山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

剣劇芝居のスター浅香光代さんの隠し子告白、「自民党の重鎮」とされる愛人S議員とは?。

2014-01-22 19:01:59 | Weblog
1月22日発売の雑誌「婦人公論」誌上で、女剣劇芝居のスター浅香光代さんが20代の頃に、後に「自民党の重鎮」となるS議員と愛人関係となり、二人の男の子供を設けたと告白。
このS議員が誰なのかとの色々な憶測が飛び交っている。
おそらく間違いではないものと思われるが、ブログ子が永田町在任時に当該S議員事務所の秘書から聞いた記憶がある。
1985年に議員在職中に亡くなったA県選出の党人派代議士がその人だと思われる。
苦学の論客で、いかにも剣劇芝居に魅かれそうな、戦前の地方議員出身の叩き上げで、戦後第一回の総選挙(1946.4)で国政初当選している。
1978.12第一次大平内閣の閣僚で、佐藤-福田派の清和会系代議士。
浅香光代さんのタニマチだったと聞いた。
14歳で浅香光代一座を組み、苦労してきた浅香さんに、S議員も苦労人境遇(苦学・落選あり)を照らして恋仲になったものと考える。
タニマチとしての援助以上の心通う愛情があったからこそ、二人の結晶として授かったものであろう。
「大蔵大臣だった泉山三六の紹介で知り合った」とあるが、S議員は山形県とはまったく関係ない。
浅香光代さんはこの隠し子告白について「何十年もの間、自らが演じてきた長谷川伸先生の『瞼(まぶた)の母』を地で行ってしまった切ない母の懺悔でござんす」と話している。
誌上で、イニシャル「S氏」とあるが、苗字ではなく名前の方である。
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細川護煕の五輪返上発言も、祖父近衛文麿と同じ軽薄なDNAにある。

2014-01-18 11:07:44 | Weblog
細川護煕が都知事選に向けて、2020東京五輪の開催返上に言及している。
呆れるほかないのだが、75年前(1938.7.15)に祖父の近衛文麿首相が、1940夏季東京・1940冬季札幌の両五輪開催を返上している。
日中戦争という状況下が返上理由ではあるが、既載している通り、朝日コミンテルン工作による(組み易し)近衛政権の樹立を謀り、(1937.6)成立直後の、7.7に北支事変(盧溝橋事件、八路軍の謀略)を仕掛けてきたのである。
1938.1.16の第一次近衛声明「爾後国民政府を対手とせず」で、和平交渉打ち切りを通告、川越茂駐華大使に帰国命令で、1.20帰国。
これにより両国間の外交関係は断絶、大陸戦線は拡大する。
見事なまでに、コミンテルンのテーゼに沿った(近衛工作)経緯で日中戦争は進んで行く。
そんななか、(1938.7.15)近衛政権の閣議で、1940東京・1940札幌の両五輪開催の返上を決めている。
同様なこの無能なバカ殿を担ぐ阿呆たち。細川のどこに政治家知見があるのか教えて頂きたいものだ。
細川護煕の五輪返上発言も、祖父近衛文麿と同じ軽薄なDNAにある。
都知事選告示まで数日に迫った。主な予定者のワンフレーズ論評、
「宇都宮健児?、アカでしょ!」 確信左翼
「舛添要一?、(DV)チョンでしょ!」 粗暴なチョン人
「田母神俊雄?、サムライでしょ!」 唯一保守
「細川護煕?、バカ(殿)でしょ!」 観念左翼

単純とゆるキャラの小泉父子も、軽薄なバブル風船に過ぎない。
「脱原発」を叫ぶ単純一郎は、被災地(原発設置区域)を訪れ、何か活動をしたものだろうか?。
首相退任後に、靖国神社を参拝しているだろうか?。
単純の靖国参拝は、支持率目当ての世論を侮った(国家観に欠けた)心無いトリックパフォーマンスに過ぎなかったようだ。
心配するのは、誰が知事になるかで、首都直下型地震を招来する災害招き知事になりはしないかである。
村山富市政権で阪神・淡路大震災(1995.1.17、死者6,433人)、菅直人政権で東日本大震災(2011.3.11、死者行方不明・1万8500人)の人的被害があった。
このうち初動対応の拙さから犠牲になった方は多いことだろう。
危機管理を認識出来ない愚かなリーダーを選んだ付けは大きい。
(2013.12.19)国の有識者会議が、首都直下地震は30年以内の発生確率70%で、マグニチュード7級の地震で、最悪の場合、死者が2万3千人、経済被害が約95兆円に上る想定を発表している。
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TBS「隠蔽捜査」の役職設定が可笑しい。

2014-01-14 11:18:28 | Weblog
刑事ドラマを好んで見る。
むしろ、それ以外のお笑いバカ、芸無しタレント、左翼系ワイドショーなど俗悪番組では見るべきものが無い。
おナベ、おカマ、おネエ系の氾濫は目に余るので、番組スポンサーの商品購入は極力避けるようにしている。
昨夜、TBSの新番組「隠蔽捜査」の第一回を見た。
主人公の警察庁官房総務課長は、官房総括審議官と警視庁刑事部長の3人が、キャリア入庁同期組とするあり得ない設定である。
官房総務課長(警視長)ポストは、長官・総監への出世ポストなのに、同期となる総括審議官と警視庁刑事部長は、すでに格上の警視監になっている。
年次が3~4年違ってなければならないはずだ。(総務課長が年次後輩)
警視庁刑事部長が、現場にやたらと顔を出して指揮するなども変である。
高校同級生の親友同士で、方や東大を出てキャリア入庁して、長官・総監狙いの警察庁官房総務課長(警視長)、一方はノンキャリ入庁で叩き上げの警視庁捜査一課長(警視正)とすれば年次の辻褄も合い、かえって面白いシナリオが書けると思うのだが。
さらに、同級時代の私的経緯からキャリア課長が、ノンキャリ同級に頭が上がらない関係などにすれば、倍加的に面白いこと受け合いだ。
所詮、フィクションドラマだからしょうが無いのだろうが、基本設定が余りにもいい加減では、どうにも気になるものである。
テレ朝「相棒」の杉下右京は、東大出のキャリア入庁にもかかわらず警部のままで、警部補の部下ひとり(相棒)の設定である。
警視正から警部に2階級降格の警視庁刑事部特命係長として、上司から疎まれているのもドラマ設定なので仕方ないものなのか。(実際、有り得るはずのない人事で、懲戒免職事案になろうか)
水谷豊の年齢(61)からすれば、キャリア入庁で順調なら警視監で退職、天下り人生を送ることになっているだろう。
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朝日コミンテルンに踊る、同根の近衛文麿と細川護煕両愚相

2014-01-11 12:34:56 | Weblog
新渡戸稲造は著書「武士道」の中で、「恥はすべての徳、善き道徳の土壌である」と述べている。
細川護煕は細川家18代当主にも係わらず「武士道精神」が備わらない、公家の近衛家の血筋が強くでているようだ。 心耳に聞く器量無し。
親兄弟といえど人格はそれぞれであり、同種非難するにも憚られるのだが、歴史に学ぶことも無くあまりにも祖父近衛文麿と同様な行動に走るので述べてみたくなる。
先の大東亜戦争における日本側の戦争責任の筆頭は、近衛文麿首相であろう。
次いで近衛の盟友で後任首相に東條英機を指名した木戸幸一内大臣(河上肇に私叔)。
アメリカ側の筆頭は、F・ルーズベルト大統領であり、共にコミンテルン工作の最高ターゲットであった。
以下、開戦までの経緯と近衛文麿・木戸幸一、
1930.10、木戸幸一、近衛文麿の推輓で内大臣秘書官長(牧野伸顕内大臣)
1931.1.16、近衛文麿、貴族院副議長、1933.6.9~37.6議長
1932.5.20、独語版コミンテルン機関紙「インプレコール」に出た「1932テーゼ」を、河上肇(本田弘蔵)は、在独の国崎定洞から受取り、翻訳して共産党(風間丈吉委員長)に提出
 (満州事変後の日本の「国家権力」を「絶対主義的天皇制」と規定し、「封建地主とブルジョアジーの同盟」に対し、「労働者・農民・都市貧民」の「天皇制打倒」の同盟で対抗)
1932.7.10付、赤旗特別号にコミンテルンの「日本における情勢と日本共産党の任務に関する1932年テーゼ」を掲載(天皇制打倒を戦略目標の第一に据えよ、河上肇・村田陽一の翻訳)
1932.8.~9.、コミンテルン第12回総会決議、米英仏日独といった「帝国主義列強を互いに対立させ、戦争に追込め」という戦略指令、①日本を米国との戦争へ追込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ。
1932.12、リヒャルト・ゾルゲ、上海から横浜に立ち寄り、ウラジオストーク経由でモスクワに帰国(諜報・工作密命)
1935.7.25~8.21、最後のコミンテルン第7回世界大会(モスクワ、参加65ヵ国・510名)、人民戦線戦術採択(フロント・反ファシズム統一戦線で、社会民主主義団体その他勢力との統一戦線を樹立、天皇を戴いた強力な社会主義国家建設の理論展開で全面戦争に追込む)、天皇親政派を利用した謀略戦術
1935.9、リヒャルト・ゾルゲが来日、本格的『謀略戦術工作』に、朝日新聞記者(朝日コミンテルン)と内通
1936.5、「東方会」結成(中野正剛総裁)、元朝日記者で国家社会主義、南進論提唱
1936.11、昭和研究会正式発足(朝日コミンテルン多数参加)、1940.11大政翼賛会結成で発展的解消
1937.6、第一次近衛内閣、風見章内閣書記官長(元朝日記者)
1937.7.7、北支事変勃発(盧溝橋事件)、八路軍の謀略⇒日中戦争
1940.6、木戸幸一内大臣~1945.11、1930.10(近衛の推輓で)内大臣府秘書官長就任、近衛と共に京都大で河上肇教授(マルクス主義)に私叔
1940.7、第二次近衛内閣、風見章司法相・尾崎秀実参与(元朝日記者)
1940.10、大政翼賛会結成、中野正剛顧問・風見章常任顧問・赤松克麿企画部長・・・
1941.12、太平洋海戦(大東亜戦争)・中野正剛は開戦の報にバンザイを叫ぶ、10.18東條英機内閣成立

以上の、近衛文麿を照準にした朝日コミンテルン工作により、日米開戦へと進んだ。
1945.2.14に、近衛文麿が天皇宛て「近衛上奏文」で、「つらつら思ふに・・・・、背後より操りつつある左翼分子の暗躍に御座候」などと、愚かにも第三者的に振り返っているのである。
自らの周辺に(朝日コミンテルン)工作員を抱えながらも、まったく気付かないできた呆れた宰相である。
細川護煕もまったく同様である。1994.2未明の国民福祉税発表と撤回、佐川急便からの一億円借入問題は広く知られているが、迫る危機管理で逃げ惑う事態にあったことは余り知られていない。
1994.3.18、南北協議(韓国・北朝鮮)で、「戦争になれば、ソウルは火の海になるだろう」と対立、クリントン政権は北朝鮮・寧辺核基地のピンポイント空爆を検討する非常事態にあった。
このとき、小沢一郎(新生党)は、集団的自衛権行使の可能性検討を側近に指示している。
細川退陣(9ヶ月のバカ殿政権)の決定的要因は、有事危機に対応できなくオロオロして投げ出した事態にあったと当時の官邸内部通の話がある。
災害危機管理体制に、何の識見ももたないで為政者になろうなどでは、子どもの学級委員なみである。
生き写しの祖父近衛文麿が、国民に齎した愚かな行動による惨禍に頭を垂れて永蟄居されるのが、後世へのせめてもの償いではなかろうか。
朝日コミンテルンに踊る、同根の近衛文麿と細川護煕両愚相に見る戦争責任。 「S級戦犯・スパイに与する共犯罪」に該当。
近衛兵は元首を警衛する役にある。コミンテルン工作に直ぐ乗ってしまうパーな尻軽兵では困りものである。
細川護煕が知事選出馬となれば、都民有権者の正常感覚が問われる選挙となる。
さらに横須賀の単純一郎、水沢の腹黒一郎と並び立ったなら日本が世界中から笑われる。
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新春、超促成栽培の山形県産「さくらんぼ」、1991~93の頃の想起。

2014-01-04 19:29:50 | Weblog
正月新春明けに、超促成栽培の山形県産「(佐藤錦)さくらんぼ」が、市場に出まわるとの報道があった。
思い起こせば、20年ほど前からすると「出荷が、約一ヶ月ほども早くなったのかなァ。」と、促成栽培の技術進歩と当時の感慨に更ける。
1991(平成3)年2月初旬、ボスから「晋三さんのところに届けてくれ。話してあるから。」と・・・・。
安倍晋太郎元外相が、順天堂病院で闘病生活されていた頃である。
当時も桐箱入り市場価格で約15万円ほどの品だとされたから。 
約50粒だから(桐箱包装含めれば)一粒3000円相当になる。
安倍会長の幾ばくかの病状回復に、賞味して貰えればと用意したものであった。
当時、晋三さん(現総理)は、原宿駅にほど近い表参道通りのマンションに住まいしていた。
お届けした時は、あいにく不在で管理事務所に預けてきた。
晋三さんを通じて(促成栽培のさくらんぼを)賞味して頂いたと思われるのだが、その甲斐も無く、5.15安倍会長は膵臓癌による死去となった。
早朝のニュース報道から家内の、「安倍先生が亡くなったわよ!。」との声に、急ぎ駆け付けたものだが、「来るものが来た!」の思いだった。
芝増上寺での葬儀には、清和会秘書会のメンバーとして手伝い、黙祷を捧げた。
1993.1.19、皇室会議で小和田雅子女史が徳仁親王妃に内定された。
同2月初旬、JA天童の組合長から、ご婚約記念に「(当地天童の促成栽培の)さくらんぼ」をお祝いにお届けしたいとの依頼が舞い込んだ。
T組合長が上京しての直訴である。
外務省次官室(当時、小和田外務次官)に、用件を問い合わせたところ、「(公務上でなく)小和田家に直接にと。」、電話番号を教えて頂いた。(※、当時ボスは閣僚だったのであって、普段に易く対応は出来ないと思われる)
今では(運よく)、ブログ子が小和田次官夫人と直接話す機会が訪れたわけであるが、「婚約発表以来、色々な方々からお祝いの送り物があり、メディアを通じて報じられることに宮内庁・外務省からも対応を懸念(宣伝利用)されている」ことから「ご遠慮したい」との答えが返ってきたのだが。
小和田邸を包囲する取材網の協定破りの時間帯を避けて、翌日の皇太子殿下とのデートに合わせて、2セットを届けた。(小和田家・皇太子家にと)
翌日、日本農業新聞だけには大手中央紙を侮ったスクープ記事となった。
超促成栽培の山形県産「さくらんぼ」、1991~93の頃の想起。
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阿信県行旅、おしんと歌舞伎(出雲阿国と山形阿信)

2014-01-04 16:31:24 | Weblog

        浅草寺(台東区浅草2)、猿若町は浅草寺裏手(6丁目)

正月2日、恒例の新春浅草歌舞伎の鏡開きが浅草公会堂で行われた。
昭和52年10月に浅草公会堂が開館、(歌舞伎用の)本格的な花道を備えている。
55年から新年伝統の歌舞伎公演として、若手歌舞伎俳優の登竜門とされてきている。
「おしん」を中華系諸国では、漢字で「阿信」と称しているが、日本語でも「阿信」を、「おしん」と読んでもまったくおかしくはない。
1603(慶長3)年春、日本歌舞伎は元祖とされる出雲阿国(いずものおくに)の、北野天満宮での歌舞伎興行が始まりとされている。
「出雲阿国(いずものおくに)」は、「山形阿信(やまがたのおしん)」と相通じる呼び名となるのである。
1917(大正6)年7月、おしんは山形の料理屋への年季3年の座敷女中話から逃れ、東京に出奔(約18K歩き、長井駅乗車-赤湯乗換、上野駅から3K徒歩)、浅草区猿若町の「髪結・長谷川たか」の奉公人にと願い請う。 「たとえ10年辛抱したってええっ!、自分の思うように生ぎられる女子になりっでえんだっすッ!」
この猿若町は、現在の浅草公会堂から浅草寺を挟んだ北側裏手(6丁目)の位置となり、猿若の地名は江戸時代に芝居小屋が建ち並んだ地域で、江戸四座の雄・猿若勘三郎座からきている。
猿若勘三郎は後に中村屋を名乗り、現在の中村勘三郎の系譜となってくる。
(18代目中村勘三郎は、2012.12没)
1922(大正11)年12月、母ふじが長男雄の出産に上京(鮎貝駅乗車)、原作上で新春歌舞伎物に楽しむ観光記述がでてくる。
酒田市には、(1716~33の享保年間から)黒森日枝神社に奉納伝承されている、雪中の農民歌舞伎「黒森歌舞伎」がある。
「おしん-最終章」あらば、原作には無いのだが、加賀屋の大奥様(八代くに)に連れられた、おしんの思い出として、是非採り入れたい回想シーンである。
日本歌舞伎は、2009.9第一回ユネスコの無形文化遺産に正式登録された。
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