山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

阿信県行旅、(1982)昭和57年3月26日、午前7時過ぎに季節外れの雪が舞う酒田駅に降り立った。

2014-03-26 22:26:24 | Weblog

    「おしん」奉公に筏下りでの別れのシーンロケ地(大江町左沢・大明神淵)

「原作者の橋田壽賀子先生と私たちスタッフ3人が、山形県酒田市に降り立ったのは、昨年3月26日の午前7時過ぎでした。」
これは、NHKの岡本由紀子PDが「おしん」放映開始後に、取材で語った「おしん」制作における談話の始まりである。
「おしん」放映開始(1983.4)のちょうど一年前頃のことになる。
橋田壽賀子の「(20世紀の)戦争も日本の経済成長も女が支えてきた。女が主人公の歴史(ドラマ)を書きたかった。」との構想の(おしん)企画提案は、(1979年)TBS・NHKに最初は却下されている。
1981年NHK大河ドラマ「おんな太閤記」での高視聴率(平均31.8%)実績が功を奏したのか、1981.夏、橋田の「おしん」の企画再提案は、NHKテレビ30周年(1983)の朝ドラマとして了承される。
その具体的な脚本執筆に向けての取材(シナリオハンティング)のために、橋田・岡本他のスタッフが山形入りしたのが(1982)3月26日なのである。
夜行列車で酒田駅着・午前7時過ぎとすれば、乗車したのは、つい先日(2014.3.15)に廃止となった(ブルートレイン)寝台特急「あけぼの」ではないようである。
当時の時刻表がないので、確かな列車便名は分からない。
軽装で来て季節外れの雪に見舞われ、日和山や庄内砂丘の取材で北国の寒さ、痛さを思い知らされた体験が「おしん」制作に活かされたとも語っている。
翌27日に、橋田は「私の未来観」と題して長井市で文化講演会を行なっている。
この前後にかけて長井市、白鷹町、大江町などを取材したようだ。 集団移転した廃村(モデルの栃窪集落、吊橋の大平橋)はこのときの取材でイメージしたものであろう。
橋田はこの取材過程で、銀山温泉に初めて訪れたことも語っている。
取材を終え、帰京後の4月に合宿作業を行い、「おしん」の経歴、家族の系図などの設定、物語の展開、周辺人物などの大枠の全体構成を固めて行った。
橋田壽賀子・ドラマ「おしん」の第一回台本(原稿20枚)は、6月に上がった。
ロケハンを重ね、山形ロケは翌年(1983)1月18~25日、スタジオ収録は 2.11~84.2末。
1983.4.4、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」が放映開始。
阿信県行旅、(1982)昭和57年3月26日、「おしん」取材陣が、午前7時過ぎに季節外れの雪が舞う酒田駅に降りたところからドラマ制作は始まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシアによるクリミア自治共和国の編入強行(併合)が、世界に見せ付けた軍事力背景の外交現実

2014-03-26 20:55:08 | Weblog
ロシアが、ウクライナ南部のクリミア自治共和国の編入(併合)を強行した。
欧米日などのG7各国は、対抗措置としてロシアをG8からの排除を決めた。
果たしてこれらの制裁措置により、ロシアが編入撤回に追い込まれるものと、世界中でどれほどの確信を持って見ているだろうか。
いまさらながら検めて分かったことは、国連の安保機能は万全ではなく、常任理事国に不平等な拒否権を与えた連合国支配体制。
昨今の重なるアメリカによる国際問題の対処行動において、世界の警察官としての威信も実力も発揮できない国になってしまった実情にあることだ。
冷戦下の軍事バランスが崩れて、アメリカによる一国支配戦略もままならない。
世界各地で地域紛争勃発する百年の歴史逆戻りで群雄割拠の戦国時代到来の感がする。
国民の生命と領土(財産)を守る国家威信は、日本自らが備えなければならない現実を突き付けられたものと言えよう。
この現状を目にして、なお集団的自衛権に慎重論を述べる政治家諸侯には、もはや日本人の仮面を被った異邦人ないしは反日公然スパイと認定してよいだろう。
拉致問題の解決運動に当初から強い関心をもって関わってきたものとして言えるのだが、拉致問題解決と領土保全(国民の生命と財産保護)において、軍事力は必須のものとされる現実が示されたと言える。 
非道勢力には軍事オプションを持って臨まなければ、求める全面解決は難しい。
国民(国家)が身命を賭して護る覚悟がなければ、迫りくる安全保障への対処行動が取れないことになる。
それは現世に生きる国民はもとより、2600有余年の日本国の歴史を築いて来られた多くの先人の礎に宣する使命でもあろうと考える。
ロシアのクリミア併合は、目先の戦術に右往左往せずに、見据えた戦略を持って取り組むべき思考転換を再考させるよい機会となったのではないか。
軍事力を保持した国家総合力を持ってしないと、国際社会では餌食にされることは歴史が証明している。
建て前だけの国際法が及ばない無法地帯がどれほどあるものか。
支持できるものではないが、ロシアによるクリミア自治共和国の編入強行(併合)が、世界に見せ付けた軍事力背景の外交現実 。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治維新は薩長同盟のクーデター、独立自尊は福沢諭吉の慧眼。

2014-03-16 18:34:36 | Weblog
最近の米中両国などが対日外交に対して、第二次世界大戦勝利派による「勝たば官軍、負ければ賊軍」の論理を振りかざすことに、いまさらながら大きな不満が募る。
外交交渉がきれいごとでないことは分かっていても、正論を吐く毅然とした姿勢が整っていれば、それに越したことはない。
我が日本でも、明治維新における内戦(戊辰戦争)以降、「勝たば官軍」の論理がまかり通ってきた。
折しも、歴史認識なる中韓蛮国による、あらぬ批判への抗弁として既載しているが、「創建150年(2019年)を機に靖国合祀基準を見直して」を再度述べて見たい。
既載時点(2012.3)と、周辺状況が大きく変わったことにもある。
靖国神社が宗教法人法等に縛られていることは承知であるが、現在の靖国神社宮司は徳川康久氏で15代将軍徳川慶喜の曾孫、長州藩(山口県)出身の安倍晋三首相とする願ってもない陣容だからである。
戊辰戦争で賊軍(東軍・幕府)扱いされた奥州越列藩同盟・盛岡藩出身の原敬(第19代首相)は、首相就任前年(1917.9.8、政友会総裁時)の「戊辰戦争殉難者50年祭(盛岡報徳寺)」で「戊辰戦役は、政権の移動のみ。(維新)当時は、勝たば官軍、負ければ賊軍との俗論あり。」との祭文を奉読した。
明治維新は薩長同盟のクーデターで、天皇家存続を唯一アリバイにした政権交代に過ぎなかったのである。
明治維新を開国による近代化と見れば、幕府方こそ攘夷派に先んじて開国に舵をきっていたのである。
さらに各藩内にも攘夷・開国両派を抱えて内乱状態にあったことにある。
ここで「靖国神社の合祀基準見直し」を述べるのは、天皇・首相参拝などに反対する左翼活動家などが運動するA級戦犯の合祀否定論などではない。
多少の関心を持って靖国神社創建の歴史と明治維新前後における、いわゆる幕末内戦過程において、(1868.7)京都霊山護国神社、(1869.8)東京招魂社、(1879.6)靖国神社への社名改称と合祀基準の変遷から、一貫性が崩れているのではないかと素朴に考えるものである。
それが、左翼陣営の「靖国は所詮、薩長の都合勝手神社」との異論反論の元ともなっている。
旅館の建増しのような(本館・別館・新館・旧館などと)、時々の(合祀基準の)解釈変更で凌いできた感がする。
特に、戊辰戦争を拡大解釈して「維新殉難者」として合祀対象を、ペリー来航まで遡ったことに端を発するようである。
それは、“長州藩としての維新の祖”とも言える吉田松陰を始めとする長州藩士の合祀にある。
「維新殉難者」とされるペリー来航まで遡る合祀認定は、以下の時系列から推理できる。
1882.2.25(M15)、靖国神社・遊就館開館式挙行(世界最古の軍事博物館)、1879.6東京招魂社10年で別格官幣社に列格、靖国神社に改称(太政官達)
同年11.15、大村益次郎を偲ぶ集まり(芝・紅葉館)で、賀茂水穂らが大村益次郎の銅像建設を主唱。
「大村像を建てることに異存ないが、戊辰戦役勝利を夢見て先に逝ってしまった松陰先生、先陣同士の合祀が先ではないのか!。それはそうだ。長州・薩摩からでは不味かろうから、土佐藩から始めようぞな、もし。」
1883.5(M16)、第13回招魂式「維新殉難者(土佐藩80柱)」として、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎らが第一号として合祀された。
ここから、益次郎像が建立(1893.2竣工)されるまでの間に「維新殉難者」と称し大量合祀されるのである。
否、大量合祀の完了を待って、上野の彰義隊(慶喜蟄居の寛永寺守護隊)を指す益次郎像が建立されたと見てよいだろう。 上野公園の西郷隆盛像とも対峙している。
しかし、この都合勝手な合祀解釈は、1913年山本権兵衛内閣で靖国神社を所管する内務相に就いた原敬(盛岡藩出)が、翌年(1914.3.3)に(薩摩藩出の)山本首相宛てに上奏書「殉国志士を靖国神社へ合祀に関する件」を提出することで見直されることになる。
「(1862)文久2年4月の寺田屋事件、(1864)元治元年7月の禁門の変」で亡くなった(孝明天皇方)61名の靖国合祀を上奏した。
つまり孝明天皇の御所を守りながら没した会津藩士等は合祀捨置きされ、天皇を襲撃した長州藩士(過激派、久坂玄瑞・真木和泉ら)が祀られているのは、官軍(天皇方)が合祀基準とすればおかしいとの異論でもある。
さらにはこの「禁門の変」のクーデター失敗で自刃したのが、すでに靖国合祀されていた久坂玄瑞(吉田松陰の義弟)・真木和泉らである。
1864.8、孝明天皇は長州追討の勅命を出している。 この時点では長州藩こそ反天皇の賊軍であった。
天皇方(官軍)が祀られ、反天皇方は祀らないとの合祀基準理屈は当らないものとなった。
原敬内務相の正論は承認され、会津藩士も維新後約半世紀を経た1915.4(第39回招魂式)に合祀されることになる。
攘夷攘夷と叫んだ倒幕過激派が、過去の言い分など開国となれば知らんぷりの結果オーライ。
漸進開国を提言しながら藩内抗争に倒れた長州藩の長井雅樂、土佐藩の吉田東洋などの先見開明派こそ(名誉回復のうえ)維新歴史上に語られるべき人物で、現在の学術的視点からしても、国の行く末を先見した明治維新史上で靖国神社に祭られる正統な人物ではないかと考えられる。
水戸学の指導者で徳川斉昭(1860.9没)の助言者であった会沢正志斉も、時務策(1862)で開国論転向を説いた。
(1855)横井小南も開国せざる状況を見通し「(1860)国是三論」を執筆、松代藩士・佐久間象山も、1864.3将軍家茂・慶喜等に公武合体・開国遷都を説く間に尊壌派に暗殺される。
ともあれ、明治維新前後はその方向性を巡り(藩内対立を含む)国内論争多様な時代であった。
ともに欧米列国が迫る中で近代日本の行く末を論じ、道筋を競い合った憂国の内戦でもあった。
そのことを受け止めながら、これから迫りくる国際社会の変動に対峙しなければならない重要な時、全日本(オールジャパン)体制を築き、新未来日本を確実に伝承していくためにも、靖国神社創建150年(2019年)を機にこれまでの合祀基準を整理見直し、「真の国防の御社」への提言!を述べるものである。
西郷隆盛などを含めた、賊軍扱いされた内戦の維新勇者を「内戦殉難者」として名誉回復をはかり靖国合祀を果たすことで、全日本人の国防意識の覚醒と国民一体の国防実現を念願する。
現在の靖国神社宮司が15代将軍徳川慶喜の曾孫(徳川康久)と長州藩(山口県)出身の安倍晋三首相とする、またとない陣容を天の時と受け止め、「独立自尊達成」の機会と熱望したい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿信県行旅、(1983)昭和58年3月15日、おしんは伊勢から故里山形へ回顧の旅に出る。

2014-03-14 10:35:48 | Weblog

       (ドラマシナリオ上で)1983.3.16に訪れ、最上川上流を見つめる吊橋「大平橋」(白鷹町)    

阿信県行旅、(1983)昭和58年3月15日、おしんは伊勢から故里山形へ回顧の旅に出る。(ドラマシナリオ上で、1983.3.15~84.3.18)
同夕刻に、銀山温泉(尾花沢市)に着き、旅館「銀山閣」に滞在する。
二日後の17日に生家を訪れ、以後、回顧の旅の展開と同時に幼少期からの回想が折り込まれていく。
山形、東京、佐賀を巡り、翌4月末に伊勢に帰宅して、翌年(1984)、彼岸の入りの3月18日に田倉一家揃って墓参するところで(ドラマは)終了する。
NHK放送は、1983.4.4~84.3.31(50週、全297回)、平均視聴率52.6%(瞬間最高62.9%)の国内最高を記録した。 現在も破られていない。
1984年秋、シンガポールでの海外初放映(視聴率が80%に達する大ヒット)を皮切りに、タイ(81.6%)、北京(75.9%)、イラン(90%超)、メキシコ(89.0%)等々世界68の国と地域で放映され、世界中で日本の首相以上の知名度を誇っている日本人像が「おしん(阿信)」と言える。
ウズベキスタンの反政府武装グループさえも「おしん」を知っていたエピソードがある。
1999.8、日本人鉱山技師らが武装グループに拉致された事件で、救出交渉に臨んだ中山恭子大使は会談のなかで「おしん」の共通話題から説得を行い、人質解放に成功したと言われる。
このような、誇れる「世界のおしん」を活かせずにきたことは、発想無策な県当局による大きな無形損失と言えよう。
なにより、山形県民の理解の浅さには、発信力に乏しい県民性を表しているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災3周年、ポジティブに挑む「克原発」、「超原発」

2014-03-11 12:34:08 | Weblog
2011年3月に襲われた悪夢の東日本大震災から、ちょうど3周年を迎えた。
震災復興計画は実行遅延し、被災者の苦痛に終わりはないのだが、過去原発から未来原発事情へポジティブに、「克原発」「超原発」を冷静に見つめてみたい。
2000年(皇紀2674年)を超える日本の歴史で、千年に一度と云われる「3.11大震災」との遭遇。
悲運の巡り合わせを恨んでみたくもなるが、地勢上から地震大国とされる日本列島に居住する以上、運命を甘受せざる身にあることも事実であろう。
日本人には、自己責任において未開発後進国に身を置くことも、日本国籍を離脱する自由がある。
文明の利器とされる多くの身近な製品は、19世紀以降に発明開発されて、20世紀において汎用品として大衆実用化されてきている。
電気、通信、自動車、飛行機・・・なども、百年前後(足らず)の普及の歴史でしかないのである。
いまや、義務教育年次課程の小中学生でも手にする携帯電話、PC、インターネットに至っては、わずか20年程度の著しい普及経過であろうか。
近世の産業革命以降、人類のたゆまぬ研究開発によって、世界中が科学技術進歩の恩恵を受けてきている。 
また、最新技術の受益に浴することが、先進国実情と見なされる指針のひとつでもあろう。
さらに忘れてならないのは、これらの基本技術の多くは軍事(国防)用に開発され、その後、民生利用として今日に至っているのである。 
戦車(自動車)・戦闘機(航空機)・ミサイル(宇宙開発)・核(原発)・インターネット(IT)しかりで、望まぬ参戦、冷戦構造が、果てしなき科学技術の進歩として民生応用技術につながってきたことは否定できない。
原子力技術もまた同じ過程にある。 人類の叡智をかけた研鐕努力による「原発の安全性」を図り、先進医療技術を駆使する「克原発」と、原発を凌駕する新技術「超原発」に(東日本大震災)時代を生きるものとして期待し、解決への責務を共有し続けたい。
人類が他の生物と違う生存意義が、そこ(自己解決)に見出されるのではなかろうか。
核開発した人類の責任において、ネガティブに避けるだけではなく、ポジティブに立ち向かって「克原発」、「超原発」を成し遂げるささやかな援軍のひとりとして。
東日本大震災3周年の鎮魂日、あらゆる困難な中でも科学技術と先進医療への道程に後退はあり得ない。
それはブログ子が、限りない「新型ウイルス」の出現や、生物間の果てしない生存競争(食物連鎖戦争)の宿命のなかで、正常に生存していることを確認するときでもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする