだ来ないのかしらねぇ』


14時ちょうど、4分ほど遅れて水戸行き列車がやって来た。


水戸から常磐線に乗り継ぎ、土浦駅で降りる人を見送る。
『それじゃぁ お先にっ』
『今日はお疲れ様でしたぁ』

この日の万歩計は既に20,000歩を越えていた。

初めて列車を乗り継いでのウォーキングであったが、列車の本数が少ないため、時間に縛られて、
ゆっくりと訪問地の景色や歴史を楽しむということは出来なかった。
列車の時刻を気にするあまり、一部の区間ではまるで競歩のようなウォーキングとなった。
水郡線に3度も乗り換えるというのは、ちょっと欲張りすぎたかもしれない。
もう少し余裕のあるウォーキングにすべきだった。

県道62号線に額田城址への道順が示されていなかったのは、残念であった。
額田城址は予想以上に広く、空堀や土塁など見どころもあることから、
那珂市に今後の改善点として取り上げていただければと思っている。

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京都嵐山から常寂光寺へ そしてトロッコ列車

2014年05月06日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2014年5月6日(火)


二条城への登城後、京都嵐山へ向かった。
かみさんが是非渡月橋を歩いてみたいと仰るのである。
JR二条駅から山陰本線で15分ほどのJR嵯峨嵐山駅で降りて、嵐山渡月橋を目指すことにした。

JR嵯峨嵐山駅には13時頃に到着した。


JR嵯峨嵐山駅に隣接してトロッコ嵯峨駅があった。
聞けば、渡月橋までであれば、次のトロッコ嵐山駅よりもトロッコ嵯峨駅からの方が距離が近く、
次のトロッコ嵐山駅までは住宅街を走るため景色もあまり良くないとのこと。
また、トロッコ列車は終点のトロッコ亀岡駅まで乗っても、次の駅までの1駅で降りても料金は
620円で、変わらないとのことである。
嵐山渡月橋まで歩いて15分ほどらしいので、歩くことにした。


JR嵯峨嵐山駅前で昼食を摂り、渡月橋へ向かった


街中ではあちこちで人力車を見掛ける。
今はちょっとした歴史を感じる街へ行けば人力車を見掛けることが多い。


渡月橋近くの通りに到着した。
先ほどの街中に比べると人通りが一段と多い。
道路は歩行者専用のように人が歩いているが、時々車が走るので危ない。


天龍寺の参道前を通過。


JR嵯峨嵐山駅から15分ほどで渡月橋に到着した。
TVなどで見慣れた景色であるが、自身の目で見るのは初めてだ。


渡月橋を渡ってみよう。
想像以上の人の列である。


渡月橋から見た桂川下流の景色


渡月橋を渡ったところで、記念写真を撮り、引き返すことにした。


渡月橋を引き返すにも人の列が続く。
GW最後の休みで天気も良いとなれば、これは当然のことなのだろう。


渡月橋から見た桂川上流(大堰川)の景色


渡月橋の橋の袂で客待ちをしている人力車夫。


天龍寺山門があったので、ここを通って行けばトロッコ嵐山駅へ行けるだろうと考え、山門をくぐって中へ。


山門に続く中門を通って天龍寺の奥へと進む。
午前中に二条城を歩き回ったので、天龍寺の建物はどうでもよく、
最短距離で竹林の道へ行ければ良いと思っていたのだが・・・


中門をくぐってしばらく進むと法堂(はっとう)があった。
予備知識なしだったので、天龍寺のことは全く何も知らず、どこに何があるのかさっぱり見当がつかない。
たまたま寺の人と思われる人がいたので、訪ねると、この先から竹林へは行けないとのこと。
ただし、庭園(有料)を見た後であれば、北門からは出られる、とのこと。


仕方なく引き返して竹林の道を目指すことにした。
天龍寺の山門から法堂までの往復は余分だったことになる。
次第に歩き過ぎた疲れが出てきたせいか、かみさんからも愚痴を言われるようになってきた。
『これはちょっとやばい』


細い径を進むと、両側に竹林が現れ始めた。


ここも人が多い。
立ち止まって写真を撮るにも一苦労である。


この辺りの竹林はやや細い竹である。


鬱蒼とした竹林の中に野宮神社(ののみやじんじゃ)があった。


野宮神社を過ぎて、両側が竹林の中を進むと、天龍寺北門があった。
庭園(有料)を見た後であれば、ここから出ることが出来るのだ。


天龍寺北門を過ぎた辺りから竹林の竹が太い孟宗竹に変わった。


竹林もきれいに手入れされている。


これだけの竹に囲まれるというのは初めてである。
あちこちでカメラを構える人で通路は大賑わいである。


大河内山荘庭園
時代劇「丹下左膳」などで知られる、俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園である。
時間もあまりないので、次の機会(?)に訪れることにした。


14時53分、トロッコ嵐山駅に到着。
次の15時10分発のトロッコ亀岡行きに乗ろうと思ったが、既に満席とのこと。
仕方なく、その次の16時10分発の切符(指定席)を買い求めた。何とか買えて一安心。
しかし、まだ1時間以上もあるため、それほど遠くない常寂光寺へ行ってみようということに。


小倉池を左手に見ながら常寂光寺(じょうじゃっこうじ)へ向かう。


常寂光寺へ。


小倉池から5分ほどで常寂光寺に着いた。
山門をくぐって境内に入り、その奥で拝観料400円を払い、寺内へ。


常寂光寺仁王門
慶長元年(1596)、大本山本圀寺十六世究竟院日上人が、この地に隠棲して開創した。
寺域が幽雅閑寂で、天台四土にいう常寂光土の観があるところから寺号となった、とのこと。


常寂光寺は古来、紅葉の名所として知られる、小倉山の中腹に寺域を占める日蓮宗の寺院である。


常寂光寺のもみじの緑が素晴らしく美しい。
秋は全山紅葉に包まれるというから、見事な紅葉を見せてくれるのだろう。
かみさんならずとも、秋にもう一度訪れてみたいものである。


苔むした景色も何とも言えない静けさと美しさがある。


じっとしていると常寂光寺の緑に染まりそうである。


石段を上ると鐘楼があった。


百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあるため、境内から嵯峨野を一望できる。


常寂光寺にはもみじの緑だけではなく、竹林もある。


鐘楼の先に多宝塔が見えた。


多宝塔
元和六年(1620)の建立で、檜皮葺造り。高さは12mある。
国の重要文化財に指定されている。


もっとじっくりと常寂光寺の緑に浸っていたいが、トロッコ列車に乗らなければならないので、
常寂光寺を後にしてトロッコ嵐山駅へ向かった。
売物件の看板が。
常寂光寺の直ぐ傍ということもあるし、値段は見当もつかない。


小倉池の池畔に御髪神社(みかみじんじゃ)なるものがあった。
日本で唯一の頭と髪の神社だそうだ。
列車まで若干時間があったので、かみさんは先に駅へ行ってもらい、立寄ってみることにした。


人間の頭を守る髪は頭の神様でもあり、最近では合格祈願等の参拝に訪れる人も多いらしい。
そう言えば、若い参拝者がたくさん訪れていた。


御髪神社の御祭神は、藤原采女亮政之公(ふじわらうねめのすけまさゆき)とのこと。


15時10分発の列車の案内があり、トロッコ列車のホームへ。


トロッコ亀岡行きの列車が来た。


驚いたことに、先頭3両が停まっているのは、トンネルの中である。
トンネルの中にホームはなく、後ろ2両がトンネル手前で停止していることから、
前3両に乗る場合は、後ろ2両からの乗車となるのである。


トロッコ列車からの眺め。
指定席は進行方向左側だったので、しばらくは保津川の景色を楽しむことが出来た。


ゆっくりと走ってくれるのはありがたいが、デジカメの素人にとっては、ピントが上手く合わせられない。
比較的写りの良いのをと選んだのがこの写真である。


トロッコ列車からの眺め
このピンボケで、我慢していただくしかない。


トロッコ列車からの眺め


トロッコ保津峡駅を過ぎると、景色は進行方向右側になってしまった。
列車は立席もあるが、満員状態である。
この状態では右側を見ることは難しい。
最初に左側を見れたことだし、トロッコ亀岡までじっと座って我慢することにした。


16時38分、トロッコ列車は終点のトロッコ亀岡駅に到着した。
折り返してトロッコ嵯峨駅行きになるのだが、今度は先頭となる5号車「ザ・リッチ号」は直ぐに満席になった。
「ザ・リッチ号」は窓がないため、これからの時期は人気が高いのだと思う。


トロッコ列車の編成は写真のようになっている。
因みに我々夫婦が乗ったのは、2号車だった。


トロッコ列車亀岡駅からは、


徒歩で最寄りのJR馬堀駅へ向かうことになる。
回りは田んぼ(まだ耕してなくて水も張られていない状態)ばかりで他に何もない。


トロッコ亀岡駅から5分ほどでJR馬堀駅に到着した。


JR馬堀駅から亀岡までは山陰本線を利用する。
JR馬堀駅に下りの電車がやって来た。


17時3分、JR亀岡駅に到着。
ここから愛車を停めてある道の駅「ガレリア亀岡」まで約1.5Kmである。
疲れているが頑張って歩くしかない。


亀岡市役所が見えてきた。
残り500mほどだ。


17時30分、道の駅「ガレリア亀岡」に到着した。
『お疲れさ~ん』


この日は朝から道の駅「ガレリア亀岡」を出発してJR亀岡駅まで歩き、二条城の外堀までも一周するなど歩き回った。
それだけでもかなり疲れたが、その足で京都でも有数の観光地である嵐山渡月橋を歩き、天龍寺・竹林の道・
常寂光寺と回って疲れはピークに達したが、小倉山の緑で少し癒されたのは救いだった。
さらには、トロッコ亀岡駅からJR馬堀駅、最後はJR亀岡駅から道の駅「ガレリア亀岡」まで歩いて戻るという、
強行軍であった。日頃あまり歩かないかみさんからはブーイングが浴びせられてしまった。
因みにこの日の万歩計は、27,000歩を越えていた。

この後、亀岡ICから沓掛ICまで京都敦賀自動車道を走り、沓掛ICから京都市内を走り抜け、
京都東ICで名神高速道に乗り、自宅へと向かった。


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日本100名城巡り No.53 二条城

2014年05月06日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年5月6日(火)


この日は朝から、二条城へ登城(訪問)した。

二条城は、慶長八年(1603)徳川幕府初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営した。
この時の城は、現在の二の丸に相当する場所にあった。
その後、三代将軍家光が、後水尾天皇の行幸にあわせて、寛永三年(1626)に改修を行った。
その時に本丸御殿と総塗籠の白亜の五重天守が作られ、今日の規模となった。

慶応三年(1867)、十五代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、
明治十七年(1884)離宮となった。
その後、昭和十四年(1939)に京都市に下賜され、平成六年(1994)には、「古都京都の文化財」のひとつとして
ユネスコの世界文化遺産に登録された。

駐車場を探す手間もあるし、車で二条城へ行くのは避けたい。
二条城に近いJR二条駅までは、電車(山陰本線)を利用することにした。
そのため、前夜は京都二条城からもそう遠くない、亀岡市の道の駅「ガレリア亀岡」に車泊した。


道の駅「ガレリア亀岡」から亀岡駅までの約1.5Kmは歩くことになる。
国道9号線を京都方面に向かって500mほど進むと亀岡市役所があった。


亀岡市役所からさらに約1Km進むとJR亀岡駅があった。
ここから山陰本線で二条へ向かった。山陰本線に乗るのは初めてである。


亀岡駅から20分ほどで二条駅に着いた。
ここからいよいよ二条城へ向かう。


10分ほどで二条城東大手門に到着。
近世城郭の典型的な櫓門である。


東大手門から真っ白な北方多聞塀と東南隅櫓を見たところ。


東大手門から北方面を見たところ。
堀川通りに面している。


東大手門前のチケット売り場には次々に人が訪れ、チケットを買い求めていた。
一人600円である。


いよいよ東大手門を入る。


中から東大手門を見たところ。


東大手門を入ると、直ぐ右手に番所がある。
案内板によると、
徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していた。
一つの組は50人で構成され、二条城には2組が常駐し、毎年四月に他の組と交代していた。


この番所はその在番の詰所の一つで、寛文三年(1663)に建てられたことがわかっており、
間口十間(19.6m)、奥行三間(6.1m)の切妻造りの建物となっている。
現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である、とのこと。


東南隅櫓を城内から見たところ。


東大手門正面の築地塀に沿って左(南)へ進み、二の丸御殿の唐門へ向かう。


二の丸御殿の唐門
まことに絢爛豪華な門である。
屋根は檜皮葺となっている。


唐門をくぐると正面に二の丸御殿車寄(来殿者の受け付け)がある。
寛永三年(1626)、後水尾天皇行幸に合せて改修した姿で現存している。
車寄の後ろの大きな建物は、遠侍(昇殿した大名の控室)である。


二の丸車寄に二の丸御殿の略図(間取り図)があった。
車寄・遠侍・式台・大広間・黒書院{小広間}・白書院{御座の間}などが連なる。


車寄から先は撮影禁止となっている。
御殿内部の絢爛豪華な障壁画など、天守や石垣とはまた違った城の魅力を感じさせてくれる。
絵画・彫刻・建築に、桃山から江戸への時代の移り変わりを見ることが出来る。
二の丸御殿の床板を踏むと、キュッ・キュッと音がなることから、「うぐいす張りの廊下」と云われている。
”百聞は一見に如かず”、自身の目で確かめるのが一番であろう。
二の丸御殿内は30分ほどで一回りできる。

二の丸御殿の遠侍裏に御清所がある。
二条城の調理施設である。
二条城内の建物はその殆どが重要文化財であるが、この建物も重要文化財となっている。


二の丸御殿を出て、二の丸庭園へ向かう途中、庭園入口に釣鐘が置かれていた。
説明によると、
この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたもの。
鐘は二条城と所司代に設置された。
二条城では東北隅の艮櫓(うしとらやぐら)跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し、
鐘楼を建て、鐘が設置された。
幕府の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、
鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡を告げ、明治に入ってから二条城に京都府が置かれた時も
非常時に備え、使用されていた。そうである。


二の丸庭園へ。


二条城二の丸庭園
松の木が多い。全てがきれいに手入れされている。


二の丸御殿の建物(式台・大広間・黒書院)に沿って二の丸庭園を進む。
見えている建物は大広間(将軍が諸大名と対面した部屋)と思われる。


二条城二の丸庭園
池には自然な形で石が配置されている。
小堀遠州の作と伝えられている、とのこと。


大広間から黒書院への廊下に沿って進む。
前方に見える建物は黒書院(将軍と親藩及び譜代大名が内輪で対面した処)と思われる。


庭園に青サギがいた。


二の丸庭園
庭は、寛永三年(1626)、池の南側に後水尾天皇の行幸御殿が建てられた際に改造されたと云われており、
大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から見られるように工夫されている、とのこと。


二の丸庭園から見た二の丸御殿大広間
本瓦葺の屋根の二の丸御殿と庭園との調和が美しい。
二の丸庭園にはたくさんの松が植えられているが、1本だけ蘇鉄があった。
大広間と黒書院の間に蘇鉄の間があるが、何か関係があるのだろうか?


二の丸庭園を出て、次は本丸へ進む。
本丸への正面入口に本丸櫓門(本丸正門)があり、東橋を渡って中へ。
本丸櫓門は窓など無く、あまり見慣れない形をしている。


東橋から南方面(左方向)の内堀を望む。、


東橋から北方面(右方向)の内堀を望む。


本丸櫓門の虎口を通り抜けると、


大きな建物が目に入った。本丸御殿御常御殿である。
本丸御殿は、玄関・御書院・御常御殿・台所及び雁之間の4棟からなるが、御常御殿だけが一部二階建になっており、
中二階があるため、三階建のように見える。


本丸庭園を進む。
庭園は明治時代に作庭されたもの、とのこと。
この時期はツツジなどの花がアクセントとなって美しい。


唐破風造りの本丸御殿玄関


天守閣跡へ行ってみよう。


天守閣跡は、本丸御殿の南西隅に位置する。
天守は寛延三年(1750)落雷で焼失し、現在は何も残っていない。


天守閣跡から本丸庭園、本丸御殿を望む。


天守閣跡から西南隅櫓方面を望む。
堀の脇に見えるのは土蔵(南)で、米蔵である。


本丸御殿の出口へ向かう。
現在、門などは残っていない。


西虎口を出ると西橋がある。


西橋から本丸天守閣跡を望む。


西橋を出たところに休憩所があった。
普通は、ここから右回りで清流園を通って東大手門へ向かうことになるが、
それでは本丸御殿の南側は見ることが出来ない。


かみさんを休憩所に残して、一人で本丸御殿を一周してみることにした。
時計回りで本丸御殿を一周する。


内堀に土蔵(北の米蔵)がある。
天守閣跡から見た土蔵(南の米蔵)とは別の蔵である。


左手に西門(埋門)が見えた。
埋門は、非常時には土砂などで埋めて塞ぐことを想定して構築された門のことを云う。


北方向から本丸御殿の西橋を見る。


北中仕切り門へ至る通路は青々とした木々に囲まれていた。
歩いていて清々しくなる。


北中仕切り門
北中仕切門は、二条城内の北部(本丸の北辺)を東西に分ける門である。


清流園側から見た北中仕切り門


北中仕切り門を通り抜けると、清流園になる。
「加茂七石」が並べられていた。
手前から畚下石ふぐろいし・紫貴船石・紅加茂石・糸掛石・畑石・鞍馬石・八瀬真黒石
の7つの石から構成されている。海に浮かぶ小島を連想させる。


清流園には茶室和楽庵や香雲亭と呼ばれる建物がある。
市民大茶会をはじめ、国賓公賓の接遇場所として利用される、とのこと。
この日は香雲亭で結婚式が行われていた。新郎新婦の姿が見える。


清流園から内堀を見る。
突き当りの白い建物は、先ほど見た土蔵(南米蔵)である。


鳴子門を通って東橋へ。


本丸櫓門と東橋
西橋の休憩所を出て、ここで本丸をちょうど半周したことになる。


東橋を通過し、桃山門方面へ。


桃山門
鳴子門よりも大きく、堂々たる門である。
長屋門の形をしている。


桃山門の先を右に曲って「桜の園」を進むと南中仕切り門がある。
南中仕切門は、二条城内の南部(本丸の南辺)を東西に分ける門で、
北中仕切り門と同じ形をしている。


南中仕切り門の先に梅林が広がっていた。
梅の木は綺麗に手入れされていて、それぞれの木にたくさんの実が生っていた。


梅林を過ぎて右に曲がると西橋前の休憩所は直ぐだ。
これで本丸を一周したことになる。


かみさんと一緒にもう一度本丸御殿の北側を通って、今度は東大手門へ向かう。
清流園では、先ほど香雲亭にいた新郎新婦が記念撮影を終わったところだった。


清流園は、江戸初期の豪商、角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石800個を譲り受け、これらをもとに
二条城にふさわしく、雄大・明朗・風雅をモチーフに全国から集めた銘石300個と新たに茶室を加え、
昭和四十年(1965)に歓声した。


清流園を過ぎ「緑の園」との間に北大手門があった。
先ほどの結婚式関係と思しき車が出て行くところだった。


北門の先を右に曲がると、東大手門へ行くことになる。
両側に土蔵が並んでいる。


塀を兼ねたような大きくて長い蔵である。


この大きな築地塀の裏が二の丸御殿である。


東大手門への途中に休憩所があった。
この休憩所では、自由に休憩したり、


土産物を買い求めたりできる。


東大手門を出た。
外堀の回りを歩いてみよう。
今度は、嫌がるかみさんを説得して一緒に歩いた。
東大手門から北へ進む。北の突き当りまで駐車場になっている。
この駐車場であれば、入口に2mほどのゲートはあったが、避けて通れそうだったので、
我キャンパーは入れたかもしれない。


突き当りで後ろを振り返って東大手門方面を見る。


北東の隅から西方面を望む。


北大手門
二条城の北側にある大手門で、東大手門より一回りほど小さいが構造がそっくりな櫓門である。
先ほどの結婚式関係と思われる車はここから出入りしたのだ。


北西の隅から南方面の外堀を望む。


西門(埋門)
西門は城の搦手となる門で、石垣と多聞塀の間に埋め込まれた密やかな構えとなっている。
埋門は、非常時には土砂などで埋めて塞ぐことを想定して構築された門のことを云う。
橋は取り外されていた。


西側の美福通り。
南西方面を望む。


二の丸西南隅櫓が見えてきた。


二の丸南西隅櫓
一重目に唐破風が使われ、均整のとれた美しい形をしている。


二の丸西南隅櫓と二の丸東南隅櫓の中間に位置する南門
大正天皇の御大典の際に造営された、とのこと。
かつてここに橋があったのだろう。


二の丸東南隅櫓
東大手門の南側に位置する5間x6間の二重櫓で、一重目に千鳥破風が使われている。


二の丸東南隅櫓を左に曲がり、堀川通を進むと東大手門である。
これで外堀を一周したことになる。

朝、道の駅「ガレリア亀岡」を出発し、予定外の二条城外堀を一周したりして大分疲れたが、
『せっかく京都まで来たことだし、嵐山の観光を楽しんで帰ることにしよう!』
ということで、JR二条駅へ向かった。

5月4日の篠山城に始まって、5日の姫路城・明石城、そしてこの日の二条城で今回の「日本100名城巡り」は終わった。
これで85の100名城を巡ったことになる。
関西・近畿地区で残る城は大坂城のみとなった。
残るのは、九州・沖縄地区だが、自宅から遠い所ばかりなので、これからの城巡りは簡単ではない。
しかし、ここまで来たら何とか頑張って100名城登城を目指したい、と思っている。


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日本100名城巡り No.58 明石城

2014年05月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年5月5日(月)

前夜は明石城から最も近い三木市の道の駅「みき」に車泊したので、
この日は朝から明石城へ登城(訪問)した。

明石城の築城者は小笠原忠真(おがさわら ただざね)である。
松本城主だった小笠原忠真が元和三年(1617)に明石の地に入った。
翌年、西国大名に対する監視と備えとして、2代将軍徳川秀忠より築城の命が下る。

元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった付近の城の用材を用いて、
元和五年(1619)から1年間で明石海峡を望む丘陵端に築城された。
自然地形を巧みに利用した三重三段構えの堀と塀に囲まれた曲輪には、忠真の義父であり、
築城の指導に当った姫路城主の本多忠政の手腕が発揮されている、とのこと。

明石城は、別名を喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。


先ず駐車場を探して城の回りを一周したが、我キャンピングカーの高さを受け入れてくれる駐車場が見当たらない。
どれもみな入口に2mほどの屋根があるものばかりである。これでは我愛車は入れない。
見落としていないか、と2週目に入ろうとした時、目に入ったのが、Max-Valuとダイキ共用の駐車場だった。
この駐車場は、ゲートの高さはフリーで問題ない。料金は何か買い物をすれば一定時間(3時間)は無料になる。
時間を超過した分だけ払えば良い、というシステムである。

早速、そこに車を止めて明石城へ向かった。時刻は9時15分である。
しかし、事前に城の地図など入手する時間・手段が全くなかったため、感を頼りに城へ向かった。
明石駅方面へ向かう途中、いこいの広場の入口があったので、ここから入ることにした。


入口を入ると直ぐに右手に陸上競技場が見えた。
城の一角と思しき場所にこんな大きな競技場があるとは驚きだ。


さらに進むと剛の池があった。


かなり大きな池である。
これも城内の一部なのだろうか?


”まぁ何とかなるだろう”という感を頼りに緩やかな坂道を進む。
自分としては明石駅方面の明石城を目指しているつもりであったが・・・


「喜春橋」とある。
明石城の別名を喜春城ということは事前に調べていたので、この名前があると云うことは
やはりこの方角で良さそうだ。


正面に近代的な建物が見えて来た。


県立図書館だ。


右側には明石市立図書館である。
この時は、城の中に図書館があるのだ、と思った程度であった。


ただ、図書館前の案内には、真直ぐ進めば明石城だが、明石駅は反対方向となっている。頭が少々混乱してきた。
明石城と明石駅が逆方向とは???
ここまで来たら、明石城と示された道を進むしかない。


しばらく進むと自転車競技場が現れた。
図書館はまだしも自転車競技場があるとは・・・
この辺りになってやっと方向違いであることを薄々感じてきた。


この堀が薬研堀と分かったのは後のこと。
この時、薬研堀が城のどの辺りに位置するのかはまだ全く分かっていなかった。


東ノ丸入口の石垣を見てようやく城に辿り着いたことが分かった。


東ノ丸虎口
かみさんはこのようなところにはあまり興味はないらしく、そのまま先へ行ってしまった。


かみさんとは後で会えば良い。
少し東ノ丸を見ておきたい。
東ノ丸は、公園として整備されている。


東ノ丸隅


東ノ丸隅からの眺望(明石海峡大橋方面)


デジカメの望遠を一杯にして何とか明石海峡大橋の鉄塔が見えた。


東ノ丸と箱堀(左側)の間の通路
(後で聞くと、かみさんはここを下りて行ったらしい)


かみさんと携帯で連絡を取り合うも、お互いに何処に居るのか分からないため、
かみさんの後を追いかけることにした。
東ノ丸を出て、東ノ丸入口に出ると、市立文化博物館があった。


市立文化博物館から明石市市内の眺望
JR明石駅方面


市立文化博物館横から明石市市内の眺望
明石海峡大橋方面


再び東ノ丸へ戻り、二ノ丸方面を望む。


ニノ丸へ向かう。


ニノ丸も公園として整備されている。


東ノ丸・ニノ丸の石垣
石垣の外は森のように木々が生い茂っていて、木以外は何も見えない。


ニノ丸から本丸へ向かう。
二ノ丸と本丸の間に三ノ丸へ通じる通路があるが、ここを下るのは本丸の後にしよう。


巽櫓(たつみやぐら)が見える。
本丸の南東の方角にあるので巽櫓(たつみやぐら)と呼ばれる。
船上城の遺材が使用されたと伝えられている、とのこと。


巽櫓
三重櫓で美しい形をしている。あいにく中には入れなかった。


巽櫓と坤櫓(ひつじさるやぐら)の中間に展望台があった。
展望台からJR明石駅方面を見たところ。


展望台から西芝生広場を見たところ。
地元の高校生によるブラスバンド(鼓笛隊)が演奏し、拍手喝采を浴びていた。


巽櫓から坤櫓へ向かう途中、明石生まれの俳人横山蜃楼句碑が建てられていた。
鵙の声 屈するところ なかりけり


横山蜃楼句碑の隣に柿本人麻呂を祀ったとされる人丸塚(ひとまるづか)があった。
案内板には以下のように説明されている。
・弘仁三年(812)僧空海がここに楊柳寺(ようりゅうじ)を建てた。
・仁和の頃(880年の頃)住職覚証が柿本人麻公の夢のお告げで人麻公を祀った。
・明石築城後は城の守り神として祀られてきた。


坤櫓(ひつじさるやぐら
本丸の南西の方角にあることから、坤櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれる。
この他にも明石城には四囲を守護した北西に乾櫓(いぬいやぐら)、北西に艮櫓(うしとらやぐら)の
三重櫓が建てられていたが、 現在は、坤櫓・巽櫓2基のみが現存している。
初重に千鳥破風、二重目に唐破風が置かれた白漆喰塗籠の端正な三重櫓である。


坤櫓の前に明石城絵図が展示されていた。
この頃になってようやくかみさんと連絡が取れ、場所が特定出来たことから、坤櫓内で待つことにした。
雨も降って来たので中へ入って待つことにしよう。


かつての明石城のジオラマ模型


坤櫓の内部
坤櫓は伏見城から移築(伏見城の遺材を使用)されたと云われる。
また、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている、とのこと。


坤櫓の内部


坤櫓の内部
櫓内のあちこちに古い材料が展示されていた。


昭和五十五年10月から巽櫓・坤櫓の改修工事が行われた。
その際に撮り替えられた古い時代の屋根瓦が展示されている。
唐破風鬼瓦


軒巴瓦(のきともえがわら


坤櫓から巽櫓を見たところ


坤櫓から見た稲荷曲輪の石垣


本丸跡は、芝生が植えられ、公園となっている。
ところどころに石垣などに使ったと思われる石が残されている。


本丸南西部に築かれた天守台へ上がってみる。天守台は広い。
熊本城天守台に匹敵するほどの巨大なもの、とのこと。
しかし、天守は建てられなかった。


天守台から稲荷曲輪方面を望む。
第1野球場のバックスクリーンが見える。


天守台から稲荷曲輪方面を望む。
陸上競技場の一部が見える。


稲荷曲輪へ通じる坂道


稲荷曲輪には雑木が生い茂っていた。


稲荷曲輪から見た天守台の高石垣
美しい曲線を描いている。


稲荷曲輪から本丸へ引き返す。
本丸入口虎口の石垣


再び本丸に戻り、二ノ丸へ進む途中、艮櫓(うしとらやぐら)跡を示す案内があった。


かつてここに三重の艮櫓があった。
本丸の鬼門にあたる櫓として重要であったが、明治初期に学校建築用として解体された、そうである。


二ノ丸から西芝生広場へ向かう。


西芝生広場への石段
二ノ丸の石垣が美しい。


途中で振り返ってみた。


二ノ丸と東ノ丸の境にある高石垣
曲線が素晴らしく美しい。


二ノ丸と東ノ丸の境にある高石垣


明石公園西芝生広場の日時計


明石公園西芝生広場で囲碁の対局が行われていた。
明石を囲碁の”まち”にしよう会」が主催する囲碁大会、らしい。
明石市は囲碁が盛んなようだ。


指導囲碁会場
プロ?の指導を受ける人とそれを観戦する老若男女で大賑わいである。


数人の若手プロ?による対局指導が行われていた。
小雨の中、傘を差して順番に相手を務めている。


西芝生広場から見た明石城本丸の2基の三重櫓の雄姿。
本丸南面を固めていた、均整のとれた巽櫓(右)と坤櫓(左)が並び建つ。眺めがいちばん明石城らしい姿である。
両櫓ともに平成7年に阪神淡路大震災で被災したが、修理工事は終わり、それに合わせて両櫓を結ぶ土塀も復元整備された。
あいにくの小雨ですっきりと見えないのが残念だ。


いったん城の外に出て、あらためて太鼓門(大手門)から登城することにした。
正面入口(太鼓橋)前の中堀


正面太鼓門(大手門にあたる)の入口。
太鼓橋を渡る。


太鼓門虎口


西芝生広場の一角に御茶室があったので、休憩を兼ねて立寄っていくことにした。


明石城巽櫓と御茶室


御茶室


御茶室から「武蔵の庭園」の「乙女池」が望める。


一服の抹茶と和菓子が出された(400円)


笹に包まれた和菓子は麩饅頭だった。
もっちりとしている。


城内を歩き回った後だったせいもあって、お茶はもちろん、麩饅頭も、
『結構なお味でしたっ』


そろそろお腹も空いて来たので、茶室の人に教えて貰うと、「魚の棚」を紹介された。
明石駅を通り抜けると、直ぐに「魚の棚」(アルファベットではUONTANAと表示されている)へ到着。
茶室を出てから10分とかからなかった。


全長約250mのアーケード付きの大きなマーケット(市場)である。
大勢の人で賑わっていた。


売られているのは、やはり”たこ”が圧倒的に多い。


たこ・タコ・蛸である。


かみさんが、明石名物の「明石焼き」を食べたいというので、明石焼き店へ。
明石焼き店は何軒もあったが、どの店も長い行列ができていた。
1軒の小さな店に並んで待つこと15分、ようやく中へ案内された、
並んで待つ間に「明石焼きセット」の注文を済ませていたので、出て来るのは早かった。
たこの炊き込みご飯と板の上に載せられた15個の明石焼きが出て来た。これで1人前である。
焼き立ての熱い明石焼きを特性のスープに付けて食べる。これが実に美味かった。
これで850円は安い!


お腹もいっぱいになり、そろそろ駐車場へ戻ろう。
Max Baluに到着した時には13時を5分ほど過ぎていた。4時間近く経ったことになる。
買い物をすれば3時間以内であれば無料だが、3時間を経過すると30分毎に200円の有料となる。
超過料金として400円を払ったが、それでも通常の有料駐車場に比べれば安いことは間違いない。


明石城の地理に不案内というか、不勉強だったせいで、城内でお互いに迷子になってしまったが、何とか城内を巡れて一安堵。
最初に明石駅を目指してそこからスタートしておけば良かった、と反省している。
この後、二条城のある京都へ向かう前に、これまでの疲れをとるため、かみさん念願の有馬温泉「金の湯」で
汗を流していくことにした。
明日は、二条城に登城することにする。


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