山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

「いじめ問題」解決にこそ、集団的自衛権の協防精神が必要不可欠。

2014-04-30 20:23:15 | Weblog
先ごろ山形県天童市であった「いじめ」による、傷ましい女子生徒の鉄道自殺。
詳細は不問であるが、多くの他生徒が「いじめ」を認識していたにも係わらず、事前対処を出来得なかったと言うことは、いわゆる協同して(いじめる)加害者に対しての、集団的自衛権の協防精神に欠けていたものである。
否、当該中学校に限らず、日本中において「悪(いじめ)」に対抗する、正義の犠牲的協防精神が無くなってきていることを示している。
何時の世にも、いじめっ子はいた。 が、正義を振りかざすヒーローならずとも、共に助け合う仲間が必ず傍にいたものだ。
それで「いじめ」が無くなるものでもないのだが、カラッと忘れるような子供同士の一時の喧嘩で済んだ。
ふざけ過ぎて先生に平手打ちされたことがある。 教育の一コマと理解、恩師として亡くなるまで会っていた。
いまなら、教育委員会で問題になってしまうのだろうが。
いつごろから、おかしくなってきたのだろう。 これも悪しき日教組教育の成れの果てと言えよう。
いま、集団的自衛権の行使問題が大きな政治課題となっている。
反対論としては「巻き込まれ論」、「反米追従論」などであろうが、いずれも反米左翼が戦後一貫して言ってきたものである。
一番は自存独立であるが、足らざるところを共同戦線で賄おうとする戦法である。
極めて単純で当り前なことである。(日米同盟であって、他の同盟が成されればその時点で変容するもの)
政治課題である集団的自衛権の行使容認が達成されれば、その協防精神は子どもの世界にも行き届き「いじめ問題」解決に大きな転換を齎すものと考えられる。
先生サイドへの速やかな「いじめ」情報の到達など、「いじめ問題」解決にこそ、集団的自衛権の協防精神が必要不可欠。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクランボの被り物発信で、山形県は、吉村ならぬ「ヨシモト知事」(吉本興業所属)となった。

2014-04-30 19:09:39 | Weblog
吉村美栄子山形県知事は、新年度初め恒例の幹部職員への訓示で、サクランボの被り物を頭につけ、「思い切って殻を破り、山形の魅力を発信してください」などと、発言してから一ヶ月が経とうとしている。
パフォーマンスの意外性から笑いを誘い、新聞メディアが報道したことから、イッパツ芸としては成功だったのだろう。
知事に続けとばかりに、細谷副知事が仙台で開かれた国連防災世界会議の開催実行委で、同様の被り物あいさつ。
この模様を県の公式フェイスブックに掲載したことから、賛否両論の書き込みが相次いだ。
『知事の「思い切って殻を破り・・・」に共感した「チェリーボーイ」です』、などと切り返すぐらいの機転があれば、さらなる笑いを誘うことができたかもしれないが。
「砕けすぎ、不謹慎」などの批判の声が多いとあって尻すぼみの様である。
王道(本道)があっての邪道(笑道)。
TPOと露出加減を見極めないと、テレビメディアに氾濫する、「お笑いバカ」、「軽薄ジャリタレ」などと同じに見えてくる。
知事が指摘する発信力不足の前に、真面目な県民性から、(県庁マンは)委任された範囲の管理・処理能力はあるのだが、発想力、企画力が伴っていないからだと見る。
県庁職員の「チェリーボーイ」から、一皮剥けた(勃起)成長が求められる。
サクランボの被り物発信で、山形県は、吉村ならぬ「ヨシモト知事」(吉本興業所属)となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大生も見限った、2014年春、反日工作紙「朝日新聞社」に「入社ゼロ」の納得笑劇。

2014-04-22 12:33:04 | Weblog
東大生も見限った、2014年春、反日工作紙「朝日新聞社」に「入社ゼロ」の納得笑劇。
今春、朝日新聞に入社した東大生は「ゼロ」となった模様。 
昨年の採用試験で、面接に東大生が一人もいなかった。
近年は2~3人入社で推移していたと思うが、とうとう「ゼロ」に。 これからは「永遠のゼロ」となるのか。
大学生の就職先として人気が高いマスコミ。 なかでも朝日新聞は、東大生入社は多かった。
学生運動が盛んなころには、20人以上の東大生が入社する年もあった。 
朝日が、行き場のない左翼学生を喜んで引きうけて、特亜(反日)工作員を養成してきた。
1967年に社長となったマルキスト広岡知男は、(1970.10.21 )新聞協会主催研究会で「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言。 
国民の知る権利など?、何処えやらの中国共産党の機関紙宣言(シナリスト宣言)。
日中友好、国交回復に一直線の盲進朝日で、読者国民を欺き、反日(親中)工作を指揮してきた。
読売新聞のナベツネが、長期支配した広岡知男元朝日新聞社長との語り会いで、(元共産党員の経歴を持つ)ナベツネは「ふつう、元共産党員と知れたような人間は採用しない。当時僕は元共産党員であったが、読売新聞はそれを知りつつ採用してくれた。」と言ったら、「何を言うか。朝日新聞は、はっきりとした共産党員と知りつつ採用している。君は転向したから(読売に)採用されたんじゃないか。朝日は現共産党員と知りつつ採っているんだ。」と広岡は自慢して言ったと。
朝日は共産主義者が編集権を握り(編集権の独立の屁理屈)、特定の人達が都合が悪いと隠蔽したり歪曲したりする“アサヒる(捏造)”思想を使命として、国益を損ねる破壊活動を煽導する日本人にとっての敵性紙なのだ。
赤門入学でアカ塗れの東大環境でもやっと気が付いたものか。
2014年春、東大生の朝日新聞入社「ゼロ」は、偏向煽動への批判とする潮目が変わってきた自然な表れであろう。
黄昏の「夕暮れ新聞」への改称を勧める。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月、春を愛でる「さくら咲く国」に、「すみれの花咲く頃」・・・・。

2014-04-05 11:34:46 | Weblog

      山形市霞城公園にて

4.4、すみれ咲く春。  宝塚歌劇団が公演100周年を迎え、記念行事が開かれている。
表題の、「さくら咲く国」に「すみれの花咲く頃」は、すぐに気づくことだろうが、象徴するテーマソングとも言える松竹歌劇団の「さくら咲く国」と宝塚歌劇団の「すみれの花咲く頃」を表したフレーズである。
ともに勇躍の機を感じさせる、春到来を詠ったタイトルも共通である。
1914.4第一回公演の宝塚に対して、8年遅れの1922.4に発足する松竹楽劇部(松竹歌劇団)は、変遷を辿りながらも「西の宝塚・東の松竹」と呼ばれ、戦前・戦後を通してレビューの一時代を築いてきた。
浅草国際劇場を本拠地としたSKD(松竹歌劇団)は、1982年(昭和57年)国際劇場の閉鎖など浅草の衰勢をも映し出してきた。
いま、浅草から隅田川対岸にそびえ立つ東京スカイツリーを前にして古き良き、そして新しい歌劇団の再興に期待したいところである。
同4.4、天皇陛下の傘寿(80歳)を記念して、桜が咲く皇居乾通りの一般公開が実施されている。
4月、春を愛でる「さくら咲く国」に「すみれの花咲く頃」、日本(人)の誇りを感じさせる時でもある。
満開のさくら、さくら吹雪は幾度でも目にしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッカーサー道路(新虎通り)開通で、青春の記憶が甦る。

2014-04-04 21:09:34 | Weblog

   雑居ビルはいまはコイン駐車場、右手100mほどに「マッカーサー道路(新虎通り)」 

去る3.29、終戦直後の1946年に都市計画決定された「マッカーサー道路(新虎通り)」が、68年かかってこのほど開通した。
30有余年前になる、わずか一年足らずの期間であるが、「マッカーサー道路」から100mほどの近くに住んでいたことがある。
6月11日に開業予定の「虎ノ門ヒルズ」にも150mほどの距離か。
それ以前には六本木よりに居たのだが、森ビルが再開発で買収にかかり、余儀なくされて虎ノ門2に転居したのだった。
以前の雑居ビルは現在のアークヒルズになっている。
六本木通りを挟んだ向い側に銭湯があり、地下道を潜って通ったものである。
この頃に友人Nと、生まれて初めての海外旅行(ハワイ)にいった。
先月でラストフライトになったジャンボ機B-747だったかは覚えていない。
一週間で16万円ほどだったと記憶する。ハワイでの滞在はシェラトンワイキキの27Fだった。
ちょうどこの旅行期間中に、二つの大きな事件が起きていた。
(1974.10)巨人軍長島茂雄の引退、過激派による三井物産館爆破事件である。
ファンとして長島引退の新聞記事を目にしたら、自然と涙があふれてきた。
三井物産館爆破事件についても大きな衝撃であるが、夜になると三井物産館(当時の物産本社)の裏通りに屋台のラーメン屋が開かれていた。 事件後に屋台の火は消えた。
ラーメン通には背脂豚骨醤油でよく知られている老舗「ホープ軒」がそれである。
深夜になるとタクシーのドライバーが列をなして並んでいた。 一杯200円位だったと思う。
この事件を機に、翌年「ホープ軒」は千駄ヶ谷(国立競技場前)に移って新店舗を開いたものである。
ホテルオークラに短時間仕上げのクリーニング店があった。 宿泊者用には当然であろうが。
Tシャツ、短パン、サンダルの恰好で、霊南坂教会の横を通り、オークラの本館正面から入って別館地下のクリーニング店に何度も通った。
若気の至りか、臆せず堂々として行ったので一度も制止されることはなかった。
よく通った焼き鳥屋の「八ちゃん」は、先に六本木よりに移転開業していた。
昨年、上京の折、「マッカーサー道路」「虎ノ門ヒルズ」周辺の工事状況を観察しながら、記憶を頼りに辿ってみた。
ビルが立ち並んだ狭間に、昔住んだ雑居ビルはいまはなく、コイン駐車場と化していた。
マッカーサー道路(新虎通り)開通で、青春の記憶が甦る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする