山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

特許庁の商標登録、山形「おしん(阿信)県」は、大分「おんせん(温泉)県」より早かったのだぞ!。

2013-02-26 18:40:41 | Weblog
2.26付朝日新聞3面、大分県が特許庁に「おんせん県」の商標登録申請の記事。
昨年10月の出願申請時に毎日新聞が同様主旨の内容を掲載している。
特許庁の審査5ヶ月経過で最終段階に入ったものと理解する。
この時点で朝日が全国版に載せたのは、特許庁による登録査定(OK)がなされ、30日以内の登録料納付の書面が通達されたものと覗える。
事実であろうから、3月中には特許庁長官による商標登録証が交付されることになる。
紙面内の都立大教授コメントは慎重意見のようだが、特許庁審査が通らなかったら、また別の面で話題となってしまう。
大分県の広瀬勝貞知事は、特許庁も所管する経済産業省の元事務次官であるのだから。
先に「うどん県宣言」で話題を呼んだ香川県の浜田恵造知事は財務官僚(当時大蔵省)で、出向初代の山形県総務部長(1990.4~92.)として赴任している。
財務、経産と霞ヶ関官僚世界の中でも秀でたポジションにいた両人が、退官後に故郷帰りでの知事就任。
地元県の知名度アップの奇策が「うどん」「おんせん」なのである。
そのギャップこそが、現実の話題をつくり、気が付いて見れば「コロンブスの卵」のようである。
そこには仕掛け人を絡めた熾烈な発想力・企画力発揮の地域起こし自治体競争が見えてくる。
朝ドラ「おしん」に魅せられたブログ子は、すでに「おしん(阿信)県」の商標を取得している。
只今「おしんプロジェクト」参加者募集中(090-1495-4008山形の森)。
特許庁の商標登録、山形「おしん(阿信)県」は、大分「おんせん(温泉)県」より早かったのだぞ!。
以下は、昨年某紙に寄せた、ガンバレ山形の意を込めた「ブログ子の主張」である。

     発想力が求められる「県の知名度アップ」PR戦略

(2012.10)大分県が観光戦略として「おんせん県」の名称を特許庁に商標登録申請したことで、メディアに取り上げられその広報手法が話題になっている。
大分県内の観光業者が、昨年発表された香川県の「うどん県宣言」でのPR効果を見て、ならば「大分県は『おんせん県』でどうか」との提案が採用されたという。
香川県は知事選で「(香川)県への観光客数1000万人台に」を訴え当選した浜田恵造知事の政策実行の戦術として「うどん県改名宣言」のアイデアが出てきた。
香川県出身の俳優を起用して「うどん県にようこそ。」のCMを制作。発表と同時に、HP動画にアクセスが殺到する事態となった。
この大きな反響は数億円超の宣伝費に匹敵するものと広告関係筋に評価され、「2012年流行語大賞」にノミネートされるほどとなっている。
「うどん県」は、8月24日に香川県により特許庁に商標登録された。これに続いた大分県の宣伝戦略が「おんせん県」の商標出願となったものである。
両県知事ともに戦略意図として「(地元)県の知名度を上げるため」と同様な発言をしている。
山形県は県産米「つや姫」のブランド化に注いでいるが、その背景には先行販売された「はえぬき」が食味ランキングは特A認定ながらも、知名度不足などから比較的安価に取引されている現状打開策と言われている。
「美味しいから売れるはずだ」と、すんなり行かないのが市場反応の現実であろう。
それだけに消費者へのインパクトある宣伝戦術がカギとなる。
浜田香川県知事(財務省出)、広瀬大分県知事(経産省出)は官僚出身の知事として故郷への思いを胸に退官後に知事選を勝ち抜き就任している。
知事には県土発展の重責を背負いながら、官僚出、地元出の出自に関係なく厳しい自治体競争を勝ち抜いて行くために、国内外への効果的な宣伝戦略立案として発想力、企画力が求められている。
知事選を控えた本県にも他県に優る山形県発の新戦略を期待したいものだ。
浜田香川県知事は財務省勤務の1990.4(当時大蔵省)から山形県総務部長として出向、2ヶ年在形されている。


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コミンテルンとの大東亜20年戦争論(1924~1945敗戦)

2013-02-11 21:14:30 | Weblog
現代史で「15年戦争論」が幅を利かしている。
戦後10年ほど経った中央公論1956.1月号に載った鶴見俊輔「知識人の戦争責任」で「15年戦争」用語が使われたとされる。
鶴見は戦前から不良少年で、渡米先でも逮捕歴ある左翼人士である。
戦後は左翼言論人として「15年戦争論」を説いた。1931年の満洲事変から敗戦までの15年を区切りとする日本侵略戦争の悪玉史観である。
この歴史観に侵されている日本人は大半かも知れない。
自民党国会議員のなかでも濃淡はあれど6~7割は侵蝕されていると言って良い。
石破茂幹事長始め、国防に理解ある議員ですら歴史観は「15年戦争史観」、靖国参拝した小泉元首相でさえ歴史観において同様である。
小泉に日本人としての精確な歴史観があったなら、外交問題を含めて一気に解決できる機会があったのである。
2002.2のブッシュ大統領訪日で靖国神社参拝の申し入れがあったにも拘らず、(小泉政権)政府は断わり、明治神宮参拝に代えたのである。
この時点で、中国(特亜)の圧力に屈することなくブッシュと並び立って靖国参拝を行っていれば、国連憲章問題もすべてが一瞬にして解決したのであった。
ところが、小泉には日本人としての確信的な歴史観が備わっていないから実行できなかったのである。
もっとも他の首相経験者が、小泉以下であることは言うまでも無いのだが。
これが多くの「15年戦争史観」の誤った理解なのである。
ブログ子がこれまで巡らした結果として、「コミンテルンとの大東亜20年戦争論(史観)」を、学ぶのが取敢えずの転向理解の早道かと思い論じてみる。
1924.6.17~7.8コミンテルン第5回大会(モスクワ、徳田球一・片山潜・近藤栄蔵らが出席)で、日本問題委員会は日本共産党解党に反対し「即時党再建」を決議する。
再建ビューローを立上げ組織工作を重ねて、1926.12日本共産党再建第3回党大会(山形県五色温泉)で再建を果たす。
委員長に就任した佐野文夫は米沢市出身であり、就任が予定されたことで、出身地米沢市での開催となったものと見られる。
翌1927年(昭2)、日本共産党指導部はモスクワのコミンテルン本部の指導会議に参加、「1927テーゼ」を受けて、地下非合法組織と公表組織との2面策を取り、革命闘争を展開していくのである。
(1927.4)田中義一内閣が発足、反共田中体制を挫く狙いを持って、1929.12いわゆる南京発の「田中上奏文(田中メモリアル)」をでっち上げて、対日陣営工作を進めて行く。
その延長過程で満洲事変は実行されるのである。
この事変については石原莞爾が述べているから間違いはないのだが、コミンテルン工作が内外で侵攻したなかでの、日本側の止むに止まれぬ実行計画であることを理解すべきである。
その意味で満洲事変以前の戦端までのプロローグがあることを知って欲しい。
先の総選挙で自民党新人議員が100名を超えた。45歳までは自動的に党青年局員に任ぜられる。
小泉進次郎が青年局長であり、メディアが派閥の数合わせと同様に報道しているがまったく違う。
青年局は時節に見合う活動をフレッシュな中で活動するだけで、震災復興事業に取り組むことなどが喫緊の似合うものである。
小泉進次郎のみならず期待したいのだが、取敢えず「15年戦争史観」から「20年戦争史観」に視野を広げて欲しい。
自民党研修会でも「木から森を見る歴史観」の涵養を望みたい。
石原莞爾(東京裁判尋問供述)や林房雄(大東亜戦争肯定論)などのように、ペリー来航以来の「100年戦争史観」まで理解されれば、それに越したことは無い。
日本人くらい不偏の道義を持った地球人はそう居ないと信じている。
誇りを埃にしてしまっては、散って逝った先人に申し訳がたたない。
まずは、自民党のみならず多くの政治家に「コミンテルンとの大東亜20年戦争(1924~1945敗戦)」の経緯理解を求めたい。
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2013年秋公開予定、庄内映画村「おしん」製作発表でのキャスティング考

2013-02-11 18:15:02 | Weblog
2013年秋公開予定、庄内映画村での撮影開始を前に「おしん」の製作発表がなされた。
どうしても、最高視聴率を記録し、世界的に好評を博してきた30年前のNHK朝ドラの出演者と比較してしまう。
子役おしん役(8歳の浜田嬢)については、小林綾子が演じた時点(1983.1~3収録)と比べて、1歳半ほど年少のようである。
実際少女期の奉公編は7~10歳設定であるので、無理はないのであるが、愛らしさと気丈さを合せ持った小林おしんの「眼ヂカラ」を感じさせる芝居をどう見せてくれるのか。
上戸彩の母ふじ役であるが、7人(2男5女)の子供を産み育て(末妹スミは生後まもなく養女に)、女丁持ちとして(山居倉庫から港へ)米俵を担ぐ体丈夫さを発揮する場面がある。
果してアイドル歌手上戸彩の体躯から原作上の強躯な母親役をどう演じるものか。
橋田ファミリーの泉ピン子が演じる加賀屋の大奥様八代くに役。
長岡輝子の醸し出すあの貫禄と品性をピン子がどう表現するものか、役者としての幅を見せられるか注目される。
いささか、話題優先のキャスティングのきらいがあるが、世界中を感動させたNHK「おしん」を越えるのか、及ばないのかで日本イメージの正否が掛かっていると言ってよい。
それだけに期待と不安が入り混じる。
おしんに魅せられたものとして、ポリシーの違いと言って良いだろうが、原作シナリオで一部異論がある。
日露戦争旅順戦闘の最中に詠んだとされる、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を反戦歌として、ストーリー構成されていることだ(旅順口包囲軍、1904年明星9月号掲載)。
5連になるこの歌は、「(兄たちが逝って)堺の旧家を継ぐのは末弟のおまえしかいなくなった。名誉の戦死などと考えずに必ず生きて帰って、母の待つ実家を守ってくれ」との強い思いが主であり、非常事態にあっても現実の戦闘行為を短絡的に反戦として詠ったわけではない(とブログ子は読み解く)。
「君死にたまふこと勿れ」そのものを、直接的に「必ず、生きて帰って来てくれ(祈って居るよ)!」と詠ったものである。
橋田とNHKスタッフは、1982.3にシナリオハンティングとしてドラマの全体構成つくりに山形入りしている(この時、橋田は初めて銀山温泉を訪れたと見られる)。
6月に第一回台本が上がるまで、合宿を重ねてシナリオ全体を練っている。
協議のなかで「君死にたまふこと勿れ」を反戦歌と位置付けたものと理解するが、あと10年後(1989.ソ連解体、ベルリンの壁崩壊の後)であったなら、別の展開になっていたのではと思いたい。
NHK放送は1983年で、まだマルクス主義史観が罷り通ってたころだから。
与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を反戦歌として見るか否かは、歴史観における左右派見極めに格好のリトマス試験紙になると思う。
庄内映画村「おしん」製作発表でのキャスティング考から、現代の歴史観を考えて見た。
いじめ・暴力などに負けずに、2013年「君死にたまふこと勿れ」。
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中国の公海上レーダー照射事件は、ヤクザ国家TPP(タカリ・パクリ・ペテン)の常套手段

2013-02-11 13:54:32 | Weblog
中国の公海上レーダー照射事件で、日本人の平和ボケから目覚めるキッカケになればと願っている。
中国共産党支配のテッポウ弾、ヤクザ国家TPP(タカリ・パクリ・ペテン)の常套手段であり、国内暴対法の国際版と考えれば驚くほどではない。
暴対法適用をすれば、内通関係にある構成員・フロントまで罰せられるのだから、(照射事件)直前に揉み手で赴いた山口那津男公明党代表・日中友好協会(加藤紘一・村山富市)は裁かれてしかるべきである。
まさか、自らの出番をつくるために「レーダー照射」を進言しに行ったのかもしれないが、お粗末訪中団に違いは無い。
情報筋によれば、2005年頃から「レーダー照射」があったと言われている。
そこで、2005年頃になにかキッカケとなる事案があったものかと、マイメモをチェックしてみたら、(4.26~5.3)台湾国民党の連戦主席が訪中。
1949年の中台分裂後初の国民党主席が北京入りし、(1945.4)蒋介石・毛沢東の重慶会談以来、60年ぶりの胡錦涛総書記との国共トップ会談が行われている。
いわゆる、第3次国共合作がなされたのだ。
また、4.27王毅中国大使が自民党本部で開かれた党外交調査会で講演し、(小泉総理の靖國参拝を牽制して)昭和60年8月15日の中曽根康弘首相(当時)による靖国神社公式参拝後に、首相・官房長官・外相の3人は、靖国神社を参拝しないという「君子(紳士)協定があった」と発言。8.16琉球独立党が琉球共和国独立運動を再開。
このあたりが、ヤクザ国家の暴力行為踏み切りだとすれば類推できる。
小泉総理はめげることなく、靖國神社参拝(10.17秋季例大祭)を続けた。
メモを見ていて思い出したことがある。
この年6月初旬であるが、自民党山形県連は加藤紘一新会長体制となり、執行部3役と支援友好団体との顔合わせ会(パレスG)があった時のことである。
一連の挨拶等が終わったあとで、加藤会長が「なんでもいいから、質問してください」と。
ブログ子は一週間ほどまえにネットニュースで知ったものだが、と前置きをして「(5.26)陳用林・在シドニー中国総領事館1等書記官の政治亡命事件と工作供述について、どう思われるか」と問った。
加藤は「中国をよく知るものとして、工作供述のようなことはあり得ない」と答えた。
ここで止めとけばいいものを「KCIAのある韓国なら、そのような工作活動はあるだろう」と続けたのである。
聞いてる方が「そんなことを、断定的に言っていいのかな」と思えるほどであった。
さらに田原総一朗との対談(週刊現代9.10日号)で、加藤は遊就館の展示を「半年で4回、行って合計6時間、メモをとって勉強している」と述べている。
靖国の森へ行き、参拝することなく遊就館を覗いて「反日の粗さがし」に狂ずる様は尋常ではないだろう。
戦後教育一期生として日教組教育を受け、師に坂本義和を持ち、60年安保時にはデモに明け暮れた全学連「アンポンタン世代」。
庄内地区でやっと党内左翼40年のピリオドを討った。遅かれ死も心よりお慶び申し上げます。
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