ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.59 姫路城

2014年05月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年5月4日(日)


この日は午前中に篠山城、姫路城には午後登城した。
姫路城には、これまで2度(2000年9月と2008年5月)観光で訪問しているが、「日本100名城」のことは全く知らなかった。
従って、今回の登城は「100名城」のスタンプ押印が目的である。
改修工事が終わってから登城すれば良い、と考えていたが、工事中の姫路城に登城しておくのも悪くない、
と考え直し、今回の登城となった。

姫路城の創築は、南北朝時代の初めとされる。
羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて、近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称した。

今日に残る城の形にしたのは、徳川家康の娘婿池田輝政で、9年の歳月を費やして慶長十四年(1609)、
徳川家康が大坂城の豊臣氏に備えて、大坂や京都から山陽や山陰へ通じる交通の要衝に築城した。

五重六階地下一階の大天守に3基の小天守を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。
その後、本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張をもつ名城が完成した。

明治時代に失われた部分もあるが、昭和の大修理が施され、平成5年に日本を代表する城として、
世界遺産に登録されている。
姫路城は、白鷺にたとえられ、別名を白鷺城(はくろじょう)という。
現存する城郭建築としては日本一の規模を誇る。


14時36分、姫路郵便局前の駐車場(600円)を出発。
駐車場の一角から工事中の姫路城の天守閣の一部が見えた。
自分が城のどの辺りにいるのかまったく見当がついていない。
まぁ、天守閣を目指して進めば何とかなるだろう。


城見台公園に設置された鯱鉾越しに姫路城が見える。


城見台公園に続く、東御屋敷跡公園を進む。


東曲輪の入口に出た。
何とかここから入れそうだ。


工事中の姫路城
正面右の高石垣の上に見えているのは、帯の櫓か?
高石垣は城内最高の石垣で、高さ23.32m、とのこと。


二の丸太鼓櫓(への櫓)と高石垣
城内有数の高石垣で、高さは19.87mあるそうだ。


三の丸広場に出た。
2008年5月に訪れているので、見覚えがある場所である。


三の丸広場から、西の丸(左側)から天守閣(右側)を見渡してみる。
さすがに大きい。


姫路城天守閣
工事中の天守閣も悪くない、と思ってはいたものの、『う~ん、やはり完成した天守閣が見たい』


チケット売り場には大勢の人が押し寄せていた。
チケット売り場脇の管理事務所で「100名城スタンプ」を押し、城内へ。
時計は、15時を5分ほど過ぎたところである。


入城口を入って左手に進むと菱の門がある。


菱の門は二の丸の入口に位置する櫓門。
名前の由来は、正面の冠木に木製の「花菱」が飾られているから、とのこと。
残念ながら日陰になって暗くて「花菱」は見えない。
竪格子窓、華頭窓、出格子窓を配し、黒漆の格子に金箔の装飾が施された優雅で豪華な城門である。


菱の門から東方石垣の土塀越しに天守閣を見たところ。
この石垣は秀吉時代を代表する石垣で、野面積みの「布積み崩し」の典型、とのこと。


菱の門の内側


菱の門から人の流れに沿って西の丸方面への坂道を上る。
西の丸は、本多忠政の嫡男・忠刻と徳川家康の孫・千姫の居館として、
千姫の化粧料10万石で元和四年(1618)に造営された。


西の丸「ワの櫓」


西の丸から見た天守閣群が美しい。
左から乾小天守・西小天守・大天守


ワの櫓から化粧櫓へ続く渡櫓の長局(百間廊下:約250m)を歩くためには20分以上待たなければならない。
ワの櫓の入口へ続く通路には長い行列が出来ていた。
前回訪問した時(2008年5月)に1度歩いているので、今回はパスすることにした。


西の丸「ヌの櫓」


西の丸「化粧櫓」の出口
化粧櫓の名前の由来は、千姫が男山の天満宮を遙拝する時に休息し、化粧を直したと伝えられていることによる。


西の丸北門跡から見た天守閣


「はの門」手前の土塀
右手に進むと「ろの門」になるが、はの門へ進む。


脇戸付櫓門「はの門」を通って乾曲輪へ。
はの門は有事の際には土砂などで封鎖する、そうだ。


はの門の柱の礎石に石灯篭の基礎が使われている。
築城の際に石が不足したために、姫山などにあった墓石などを石垣に転用した、とのこと。


はの門の先に乾曲輪がある。
乾曲輪から見た「にの門」東方上土塀・石垣と天守閣


「にの門」東方上土塀の櫓には、官兵衛十文字紋の鬼瓦があるとのこと。


よ~く見ると、鬼瓦に十文字(クロス)の紋が見える。官兵衛ゆかりの鬼瓦だ。
官兵衛はキリスト経に入信していた。
洗礼名は「ドン・シメオン」と云ったそうだ。


「ろの門」(高麗門)を通って二の丸へ向かう。


ろの門を内側から見たところ。


ろの門から「ぬの門」へ続く高石垣が美しい姿を見せてくれる。


ぬの門


ぬも門手前の高石垣が美しい曲線(扇の勾配)を見せている。


扇の勾配の途中の石に刻印が見える。
見どころの一つだそうだ。


ぬの門前の石は、よく見るとハートの形をしている。
子供たちに評判のようで、探し当てて喜んでいた。


ぬの門から振り返ると、西の丸化粧櫓が見えた。


ぬの門をくぐると二の丸上山里曲輪である。


二の丸上山里曲輪から工事中の天守閣を見上げる。


二の丸上山里曲輪の一番奥に「りの門」があるようだが、工事中のためこの先の備前丸・本丸には進めない。
右は太鼓櫓(への櫓)と思われる。


二の丸の「チの櫓」では「官兵衛の歴史館」が開催されていた。
「りの一渡櫓」の入口には大勢の人が並んでいた。


後ろにも人、人、人の列が。
TVドラマ「軍師官兵衛」の人気の高さが伺える。


仕方なく並んで待つこと20分、ようやく中に入ることができた。
内部は姫路城の成り立ちから黒田官兵衛に関する史料や甲冑・兜などが展示されていた。


上左:栗山家家紋(丸に三柏)入
上中央:母里友信紋(釘板紋)入
上右:白水牛脇立兜
下中央:空穂(うつぼ:矢を納めて射手の腰や肩に付ける細長い筒)


右:古頭形兜・紺糸威丸胴具足・緋羅紗洋套


黒田官兵衛孝高(如水)所用の銀白檀塗合子形兜
合子とは、蓋付きお椀のこと。
官兵衛(如水)が九州で天下をねらう軍を率いた時に着用した。「如水の赤合子」と世に恐れられたと云われる。
実物は現在、「もりおか歴史文化館」が所蔵している、とのこと。


根来塗大水牛脇立兜


官兵衛時代の石垣
姫路城は池田輝政によって築城されたが、羽柴秀吉の築いた姫路城の縄張りを踏襲した大改修だったため、
秀吉時代の石垣が残っている、そうである。


秀吉時代の築城には黒田官兵衛が携わっていたと考えられている、とのこと。
下山里下段や菱の門東方、乾曲輪裏の石垣にその名残(野面積み)が見られるとのこと。


二の丸中央にお菊井戸がある。
その回りを大勢の人が取り囲んで何やら覗きこんでいる。
説明板には、次のように紹介されている。
永正年間(1500年頃)、城主小寺則職の執権青山鉄山が主屋横領を企てているのを、忠臣衣笠元信の妾(いいなずけ)で、
青山家に住み込んでいたお菊が探知し、元信に知らせて城主の難を救った。
しかし、鉄山は浦上村宗等の加勢によって則職を追放し、一時主家を横領した。
村宗等を招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は、家宝の十枚揃いの皿の一枚を隠し、
お菊を責め殺し井戸に投げ込んだ。


その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえたという。
『一ま~い、二ま~い』
やがて、元信が鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内に祀られた、とのこと。


二の丸を出て左に曲ると「るの門」(穴門)があった。
この門は正規の通路から外れた位置の石垣に穴をこしらえ、その通路が目に付かないようにした一種の抜け道で、
姫路城特有のもの、だそうだ。


帯の櫓から帯郭櫓に通ずるところにも穴門がある、そうだ。


穴門を外側から見たところ。


穴門から出て右に進むと、三国堀曲輪である。
三国堀曲輪の菱の門辺りから見た三国堀
後ろに見えるのは、西の丸化粧櫓と思われる。


偶然にも三国堀に一羽の白鷺がいるではないか。
まさに白鷺城の名に相応しい。


菱の門前の三国堀から見た天守閣も素晴らしい。
覆いがなければの話だが・・・


菱の門から見た「りの一渡櫓」と「りの二渡櫓」
「官兵衛の歴史館」が開催されていたところである。
これで一通り城内を回ったことになる。


菱の門を出て入城口へ向かう途中に見た天守閣
工事中の天守閣も悪くない、と思ってはいたが、やはり覆いのない天守閣を見たいものである。
工事が終わったら、もう一度訪れたい、と強く思った。


三の丸からもう一度天守閣を見る。


姫路城大手門(内側)
姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門であった、そうだ。


姫路城大手門(外側)
現在、大手門と呼んでいる大型の高麗門は昭和十三年(1938)に完成したもので、
位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっている、とのこと。
そのうち、といってもいつになるか分からないが、復元されるのだろうか?


桜門橋から大手門を見る。
この桜門橋は、江戸時代の木橋をイメージして平成十九年(2007)に復元されたものである。


桜門橋前の土産物店(ろの屋敷)
店内は観光客で大層賑わっていた。


左は「ろの屋敷」、右は「はの屋敷」の土産物店
中央は、姫路城天守閣である。


土産物店の近くに「ひめじの黒田官兵衛大河ドラマ館」があった。


パンフレットには”大河ドラマ「軍師官兵衛」の世界を体感”と謳っているが、
閉館時間とのことで、中には入らなかった。


少し街中をと思い、本町商店街を歩いてみたが、人通りは少なかった。


本町商店街に続いてみゆき通りがあったが、こちらも同じような状況だ。


ただし、この黒田屋 官兵衛商店だけは大いに賑わっていた。


この後、駐車場へ向かい、17時23分に到着。何と! 駐車場には自分のキャンピングカー以外に車が1台も見えない。
係員がまさに、門を締めようとしていた時に到着したのだ。係員も我々の姿を見てほっとした様子だった。
駐車場が17時に閉まってしまうとは全く知らなかった。係員の方には待たせて申し訳なかった。

修復工事中の姫路城であったが、GWということもあってか、大勢の人が訪れていた。
完成すれば、さらに大勢の観光客が押し寄せるかもしれないが、もう一度訪れてみたい。
やはり姫路城は、天に聳える天守閣群を見ないことには、始まらない。
完成した直後や連休中は、大変な人出が予想されるので、時期を見て訪問することにしたい。
この日はガイド無しの城巡りだったが、次はボランティアガイドと一緒に回ることも考えてみたい。

この日は、午前中に篠山城、続いて姫路城と回ったので、少々歩き疲れた。
明日は明石城へ登城することにしているので、この日の停泊先である道の駅「みき」を目指した。


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日本100名城巡り No.57 篠山城

2014年05月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年5月4日(日)


前夜、篠山城から最も近い道の駅「丹後おばあちゃんの里」で一泊し、
この日は朝から篠山城を訪問した。
昨年(2013年)7月26日の松坂城以来、およそ9カ月ぶりの登城である。
篠山城旧大手門跡から見た北側の市役所通り。この辺りは、大手門馬出があったところだ。
真直ぐ進むと商店街がある。


城の北側(市役所側)の大手門跡から篠山城方面を見たところ。
中央に見える大きな屋根が、大書院である。
この辺りに大手門があったとみられるが、今は何も残っていない。


廊下門前
篠山城は、慶長十四年(1609)、徳川家康が大坂城の豊臣氏に備えて、大坂や京都から山陽・山陰へ通じる交通の要衝に築城した。
天下普請により築城工事は進められ、総奉行は池田輝政、縄張は築城の名手籐堂高虎であった。
別名を桐ヶ城という。


篠山城は、天下普請で築かれた丹後の堅城である。
廊下門跡から内堀と二の丸、本丸の高石垣を望む。


廊下門跡の石垣
現在はここから登城するようになっている。


それでは、登城してみよう。
廊下門先の正面に虎口がある。


鉄門(くろがねもん)へ至る櫓門の石垣
ここにかつて中門があった。


石垣には様々な刻印が刻まれている。
200種以上の刻印があるとのこと。


中門跡を過ぎると鉄門(くろがねもん)跡が現れる。
二の丸へ至る最後の門跡である。正面は大書院の玄関。
説明板には、
絵図によると、櫓門形式の門があり、呼び名のとおり門扉には鉄板が張られていたと考えられている、とある。
現在門は復元されてはいないため、簡素な木の門となっている。


大書院は後で観ることにして、先ずは二の丸御殿跡へ。


二の丸御殿跡


二の丸御殿跡
かなり広いことが分かる。


二の丸御殿跡の南東隅に庭園跡が復元されている。
説明板には、
二の丸御殿間取図や二の丸庭園絵図写などにより、ここに庭園が存在したと考えられている。
発掘調査の結果、ここに築山の一部が確認され、築山のみが復元された。
庭園に付き物の池は、正確な史料が不足していたため、復元はされなかった、とある。(概略抜粋)


二の丸御殿跡から西堀側の三の丸跡(駐車場)を望む。
手前は内堀である。


往時の名残をとどめる二の丸御殿庭園の井戸


覗いて見たが、井戸は深くて中は見えなかった。
試しに石ころを投げ込んだら乾いた音がした。


埋門(うずみもん


埋門を外側から見たところ。


埋門の外側から南方面を望む。
右端にちょこっとだけ南馬出が見える。


二の丸御殿の東側に本丸がある。
篠山城本丸跡には青山神社が建てられている。


青山神社は、明治十五年、青山家十代の名君青山忠俊を祭神として建立された。


本丸跡に立つ青山家21代当主青山忠誠(あおやまただしげ)公追慕碑
″学舎は焼くとも教育焼くな”は、教育に名言として広く知られている、とのこと


本丸跡から本丸天守台を見たところ。


天守台へ上ってみよう。


天守台は、本丸南東部の奥まったところに位置し、城内で最も高い。
平面規模は東西18m、南北20mほどで、石垣の高さは17m、とのこと。
天守台から丹波富士と呼ばれる中世の山城(八上城跡)である高城山の美しい姿を見ることができる。


築城時(1609)に、江戸幕府からの指示により、城郭が堅固すぎるとの理由から、天守閣は建築を中止した。
天守台から市役所方面を望む。
手前のグラウンドのような広い所は三の丸跡である。


二の丸から廊下門石垣、大手門跡方面を望む。


二の丸御殿跡から大書院を望む。
大書院は慶長十四年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられ、約260年間にわたって藩の公式行事などに使用された。
明治維新となり、廃城後も城建物の中ではただ一つ大書院が残され、小学校や女学校または公会堂などに利用された。


しかしながら、昭和十九年(1944)1月6日の夜、火災により焼失。
その後、平成十二年(2000)3月に復元再建されたのである。


入館料400円を払って大書院に入ってみる。


丹波国篠山城模型
中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、それを三の丸が輪郭式に取り囲む縄張で、
東と北と南の虎口には角馬出が設けられていた。


大書院でもっとも広い虎之間(36畳)


大書院手毬之間(18畳)


大書院孔雀之間(15畳)


大書院構造模型
熟練した二人の宮大工が、大書院の設計図をもとに、4か月の期間をかけて製作したものだそうだ。


この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文十二年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたもの。
その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されてきた。
昭和58年、310年振りに篠山へ還ってきた。大書院が復元されたのを機に、ここに展示した、とのこと。


葡萄之間(21畳)の草花小禽図屏風


大書院で最も格式の高い部屋
この部屋は、付書院、大床、天袋、違棚、帳台構を備えた正規の書院造りとなっている。


大書院の後は、外堀を一周してみることにした。
北堀の外側に篠山市役所がある。


市役所前の通りを東へ進む。


篠山市役所庁舎


市役所庁舎の先を右折すると、直ぐ左に東馬出がある。
篠山城には北(大手)、東、南の三か所に出入り口があった。
馬出は、三方を凹字形の濠と塀で囲んで城門への通路を複雑にしていた。


東馬出
ここにあらかじめ兵馬を繰出しておき、いざという場合に馬出の門を開いて、打出す溜まり場となったり、
また武将がそこまで乗出して寄手の軍状を見張るところでもあった。
今は公園のように整備されている。


東堀


東堀に沿った通りを南方面へ進む。


南東の角
左側が南堀、右側が東堀になる。


南堀に沿って西へ進む。


南堀の向こうに本丸石垣と天守台が見える。
本丸に聳え立つ高石垣は、荒割石(粗割石)を用いた見事なもの、だそうだが、
残念ながら石垣下まで行くことができなかった。


南馬出


反対側から見た南馬出
広さは東馬出より2倍ほどある。


ここも三方を凹字形の濠に囲まれている。


南馬出辺りから西掘を望む。
正面が西堀、右側は南堀。


西堀に沿った道は、やや細くて旧家がぽつぽつ。


そのうちの一つに、入母屋造萱葺の武家屋敷小林家長屋門がある。
文化年間(1804年頃)に、当時の篠山藩主青山忠裕がその老女小林千枝の多年の労に報いるために
修築したと伝えられている。
兵庫県指定の文化財(建造物)となっている。


篠山城下町は城跡の周囲に広がる武家町と街道沿いに並ぶ商家町からなり、
江戸時代後期から昭和戦前期までの伝統的建造物が多く残されている。
西堀に面した道を一筋入った場所に建ち並ぶ武家屋敷群。


塀は新しく建て直されているが、門や屋敷の屋根は萱葺で、往時が偲ばれる。
神社の屋根に似ている。


武家屋敷前を車が通る。
時代の流れを感じる。


西掘に沿った武家屋敷を過ぎると、北堀に沿った通りへ出た。


北堀に沿って市役所方面へ進むと、篠山市立青山歴史村があった。
明治四年(1871)の廃藩後、旧篠山藩主澤井家は、ここを別邸として「桂園舎」と名付け、
同家の財産・藩政史料を管理し、昭和十九年十月には青山歴史村を開館し広く一般に公開していた。
平成十一年に篠山市が財団法人青山会から全資産の寄付を受け、市立の史料館として保存・管理を行っている。
旧澤井家長屋門がそのまま青山歴史村の門として使用されている。


大手門前の市役所通り
これで、外堀を一周したことになる。
約40分かかった。


大手門跡交差点に立つ托鉢姿の虚無僧
城下町の景色に解け込んでいる。


11時30分を過ぎていたが、次の登城先の姫路城を目指した。
昼食は、姫路市内に到着して摂ることにした。


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