山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

「思慮に欠ける」、政界ピエロ・加藤紘一の哀れ

2011-05-23 17:18:37 | Weblog
(6.19予定の)自民党山形県連大会まで一ヶ月余りあるのだが、加藤紘一現会長の再任に国会議員間で合意と報道されている。
自民党の政権転落に見るように党勢退潮は全国的傾向であるのだが、保守王国(北陸3県と山形)のひとつとされた山形県連の国政選、県知事選における一部分裂による混乱敗因は、国政全区議席、県議会絶対多数を取っていながら、(2004年以降で)県民世論を踏まえて堂々と見える形での候補者選考を行わなかった、(県会・国会)議員個々の思惑迷走に起因している。
そのつど中心に位置してきたのが加藤である。
再任報道から推測できることは、遠藤利・岸の両議員は加藤を前に(吉村当選の)知事選での経緯もあり、互いに自薦できる状況ではないので、加藤の方から「遠藤君、しっかり支えるから頼むよ」と言えば済むことなのだが、それがでてこないから再任論などとなる(遠藤にも、秋の山形市長選での明確な戦略構図がないのだが・・)。
ここに「思慮に欠ける」、政界ピエロ・加藤紘一の器量の底が見えてくる。
対面相手や県連周辺の深読みができない(的確に助言・諫言する側近もいない)。
2000.11の、野党提出の森内閣不信任決議案に同調しようとした、いわゆる「加藤の乱」も、緻密な戦略無き自己思いが先行する勃起行動(もう、どうにも止まらない~!リンダ症候群)だけで頓挫した。
加藤は決起にあたり、(前会長の)宮沢喜一宅を訪れ行動計画を話している。
が、それは(宮沢にして見れば「報告を受けた」だけであって)了承(協力する)ではなかったのである。
1999.9の自民党総裁選挙、再選を果たした小渕恵三は、対抗出馬した加藤を人事で干した。
「あんたは、オレ(小渕)を追い落とそうとしたじゃないか」、次回狙いが(本音とした)加藤は「えッ、総裁選を、そう思ってらっしゃったんですか・・・」と温厚人物とされる小渕をも読めなかったのである。
超党派部会などと、社民党の(福島瑞穂・阿部知子)辻元清美などと連ねる議連や訪問団があるが、侮られて誘い合う腰軽な同衾者でしかない。
メディアなども党内反対論などを期待してマイク取材対象にするのも政界ピエロの所以であるのだが、それに気付かずにピエロが主役を張れると思い込んでるから始末に悪い。
自民県連復権の人事こそが、加藤自身の「思慮の度合い」に掛っていることをこれから気付くだろうか。
法眼晋作元外務次官の長男法眼俊作とは、東大同窓(日比谷同級)で共に外交官を目指した盟友、俊作は「オレは(日本外交の)ソ連をやるから、お前(加藤紘一)は中国をやれ」と誓い合った仲であった。
が、法眼俊作はドイツ(研修)勤務時に不慮の死を遂げる(?トラップによる自殺説)。
加藤はチャイナスクールの外交官から国会議員、現在も日中友好協会会長にある。
情報当局筋から、「加藤さんはどうしてあんなに中国に入れ込み過ぎるんでしょうね。」と聞かれたときに、「入省直後の(1964.8)台北大学に語学研修に行った時、北京虫に脇を刺されたみたいだね」と返した。
(自裁した)法眼俊作と加藤紘一に現代日本人の両極を見る思いがする。
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縁家を辿ってみたら、「福田恒存」に行き着いた。

2011-05-19 20:57:01 | Weblog
東日本大震災の最中、(直接因)ではないが叔父が亡くなった。
交通全面遮断の事情折から葬儀にも行けず、49日法要に合わせて参席弔った。
予てより先祖血縁については、幼少時から時々耳にすることもあり、それなりに近年の縁戚関係として冠婚葬祭における世状範囲のものはなんとなく知っていたつもりである。
(千葉県在住で離れている)従兄弟と久しぶりに対面するに当たり、少しは(先祖家系の)土産話しをと、百年以上前の明治時代に縁戚にあるとされる旧家筋(加藤家)を訪れた。
現存の若者、嫁ぎ縁者も百年二百年に上るような家系を、記録でもなければ知るものではなかろうとは思いながら。
菩提寺の住職を訪ね、K家の筋を訪ねたところ、その中で外縁(次男系)に俳優になってる人がいるとのこと。
名前を聞いたが直ぐには顔が浮かばなかったが、ネットで検索して見れば、テレビ・映画などの脇役としてよく見受けられた役者だった。
そしてネット稿に義兄に「福田恒存」との記述を見つけた。
百年を越えた家系筋であるからいまさら親戚を唱えようとは思わないが、「福田恒存」の名に保守DNA連綿の縁を感じ取った喜びは言い尽くせない(左巻であったなら、意気消沈していたであろう)。
戦後席巻された左翼論壇・メディアに敢然と対峙した正統保守論者の「福田恒存」が、ブログ子の微かな縁者であったことを誇りとして、今後の醒論発揮に無情の糧としたい。
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山査子と「桜の歴史」創立90周年・寒河江高等学校

2011-05-19 17:26:35 | Weblog
山査子と「桜の歴史」、先頃母校「S」が創立90周年を迎え式典が挙行された。(?寄付集めに)実行委員の末席にとの要請を受けたのだが、会議にはほとんど欠席して実際名前だけに終わり申し訳なく思っている。式典当日の地元紙「山形新聞」に祝賀式典の公知広告が掲載されていた。そのなかに(?近年在校生の)修学旅行の写真があり、説明書きとして「陝西省西安市」とされたものが目に付いた。ブログ子の頃はちょうど大阪万国博の当たり年となり、前後年生も含めて修学旅行先は「大阪万国博」になってたのではと記憶する。近年、プロテスタント系の私立高校などでは、中国への修学旅行が見受けられることは承知をしていたが、我が母校の県立高校までが海外への(修学旅行)時代に入っていようとは初めて気が付いた。そして気になったのは「陝西省西安市」である。いくら修学旅行の物見遊山とは言え、観光先の事前レク(説明)はされたものと考えたい。「陝西省西安市」となれば、なにを置いても、1936.12の「西安事件」であろう。この西安事件こそ、蒋介石(国府軍)を拉致し、張学良・ソ連共産党・中国共産党が仕組んだ、抗日統一戦線(第二次国共合作)の始まりそのものであった。S校教師陣が修学旅行先の(西安市)現地で歴史的真実の一端を学習したとすれば、OBのひとりとしては大いに誇りとしたい。なぜなら、この「西安事件」が実質的な大東亜戦争の始まりとなるのであるから・・。戦後、いわゆる「15年戦争」なるレッテルを張ったのは、1956.に共産主義シンパの鶴見俊輔が使い始めた「反日プロパガンダ造語」である。つまり、(1931.9)満洲事変から一貫した日本帝国軍による戦争として経緯捏造すべく使った左翼レッテル用語である。それは同時期に喧伝された中野好夫の(文芸春秋2月号)「もはや戦後ではない」と戦後復興新時代を謳った、時代転換(国情回復)に足枷をすべくマルクス主義者が狡猾に利用した日本悪玉の「15年戦争歴史観」として、ダメディア(日教組)が啓蒙し続けている反日史観の造語である。母校「S」がそれを払拭するべく現地学習に修学旅行先を中国にしているものと善意に考えたい。先に述べたようにブログ子の時は、「大阪万国博」以外は京都・奈良の神社仏閣の和様歴史研修が主な修学旅行先であった。大阪万国博のメイン「太陽の塔」のデザイン監修をされたのは、国際的芸術家の故岡本太郎である。最近、渋谷駅に掲げられた岡本作品の壁画「明日の神話」への付設エピソードもあるようだが、本年は岡本太郎生誕百周年に当たるとされ、マスコミでの取り上げも多く見受けられる。私ごとであるが、30年余前になるが岡本太郎氏と対面する機会があった。ダメもとと思いながらも「(岡本)先生、ご一筆お願いしたいのですが!」と申しでた。返ってきた言葉は「君はラッキーだ。今日の僕(岡本)はすごく気分がいいんだ」と、差し出した色紙に「M君・岡本太郎」と独特の岡本バージョン字体で、一気に書いてくれた。やり取りを微笑みながら隣に居た養女で秘書だった、(平野)敏子の顔がいまでも思い出せるようだ。故人となったいま「為書き」は家宝にもなるものと大切にしている。岡本太郎と対面した場所は、これまた時の偶然であろうが、つい先日亡くなった、SM縛りの団鬼六先生(黒岩幸彦)の実妹が経営する六本木のレストラン「D・R」であった。いまは新築され三井リハウスの賃貸ビルになっているようだ。
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毎度・まいどやってくれるね、「共謀通信(共同通信)」+「売日新聞(毎日新聞)」の捏造報道。

2011-05-17 20:20:04 | Weblog
共同通信ソウル支局発信として、「訃報:朴玉蓮さん92歳(パク・オクリョン=元従軍慰安婦)元慰安婦の女性が共同生活する韓国の「ナヌムの家」によると、15日(5.15)呼吸不全のため京畿道内の病院で死去、の報道。
1919年、全羅北道生まれ。 41年に現在のパプアニューギニア・ニューブリテン島のラバウルに連れて行かれ、3年間、旧日本軍の慰安婦として働かされた。
1990年代から京畿道にある「ナヌムの家」で暮らし、元慰安婦を支援する市民団体が毎週水曜日にソウルの日本大使館前で行っている抗議集会にもたびたび参加した。」(ソウル共同)毎日新聞 2011年5月15日 22時52分、とある。
そもそも論から言えば、(世界中)戦時中に「慰安婦(売春婦)」はいたが、日本軍官権による「従軍慰安婦」などはいなかった。
にも関わらず、共同通信は「従軍」と付した呼称(従軍慰安婦)報道をする。
この「+従軍」がソウル支局時点での文言なのか、共同本社での編集・整理段階での追加判断であるのかは分からないが、さらに共同からの通信電を受けた「毎日新聞」と地方紙が(共同電)として、独自に再考することもなく同様認識として、そのまま紙面掲載したことは事実である。
朴玉蓮自身による生前における発言(著書)からする経歴は、「1919年(戸籍上1920年)4月20日、全羅北道茂朱(チョルラプットムジュ)郡で、農業を営む両親のもと、6人姉妹の3女として生まれる。 普通学校に2年生まで通ったが、学校に行くのが嫌でやめ、その後夜学でハングルを学んだ。
16歳のとき、貧しい家に嫁いだものの逃げ帰り、18歳、(1936年)で、再び金持ちの家に後妻として入る。
夫は家柄が良く財産もあったが、非常に嫉妬心が強く、酒が入ると殴られた。 2年後の20歳のときに息子を産んだ。
夫は2年間、日本に出稼ぎに行って帰ってくるとさらに猜疑心も酷くなっており、虐待を受けたあげくには、息子を取り上げ、業者にハルモニを売り渡した。
23歳になった年(1941年)の10月頃だった。 ソウルにある紹介所で慰問団の募集の噂を聞いて、夫が受け取った身売り金を早く返し、強制的に別れさせられた幼い息子と一緒に暮らしたい一念で志願した。
野戦病院で軍人たちの服を洗濯したり負傷軍人を看病したりする仕事で、およそ3年も働けば借金は返せるとのことだった。
ソウルを出発した後、釜山を通って下関まで行き、そのまま軍艦で1ヶ月半かけて到着したのが南太平洋最南端の敵戦地パプア・ニューギニアのラバウルだった。
軍人を相手にするなど、夢にも思わなかった。
食事の時以外は部屋から出ることもなく、うちから戸を閉めた。慰安所の主人が捜しに来ては 『そんなことをして、どうやって借金を返すつもりだ』と脅した。・・・・ネット検索からではあるが、発言から受取れる真相は「(朝鮮人の)夫に売られ、夫が受け取った身売り金を返すために(不本意ながら(売春婦)慰安婦を)自ら志願した。」となる。
さらに、日本軍がラバウルの占領統治に入れたのは、1942.1以降であり、日本軍進出前に(朝鮮人女衒が朴玉蓮を)先んじて慰安婦従事を想定して現地派遣していたことになる。
この種に関連する戦時中の色々な問題で感じることは、敗戦した日本側にすべて非があったとの一方的な敗軍悪玉論が蔓延した世情のなかで、意図した官軍史観であったろうと考える。
山形県川西町出身とされる、著名な「井上ひさし」がいる。
井上の経歴を深く知るものではないが、(井上自身)幼少期から非常に辛酸苦労を重ねた家庭環境で過ごしているのだが、ブログ子が思うに苦労の多くは井上の実父の家庭を省みない(井上家家庭内の)生き方にあったのではないのか。
井上ひさしは、井上家内にある個別不遇を社会全般問題(社会が悪いから)として、責任転嫁してる部分が見えてしかたがない。
そのような思考論理(自省せずに社会責任に置き換える)の左派論者に共通するものが多く見うけられる。
古い記憶であるが、故郷山形に戻る数ヶ月前頃であったが、恩師のひとり(S先生)の関係する六本木のお店(P)の開店披露に招待されたとき、偶然にも隣に在席した方が(当時の)井上好子夫人だった。「(ブログ子の)山形県出身」との掛合いから、親しげに話が弾んだような記憶がある。 同じ席に作曲家の猪俣公章もいていくつか言葉を交わした。
歴史を重ねるなかで振り返ってみれば、「この(メディア)報道はおかしい、間違っているのではないのか。」との思いがつのり、全ての新聞購読を止めた(一時は3紙購読、タダ読みはするが)。
一紙を購読すれば一木視観になり、「木を見て森を見ず」の知らず知らずの一紙傾向観が身についてしまうだろうと。それほどにマスメディアに対する信頼性は感じられなくなった。
(所謂、「従軍慰安婦」なる呼称報道)日本人として看過できない、(元祖、KY事件など)捏造メディアには淘汰・淘汰を叫び続けなければならない。
毎度・まいどやってくれるね、「共謀通信(共同通信)」+「売日新聞(毎日新聞)」のペテン報道。
求刑・廃紙宣言、ペーパーレス社会待望論。
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菅直人の靖国禁足令に英霊(先人)は怒り、「罰当たり政権」を見放した!。

2011-05-17 17:40:26 | Weblog
3.11の大震災発生から2ヶ月を経過しながらも遅々として進まない復興計画、原発事故の安全宣言もなされず、被災地関係者は苛立ちと心労から究極状況となっている。
科学的社会主義(マルクス主義)とやらを信奉する菅民主党政権ご一同にはまったく気にも留めないことであろうが、1995.1の村山政権時の「阪神・淡路大震災」と重ね併せて、神々(先人)の怒りを買ったのではとの思いがするのはブログ子だけであろうか。
これまでも靖国神社参拝は閣僚それぞれの信条に照らして自己判断で行ってきている。
が、菅政権発足にあたり、首相の指示として全閣僚に靖国神社参拝を控えるようにとの実質靖国禁足令を発した形となっている。
その結果ひとりも閣僚参拝のない事態となった。
(1994.6発足の)村山富市政権では、村山首相の靖国参拝は無かったが、閣僚全員に禁足を指令することはなく、個々の信条に従って参拝する自民党の閣僚はいた。
ところが、村山首相は毎年1月4日頃に歴代首相が詣でた、(1995.1)伊勢神宮の参拝を、(社会党内の「政教分離の観点から問題視する声があり」)風邪を引いたとして参拝をしなかったのである。
そして、(風邪を引いたと言訳しながら)同日、身内の社会党関係の会合に出席していたことが後に判明した。
その後は国民ご記憶のように、2週間後の1月17日に阪神・淡路大震災が発生(M7.3)、死者6,433人、負傷者43,773人の大災害と化したのであった。
さらには、3月20日にはオウム教団による地下鉄サリン事件が発生、首相の伊勢神宮参拝回避に「(皇祖皇宗の)祟り」かとの声もあがり、翌4月の三重県知事選挙の応援を兼ねて、遅ればせながらも、投票日2日前ギリギリの4月7日午後に伊勢神宮参拝を行った経緯があった。
村山首相は、翌年(1996.1.4)には伊勢神宮を参拝し、それをけじめとして翌日(1.5)に退陣を表明した。
菅直人には届くことはないであろうが、首相として全閣僚を引き連れて靖国の英霊に対して日本人としての(先人への)非礼を詫び敬意を表して、震災復興と国民の安寧を心から祈願しなければ、復興への着実な進展はさらに遠のくのではと思いつつ、被災民の神々にもすがる悲鳴の気持ちが響いてくる。
先人に礼を尽くさない現政権への天上からの怒り声が聞こえるようだ。
菅直人の靖国禁足令に英霊は見放した!。
このような、「罰当たり政権」の誕生を許した現世国民への先人からの叱声にも思えてくる。
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「マトモなこと言うじゃないか」、共産党・笠井亮衆院議員

2011-05-16 18:44:08 | Weblog
5.16、衆議院予算委員会(原発震災)集中審議の菅首相への質問で、共産党・笠井亮衆院議員は「最悪に備えるのが、安全対策ではないのか!」と鋭く迫った。
当にその通りで、「共産党もマトモなこと言うじゃないか、YES・イエス・・・」と聞き入った。
想定されることは当然であるが、想定を超えるような事態にもあらゆるシュミレーションから対処策を用意していることこそ危機管理上の大事なことである。
そのための多様な議論はもとより、財政支出を伴う調査研究も、最悪の事態に備えておくことが政府の為政責任でもある。
その意味からも笠井亮議員が首相に投げかけた言葉は、震災に喘ぐ被災地関係者はもとより全国民が素直に受取れる明快さを表している。
が、ブログ子が既説してきたものだが、日本共産党は有事や核(原子力)問題などに関連しては、(社民・民主党勢力とともに)議論すら認めない「想定タブー」の姿勢を続けてきたのである。
(故に、想定外などはあたり前田のクラッカー!) 笠井議員の「最悪に備えるのが、安全対策!」の論立てからすれば、現存する(善悪要素を含む)有事・核・原子力運用に対処する備えのための議論こそ(国家安全保障)安全安心対策の入口ではなかろうか。
(共産党は)都合の良いことだけを言い張り、国民を愚弄する発言を続けていては一部の衆愚の理解からは越えられない。
もっとも民主党政権ができたことこそ、国民が選択した愚かな責任として堕ちるところまで落ちて、バ菅が開き直って口にする、後世の歴史家が評価する最低最悪の時代(全学連・全共闘世代の為政)として、語られることは目に見えているだろうが。
笠井はサヨク議員同様に「反核・反戦」を唱えているようだが、国内で叫ぶよりも、北京や平壌・モスクワで声を大にして咽喉が枯れるまで頑張るべきではないのか。
それが日本のためにもなるし、日本人本来の姿であろうに。
(植木等曰く) 解かっちゃいるけど止められない~・・・!、反日スーダラ政党・日本共産党etc。
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谷垣禎一総裁が口にした、「自民党による原子力政策推進の責任」とは?

2011-05-14 19:58:28 | Weblog
谷垣禎一総裁は12日の記者会見で、福島第一原発の事故に関連し、自民党が政権党時代に原子力政策を進めてきたことに触れ、「我々も責任を負っている。検証を徹底的にやらなければならない」と述べた。
至極ごもっともなことであるが、ブログ子は(原発運用(平和利用)の安全対処策はもとより、サヨク政党に阿った)原子力の総合的な研究開発不足(不十分)による責任が第一義であろうと考えている。
現実の喫緊問題として東日本・原発震災全般の早期解決が最重要案件ではあるが、核エネルギー(原子力)被災が風評被害も相まって、これほどにも多くの社会的混乱を巻き起こすことを、日本中のほとんどの国民が初めて知ったことである。
このたびの原子力発電所に絡んだ自然災害と、(想定外とされる)人的対処の遅れがもたらした複合的災難として扱われている。
現時点においての議論は、静岡・浜岡原発停止を始めとして、対自然災対処策、(産業・雇用など)経済エネルギー問題に収縮されている。
それは極めて大切なものであるが、それ以上に感知すべきは、「核(原子力)」があらためて、経済・安全保障上の途轍もないファクターであることを世界中に晒したことである。
谷垣総裁の深意は計りしれないが、少なくとも仮に原子力発電所を全廃して自然エネルギーに代替えしようとも、地球上の人類が「(悪魔の)原子力」を開発、手にした時(1945)から、不本意ながらも「悪魔との共生」は人類必然の事態となってしまったのである。
地球上の逸脱した一悪人が、悪魔(核)との協約姿勢を示すことだけで魔界の混乱を引き起こすことができる。
1959.10の中ソ対立(フルシチョフ・毛沢東)で、毛沢東は、「原爆によって中国の人口(当時6億人)の半分が死んでも、半分(3億人)は生き残る」とソ連の核開発援助(管理下)を打ち切り、独自の核開発の道に進んだ(1964.10、初の核実験)。
1996.11、北朝鮮の飢餓による死者が年間100万人超に上るときに、金正日は「一千万死んでもよい。そうなれば管理しやすい。国民の70%が餓死しても、30%が生き残れば国は再建できる」と黄書記に述べている(総人口2300万人で、核心階層が約30%)。
黄書記の亡命計画(1997.2)はこの頃から一気に進展したようだ。
このような自国民を犠牲にしてまでも(独裁)為政者たる地位に臨むものが「核」を所有していることを思えば、世界中の非核保有国も原発存廃の是非とは別に、広範囲な核原子力対策のための無限大の対処研究に追い込まれていることを知るべきである。なによりも核保有国と与する政治勢力(社共・反日サヨク)を足下に抱えている。
平気な顔して「反核・反原発」などと、恥も外聞も無く国内で唱えている愚かな集団を目にするだけで、偽善謀略の詐欺師に見えてしょうが無い。
またそのような事態を平易に看過して受け流してきた(?保守)自民党議員連の不作為責任は重い。谷垣執行部がそこまでの深い反省を感じているのか甚だ疑問である。
日本共産党は、中国の原爆実験(1964.10.15)直後の第9回大会(11.24~30)で、「(原爆保有の毛沢東路線)中国共産党路線の確認」を決定、中央委員に上田耕一郎・不破哲三兄弟を抜擢している(その後の宮本-不破体制)。
これをペテン政党(ペテン原人)と言わずになんと表現しようか。
それを正確に報道しないペテンメディア、左翼アカデミズムが日本を覆っていたのである。 そしていまも継続中・・・・。
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今時の政治家は、「恥知らずで、社会バカの掃き溜めばかりなり」

2011-05-09 18:03:36 | Weblog
1946年に出版されたルース・ベネディクトの『菊と刀』は、日本文化を紹介した文化人類学の著作で、日本人の文化を「恥を基調とする(価値)」と述べている。
「恥知らずめ!」と投げ付けられる言葉に、誇りを持った者ほど胸に堪える罵詈雑言は少ないと思う。
ところがルーピー鳩には「鳩の耳に・・・・」で、まったく意に介さないご様子。
鳩が発する菅首相批判では、バ菅とて「(鳩山前首相)あんただけには言われたくないよ!」と意地でも辞めないだろう。
世界中に喧伝された「ルーピー首相」を恥とも受け留めずに、相変わらずの「離し飼い」状態では、民主党議員連の責任も同罪となろう。
国内どころか海外に出かけてまで「バカやってる」ものだから、日本国民すべてが「恥の文化」を喪失したようで実に滅入ってしまう。
「戦後最低の首相」の評価レッテルを貼られたルーピー鳩。いっそ、橋上から身を投げてくれれば、目出度く「ブリッジ(から)ストーン」のご臨終となるのだが。
武士道ニッポンの先人侍たちは、恥辱を受けては「名こそ惜しけれ」と自裁した。
代議士もサムライ(士)に擬せられたはずなのだが、今時の政治家は、「恥知らずで、社会バカの掃き溜めばかりなり」。
自民党のなかにも「アカとバカ」の同衾者がかなり隠れている。
いまやルーピー感染症は伝播蔓延し、永田町は愚かな恥のかき捨て場と化している。
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「八田與一記念公園」の完成式典で考えさせられる、福沢諭吉「脱亜論」の慧眼

2011-05-09 13:06:41 | Weblog
2011年5月8日(八田與一の命日)、台湾・台南市に建設中であった「八田與一記念公園」が完成。
馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の森喜朗元首相らが参席、完成式典が挙行された。
八田與一が烏山頭ダム建設時に住んでいた宿舎跡地を整備、当時の姿に復元された4棟の木造住居は一般公開される。
この和風住居の復元工事に当初から、山形県内の建築家T、施工技術者が設計管理・技術指導役として協力支援し完成に導いてきている。
台湾では「(烏山頭)ダムの父」と呼ばれて尊敬され、地元民の手により銅像も建立された八田氏について、森元首相は「石川県民よりも台湾の人々の方が、八田氏を高く評価していることを(いまさらに)知った」と述べ、恩義を忘れない台湾人の真摯な民族性にあらためて気付かされたようだ。
東日本大震災の復興で、脚光を浴びることとなった関東大震災時(1923.9)の後藤新平内相兼帝都復興院総裁は、それ以前に台湾(1898.総督府民政長官)、満洲(1906.初代満鉄総裁)の両統治に中心的役割として取り組んできている。
後藤は反共産主義として「人間の本能に反する」と極めて単純明快に答えている。
風土や現地人の能力持ち味を活かした統治開発策が基本とされた。
それゆえに、台湾、満洲ともに分け隔てなく見合った統治行政を行って来たはずなのである。
日本は台湾に烏山頭ダム(1930)を造り、満洲(北朝鮮・鴨緑江)には世界最大級の水豊ダム(1944全体完成)を造った。
1941.9に水豊ダムの一部営業発電開始時に見学に訪れたフィリピンの外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが、住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか。」と日本による現地巨大投資に驚いている。
大学も京城帝国大学(1924・ソウル)、台北帝国大学(1928・台北)、建国大学(1938・満洲新京)と大阪帝国大学(1931)、名古屋帝国大学(1939)などよりも先に建設した。
内地と同様の公共投資、いやそれ以上とも言える財政支援をしながら五族協和に励んできたのに、同じ施しに感謝を忘れない台湾人と反日施設をつくり賠償を要求し続ける一部の大陸半島人がいる(それに与する反日左翼分子とメディア)。
このたびの東日本大震災に台湾では200億円超の義捐金が集まったとされている。
民族性の違いなのか。為政環境による違いなのか。
「八田與一記念公園」の完成式典から、またもや福沢諭吉の「脱亜論」の慧眼(1885.3)について考えさせられる。
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中曽根康弘大勲位が、生あるうちに解決すべき、対中「靖国神社参拝断念」の撤回

2011-05-08 19:09:10 | Weblog
毎年訪れる憲法記念日(5.3)に寄せるマスメディアの各種談話として、中曽根康弘大勲位のライフワークのひとつである憲法改正論が、どこかのメディアで必ずや掲載される。
本年も産経新聞のインタビューとして載り、東日本大震災における菅民主党政権の危急存亡事態に、俊敏に対処できない統治能力不足と(法制度論)相まって、早期の改正論を強く述べている。
中曽根大勲位の憲法改正論については、ブログ子に特段異論を挟む点もなく中曽根個人に帰する事案でもないので、ここで記述することは控える。
失礼ながら大勲位は齢92歳を迎えているようであるが、中曽根個人が惹起した負の問題として、1985~6、中国(当時・胡耀邦総書記)の外交筋要求に譲歩した「日本国首相の靖国神社参拝断念問題」がある。
国内腐敗勢力(社共及び容共親中派)との連携もあるが、中国共産党内の権力闘争(胡耀邦民主派と守旧体制派)に巻き込まれ、(中曽根自身が著書に記しているが)胡耀邦総書記の政治的立場に配慮した結果として、自らの「靖国神社参拝断念」を決断した経緯がある。
権力闘争の結果、胡耀邦は総書記の座を追われ、(胡耀邦に引き立てられ今日ある)胡錦涛・温家宝体制になった今でも、胡耀邦(と趙紫陽)の名誉回復には至らず、2007.6の中曽根訪中時での故胡耀邦元総書記の墓参希望(江西省共青城)さえも許可されない中国共産党支配の異常な自由制限現状にある。
この中曽根政治判断が、小泉純一郎首相のような(?独立自尊の)勇気ある為政者を除いて中国側の対日外交カードとして残り、(国家)国民主権に愚かな金縛り状況をもたらしている。
多くの首相経験者は論評するにあらずであるが、大勲位の犯した「靖国神社参拝断念」が外交カードとされていることは大きな負の問題(世情解釈)として現在も継続中である。
中曽根大勲位が、生あるうちに解決すべき問題として、自身の結果責任の発言行動として「靖国神社参拝断念」の明確な撤回を求めたい。
併せて読売グループの老害「渡辺恒雄」に引退を諭すのも、大勲位ならではの国民に向けた最後の御奉公ではないのか。
NHKでもドラマ化された「大地の子」を執筆した山崎豊子は、取材訪中時(1984~87)に胡耀邦総書記と3度の会見を果たしている。
1986年秋の3度目の会見のとき、胡は「今後は、おそらくお会いする機会はないでしょう。来年、山崎さんが訪中した時には、私はここにいるかどうか分かりませんが、作品が完成したら一部送ってください」と中国政情の苦悶を示唆し述べている。
翌年初(1987.1)に予期されたように守旧派から辞任要求され、民主友好派の胡耀邦は実質失脚、1989.4.15に失意の中で死去、学生らによる追悼集会は「第二次天安門事件」として歴史に残る強硬派による弾圧、戒厳令を発する騒乱事態となった。
山崎豊子が完成本(大地の子)を持って訪中、胡耀邦の墓前(江西省)に黙祷を捧げたのは1991年6月、胡の死後2年余、最後の会見時の約束から5年近く経過していた。
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