山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

1973年4月、デビッド・ボウイ来日公演(東京厚生年金会館)

2016-01-29 13:04:27 | Weblog
新年明けの10日、デビッド・ボウイが69歳で死去した。
2013年に約10年ぶりのアルバムを発表するも、以降、がんで闘病生活を送っていたようだ。
1973年4月、デビッド・ボウイ来日公演(東京厚生年金会館)を観に行ったことを思い出している。
当日券を求めたのだが、運よくキャンセルがでたものか、前から二列目の席をゲット。
臨場感溢れるボウイのエネルギッシュなステージパフォーマンスとサウンドに興奮した。
当時、ブログ子はロックに魅せられ、レッドツエッペリンなど、ハードロックを良く聞いていた。
オーディオにも費やし、ソニーのFシリーズのアンプ・チューナー(約20万円ほどだった。他にプレーヤー・スピーカー・・・)を買い求めて、ガンガン騒いでいたものだ。
年二回ほどの、知人が寄り集まったパーティには、これらを持込み、ディスコミュージックを鳴らし続けた。
会場とした赤坂6「S」は周辺開発とともに、今ではマンションに変わってしまったようだ。
ボウイのアルバム「アラジン・セイン」も、オーディオキットと一緒に実家の物置に仕舞い置いてある。
故障はしていなかったので、いまでも聞けるはずなのだが・・・・・。
東京厚生年金会館は、前年(1972.9)のクリフ・リチャードの日本公演もよく覚えている。
当時は、まだ無名だったオリビア・ニュートン=ジョンが、クリフの前歌とバックコーラスとして初来日していた。
東京厚生年金会館(新宿5)は2010年3月末で閉館。 半世紀の歴史(1961.4~2010.3)に幕を閉じた、
デビッド・ボウイの「スペイス・オディティ」は、現在の宇宙空間でも時の流れを感じさせない。
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朴槿恵韓国大統領の「告げ口外交」、吉村美栄子山形県知事の「口出し解任」は似たもの?。

2016-01-05 17:49:16 | Weblog
朴槿恵韓国大統領の「告げ口外交」と吉村美栄子山形県知事の「口出し解任人事」は似たもの?。
ともに、直接間接的であれ、権限者として間違いではないのだが、TPOの品性と政治的配慮に欠けるから批判を浴びることになる。
政治初心者の試運転の頃なら、寛容に見ることだろうが、プロの政治家となった今頃に説明不足の(高橋節社長)辞任勧告人事に、納得しがたいサポーターは異議を唱えた。
問題なのは、このような(批判)事態を予想できないままに、手続きを傲慢に断行した政治感覚にある。
J1からJ2降格に伴う経営責任を問うとすれば、基本レベルはJ1残留維持と解すべきであろう。
2016年で、J1昇格を達成しなければ、同様の責任問題が発生することになる。
その結果は、秋口には判明するであろうから、(森谷)新社長に止まらず、知事、副知事の責任問題にも及ぶこと必死であろう。
2017年初に、予定される次期山形県知事選挙を控えての、3選出馬ノミネートに向けてのハードルを、美栄子知事自らが設定したに等しい「モンテ社長解任騒動」となってしまった感がする。
吉村知事の県議会答弁、「J2に降格した厳然たる事実や、観客動員数もJ1最下位だったという、今季の結果を重く受け止めなければならない。」とは、そこまでの(自身の)覚悟含みと受け取ることで納めるしかないだろうが。
このような事態は、得てして「あの時が、(政治的)潮目だった。」と、後で振り返るものである。
それにしても、知事周辺人事にバスケットボール・電気工事関連に繋がる「吉村(後援会)人脈」を、色濃く感じ取るのはブログ子だけであろうか?。
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「真田丸」に見る、真田一族と大江一族(鎌倉時代)に共通する、信濃国上田藩(上田荘)領有の歴史。

2016-01-05 11:54:37 | Weblog
NHK大河ドラマ「真田丸」が始まる。
信濃国上田藩を領した、(1583~1622)真田昌幸、信之・信繁(幸村)父子の真田家一族が、豊臣・徳川の天下統一争奪時代に織り成す武家政治のドラマである。
上田藩は、武田旧臣の真田昌幸が、千曲川沿いに上田城(天正11年(1583)着工)を築いたことから始まる。
1600.「関ヶ原の戦い」では、真田一族父子が東西に分かれて参戦するに至った。
戦い後、西軍に与した真田昌幸に代わり、東軍方(徳川)についた長男信之が藩を継承、元和8年(1622)幕命によって信之が信濃松代藩へ移封するまで続いた。
遡る鎌倉時代、朝廷(後鳥羽上皇)と鎌倉幕府(北条政子)が交えた「1221.承久の乱」では、大江廣元・親廣一族も双方に分かれて参戦した。
鎌倉幕府は、北条泰時を総大将として京に攻め入り、朝廷軍を一蹴し、勝敗を決した(実質1ヶ月)。
大江親廣は京都守護職任命で、鎌倉と敵対する後鳥羽上皇側に立ち、京方として近江国供御瀬(大津市)に出陣、敗れて近江関寺から京都に戻る。
幕府軍に敗れた大江親廣は、10名ほどの家臣を随い、祖父多田仁綱の(山形県)寒河江荘に落ち延び潜居(西川町沼山の向中岫)、後に仏門に入り「安仲坊」(吉川村)と改め隠棲した。
霜月騒動(1285.12)で、大江氏第5代元顕は寒河江荘に下向、以後土着する。  
第8代大江時氏の時に、寒河江城を築き、寒河江大江氏として(1584.)最上氏に敗れるまで武家大江氏18代が存続した。
19代以降は、江戸幕府より朱印状の交付を受け「吉川安仲坊」と継承、現在42代目を数える(ブログ子の同級生大江君)。 27代道空の弟天宥は、羽黒山の中興の祖(杉並木・石段整備)でもある。
さて、「1221.承久の乱」に、鎌倉幕府北条方として参戦、(近江戦)で戦功を挙げた大江佐房(親廣長男)は軍功として、信州上田荘を得る。
大江佐房は、上田氏(上田氏の祖)を名乗り、霜月騒動(1285.12)で、4代父子が戦死没落するまで続いた。
関東地方に構えていた大江一族は、霜月騒動以降、寒河江荘(大江宗家一族)を頼って下向が続くことになる。
確認はできていないが、信州上田荘からも寒河江荘(宗家一族)を頼って下向されているものと考えられる。
真田家の上田藩領有(1583~1622)は約39年、大江一族の上田荘統治(1221~1285)は約64年である。
山形県では、昨年の「花燃ゆ」(長州毛利家は大江廣元4男家系)と同様に、「真田丸」(真田・大江家の上田藩(上田荘)領有)放送を、地方創生(?)に幾ばくか活かそうとの声すらきこえてこない。
「真田丸」に見る、真田一族と大江一族(鎌倉時代)に共通する、信濃国上田藩(上田荘)領有の歴史。
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命名「2020東京パクリンピック」に決定、ザハ案(旧デザイン)パクって工期短縮アピールで隈・大成!。

2016-01-03 19:11:57 | Weblog
命名「2020東京パクリンピック」に決定、白紙撤回になったザハ・ハディド案(旧デザイン)パクって工期短縮アピール!。
五輪エンブレム問題に続いて、新国立競技場の設計案審査でも、パクリ疑惑が発生してきた。
共に、選考審査委員会に並ぶ職種専門家なる方々は、パクリ談合の専門家なのであろうかと疑わざるをえない。
選出されたA案(隈研吾・大成建設)の観客席の構造がザハ案とそっくりなのは、「旧ザハ案でスタンド工区=観客席の施工を担当することになっていた大成建設が、すでに大量の資材や下請け業者をおさえていた。」ことが、12.19に技術審査委員会が審査するまでもなく(業界筋で)「すでに内定済み」とも囁かれてきたことだとされる。
国民を前にしての出来レースともなれば、心中穏やかではない。
菅義偉官房長官の子息が大成建設に勤務していることも、さまざまな憶測を呼ぶ理由とされる。
ブログ子の期待としては、五輪開催は50年、100年の国家イベントであるから、国の長期的都市計画を伴った首都改造につながるような視点での計画であって欲しかった。
都心の「神宮の森」は、もっと広くてもよく、郊外に50年先を見据えたような計画が出来なかったものかと残念に思う。
網の目の様な都心に集中する施設環境は、一極集中を加速させるだけである。
サブグランドも取れない陸上競技場では、国際的に失格ものである。
見かけだけのデザイン案ではなく、競技者・観客から見た機能性ある競技施設こそ重要ではなかろうか。
一時のイベントに終わる見かけ倒しの姿勢は、その後の経済構造不況を招くだけである。
1964東京五輪開催で、急ぎ建設した首都高速道路は、東京の都市空間を遮ってしまった。
これを改善するいい機会でもあったと思われたのだが、大きな改修はなされないようだ。
旧ザハ計画案における日本スポーツ振興センター(JSC)とザハ事務所の契約では、「設計ないしデザインについて、著作権その他の知的財産権はザハ事務所に依拠」し、許可なしに設計を使うことはできないとされる。
設計案パクリ疑惑の推移によっては、またひと波乱あるのだろうか。
命名「2020東京パクリンピック」に決定、ザハ案(旧デザイン)パクって工期短縮アピールで「隈研吾・大成建設」?。
後世に「パクリレガシー」なんて、ならなければいいのだが・・・・・。
隈さんより寅さんのほうが、日本人の庶民レベルをアピールできると柴又界隈から聞こえてくるようだ。
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古舘伊知郎が「報ステ」降板会見で吐露した、固定した「反権力」思考こそ、共産主義者の階級闘争史観だ。

2016-01-03 15:51:37 | Weblog

       秋葉原電気街・総武本線下

テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスターが、3月末で降板することが正式発表された。(2004.4から12年余担当)
降板の記者会見で、番組を引き受けた当時「自由に、あなたの絵をかいてほしい」と、(MC出演を)口説かれたことを振り返り、「やってみたら、ものすごく不自由な10年間だった。綱渡り状態でやってきた。」と話した。
なにが、(持論の左右どちらに)不自由であったのか、経営幹部、左翼PDの指示に不満だったのか・・・・?。
視聴者からの偏向報道との批判には、「基本的に反権力であり反暴力。言論・表現の自由を守るという側面もあるが、あまりにも偏ってはいけない。とはいえ、全く純粋な中立公正なんてありえない」と持論を展開した。
古舘伊知郎が「報ステ」降板会見で吐露した、この固定した「反権力」思考こそ、共産主義者の階級闘争史観そのものである。
「ジャーナリズムは、権力を監視する機能である」などと、左翼分子はごたくを並べるが、これは都合勝手なトリック語用でしかない。
誤謬(詭弁)を弄して騙す手法に、視聴者は見透かしてしまっている。
IT、NET、SNS時代の到来とは、大衆民主主義の真の実現をもたらそうとしている。
戦後の対日本人への思想戦略工作には、GHQに加え、社会主義者(コミュニスト)が、双方から工作関与してきた。
1945.9.5、GHQはNHK放送会館(内幸町2)を接収、GHQ民間情報教育局(CIEラジオ課)がNHK会館に同居、放送事業の指導・監督(検閲)を始めた。
敗戦直後(11.13)、GHQは、ラジオによる国民洗脳工作に400万台のラジオ調達を命じた。
電機工場の稼働能力が低く、資源物資に困窮するなか、千代田区内神田の東京電機工業専門学校(1949.東京電機大学)周辺に、真空管やラジオ部品など電子部品の露店が総武本線ガード下に集まった。
専門学校の学生は、作れば売れるラジオ製作(アルバイト)に勤しんだ。
後に、占領軍の露店撤廃令で行き場を失った露天商が移転先として集約されたのが、現在の秋葉原電気街である。
いまや、世界有数の電気街として発展、世界的な観光地にもなった「アキバ・AKIBA」は、GHQのラジオによる日本人洗脳工作に繋がる由縁の地でもある。
いわんや、テレビにおいても、反日左翼勢力(労組)の浸透により植民地となった、テレビ朝日(朝日新聞)、TBS「毎日新聞」、を始めとして、編集編成権が乗っ取られている状況にある。
ブログ子は、(信用ならない「報ステ」「ニュース23」「サンデーモーニング」のプロパガンダ放送など)まったく視聴していないが、純粋無垢の民にはご用心と言いたい。
共産主義の統治論理は、「アカがバカを指導する。(愚衆を騙す)」である。
くれぐれも、「バカ(愚衆)組」には入らないように願いたい。
小さな反攻姿勢として、いつも、放送スポンサー企業の商品不買だけを気にとめている。
テレビ朝日本社と中国大使館が、地下通路で繋がっているのではないのかと考えることがある(約300mほどの距離、人民解放軍なら不思議でない)。
森ビルによる六本木ヒルズ工区再開発前のことであるが、生放送番組に2回ほど出演したことがある。
共演(?)した、愛川欽也が昨年亡くなった。 ご冥福を祈る、合掌。
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