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山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

日本維新分裂は、解かり易く「東京裁判史観」の是認派(アカ)と否認派(シロ)に分かれよ!。

2013-06-22 19:40:50 | Weblog
橋下徹の慰安婦問題発言に端を発した維新の支持率転落から、都議選結果によっては党分裂にまで及ぼうとしている。
一地方の地域政党ならまだしも、国政政党の看板を掲げながらも国会議員でない政党幹部が、国政外交問題を軽々にステレオタイプのように発言してしまう現事情こそ異常である。
そこに内容不定のすり替え強弁発言を繰り返し、橋下三百代言に違和感を覚えた国民から支持率急落のデフレスパイラルに陥ってしまった。
これまで庇って来た石原慎太郎共同代表も党内議員に突き上げられて、未成熟な橋下徹に発言注意の注文を付けたものである。
左翼メディアはここぞとばかりに、橋下と石原の対立から党分裂不可避の報道をはじめた。
いずれくるものと思っていたので驚きではないのだが、分かれるならここで国民に解かり易くスッキリと決めて貰いたい。
それは、メディアが短絡的に報じる橋下維新と石原(旧)太陽の東西分裂とかではなく、戦後永らく覆ってきた「東京裁判史観」の是認派と否認派に分かれよ!、と言いたい。
橋下徹の慰安婦問題理解もさることながら、石原が「(橋下とは)国家観が違う」と指摘したのは、橋下が、大東亜戦争を「侵略戦争」であるとの史観から成り立っていることである。
この基本的相違は政党の政策活動姿勢としては大き過ぎる。
自民党と旧社会党が混在しているに等しい。
国民有権者に解かり易く「東京裁判史観」の是認派と否認派に分かれて、別の道を歩むべきである。
いつまでも国民を侮る勿れ。日本維新分裂は、解かり易く「東京裁判史観」の是認派(アカ)と否認派(シロ)に分かれよ!。
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阿信県行旅、「おしん」の故郷巡りで、新たな発見を見た。

2013-06-15 23:20:08 | Weblog

   廃村前の旧栃窪集落(白鷹町)


     栃窪集落から蛇行する最上川を臨む


(白鷹町黒鴨)蔵高寺の即身仏の参拝に臨んだ。
あいにく近隣の葬儀と重なって、住職が「即身仏参拝本日休止」の張り紙。
せめて発掘場所の日影にと、未踏で急峻な坂道を走らせた。
約600年前に開削された「道智道」の面影を現代に感じさせる厳かな参道でもあった。
旧日影集落から栃窪集落への分岐点に位置する「(即身仏)光明上人」の墳墓をお参りして、栃窪集落へと向かう。
栃窪分校跡地に車両を止め、過去にあった旧集落方面に足を進めた。
デジカメを手に周辺様相を撮っていたら、古老のSさんと出会った。
すぐ先に持ち家(別荘風)があるからと誘いを受けて追従した。
旧栃窪集落を知りたいと思っていた者としては、願ってもない邂逅であった。
「道智道」「おしん」を語り、橋田原作「おしん」の出生イメージ地は、この鮎貝・栃窪集落であることを、サンリオ映画「おしん」に出てくる(最上川沿いの鮎貝地区を示す「おしんの家」地図)3葉の絵図で示した。
古老は、以前に(モデル地と)聞いたことはあったが、中山町岩谷が(おしんの生家)撮影地となったことで、特に話題が広がることは無かったと。
昭和46年11月に38戸の栃窪集落(約180人)が一度に集団移転するなどとは、想像もできない出来事であった。
が、1960~80年代へと続く高度成長期に国内産業構造の変化による、過疎集落の崩壊現象は確実に進行していたのである。
橋田の原作「おしん」は20世紀に生きた女性を通しての時代反映のドラマ構成であり、その共感は国境を越えて全世界に届いたのである。
高台に位置する古老Sの敷地からは、しっかりと蛇行する最上川と架橋が見える、貴重な唯一のビューポイントであろう。
「おしん(乙羽信子)」が、吊り橋(旧大平橋)から最上川上流左岸の奥手に視線を送るシーンには、山間が連なるのだが栃窪集落を知るもの(おしん)からすれば、立木の合間に集落跡地を確信的に見つけたものであろう。
古老から見せて頂いた写真は、50年以上前のものと思われる(1964年架橋の大平橋が写ってない)。
もう一葉の写真は航空写真かと見間違うような、約40戸余りの家屋が建ち並ぶ栃窪集落の全体写真である。
いまや存在のかけらも感じ取れない(消えた集落)現状から、驚き以外のなにものでもないが、再来を述べ、古老に写真の複写をお願いして後にした。
「おしん」の故郷巡りで、新たな発見を見た。
1983.4.6放映「おしん(乙羽信子)」の吊り橋・旧大平橋回想シーンで、栃窪集落(出生地モデル)の位置ははっきりと見えていたのである。
昭和46(1971)年に栃窪集落は廃村となった。
NHK「おしん」のロケハン時(1982)には、「おしんの家」の撮影に供する残存建築物が無くなっていた。
周辺地域の廃村地区等をロケハンした結果として、中山町岩谷をロケ地(鈴木さん所有家屋)と選んだものである。
鈴木さんからは昨年に、NHKロケ前の1970年代と思われる(実質撮影の「おしんの生家」)写真の複写を協力いただいた。
「おしんに魅せられて」の探究はこれからも続く。
  追記、一代で山形市などでY企業グループを築いた立志伝のT氏が、栃窪出身であることを古老から教えていただいた。
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「おしん」の故郷を訪ね歩いて、新たな確認ができた。

2013-06-15 21:18:18 | Weblog
晴天に恵まれた過日、「おしん」原作上の出生地イメージの故郷・(白鷹町)旧栃窪集落を訪れて見た。
以前に訪ねたときはまだ残雪があり、旧集落入口の栃窪分校跡地から深入りしないで帰ってきたものである。
紅葉の時期にでもなったら再度訪れようと考えていたのだが、近日の友人との「おしん」談議から、おしんマニアとしてはさらなる探究を進めたいとの思いにかられ、意を決したのである。
向かう途中でもあるので、中山町岩谷(おしんの生家撮影地)にも立ち寄ることにした。
DVDで繰返し観て見ると、「乙羽おしん」が(孫の八代)圭におぶさりながら辿りついた生家集落を目にして、「見えた、見えた!」と叫ぶシーン(第4回1983.4.7)からクローズアップされる「おしんの生家」は、岩谷観音堂側の本道から見えるシーンである。
が、撮影構成上の実際の「乙羽おしん」の入村位置は、反対側になる(大寺側からの)昇り道から、集落の生家に駆け付ける撮影構図となっている。
何度か見ているなかで気が付いたものである。
既載しているが、本年10月公開予定の映画「おしん」撮影に先立ち、中山町岩谷から移設されたとされる(所謂)「おしんの生家」は、NHKドラマで実際に撮影された本物(ロケ後5年ほどで倒壊・所有者鈴木さん談)ではなく、道路向かいにあった別の残存古民家である。
さらに、移設後の写真を見ると、屋根作り、入口の位置(内部の間取り)などまったく違う外観である。
話題作りと、目先の関心を呼ぶためにと県費支出を企てた制作サイドの戦術だったのであろう。
ともあれ、映画のヒットを望むものだが、日本国内(最高視聴率)の視聴率を超えるほどの「おしん」の国際的評価を地元山形県民が知らないことでは、山形県成長戦略「オシンノミクス」の発信には容易ではない。
まず、県民は「灯台下暗し」に気付くことである。「おしん」の故郷を訪ね歩いて、新たな確認(大寺側からの入村)ができた一言。
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橋下徹大阪市長の「慰安婦発言」で、維新転落

2013-06-13 23:03:56 | Weblog
(6月5日付「産経新聞」)作家曽野綾子のコラムで、「橋下市長のいわゆる「慰安婦発言」で、世間がこんなに騒いだのは、多分橋下氏の政治家としての資質に危惧を抱いたからなのである」は当を得たものと共感した。
維新には保守政党の枠内でこれからも期待したいのだが、橋下徹には異質さを感じている。
橋下を看板に追従する維新団を考える向きには、真逆の見かたと言えよう。彼には分別がないのだろう。
会見を弁護士流に法廷戦術と同様に捉えてしまう発言。発言のすり替え、脆弱な歴史認識、なによりもそれで通せると判断してしまうタイトな人間観。
多数の中の一議員ならまだしも、権力者の首長であることの真摯な受信観が見えない。
「大阪のお笑い票」が、橋下徹に動いただけと見れば、その程度の軽薄票が政治を動かしてしまうことに哀れを感じてしまう。
周りの議員も諭すことなく沈黙を通しているから、よけいに政治不信を惹起させている。
独りよがりの未成熟人間とその場凌ぎの担ぎ屋との集合政党と言える。
政策以前の問題として諌言できる側近が居ないことが、維新崩壊を暗示させている。
橋下は代表辞任で済むだろうが、一時の橋下ブランドに追従している議員諸侯(候補者)の行動は精査して行きたい。
橋下徹大阪市長の「慰安婦発言」で、維新転落するは「浮遊ブランド思考」の軽薄世代の到来でもある。
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所詮、野中広務は異邦人と見るべき!

2013-06-13 21:32:18 | Weblog
6.3、野中広務元官房長官は、日中関係の改善を訴える訪中団団長として劉雲山政治局常務委員と会見。
その際に「田中角栄元総理から(1972.9)日中国交正常化の際、尖閣問題の棚上げで両国の合意があったと聞いた」と語った。
これは「棚上げの合意はない」とする日本政府の見解に反するものである。
この(尖閣問題)時期に招待を受けて、このような発言をすること自体、正常な日本主権観とは相いれないものであり、批難の弁よりも「あなたは異邦人だ!」と斬り捨てたい。
同行者が古賀誠と仙谷由人であり、反日左翼のDNAが満載の訪中団である。
元共産党員の野中、全共闘過激派の仙谷の中国ルートは、戦後の対中貿易商社を通じた資金援助を得て反日闘争を繰り広げてきた象徴的なものである。
それらの主要人脈に繋がる関係者リストが、中共の対日工作機関にはしっかりと残されており、永久脅迫のツールとされている。
結果として、30~50年前の一時の悪状と切り捨てられない赤化DNAが深く刻み込まれ、払拭できないものとして反日工作ポジションを担っている。
日本は自由・民主・人権を重んじているが、左翼はこの宥和思想に取り入り潜入跋扈してきたものである。
社会主義を標榜する政党ならまだしも、保守の自民党の中枢まで入り込み、長らく政権に影響を及ぼす工作活動を行って来たのである。
いわゆるリベラルと表するのも、非共産としての隠れ蓑にすぎない。共産党を名乗っている人物のほうが、発言行動全体がガラス張りであろう。
1968年の宮本顕治日本共産党と毛沢東との決裂から、除名・離党に至った社会主義者は、日本共産党を離れはしたが基本思想の転換に進んだのではなく、社会主義親中派の構成員になったまでのことである。
野中訪中団はその延長上にある反日工作員であり、堕落した自民党が精査することなく率いれた積年の親中分子と言えよう。
野中は、菅官房長官の否定会見にも「私はそれを言うために(中国に)行ったのだから、発言の撤回などしません」などと悪びれる様子もない。
所詮、野中広務は異邦人と見るべきで、至極当然ではあるが、自民党議員(候補者)が親日純化政党(政治団体)に充分であるのか検めて問いたい。
30年余の自民党員であるが、左翼野党よりマシなだけでベストには程遠い。晋三さんには最後に託す期待と言ってもいい。
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