山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

民進党代表選で蓮舫代表代行、台湾籍の除籍手続き取る 「二重国籍」問題で、嘘つき蓮舫「確認取れない」。

2016-09-06 22:04:14 | Weblog
民進党の蓮舫代表代行は6日、高松市での記者会見で、日本国籍と台湾籍のいわゆる「二重国籍」疑惑について、「いまなお確認が取れない」と述べ、6日に台湾当局に対し、現在も台湾籍があるか確認手続きを取り、同時に台湾籍を放棄する書類を提出したことを明らかにした。  台湾籍が残っていた可能性は完全に否定しきれなくなり、出馬した党代表選(15日投開票)にも大きな影響を与えそうだ。
 蓮舫氏は会見で「昭和60年1月21日に日本国籍を取得し、合わせて台湾籍を放棄を宣言した」と説明した。  手続きは、台湾の大使館的な役割を担う台北駐日経済文化代表処(東京都港区)で台湾人の父と行ったという。   ただ、「(台湾当局者と)台湾語でやりとりが行われ、どういう作業が行われたのかまったく覚えていない」としている。
 蓮舫氏は当時17歳。  台湾の「国籍法」11条によれば、自己の意志で国籍を喪失できる条件を「満20歳」と規定しており、この時点では台湾籍を除籍できなかった可能性がある。
 蓮舫氏の関係者は6日、台北駐日経済文化代表処を訪れ、台湾籍が残っているか確認を求めた。  同日に除籍を申請したのは、今でも台湾籍が残っているか確証が持てないための措置とみられる。

以上は、本日(9.6夕)のメディア報道であるが、問いたいことは、「蓮舫の二重国籍問題」は少なくとも、3ヶ月ほど前からネット空間などで広く流れていたことである。
とくに、6月15日の舛添要一東京都知事が辞意を表明した直後からは、ポスト舛添の有力候補として報道され、合せて「蓮舫の二重国籍問題」は色々な媒体で疑問視されて来ている。
にも係わらず、これまでに(台湾関係当局への)確認作業を行って来なかったことは、蓮舫議員のみならず、推薦支持議員、民進党本部(代表選関係)に問題視する、国籍に対する意識のなさを露呈してしまった。  
蓮舫は、自身の選挙公報では1985年に国籍離脱としながら、1997年の雑誌「クレア」では台湾籍と語り、現在は国籍離脱時期が不明という回答をしている。
蓮舫が台湾籍の放棄手続きを行ったとする1985年前後の台湾政府官報(総統府公報、内政部中華民国国籍喪失一覧表)に、蓮舫の「国籍喪失公示」の記載は見当たらない。
2013年まで蓮舫議員(2004年7月参議院議員)の公式ホームページに「台湾から帰化」と記載されていたが、その後削除された。  (9.6)国籍放棄申請日まで、台湾の(失効)パスポートはしっかりと所持していた。
民進党が、これからも日本におけるマトモな政党として存在すべきと考えるならば、この「蓮舫の二重国籍問題」を機会に、懸念される同様な帰化議員等についても確認作業を行い公表されることが望まれる。
国政選挙の立候補届出書類に加え、怪しげな反日議員に対して、「二重国籍疑惑」を解消する証明書の提出(公表)を義務化すべきだ。 (帰化国会議員が、野党中心に約一割強(80人ほど)いると言われる)
国会議員の経歴詐称は禁固2年以下、又は30万円以下の罰金。   公職選挙法違反(虚偽事項公表罪)、国籍法違反・・・・・に問われ、議員資格を失う可能性もある。

(追記)
1993.3.16・朝日新聞夕刊、(蓮舫は)「在日の中国国籍の者として、アジアからの視点にこだわりたい。」と語る、テレビ朝日「ニュースステーションEYE」4月改編の新キャスター紹介記事。
1997年2月号・雑誌CREA(クレア)誌上の特集「母に、なる。(蓮舫の在北京的妊娠生活)」で、「(中国人の父と日本人の母との間に生まれた。 父のいた(中国)大陸を一度この目で見てみたいと北京留学した)自分の国籍は台湾です。」と発言。 北京大学留学中に双子を妊娠、男の子が琳(りん)君。女の子が翠蘭(すいらん)ちゃんと中国系の命名。
2010年8月の中国国内線機内誌『飛越』に、蓮舫のインタビュー記事「蓮舫は、日本の未来の首相?。」の見出し掲載され、蓮舫は「子供の時から日本で学んだが、ずっと台湾の“中華民国国籍”を保持している」、「自分のルーツは華人だ。 双子にも華裔を忘れずにと教えてる。 だから何回も中国(本土)を探訪する」と語っている。  (台湾籍の中国人であることを強調している)
民進党代表選挙の投票日である15日までに、二重国籍が解消(9.6台湾籍放棄申請、(決裁)後に台湾政府の官報公示)される見通しはない。
蓮舫自身の代表選辞退がなければ、民進党の選管において、違法状態(容認)のまま民進党代表に選出されることが考えられる。
経歴詐称は、官庁でも民間企業でも解雇理由(軽犯罪法違反)になる場合があるのだが・・・・。  
(トンデモ民進党) うそつきボロボロ・・・・・。  中国人的には、国民に対して「そんなの関係な~い」の傲慢な態度で押し通すつもりなのか。
蓮舫は、(高野家親子2代(実・孟)に亘る中国共産党手配分子の)高野孟がリクルートした、永田町潜入の対日政治工作員であることが検めて明白となった。
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4年前(2013.1)の山形県知事選挙では、現職の無投票再選だった。

2016-09-04 10:38:43 | Weblog
終戦後の1946年(昭和21)9月の、第1次地方制度改革で知事の公選制が導入(11月に公布)された。 
ちょうど、70年前のことで、翌年(1947)4月に、最初の知事公選が執行された。
4年前(2013.1)の山形県知事選挙では、自民党が自主投票としたことから現職(吉村)の無投票再選だった。
知事公選制70年の歴史上、知事選が2度連続で無投票となった事例は、二回しかない。
1978年(2期目)、1982年(3期目)の滋賀県知事選挙での武村正義(1962.自治省入省、日本の公選知事選挙において初の連続無競争当選)。
以来33年ぶりの連続無投票となったのが、2015年10月の高知県知事選挙で、現職尾崎正直知事(1994.大蔵省入省)が、2011年の知事選(2期目)に引き続き、無投票再選(3期目)となった。
ともに、自民党が県議会与党会派としての強力な政治情況があってのことで、山形県(の無投票事情)とは真逆である。
自民党県連の合同選対会議(8.10)、党県議会議員総会(8.22)での知事選候補擁立に向けた検討委員会設置決定と続いた。
圧倒的な、独自候補擁立の主戦論から前回知事選のような自主投票(無投票)になろうなどとは考えられないものだが、上記の公選知事選の歴史上、絶対多数派の自民党会派が見送ったならば、我国史上初の不名誉な歴史を刻むことになる。
吉村知事は、2013年1月の県知事選に無投票で再選。  山形県知事選挙が無投票となったのは1959(昭和34)年、安孫子藤吉が再選(2期目)されて以来で54年ぶりだった。
もしも、自民党山形県連が、県議会で絶対多数派を形成しながらも(連続して)独自候補擁立に至らなかったならば、関係(国、県)議員においては、役職辞任に留まらず、無能な政治家に引退の烙印も突き付けられよう。(世が世ならば、切腹ものである)

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