山形の森 保守醒論

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明治維新は薩長同盟のクーデター、独立自尊は福沢諭吉の慧眼。

2014-03-16 18:34:36 | Weblog
最近の米中両国などが対日外交に対して、第二次世界大戦勝利派による「勝たば官軍、負ければ賊軍」の論理を振りかざすことに、いまさらながら大きな不満が募る。
外交交渉がきれいごとでないことは分かっていても、正論を吐く毅然とした姿勢が整っていれば、それに越したことはない。
我が日本でも、明治維新における内戦(戊辰戦争)以降、「勝たば官軍」の論理がまかり通ってきた。
折しも、歴史認識なる中韓蛮国による、あらぬ批判への抗弁として既載しているが、「創建150年(2019年)を機に靖国合祀基準を見直して」を再度述べて見たい。
既載時点(2012.3)と、周辺状況が大きく変わったことにもある。
靖国神社が宗教法人法等に縛られていることは承知であるが、現在の靖国神社宮司は徳川康久氏で15代将軍徳川慶喜の曾孫、長州藩(山口県)出身の安倍晋三首相とする願ってもない陣容だからである。
戊辰戦争で賊軍(東軍・幕府)扱いされた奥州越列藩同盟・盛岡藩出身の原敬(第19代首相)は、首相就任前年(1917.9.8、政友会総裁時)の「戊辰戦争殉難者50年祭(盛岡報徳寺)」で「戊辰戦役は、政権の移動のみ。(維新)当時は、勝たば官軍、負ければ賊軍との俗論あり。」との祭文を奉読した。
明治維新は薩長同盟のクーデターで、天皇家存続を唯一アリバイにした政権交代に過ぎなかったのである。
明治維新を開国による近代化と見れば、幕府方こそ攘夷派に先んじて開国に舵をきっていたのである。
さらに各藩内にも攘夷・開国両派を抱えて内乱状態にあったことにある。
ここで「靖国神社の合祀基準見直し」を述べるのは、天皇・首相参拝などに反対する左翼活動家などが運動するA級戦犯の合祀否定論などではない。
多少の関心を持って靖国神社創建の歴史と明治維新前後における、いわゆる幕末内戦過程において、(1868.7)京都霊山護国神社、(1869.8)東京招魂社、(1879.6)靖国神社への社名改称と合祀基準の変遷から、一貫性が崩れているのではないかと素朴に考えるものである。
それが、左翼陣営の「靖国は所詮、薩長の都合勝手神社」との異論反論の元ともなっている。
旅館の建増しのような(本館・別館・新館・旧館などと)、時々の(合祀基準の)解釈変更で凌いできた感がする。
特に、戊辰戦争を拡大解釈して「維新殉難者」として合祀対象を、ペリー来航まで遡ったことに端を発するようである。
それは、“長州藩としての維新の祖”とも言える吉田松陰を始めとする長州藩士の合祀にある。
「維新殉難者」とされるペリー来航まで遡る合祀認定は、以下の時系列から推理できる。
1882.2.25(M15)、靖国神社・遊就館開館式挙行(世界最古の軍事博物館)、1879.6東京招魂社10年で別格官幣社に列格、靖国神社に改称(太政官達)
同年11.15、大村益次郎を偲ぶ集まり(芝・紅葉館)で、賀茂水穂らが大村益次郎の銅像建設を主唱。
「大村像を建てることに異存ないが、戊辰戦役勝利を夢見て先に逝ってしまった松陰先生、先陣同士の合祀が先ではないのか!。それはそうだ。長州・薩摩からでは不味かろうから、土佐藩から始めようぞな、もし。」
1883.5(M16)、第13回招魂式「維新殉難者(土佐藩80柱)」として、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎らが第一号として合祀された。
ここから、益次郎像が建立(1893.2竣工)されるまでの間に「維新殉難者」と称し大量合祀されるのである。
否、大量合祀の完了を待って、上野の彰義隊(慶喜蟄居の寛永寺守護隊)を指す益次郎像が建立されたと見てよいだろう。 上野公園の西郷隆盛像とも対峙している。
しかし、この都合勝手な合祀解釈は、1913年山本権兵衛内閣で靖国神社を所管する内務相に就いた原敬(盛岡藩出)が、翌年(1914.3.3)に(薩摩藩出の)山本首相宛てに上奏書「殉国志士を靖国神社へ合祀に関する件」を提出することで見直されることになる。
「(1862)文久2年4月の寺田屋事件、(1864)元治元年7月の禁門の変」で亡くなった(孝明天皇方)61名の靖国合祀を上奏した。
つまり孝明天皇の御所を守りながら没した会津藩士等は合祀捨置きされ、天皇を襲撃した長州藩士(過激派、久坂玄瑞・真木和泉ら)が祀られているのは、官軍(天皇方)が合祀基準とすればおかしいとの異論でもある。
さらにはこの「禁門の変」のクーデター失敗で自刃したのが、すでに靖国合祀されていた久坂玄瑞(吉田松陰の義弟)・真木和泉らである。
1864.8、孝明天皇は長州追討の勅命を出している。 この時点では長州藩こそ反天皇の賊軍であった。
天皇方(官軍)が祀られ、反天皇方は祀らないとの合祀基準理屈は当らないものとなった。
原敬内務相の正論は承認され、会津藩士も維新後約半世紀を経た1915.4(第39回招魂式)に合祀されることになる。
攘夷攘夷と叫んだ倒幕過激派が、過去の言い分など開国となれば知らんぷりの結果オーライ。
漸進開国を提言しながら藩内抗争に倒れた長州藩の長井雅樂、土佐藩の吉田東洋などの先見開明派こそ(名誉回復のうえ)維新歴史上に語られるべき人物で、現在の学術的視点からしても、国の行く末を先見した明治維新史上で靖国神社に祭られる正統な人物ではないかと考えられる。
水戸学の指導者で徳川斉昭(1860.9没)の助言者であった会沢正志斉も、時務策(1862)で開国論転向を説いた。
(1855)横井小南も開国せざる状況を見通し「(1860)国是三論」を執筆、松代藩士・佐久間象山も、1864.3将軍家茂・慶喜等に公武合体・開国遷都を説く間に尊壌派に暗殺される。
ともあれ、明治維新前後はその方向性を巡り(藩内対立を含む)国内論争多様な時代であった。
ともに欧米列国が迫る中で近代日本の行く末を論じ、道筋を競い合った憂国の内戦でもあった。
そのことを受け止めながら、これから迫りくる国際社会の変動に対峙しなければならない重要な時、全日本(オールジャパン)体制を築き、新未来日本を確実に伝承していくためにも、靖国神社創建150年(2019年)を機にこれまでの合祀基準を整理見直し、「真の国防の御社」への提言!を述べるものである。
西郷隆盛などを含めた、賊軍扱いされた内戦の維新勇者を「内戦殉難者」として名誉回復をはかり靖国合祀を果たすことで、全日本人の国防意識の覚醒と国民一体の国防実現を念願する。
現在の靖国神社宮司が15代将軍徳川慶喜の曾孫(徳川康久)と長州藩(山口県)出身の安倍晋三首相とする、またとない陣容を天の時と受け止め、「独立自尊達成」の機会と熱望したい。




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