山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

靖国参拝考、唯物主義のアカ(中国)とバカ(韓国)には、どんな説明も通じない。「ペテン原人」が祖。

2013-12-28 13:57:22 | Weblog
26日夜、安倍首相の靖国神社参拝をうけて、市内七日町の行きつけでE会長、S支局長などと「首相の靖国参拝、カンパ~イ」と祝杯を上げた。
反日左翼の新聞・メディアらが、社運を賭けて批判報道を続けているところを見ると、中国・韓国の経済破綻による政権崩壊は明年にも訪れる様相だ。
一連託生で左傾新聞社の倒産廃業も見えてくるかも知れない。 通信と放送の改革統合政策も進めるべし。
朝日新聞と赤旗の統合、聖教新聞が毎日新聞を吸収など、反日左翼工作機関の淘汰。(笑笑、マンセー)。
それにしてもこれだけ騒いでくれれば、首相の靖国参拝は核兵器並みの効力があるということになる。
粛々と参拝しているのに、大きく反応して(中韓で)暴動でも起きてくれれば、第三次天安門事件、青瓦台暴動となって真の民主主義国家への特亜蛮国解放に向かうかもしれない。
当に、武力戦争によらない、国内犠牲者のでないなかで、理想的な人民解放になれば、こんな痛快なことはない。
約8000万の中国共産党員が、14億人の国富の95%を占めていると言われる。(6%の党員が、95%を搾取)
第4インターを結成したロシア革命赤軍の創設者トロツキーは、「10人のインテリが、100人の愚者を導く」と言った。(市川昭男山形市長も第4インター出身)
朝日・毎日・東京、TBS・テレ朝・・・・、おっとNHKも、自らはインテリの枠で愚民を煽動していると思っているだろうが、中国からすれば、親中派議員も阿るダメディアも盲従愚者に数えていることだろう。
なにより古来中国人は、「嘘つき民族」なのである。 「ペテン原人(奸民族)」が祖と言われる所以である。
靖国参拝で反日左翼を鉄槌放逐できるのだからお安いものだ。
「さあ、みんなで靖国に行こう!。」、靖国参拝による特亜蛮国解放戦線だ。
中韓からアセアンに投資シフトすれば、アセアン諸国から深く感謝されるだろうし、1943.11大東亜会議(アジア解放戦争)の新秩序建設が、70年余を経て実現できようとするもの。
1937.10.15のニューヨークタイムズで、ローマ法王・ピウス12世談「日本軍はボルシェビキ(共産主義)との戦いである。(カトリックは)惜しみなく日本軍を支援すべきだ」との内命を発した。昭12.10.16~17「東京朝日新聞」夕刊に掲載。(1963.4.10、ローマ教皇ヨハネ23世が、復活祭で「地上の平和」回勅、「(間違った思想、共産主義は断固排撃)共産主義は排撃しても、共産主義者とは共存すべきだ」)
安倍首相の靖国神社参拝は、先人が命を賭けて守ろうと戦った、大東亜戦争の真実を理解する大きな第一歩になろう。
靖国参拝考、唯物主義のアカ(中国)とバカ(韓国)には、どんな説明も通じない。
相手にするほどの盲従バカでも、左翼論調の購読・視聴を止めれば正常に戻るだろう。
左翼汚染から目覚めれば、多くの日本人は捨てたものじゃない。
反日工作には、「視ざる、聴かざる、読まざる」の俗悪無視で覚醒ニッポン!。
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阿信県行旅、(1994)12月22日は、晩年の「おしん」こと乙羽信子の命日

2013-12-23 14:19:54 | Weblog

      最上橋(大江町左沢)、1983.1回顧の旅ロケ地

(1994)12月22日は、晩年の「おしん」こと乙羽信子の命日になる。
1983~84のNHKドラマから、ちょうど10年後に肝臓癌で亡くなった。
天真院兼室妙信大姉(京都市右京区の妙心寺衡梅院)
ドラマ役柄上は83歳時点で終了しているが、乙羽信子の命日に合わせて、あと10年生き抜いた「おしん(田倉しん)」93歳での大往生を考えてみた。
題して「おしん-最終章」
舞台は(1989)1月7日、テレビでは昭和天皇崩御(元号「平成」)の特別番組が流れている。
傍らで見入る家族に「おばあちゃんは、天皇陛下より長生きしてしまったよ。」と語りかける。
おしんと昭和天皇は同年(1901)生まれで、誕生日が一ヶ月ほどの違いである(おしんが3月生まれ)。
1989.10、おしんは初子と伊勢神宮参拝に出かける。 
「初ちゃん、ちょうど300年前の今頃になるんだけど、松尾芭蕉が『奥の細道』に5ヶ月ほどの旅をして(1689年は伊勢神宮遷宮年にあたり)遷宮式典に間に合うように伊勢に帰ってきたんだよ。山形の出羽三山もみんな御参りをしてね。月山は頂上まで行ったものかね。雪もいっぱいあったろうに、なんたって月山は夏スキーができるんだからねェ。」 芭蕉は伊賀国上野(三重県伊賀市)出身。 
1989年は、松尾芭蕉の「奥の細道」紀行300年祭の年で、約600里・161日紀行(1689.5.16~10.)のうち山形県に約40日間滞在(7.1~8.11)している。
1991年末からのバブル崩壊は、1993年ころに深刻な全国的社会問題となる。
1993年、冷夏による不作で米を緊急輸入する戦後最悪の作況指数(74)を記録した。
昭和恐慌(昭和初期)、敗戦後の食糧難を体験してきたおしんは、古里山形の不作事情を案じながら、孫を伴い人生最後になろう墓参りを兼ねて山形にやってくる。
もうひとつの大きな来形の理由は、おしんが生まれた時から目にしていた月山(593年、蜂子皇子が開山)の出羽三山開山1400年祭の記念すべき年にあたっていたのである。
このときを逸すれば、二度と故里を訪れる機会はないだろうとの強い覚悟の決意でもあった。
バブル崩壊による経済不況は、「スーパーたのくら」グループにも押寄せ、経営難の情報は山形滞在中のおしんにももたらされる。
老齢のおしんは、心労と体調不良から山形で入院療養することになる。
「たのくら」経営難は、大手の総合商社マンとなっている孫の八代圭の耳にも入り、圭の商社が経営参加することで倒産を逃れる。
(1994)平成6年12月22日赤口、スーパー再建目途の朗報を聞いたおしんは、最上川と積雪に映える月山が見える地方病院で、正午頃に静かに息を引き取る。
病床には、長らく音信不通だった兄弟の子どもたち(甥・姪)などの親族に見守られながら・・・・。
おしんの人生記(1901.3~1994.12)は、昭和天皇(1901.4~1989.1)と共に生き抜いた激動の20世紀の日本女性のドラマとなる。
おしんマニアの勝手な「おしん-最終章」のストーリー。

 
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田中派(木曜クラブ)秘書軍団が、角栄没20周年で懐かしの集結

2013-12-19 19:16:47 | Weblog

       自由民主党本部(永田町1)

田中派(木曜クラブ)に所属した秘書軍団が、角栄没20周年で懐かしの集結をされたそうな。
自民党秘書会、派閥ごとの秘書会などがあるが、もっとも利便性なのは派閥の秘書会だろう。
日常の陳情処理、情報交換、人物紹介、秘書業務の学習と懇親を越えた多様な互助会的部分がある。
なかでも、田中派(木曜クラブ)秘書軍団については、軍団と呼ばれるだけに戦闘的選挙戦など軍隊組織的に活躍されてきた。
他の派閥秘書会の懇親宥和とは違っていたと聞いている。
75歳で死去した田中角栄没後20周年、政治家の中で角栄本は最も多く出版されてきたであろう。
ロッキード事件で逮捕された保釈後に、田中自身が「総理になるのが10年早かった」と悔いている。
自民党総裁選挙で無理を強いた「金券選挙」が、自民党での金権政治へと移行してゆくのである。
ロッキード裁判対策が最優先された田中支配政治は、数による政権支配(田中→竹下→金丸→小沢)となり、首相(自民党総裁)は影の支配下に置かれた。
この構図は、田中政治の嫡子小沢一郎による(非自民)細川政権をも含め、小泉純一郎政権誕生までの約30年に及ぶ(1972.7~2001.4)。
田中が希有な天才政治家であったことは認めるが、田中自身が悔いているようにあの時点(1972年佐藤後継)で、無理せずに福田赳夫を先に押していたならば、自らの政治生命を縮めることもなかったろうと思う。
さらに、大平正芳にしても角福対立の政権運営下に置かれ、過労による在任死することもなかったろう。
なにより、三木武夫、鈴木善幸政権は誕生しなかったであろう。
この、三木・鈴木両政権時に外交安全保障問題に於ける足枷となる政策(閣議決定)が数多くなされている。
そして、1972年7月の自民党総裁選挙が、日中国交回復問題が一番の争点になってしまったことにある。
田中自身も巻き込まれた感があるが、中国サイドの周辺工作にまんまと乗ってしまったものである(親中派連合が総裁選勝利に繋がった)。
中国に迎合しない、小泉・安倍の清和会政権(福田派系)は、親中田中支配政権と異なり新たな外交戦略を描いている。
清和会側としては、田中派(木曜クラブ)秘書会の面々に、いまどんな思いなのか伺いたいものだ。
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大コケに終わった映画「おしん」、リアル無きゆるキャラ制作観に乗った山形県の大失墜

2013-12-17 18:48:30 | Weblog

映画村に移設したのはロケ控家、実際のNHK撮影「おしんの生家」は左手樹木付近にあった。

残念なことであるが、(公開前記載の)予想通りに映画「おしん」の興行結果は大コケに終わった。
県費支出をして、県内民放メディアに製作委員会参加を求め、挙げてこれまでにない宣伝工作を繰り広げたにも係わらずである。 宣伝下手の山形県をまたまた晒してしまった。
おしんマニアですら見に行こうとする気にならなかった。
マニアだからこそ、「おしんイメージ」のリアル無きキャスティングのゆるキャラ制作観に、製作発表時点で唖然としたものである。
ネットの書き込みなどを見ても、同様に「(おしん)イメージ無視のキャスティング」の散々意見が大多数である。 高視聴率を記録した「NHKドラマのおしんイメージ」の素地が、世界中の共感を呼んでいるのである。
製作責任者は事前にミスキャストをまったく感じなかったのであろうか。
「おしん」は、山形県にとって最高の素材であり、国際的にも今後これを上回るほどの有為な素材が出てくるのかは難しいだろう。
それだけに「おしん」を活かした、山形県の知名度アップ策にはとっておきの映画製作企画であったのだが、大コケの興行結果はこれまでの「おしん県イメージ」にもマイナスとなってくる。
最高の素材がありながら、駄作映画をつくってしまった。 
国外配給如何によっては製作会社セデック、庄内映画村の経営難に及ぶことも考えられる。
最上川上流から酒田河口まで県内を縦断して行く、県全体を網羅する原作「おしん」の人生ドラマであるのに、「庄内映画村、庄内のおしん」に矮小化してしまっている。
出生モデル地の白鷹町栃窪、最初の奉公先・大江町左沢、尾花沢市銀山温泉などはまったく取上げられていない。 無理解で異議を挙げる市町もなかったようであるが。
はたして製作陣は、「おしん」をどこまで理解していたのだろうかと、疑問に思ってしまう。
電通、オスカーなどを製作参加させる小手先の商業的感覚だけで、企画製作に臨んだのではなかろうか。
そしてそのゆるキャラ観こそが、あだ花となってしまっている。
おしん探究にのめり込んだマニアからすれば、激動の20世紀の歴史観こそが「おしんの人生」そのものなのである。
自らに投影できなくとも、父母、祖父母、曾祖父母につながる縦軸の歴史ドラマになっていることを感じ取ることが必要だ。
ともあれ、山形県としてこの失墜を取り戻さなければならない。
原点(原作「おしん」)に返って、歴史変遷のリアルさのなかで「おしん(谷村しん)」の生きざまを、まずは山形県民がしっかりと理解することであろう。
大コケに終わった映画「おしん」、リアル無きゆるキャラ制作観に乗った山形県の大失墜。
県土再起への総括私論は、本物の「おしん探究」。
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1967年竣工の寒河江市庁舎は、黒川紀章の建築設計、庁舎内に岡本太郎作オブジェが複数配置

2013-12-13 19:01:03 | Weblog
同級友人のO君から、フェイスブックで1967年竣工の(山形県)寒河江市庁舎について配信されてきた。
寒河江市庁舎は、黒川紀章の建築設計、庁舎内部に岡本太郎作のオブジェが複数配置されている。
黒川紀章はまだ新進気鋭の頃、岡本太郎は芸術界で国際的に知られていたものの国民大衆に知れ渡るのは、「1970年大阪万博の太陽の塔」作品なのではなかろうか。
それ以前の1967年4月竣工の寒河江市庁舎に、国際評価される日本人両芸術家が関わっておられたことは、特筆すべきことである。(寒河江市(関係)当局の偶然の先見の明であったのか?)
とはいえ、ブログ子がちょうど寒河江高校に通っていた同時期には、特に深く意識することもなかった。
O君の配信で検めて想起したのであるが、都落ちする前の1970年代の終わり頃、東京・六本木の南米料理の店で岡本太郎・(養女で秘書の)平野敏子両人とお会いする機会があった。
不躾ながらご挨拶したうえで、邂逅記念に一筆お願い申し上げたところ、「(気が乗らない時は断わるのだが)君はラッキーだ。今日は気分がいいから。君、名前は!」と発して。
「森です。」と答えたら、間髪もなくあの独特の一筆書きタッチで「森君、岡本太郎」と一気に書いてくれたのである。
同席の平野敏子女史が二人の遣り取りを、優しい微笑みで見つめていたことが、いまでも記憶に残る。
(1996.1岡本太郎没、平野敏子は2005.4没)
その後、太郎氏は付設のピアノに向かい(余興趣味の)クラシック演奏をされたのだが、両手を大きく振り上げるなどのパフォーマンス演技を見せるなど、常人素人とはかけ離れた鬼才を感じさせる様相時間でもあった。
これが芸術家と言うものなのかな?、と思いつつ・・・・。
90年代に川崎市宮前区に数年住まいする機会がありながら、近く(高津区)の岡本太郎生誕地の幾某所を訪れることもなく過ぎてしまったことを残念に思っている。
岡本太郎の謹書「森君」は、ブログ子(森家)の家宝として残して行きたい記念すべき人生路の停留所の一コマになる。
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阿信県行旅、(1929)昭和4年12月、おしんは母と伊勢から生家に戻り、母ふじは降雪を見ながら逝く。

2013-12-09 17:39:29 | Weblog

   阿信県行旅、「おしんの古里」位置図(旧栃窪集落)

(1929)昭和4年4月、おしんの第三子懐妊兆候と長男雄の小学校入学を受けて、母ふじが山形から鳥羽(伊勢)にやってくる。
10月中旬に次男仁を出産するも、母ふじ(泉ピン子)は白血病で倒れる。
鳥羽で養生するが、死期を悟ったふじは、栃窪に帰りたい(山形の実家で死にたい)とおしんに迫る。
母の最期の願いを聞きいれて、衰弱した病人の母を連れて伊勢から山形へと向かう。
おしんは、(長井線)鮎貝駅から母を背中に乗せて栃窪の生家に辿り着く。
その夜、ふじは古家の病床から降りしきる雪を見つめて永遠の眠りに入って逝く(享年54)。
季節的に、降雪初期の12月初~中旬となろうか。
ここまではスタジオ収録であるが、おしんの祖母谷村なか(1848.~1909.3)の野辺の送り(葬送)シーンは、西川町大井沢でロケされている。
おしんの古里(旧栃窪集落)と西川町大井沢は、出羽三山参詣道の最短ルートとして、約600年前に道智上人により開鑿された「道智みち(通り)」で繋がっている。
月山が見える構図(最上川支流の寒河江川)として、大井沢をロケ地としたものであろう。
(1929)10.24、ニューヨーク株式市場暴落(暗黒の木曜日)で世界恐慌始まる。
日本にも迫り来る昭和恐慌は、ドラマ「おしん」でも急展開し、おしんと加代の邂逅などにつながって行く。

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特定秘密保護法の賛否行動の基本は、政治家個々の「国家観」に行き着く。

2013-12-09 15:14:03 | Weblog
特定秘密保護法が反日左翼(反対運動)に与する野党の喧騒のなかで成立した。
野党も党内事情による賛否行動と見られるものであるが、基本的には政治家個々の「国家観」に行き着く。
1985年6月、衆議院に議員立法として法案提出以来(スパイ防止法・審議未了廃案)、懸案であったにも拘わらずここまで無策できたことこそ問われるものである。
現職議員はもとより、国政を目指す政治家予備員には、国の在り方(国家観)、外交安全保障政策についてそれぞれ持ち合わせていて欲しいものだ。
各政党とも出たとこ議論ではなしに、基本政策として日常的に党内論議を重ねて方向性を持ってして委員会審議に臨めば、実のある成果が得られように。
「戦前回帰、知る権利、・・・」論は、共産コミンテルン戦術から一歩もでていない。
あらためて、反日左翼人士、マスコミ、の炙り出しとなったことは、毎度のことながら(工作要員)確認できたことは大きい。
サユリもノリカもコミュニストシンパだった。
これで法施行後の対応で細胞選別ができ易くなる。
政党内における「国家観」の違いは、個別政策と違って、DNAのようなものである。
造反した議員は、速やかに離党させるべきである。自民の村上誠一郎にも離党勧告をすべし。
全体主義政党でも困りものだが、造反を黙認するようでは数合わせ政党から脱却できない。
特定秘密保護法の運用時に問題との指摘は、民主党政権のような恣意的判断事態と見るが、二度とあのようなバカ政権を誕生させない為にも、国民は、新聞、テレビ報道の信頼性は無いものと気が付いてきた。
反原発から特定秘密保護法反対と中核派主導の大衆運動戦術が始まりのようだが、革マル、民青の幟も見えることから「反日統一戦線」ともなろう。
天空でマルクス、毛沢東がほくそ笑んでいるようだ。
これらに与する、民主、共産、社民、・・・は、10派一絡げで一つになって「国家観」を持たない反日野党でも創られたら如何か。



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石破幹事長のテロ行為発言は「表現の自由」の範疇、取上げ煽動するマスゴミこそ反日左翼テロリスト

2013-12-02 18:08:53 | Weblog
石破茂自民党幹事長が特定秘密保護法案反対デモについて、ブログで言及した「単なる絶叫戦術はテロとあまり変わらない」との表現に、マスゴミは挙って取上げ批判の声を煽動している。
メディアスクラムで「報道の自由、知る権利」などと言い張りながらも、一個人の言葉じりを捉えて政府批判を煽る様は、所詮、反日左翼メディアの(アカ)正体でしかない。
この(テロ行為)程度の表現は、普段の「表現の自由」の範疇であろうに。
マスゴミは保守派を右翼と書き、反日左翼を市民団体と書く。
左翼過激派が市民運動に転化潜行した大衆闘争路線こそ、コミンテルンの「人民戦線戦術」そのものである。
ダメディアは、左傾化された戦後環境を中道正常化する行動を、特亜蛮国(中国・朝鮮半島)と一緒になって右傾化と作為的に報じる。
反原発、オスプレイ配備反対、沖縄米軍基地移転反対、特定秘密保護法案反対、とテーマは違えど先導するプロ市民(社共過激派と反日左翼団体)に連動する反日左翼メディアの構図は同じである。
アカ(活動家・マスコミ)の煽動に、バカ(市民)が追従する様相は毎度毎度のことである。
反日左翼メディアの特定秘密保護法制定は、戦前(治安維持法)に戻るとのロジックは、共産主義者がバカ(市民)を馬鹿(卑下)にした論法である。
戦前の治安維持法の運用が的確でなかったからこそ、(共産主義者の隙を突かれて)大東亜戦争に至ったものである。
1935.7、コミンテルン第7回大会では対社会主義国との反戦を謳いながら、資本主義国同士の戦争工作を展開して行くのである。
日本とアメリカはまんまとその開戦工作に引っかかったのである。
近衛文麿首相、木戸幸一内大臣は、京都大の河上肇教授のもとでマルクス主義に傾倒してきた基本的素地があった。
開戦後に東條首相批判を展開した中野正剛は、訪欧でヒットラー、ムッソリーニと会い、純粋ゆえに国家社会主義に陥り、大政翼賛会(近衛文麿首班)への先陣を切ったのである。
検挙後に不明(風見章など交友左翼により、結果としてコミンテルン謀略加担)を悟り、釈放直後に割腹自決するのである。
近衛文麿も自決したが、木戸幸一(天皇への助言者で東條首相を指名)は戦犯となりながらも、戦後ぬくぬくと一人生き延びた。(大東亜戦争責任で)近衛と共に最も指弾すべき人物である。
木戸幸一の身内にマルクス主義人脈になる都留重人一橋大学長(朝日新聞論説顧問)がいた。
いまでも国立市周辺に左翼勢力が蔓延る元凶祖でもある。
日本の独立自尊には、独自の戦後史上での「赤狩り総括」が必要で、今からでも戦前戦中の反日テロリスト認定を行うべきである。
そこまでやらなければ、日本の(戦中)戦後は終わらず、悠久の国土・国民(財産)は守れない事態に陥っている。
石破幹事長の「テロ行為模様」表現は、「表現の自由」の範疇で極めて甘いほどである。
どこが問題になるのか。アカの論理の編集権そのものであろう。
取上げて煽動するマスコミの左翼構成員こそ反日摘発対象(国外退去処分)にすべきである。
そうならないためにも、反日マスゴミから普通の日本愛国者(報道機関)になることを望む次第だが、いまや無理と思えるので消えて貰う(倒産廃業)しかない。
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