自民党参院選公募選考の「語る会」で、福澤諭吉の「脱亜論」を質してみた。
2.14、山形市SC会場の質疑で、(遠藤・大沼ともに、慶応大学で学んでいるので)両人に国家観・歴史観の基本認識を伺いたくて、1885.3に福澤諭吉が時事新報に発表した「脱亜論」についての感想を求めた。
明治18年(1885)は、日本で内閣制度が実施(第一次伊藤博文内閣発足)された歴史的年でもある。
今から125年前の論文ではあるが、福沢翁の深い慧眼には目を見張るものがあり、現在にも通じる論旨で、鳩山首相、岡田外相、小沢幹事長(もとい、朝鮮人遺伝子が色濃く残る)にも、冷静に感じ入ってもらいたいほどの論及である。
以下は、福澤諭吉の「脱亜論」現代語訳の一部抜粋
- 日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。
ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。 そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。
この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。- (明治18年3月16日)時事新報
2.14、山形市SC会場の質疑で、(遠藤・大沼ともに、慶応大学で学んでいるので)両人に国家観・歴史観の基本認識を伺いたくて、1885.3に福澤諭吉が時事新報に発表した「脱亜論」についての感想を求めた。
明治18年(1885)は、日本で内閣制度が実施(第一次伊藤博文内閣発足)された歴史的年でもある。
今から125年前の論文ではあるが、福沢翁の深い慧眼には目を見張るものがあり、現在にも通じる論旨で、鳩山首相、岡田外相、小沢幹事長(もとい、朝鮮人遺伝子が色濃く残る)にも、冷静に感じ入ってもらいたいほどの論及である。
以下は、福澤諭吉の「脱亜論」現代語訳の一部抜粋
- 日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。
ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。 そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。
この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。- (明治18年3月16日)時事新報